けれども、
長息を使いながら、ひと呼吸入れて、<間>を置けば/取れば、相手の
気持ち、心に近づき、’一つになる’ ことが出来るようになり、深い同情が
生まれることになるでしょう。
:: 雄弁家 ::
雄弁家には、2つの類型があるようます。
ひとrは、’ 立て板に水の如く’ 次次と語句が、流れ、ほとばしる
胸式呼吸で。 雄弁ではなく、多弁に過ぎないのです。
言葉が湧き出てない場合は、同じ内容そ繰り返してでも、喋り続け、
聞き手/聴衆を、うんざりさせても、未だつづける自己陶酔型。 息は、
浅く、短く、性急で、発言の間に置かれ/取られる<間>も、狭小で、
≺間詰まり≻ 状態。
人びとをうんざりさせる多弁家は、’一人舞台’ の ーー つまり、
独り善がりな、個人的な<間>を造り、聴衆を締め出すます。 相手を
目前にしながら、その存在を無視、拒絶し、 ひたすら、一人喋り続ける
のです。
もうひとりの類型は、聴衆の反応を見ながら、観察しながら、話
(題) を進めて行きます。
このタイプの演説家の場合を例解・検討してみましょう。
演説家は、話を少し進めでは、小休止。 静止します。 黙ったまま。
聴衆を見渡します。 <間>が、取られます。 適当な<間>。
この時の<間>には、話し手/演説家の発言する言葉や、発言の
一段落の間に置かれる/取られる<間>と演説家の間のものが存在
します。
上記の2つの種類の<間>は、息遣い/呼吸法によって、連繋されます。
<3段階息+整息> の使用で対応可能でしょう。
もし、<間>を引き延ばす必要が生じたと看取されたならば、
ひと呼吸 ーー これは、自然な ’胸式呼吸’ ーー の整息の段階へ
進みます。 それでも、尚、一層の長い<間>が必要な場合、静かな、
ゆっくりとした、深い呼吸を行います。 目下の状況に依って、腹式呼吸
とその反復になったり、胸式呼吸 とその反復であったりします。
そうしながら、静止の姿勢を続けます。 ’待ち’の姿勢。 つまり、
聴衆の反応=演説家の話を聴こうとする意欲・態度の出現を待ちます。
話し手にとっては、忍耐の時間。
焦らずに待って、聴衆の中に、反応(盛り上がり)がみえた時、
大きく息を吸って (=吸息)、 話を力強く進めて行きます。 それからは、
短い吐息の連続で話します。
そして、また、暫くの間、 休憩。
短い期間ならば、吐息、 長くなる場合は、自然な胸式呼吸の反復・
連続になります。
聴衆の側は、演説の初期では、浅く、短い 胸式呼吸 ですが、
緊張気味で、落ち着かない雰囲気の中にあっても、話し手 (演説家)
の巧みな息遣い、呼吸の仕方と<間>の置き方、取り方に導かれて、
次第に、話し手の息/呼吸に合わせるようになります。
この時、よく注視すれば、両者の、演説家と聴衆の間で、或る種の
’駆引き’ のような動きが、現れます。
「押したり、引いたり、
引いたり、押したり」
演説家が、短い、荒い呼吸と発言で、聴衆に押し迫って行きますと、
聴衆は、引き寄せられるより、引き下がります。 それは、時には、
「拒絶反応」に発展することにも。
このような動きは、両者の間に、大きな、だだっ広い、或いは、虚ろな
<間>をつくり、折角の、たとえ、どんなに心を籠めた演説であっても、
聴衆の胸には届かず、琴線に触れることもないでしょう。
有能な話し手は、孫な場合、演説を、一旦、中止・中断して、
呼吸を止息、或いは、静かで、穏やかな吐息に切り換え、腹式・胸式の
呼吸をゆっくりと遣い分けます。
つまり、自ら、引く/退くのです。
そうしますと、強い押しに圧倒されt、遠退いていた聴衆 (の気持ちや心)
が、息を吹き返し、戻ってきます。 空虚だった<間>が、充実されます。
それは、精神的高揚・興奮した雰囲気につつまれたり、充分な思考・
熟慮の時間だったりします。
演説家と聴衆の間で、このような駆引き ーー ’押したり、引いたり’
の動きが、繰り返し繰り広げられますと、やがて、両者の気持ちが、
一つになり、おおきな精神的高揚のうねりと共に、演説は、最高潮に
達することでしょう。
熟達した話し手といえども、たった一回の試行だけで、聴衆の心と
結び合い、気持ちを一つにして、演説を続けるのは、容易な事では、
無いでしょう。
いろいろな種類の息/呼吸の仕方を駆使しながら、徐々に、虚力な
吐息で、或いは、静かな長息で、お互いに引き寄せたり(られたり)、
引き離したり(されたり)します。
この動きに、緩急、メリハリ、強弱、などを付けながら、展開して行く
ならば、それは、あたかも、聴衆(の気持ちや心)を自由自在に、
操っているかのように見えます。
その話し手は、真の雄弁家と云えるでしょう。
演説の優劣は、一義的には、その内容の卓越性により、決定されると
想われますが、それが、聴衆の心深くにまで届くようにするには、やはり、
いろいろな息/呼吸の使い分け・駆使と<間>の置き方/取り方 (維持・
構成)にあるといってよいでしょう。
対人関係の日常世界では、以上のように、いろいろな息/呼吸が使い分けられながら、
駆使されますが、そのなかでも、長い息/呼吸、特に、吐息のそれ、つまり、長息が、
対人関係上の2人の間の適当な<間>をつくり出し、2人の関わりを円滑に維持・
展開するための有効な手立てとなると見做されてよいでしょう。
そこで、これからは、長生き ーー 長い吐息の効用と云う発想を念頭に置きながら、
更に、幾つかの事例を描写・検討して行きたいと思います。
先ず、:: 北風 と 太陽 :: の寓話から:
:: 北風 と 太陽 ::
北風と太陽は、或る時、旅人を見つけました。
どちらが速く、旅人のコートを脱がせるかを競うことになりました。
北風は、冷たい風を荒々しく、厳しく旅人に吹きかけて、彼にコート
をしっかり着込んで、離そうとしませんでした。
他方、太陽は、ポカポカと暖かい陽光で、旅人を包み続け、
とうとう、コートを脱がせてしまいました。
太陽は、ゆっくりと穏やかな 長息。
旅人は、コートを脱ぐだけでなく、気持ちもゆったり、
伸びやかになったことでしょう。
北風のように、気短かに吹き、押し捲ることは、≺間詰まり≻を起こし
ます。 「短気は損気。」
長息で、<間>をゆっくり、ゆっくり置く/取ることは、相手の行動の自由を尊重する
ことで、ひいては、相手を生かすことになります。
:: 初対面 ::
初対面は、ぎこちない、決まりの悪い、気詰まりなものです。
それは、2人、両方ともが、上手に ’呼吸を合わせる’ ことが出来ず、
’息が合わず、’ ですから、適当なをうまく置けず、’身の置き処’
の無い ーー つまり、居心地のよい空間を造り出せないからです。
両方とも、短息。 しかも、胸式呼吸。
浅く、速い。 焦りがどんどん募って行きます。
速く打ち解けて、気楽に、楽しいお喋りをしたいのに・・・
それを可能にするのは、長息です。
ゆっくりとした、静かな息遣いが、やがて、適当な<間>をつくり、
心を落ち着かせます。 焦りも減少。 会話は、少しづつ、生命の輝きを
放ち始めでしょう。
どうしても、無理な時?
そんな場合は、無理をせずに、次の機会に譲りましょう。
そうでなければ、忍耐。 打ち解けた、程よい、適当な<間>が、
出現するまで、辛抱強く、長息を続けます。
世の中、そう簡単に、ことは運ばないものです。
:: 頑張り屋さん ::
いつも胸式呼吸で、短い、浅い息遣い。 首、肩、上半身は、
凝り固まりの状態。
肩を怒らして、一分の隙も(見せ)ない構え。
日常的にも、ファッション的にも、余裕のない身構え。
長息を使って、一分ぐらいの隙をつくって、≺間怠く≻すれば、
余裕が出来て、緊張が解れ、リラックス出来るのですが・・・
対人関係 の場面でも、弱みを見せたくなくて、
短息ばかりで生き抜くよりも、時には、長い吐息で、
ふっと気を抜いて、’素の姿’を見せることが出来れば、
人との付き合いも気楽になります。
そうすれば、相手もまた、 ーー 同じ様な短息のタイプでも ーー
ちょっと、一呼吸、ひと息入れて、息遣いを長息に切り換えれば、2人の
間には、適当な<間>が置かれ、新しい付き合い (対人関係)の展開
が予想されてもよいかもしれません。或いは、相手が、長息なので、
’肩肘を張る’ことをやめ、リラックス出来るようになるという場合もある
でしょう。
いずれにせよ、長息の効用が、期待されます。
:: 母親と反抗期の娘 ::
この場合、長息を使えば、新しい展開が生まれるでしょう。
云うことを聴かない娘に、怒り心頭にはっした母親は、激しい、厳しい
小言を矢継ぎ早に。 母親の呼吸は、胸式呼吸の短息。
非難のことばの雨霰に、娘は、態度を硬化させ、ますます
反抗的に。
勿論、彼女も、胸式呼吸の短息で応戦、
2人の間は、≺間詰まり≻。
緊張は、増すばかり。 息苦しささえ覚えます。
こんな時、長息をつかえば、新しい展開が生まれるまでしょう。
母親は、ひと息入れます。 整息。
そして、もう一度、娘の顔を見ながら、’どうして、私の云う事が
分からないのかしら... ’ と自問自答。
娘に厳しく問い質すよりも、静かで、ゆっくりとした吐息で、
娘との間に距離をおき、適当な<間>を取りながら、娘の言い分を
反芻します。
長息で、心が落ち着けば、娘の気持ちも、少し落ち着くようになる
でしょう。
とは云っても、母親の思いと娘への理解があれば、娘の心も、
落ち着き、母親の思いに耳を傾けるようになります。
今一度、繰り返すならば、母親が、思いを娘に伝えるには、
ゆっくりとした、静かな長息と適当な<間>の他にはないと
想われます。
以上、長息の効用を巡って、幾つかの事例を例解・検討して来ました、長息が、
必ずしも、いつも有効に働くとは限らないようです。
かなり昔の出来事になりますが、ご一読下さい。
:: 年長さんは、恐怖? ::
’ ニヤ~~ァ、 ニャ~~~ァ、 ニャァ~ ’
猫の鳴き声が、延々と続きます。とこか、甘えるような、気持ちを擽る
ような、和らげるような声でした。
窓の外をみて、一寸吃驚。声の主は、意外にも、大きなそれと見て
直ぐ分かる、雄猫君。
相手は、未だ幼さの残る仔猫ちゃん。 いつもは、兄弟猫といっしょに、
元気一杯、お庭を遊び回っている外猫ちゃん。ですが、この時ばかりは、
大きな雄猫のお兄ちゃんの呼び掛け (’一緒に、遊ぼうよ’)には、
恐怖で固まってしまいました。
’ イヤダッ! 僕、コワイモン ヤダァッ、 ゼッタイ、イヤダッ!
怖イ モン. ギャァ ―― ァ ...’
年長の雄猫君は、かなり長い間、長息のラヴ・コールで粘り続けた
のですが、結局、諦めて帰って行きました。
大きな雄猫君の長息の呼吸の使用/駆使は、間違ってはいなかったと想われます。
短息で、いきなりじゃれて行っても、仔猫ちゃんには、恐ろしい急襲でしかなかった
でしょう。
’ギャッ、ギャッ! ギャァァーー ’ ありったけの声を張り上げながら、必死に
逃げ惑うか、逆に、刃向かって行くかもしれません。
どちらにせよ、仲良く遊べる環境にはならなかってでしょう。
ですから、年長の、大きな猫君は、長息の鳴き声で、辛抱強く ーー その辛抱強さ
には、つくづく感嘆するほどでしたが ーー 仔猫ちゃんが、緊張を解いて、心を
開いて来るのを待ったのですが、ちょっと、2匹の間に体力、体型に差が有ったから
ということでしょう。
仔猫ちゃんは、いっしょに遊ぶことを、頑として、拒否し続けました。
彼には、まだ長息を使って遊べる余裕は、なかったようです。
もし、使えば、お兄ちゃん猫が、多分、夢見ていたような、楽しい展開が 実現した
かもしれませんが、 折角の長息の使用も、年長の雄猫君には、無駄な努力に
終わってしまったようでした。
ーー 大きな雄猫君、一寸可哀想ネ・・・ と思ったことでした。
相手に、こちらの思いや気持ちを伝えることは、なかなか難しい。 至難の業。
それでも何とか社会てきな関わり、対人関係を維持し続けているのが、普段の
日常生活世界。
けれども、 やはり、出来る限り、こちらの思いや気持ちを伝えたいもの。
その方法は、いろいろ、様々のものが存在するようですが、究極には、長息を
ーー
時には、短息も駆使しながら、アピールを繰り返します。
<間>は、詰め過ぎず、粗く、浅い短息は、過ぎるとうんざりされ、 ≺間怠く≻、
≺間遠く≻ なります。 諦めないこと、待ち続けること。
’ 息長く ... ’
長息で、<間>を置きながら、その時、 ーー チャンスが到来するその時まで、
辛抱強く、忍耐します。 <間>を諦めず、ゆっくりとした<間>を置いて/取って、
相手に思慮・熟考の余裕を提供し、そして、望ましい/好ましい反応の出現を期待し、
待つことです。
この時、相手の反応も、また、長息に基づいたものであることが、大切なようです。
短息は、’命短く、’ 折角の前向きの反応も、逆転し易く、対人関係の維持・継続は、
困難に陥り易いからです。
長息の失敗は、その使用法そのものの失敗よりも、どんなに忍耐しても、待っていても、
相手から長息を引き出せなかった事にあるといえるでしょう。
最後に、補足と云うより、’蛇足’ のようなものかもしれませんが、不思議な経験を
した想い出があります。 それらをスケッチさせて下さい。
:: 逃げない雀さん達 ::
もう昔の出来事です。
お庭で、水遣りをしていました。 スプリンクラーが必要なほど大きな
空間ではなかったので、ホースで散水していました。
ふと、私の足元を見ると、
雀さん達が、5,6羽、熱心に庭草の根っこ辺りを啄んでいたのです。
’まあ、怖くないの? 私は、人間よ、日本人よ ...’
雀さん達は、大和(農耕)民族の雌の敵。 ’天敵’です。
案山子や鳴子の揺れる稲畑は、長い間、瑞穂の国の秋の風物詩でした。
一方、雀さん達も、人一倍、否、雀一倍、人間には警戒心が強く、人が
近づく気配だけで、さっと、飛び去ってしまう、一には、決して慣れない
小鳥さんの〔筈〕。
公園の鳩さん達とは、違います。
その筈なのに、私の足元のすぐ近くで、逃げようともしないんおでした。
ちょっと息を潜めながら、私は、ホースを掴んだまま、雀さん達の様子を
眺めていました。 無心に餌を啄んでいる他には変わった様子は、何も
ありません。
ゆっくりとした、嫋やかな時間が流れて行くだけの、今想い出しても、
不思議な体験でした。
私の呼吸は、
雀さん達の方は、どうだったのでしょうか。
長息と短息を上手に使い分けていたのかもしれません。
一方で、私には、静かで、穏やかな、長息で対応。
悠揚迫らずの態度。 他方、餌を啄む間は、短息で、せっせ、せっせと
熱心に。
どちらかと云えば、後者の方に、関心は、注がれていたような気が
するのですが...
そういえば、他にも ーー。
晩秋の或る日。
樫の樹の落ち葉の間から、突然、現れた山鳩さんが、私と一緒に、
まるで、歩調を合わせるかのように、歩き出したのに、
驚いたことがありました。
この時も、わたしは、自然な胸式呼吸。 山鳩さんは、
どう感じていたのでしょうか。
:: 目白さんの巣作り ::
窓辺から、ぼんやりとお庭を眺めていましたら、何処からか、
小鳥さんが、一羽、常盤山査子 (ピラカンサ)の灌木に止まりました。
そっと、静かに、つまり、息を殺して、様子を見ました。
もし、’ まあっ! 珍しい小鳥さんネ、’ と威勢よく窓を開ければ、
小鳥さんは、直ぐにちび去ってしまったでしょう。
静かな息遣いで、適当な<間>をしっかり置くと、状況判断が、
いろいろ可能になります。
小鳥さんは、鶯いろ、或いは、渋い萌黄いろ、丁度、鶯さんと同じ
位の大きさのサイズ。目の周りは、白く、くっきりとした輪環状の
アイシャドーが見られました。
後で、’目白’と呼ばれている小鳥さんだとしりました。
ピラカンサの赤い実を啄みに来たのかしら、でも、ちょっと、
季節が早い、まだ、春の終わりの頃でしたから。
秋の実(餌)の下調べ?
それとも、ちょっと、休憩に立ち寄っただけ?
’でも、ここは、おおきな外国産まれの、雄猫さんのテリトリーよ、
狙われたりしないようにね、野性味が強くって、雀さん達が何度も
犠牲になっているのですもの。
<間>を置くと、いろいろな想像と現実が交錯します。
この間の呼吸は、勿論、長息だったことでしょう。
目白さんの方は、ピラカンサの灌木の細い葉と鋭く、尖った棘の間を
縫うように、チョン、チョンと登ったり、降りたり。
短息のようだったと想い起こします。
それから ーー 一年以上も過ぎたころ、
例のピラカンサの繁みの中に、巣を見つけました。
もうとっくに、雛たちの巣だった後の、空き巣でした。
’あの目白さんの巣ね ... ’
干乾びて、古い蜘蛛の糸が切れ切れに絡まっているそれを見ながら、
どうしても、誰の目にも止まらずに ーー 私にも、かなり
猛々しいかった、我が家の大きな雄猫さんにも、気づかれずに、
しっかりと、巣を作って、雛たちを育てることが出来たのでしょうか。
きっと、上手に長息と短息を使い分け・駆使しながら、のこととと
想いますが、
どんな風に? ーー と、一度聞いてみたい気がしてなりません。
ここで、本節」を終えるまえに、既出の拙論 ≪ <間>と対人関係 ≫ へ立ち還って、
その主旨を復習しますと、
それは、<間>の維持・構成 (の方法) ーー つまり、どのように、<間>を
置くか/取るか、ということが、対人関係の発展に関わる経緯を考察・検討しました。
その際、その最も有効なタイプの<間>は、〈ほどほど〉と〈不即不離〉:〈即かず、
離れず〉のそれとして想定し、結論付けました。
その上で、本論へ戻って、
対人関係では、維持・発展には、やはり、呼吸/息遣いが、不可欠な要素。必須条件
他にも、いろいろ、様々<間>が生起・出現しますが、そうではないでしょうか、
ということで、先ず、呼吸 (法)を:
呼吸法は、大別して、2種類、胸式呼吸 と 腹式呼吸が分類されます。
<間>と対人関係に関しては、特に、その維持・発展に焦点を絞れば、静かで、
穏やかな、ゆっくりとした、息ということになります。
一言でいえば、長息。
長息は、胸式呼吸でも、例えば、深呼吸のように、可能ですが、よりよい、或いは、
より高次の対人関係の維持・発展には、なんといっても、腹式呼吸の呼吸法が、
大きく貢献することを確認しました。
それは、本節で、<3段階息+整息>としてご紹介しましたもの。 短い腹式呼吸の
吐息、一瞬の輝き、短命です。 素早い動き、速攻には、 短息が有効です。
このような 長息 と 短息 の使い分け/駆使が、<間>の創出と維持、引いては、
対人関係の維持・発展の鍵、要となります。
重言すれば、<間>と対人関係は、あげて、呼吸法/息遣いに基盤を置き、依拠
するということです。
因みに、究極の呼吸法/息遣いは、無意識、無意図的なレヴェルで行われます。
つまり、腹式呼吸は、既述のように、意図的に、身体の中心部 (臍下丹田)に意識を
集中させつつ、胸郭筋や腹筋系を収縮・伸長させながら、呼吸します、
熟達すれば、ほとんど、無意識的な、自然な呼吸が、自律神経系の胸式呼吸が、
そうですが、それと同じように、自然に行われるようになります。
対人関係でも、人は、熟達すれば、自然に、殆ど意図せずに、長息 と 短息 を
長息 と 短息 を使い分け・駆使しながら、適当な<間>を創出/維持しつつ、
他者と付き合いを展開出来るようになります。
そうなれば、対人関係の極意を会得したということ。
対人関係の ’達人’は、 呼吸法/息遣いの使い分け・駆使の達人なのだと
いうことになるでしょう。
IV < 気感覚 >
気とは?
息、或いは、呼吸は、その方法がどのようであれ、生物が、空気を体内に吸いこみ、
体外へ吐出すという生理現象。
空気は、気の一部。
そして、この気は、中国思想の中核を成す鍵概念。
広辞苑を検索、一部抜粋しますと、気は:
き
【気】
❶ 天地を満たし、宇宙を構成する基本となるもの。 また、その動き。
➀ 風雨・寒暑などの自然現象。
➁ 15日または16日間を一期とする呼び方。
三分して、その一つを候と呼ぶ。
➂ 万物が生ずる根元。
❷ 生命の原動力となる勢い。 活力の源。
❸ 心の動き・状態・働きを包括的に表す語。 ただし、この語が
用いられる個々の文脈において、心のどの面に重点を置くか
は、様様である。
(以下の項全て割愛)
本節での関心に沿って、気を、もう少し詳しく把握するために、
ブリタニカ国際百科辞典を調べますと、
き
【気】
物の存在、活動などを説明する中国哲学上の概念。 気はもと
「気」 と書き水蒸気にかたどった文字。 人間になぜ生死があるのか、
生物になぜ四季に応じる盛衰の変化があるのか、を追究して、これを
水蒸気や人間の息(いき)に類比される極微な物質の気の集散
によって説明しょうとしたらしい。 したがって、気は人間の心からは独立
で、宇宙に偏在し、それ自体活動力をもった共通普通の質料であって
それがここの物を凝集すれば、ものは生存し、散逸すれば、物は死滅
するとされた。
(以下割愛)
:: 春の野の陽炎 ::
もう遠い昔、大地の気を目撃した記憶があります。
場所は、定かではありませんが、野原。 その野原の向こう側に
丁度、春闌 (はるたけなわ)の候でした。
ゆらゆら、湯気のような、無色透明な物体が、揺れながら立ち上がって
行くのが見えました。
’ あれは、なにかしら? ... ’
不思議に思ったことを覚えています。
陽炎 (かげろう) だったのでした。
陽炎は、大地の放出する水蒸気。 大地の気であることを、
ずっと後になって知りました。
そして、歳月が経ち、また、同じような出来事を体験したのでした。
:: 白装束の女性集団 ::
彼女達の頭上を何気なく見遣って、驚きました。
遠い昔目撃した、あの春の野原に揺らめいて陽炎と同じような、
無色透明な物体が、同じように、ゆらゆら、立ち上がっていました。
それは、然る新興宗教の人びとの集まりでした。
一人ひとりが、自然に ーー 多分、無意識に発していた気の
揺らめきだったのでしょう。
気は、決して、形を見せない、現さない、とか、獏として掴み処がないと云ったような
存在ではないと想われますが、
気が、感受されるのは、概して、特別な環境とか希少な個人的体験に限られて
いるように見えます ーー 殊に、現代という時代/社会では、そのように
看取されます。
けれども、気は、古来、敬愛や異形の念の対象となっていました。
精霊は、その好例でしょう。
精霊は、自然界の何処にでも、宿っています。 草や樹木、森林、川、岩にも、
山に、海にも・・・
広辞苑に依りますと、
せい-れい
【精霊】
➀ 万物の根源をなすという不思議な気。 精気。
➁ 草木・動物・人・無生物 などの個々に宿っているとされる
超自然的な存在。
➂ 肉体または物体から解放された自由な精霊。 死者の精霊。
妖精も、精霊。 ニンフも同じ、精霊せす。
よう-せい
【妖精】
( fairy ) 西洋の伝説・物語にみえる自然界の精霊。 美しく
親切な女性などの姿をとる。 ケルト民族やラテン系民族に
多く、各国で名は違う。 仙女。
もう一種のニンフは、
ニンフ
【nymph】
〈Nymph℮ ギリシャ〉 ギリシャ神話に出てくる山野・河川・樹木・
洞穴などの精霊。 若くて美しい女性の姿で、歌と踊りを好む。
長寿であるが不死ではない。 妖精。
因みに、
妖精は、中国では、仙女、或いは、西王母 (せいおうぼ)。
日本の雪女、 山の神、山姥 (やまんば)が相当すると想われます。
せん-にょ
【仙女】
➀ 女の仙人。 西王母 (せいおうぼ)・嫦娥 (じょうが)の類。
やまひめ。 仙女。
➁ 妖精。 フェアりー。
せいおうぼ
【西王母】
➀ 中国に古く信仰された女仙。 周の穆(ぼく)王が西に巡狩して、崑崙
(こんろん)にあそび、西王母に会ったという。 また、漢の武帝が長生き
を願っていた際、西王母は天上から降り、仙桃七菓を与えたという。
➁ (割愛)
日本へ戻って、
ゆき-おんな
【雪女】
雪国地方の伝説で、大雪の夜などに出ると云う雪の精。
白い衣を着た女の姿で現れるという。 雪女郎。 雪娘。
やまのかみ
【山の神】
山を守り、山をつかさどる神。 また、山の精。
民間信仰では、秋の収穫後は、近くの山に戻り、春になると下って
他の神となるという。
(以下割愛)
やまうば
【山姥】
深山に住む、怪力を発揮するなどと考えられている伝統的な女。
山女。 山に住む鬼女。 やまんば。
これは、余計な一言かもしれませんが、精霊・妖精が、人間の姿として把握されている
ことは、創造に難くなく、異存はないのですが、どうして、洋の東西でイメージが異なって
いるのでしょうか。
西洋では、優しい美少女、或いは、若い美女ですのに、東洋、特に、日本では、
逆転している感じ。 雪女は、兎も角、山の神、山姥 (山に住む鬼女)なのですから。
自然界の精霊への畏敬の念から敬愛の情が、いつの間にか、抜け落ちて、
畏敬新ばかりが増大・凝縮されたでからなのでしょうか。
そうならば、力強く、壮健な男子、武者(もののふ)の方が、余程、素敵、素晴らしい
と思えるのですが・・・。
いずれにせよ、精霊に、ハンサム・ボーイが登場しないのは、本当に魔訶不思議な
現象。 そして、つまらない。
ここで、もう一言。
ちょっと視角を変えて見ますと、精霊・妖精の現代的解釈の一つとしては、
フィトンチッドが挙げられてよいのではないでしょうか?
パーソナル・カタカナ語辞典を調べますと、
フィトンチッド
〔fitontsiod ロシア〕
樹木から発散される殺菌力のある芳香性物質。
森林浴は、これを浴びることを目的の一つとする。
森へ行けば、フィトンチッドの森林浴よりも、可愛い、綺麗な、優しい妖精に、
ひょっとしたら、超ハンサムな精霊に出会えるかもしれない方が、ずっとロマンティックで、
楽しいような気がしますが、 現代社会では、夢想。
実現は、無理なのでしょうか。
更に、もう一言。
何時の頃からか、オーラという言葉を見聞きするようになりました。
広辞苑を検索しますと、
オーラ
【aura】
人や物が発する霊気ないし独特の雰囲気。 アウラ。
オーラは、気。
精霊の一種に違いありません。
そこに、或る種の神神しさ、神秘性が備われば、そんなオーラを発する人物は、
敬愛され、崇め奉られる対象、存在となるでしょう。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
1頁 脱落
閑話休題
自然界の気、 或いは、空気は、既述のように、息/呼吸によって、体内に取り入れられ、
体中を循環し、体外へ放出されます。
この働き (息/呼吸)は、中国では、ーー 繰り返しますと、古くから注目・活用され、
身体のみならす、精神、つまり、心身の健康維持(保健・養生)のための、いろいろな
方法が開発され、導引術や吐納術など、日本へも導入・伝授されています。
けれども、ここでは、
そのような人の心身の保健・養生への気の働きや効用に着目するよりも、気が、人に
与える特別な能力についての解明を、先ず、試みることから始めたいと想います。
気は、人の身体の感覚領域と融合し、人に新しい能力を産出、創出させます。
それは、人の五感覚 ―― 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 ―― と いう通常
の感覚的働きを超えた、特別な働きによって、対象を感応・感受する’超’能力を
意味します。
いわば、第6感/the sixth sense と呼ばれたもの、或いは、今日的には、超能力と
呼ばれるものといえるでしょう。
このような超感覚の根源的なエネルギーは、言うまでもなく、気。
本節では、この超感覚を 〈気感覚〉 と名付けて、その解明に進んで行くことに
に致しましょう。
そこで、例によって、語句の解釈 (語釈)の検討から ーー
第6感を、ブリタニカ国際大百科辞典で調べますと、
だいろっかん
【第六感】
人間の5官 (視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚) 以外の、あるいはそれを
こえる第6番目の感覚の意味。 また、心理学者黒田亮は、これを
意識 「識」 に対して「覚」 と呼び、知的・芸術的活動や武道など
において作用するとした。 ( インスピレーション、勘 )
次いで、 the sixth sense をOXFORD 現代英英辞典で検索しますと、
' sixth ' sense
a special ability to know sth without using any of the
five senses that include sight, touch, etc.
* My sixth sense told me to stay here and wait.
_________________
〔 視覚、触覚などを含む5感のいずれかをも使用することなく、
物事を知る特殊な能力。
* 私の第六感は、ここに留まって、待つように
告げている。
___________
引き続き、超能力、及びその関連用語を、順次、調べてみましょう。
先ず、超能力を再び、ブリタニカ国際大百科辞典へ戻って、検索しますと、
ちょうのうりょく
【超能力】
〔psychic force〕
現在の科学では、合理的な説明ができない未知の能力。 以下の
ように大別できる。 (1) 認識型能力、超感覚知覚 ( ESP )、
精神感応 (テレパシー)、予知や透視など。 空間的・f時間的に
離れた人物や状況などがわかる。 (2) 物理的能力、念力 (PK)、
念道、念写ほか、みずからの身体や物体を直接移動させる場合も
ある。 これらの能力について、超心理学の立場から解明への研究
が進められている。
次いで、超能力の諸現象の中で、特に、本節に絡んで興味を惹かれるものとして、
下記の2種類とその語釈を挙げて置きましょう。
ブリタニカ国際大百科辞典によりますと、
せいしんかんのう
【精神感応】
〔mental telepathy 〕
テレパシー、思念伝達、読心術ともいう。人間の存在、精神や
思考の内容、行動が、通常の感覚経路を介した合理的な通信手段
によらず、他の人間に伝えること。 精神的心霊現象の一種で、
超能力とも呼ばれる。 念力、透視、予知などととmに、心理学の
研究対象となっている。
ねんりき
【念力】
〔psychokinesis 〕
人の意志あるいは意図によって、物理的な媒介を経ずに物質に
対して及ぼすと考えられる作用ないし力をさす。 略してPKとも
呼ばれる。 念力には次の種類がある。 (1)直接移動 目の前に
ある物体を移動させる。 (2) 身体移動自身の体に作用させて、
遠方まで、短時間で行くことができる。 (3) 念動 遠隔の対象
を動かす。 (4) 念写心理を写真乾板に写し出す。 これらの
心理的物理現象と超感覚的知覚とを総称してサイ現象という。
(以下割愛)
ということなので、本稿では、
上で想定しました気感覚を、超能力としてよりも ーー つまり、(超)心理学的にも
未だ充分に解明され得ない、路の領域の特殊/得意現象としてではなく、日常生活世界
の対人関係のありふれた、普通の諸場面に注目し、見出すことに意義づけたいと
想います。
そのために、先ず、
気という言葉が、みとめられ、織り込まれた‹日常的な語句› の様々を対人関係の
レヴェルに限りつつ、広辞苑に依拠しながら、恣意的に列挙することから始めましょう。
きがあう
【気が合う】
感じ方や考え方が似通っていて親しみがもてる。
きがある
【気がある】
関心がある。 また、濃い慕う心がある。
きがおけない
【気が置けない】
気詰まりでない。 気づかいしなくてもよい。
きがきく
【気が利く】
➀ その場に応じた適切な判断が素早くできる。 心が行き届く。
きがかり
【気掛かり】
気にかかること。 心配。 懸念(けねん)。
きがさす
【気が差(さ)す】
心にひっかることがあって、素通りできない。
後ろめたい感じになる。 気が咎(とが)める。
きがしれない
【きが知れない】
その人の気持ちが理解できない。
きがつく
【気が付く】
① その考えが及ぶ。 気付く。
② 細かなところまで配慮が行き届いく。 よく気がまわる。
③ ぼんやりした状態、意識を失った状態から正気に返る。
きがね
【気兼ね】
他人に対して気をつかうこと。 遠慮。
きがひける
【気が引ける】
気おくれがする。 遠慮したい気持ちになる。
引け目を感じる。
きくばり
【気配り】
不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。
相手を思いやって気を付ける事。心くばり。
きおくれ
【気後れ】
(なにかしようとする時に)自信を失ってひるむこと。
「聴衆を前に__する」
きさく
【気さく】
気がさっぱりしてこだわらないこと。 打ち解けて気軽なさま。
「__な人柄」 「__に話しかける」
きにさわる
【気に障る】
そのことが不愉快に感じられる。
きにする
【気にする】
悪い結果を恐れて、心配する。 心にかける。
きをつける
【気を付ける】
①気づかせる。
②あやまりがないように気をくばる。
「今後は__ます」 「__てお帰り下さい」
きまかせ
【気任せ】
自分の思いのままふるまって、他を気にしないこと。
気まま。
きまま
【気儘】
周囲に気がねせず、自分の思い通りにふるまうこと。
きまめ
【気まめ】
心がまめなこと。 よく気がつき、労をいとわず気楽に働く。
きむずかしい
【気難しい】
① 気分がすぐれない。
② 自分の考えや感情にこだわり、たやすく人い同調しない。
きらく
【気楽】
①苦労や心配がなく、のんびりしているさま。
②物事にこだわらないこと。 頓着しないこと。 のんき。
きをひく
【気を引く】
それとはなしに相手の心を探る。 相手の関心をことらへ向けさせる。
きをまわす
【気を回す】
あれこれ余計なことを心配したり想像したりする。
きをもむ
【気を揉む】
あれこれと心配する。
きをゆるす
【気を許す】
警戒心や緊張を解いて無防備の状態になる。
きをよくする
【気を良くする】
(物事はうまくいったり、ほめられたりして)
気分が良くなる。
きくばり
【きくばり】
不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。
相手を思いやって気を付けること。 心くばり。
きづかい
【気遣い】
あれこれと心をつかうこと。 心づかい。 また、気ががり。
心配。 「どうぞ お__なく」 「人に知れる__ はない」
きづかれ
【気疲れ】
あれこれと心くばりをして疲れること。 「接待で__する」
きづまり
【気詰まり】
周囲または相手に気がねすることが多く気持ちがのびのびしないこと。
窮屈なこと。 「__な雰囲気」
きがつまる
【気が詰まる】
精神的に窮屈で、圧迫されたように感じる。
きづまりに思う。
きはたらき
【気働き】
事の成り行きに応じて即座に心のはたらくこと。
以上のリストアップを概括し、一言で表現しますと、
「なりゆきに応じて即座に心を働かせ」、 「不都合・失敗がないように」、
「あれこれと」、≺気を付け›、‹気に掛け›、‹気を揉み›、 ‹気にして›、‹気を回して›、
‹気を利かせ›、‹気まめに働き›、時には、‹き詰まり›して、‹気後れ›を起こして、
ーー 気に絡む日常的語句は、相手への’思い遣り’の心を指しているといって差し
つかえないでしょう。
一つは、‹気働き›、 ‹気配り›、‹気遣い› に見られるように、相手を思い遣り、
配慮・心配する、相手へのこころのはたらきを表現していると看取することが出来る
と云えるでしょう。
もう一つは、相手に対するこちら側の心/気持ちの有り様。
「気のおけない」、相手と「気が合い」、「気さく」に感じて、「気を許し」、「気楽」に
思って、「気を良く」したり、反対に、相手の「気が知れず」、「気に障り」ながら、
「気兼ね」、「気後れ」して、「気が詰まったり」、「気が差して」しまう場合。
また、自身の振る舞いが、‹気儘›、‹気任せ›で、不用意に相手の「気を引いて」、
「気恥しい」思いをする等。
上述の解釈を、≪陰ー陽≫の尺度で測りますと、
日常的な気を巡る成句は、≪陰≫の方に比重が、偏っているようにみえます。
陰の気配が濃厚・・・
心配という言葉が、気の成句中に散見されます。 頻発するといってもよいかも
しれません。この言葉の孕む心の動きは、原義的に見れば、「あれこれと心を配る
こと」にあり、きめ細やかで、繊細、微妙に心を行き届かせます。
これは、日本文化/行動様式の現れととも解釈され得るでしょうが、そのことの
検討は、他に譲って、目下の関心に沿って、歩を進めましょう。
ここで、
ちょっと、気掛かりなことがあります。
気に纏わる成句の列挙中に気付いたことですが、語句の説明のために、
心 という言葉が、どちらかと云えば、曖昧に多用され、二種類の言葉、気 と 心が、
同義的に、或いは、類似的に置き換え/入れ替えられているように見えました。
そこで、 心 について、広辞苑を調べ、一部抜粋して見ましたら、
こころ
【心】
❶ 人間の精神作用のもとになるもの。 また、その作用。
① 知識・感情・意志の総称。 「からだ」 に対する。
(用例割愛、異か同様)
② 思慮。 おもむく。
③ 気持ち。 心持。
④ 思いやり。 なさけ。
⑤ 情趣を解する感性。
⑥ 望み。 こころざし。
⑦ 特別な考え。 裏切り。 あるいは晴れない心持ち。
と解釈・説明されています。
心を上記のように理解した上で、
また、日常」生活世界で、心が使われている成句の幾つかを広辞苑で検索しますと、
こころあい
【心合い】
① 気のあうこと。 仲よし。
こころいき
【心意気】
積極的に取組もうとする気持ち。 強い気力。
こころいれ
【心入れ】
① あれこれ心を用いること。 気を付けること。 心づかい。 また、
心づかいによるはからい。 心ぞえ。
② 心底。 考え。
こころがかよう
【心が通う】
お互いの気持ちが伝わりあう。 こころがかり。
「こころの通い合った夫婦」
こころがかり
【心掛け】
心にかかること。
こころがかるい
【心が軽い】
気がかりなことや悩みがなく楽な気持ちである。
こころがはずむ
【心が弾む】
楽しさや期待のために気分が浮かれる。
こころきき
【心利き】
気が利いていること。 また、その人。 心ぎき。
こころくばり
【心配り】
あちこちへ気を配ること。 心ずかい。 配慮。
上記のリストアップから、心の日常的成句も、やはり、気の成句の場合と同様に、
心と気の言葉が、殆ど区別・峻別の意図なく、何の屈託もなく親しんだ形で、
日常的に使用されているように看取されます。
端的な例は、気と心が、「気は、心」、「気がしれない」 等。 気 と心が、同様、
或いは、同等に扱われ、けれども、曖昧そのもので、峻別しようとすればするほど、
迷宮入りとなるようです。
ですから、本稿でも、心と気を、同義語・類義語として解釈して、相互置換的に採用、
使用して行くことを、ここで、改めて確認しておきたいと想います。
最後に、対人関係上の心の伝達方法で、日常的に親しまれていた二種類のもの:
‹以心伝心› と ‹つう かあ› を挙げ、検討しておきましょう。
先ず、広辞苑から;
いしん-でんしん
【以心伝心】
① 〔仏〕 禅家で、げんごでは表せない真理を師から弟子の心に
伝えること。
② 思うことが言葉に依らず、互いの心から心に伝わること。
「__で通ずる」
故事ことわざ&四字熟語によりますと、
いしんでんしん
【以心伝心】
(意味) ことばで云わなくても心と心で互いの気持ちが通じ合うこと。
(注釈) 心を以て(もって)心を伝うの禅宗の語から。
(出典) 伝灯禄
(類語) 拈華微笑 (ねんげみしょう)
因みに、拈華微笑 とは、同上辞典に依りますと、
ねんげみしょう
【拈華微笑】
(意味) ある人の云おうことの意味が、ことばを用いることなく、
心から心へと伝わって理解されること。
(注釈) 釈迦(しゃか)が霊鷲山 (りょうしゅうざん) で説法をしたとき、
一言も言わずに蓮 (はす)の華 (はな)を捻 (ひね)って見せたところ、
大衆にはその意味がわからず意味黙したままだったが、ただひとり
魔訶迦葉 (まかかしょう) だけがその意味を理解して微笑したので
釈迦は彼に奥義を授けたということ故事から。
(出典) 五灯会元 (ごとうえげん)
引き続き、’つうーかあ’を広辞苑を調べますと、
つうーかあ
(「つうと言えばかあ」の約。しばしば「ツーカー」と書く)お互いに
気心が知れていて、ちょっと言うだけで、相手にその内容がわかる
こと。 気持ちが通じ合って、仲のよいこと。 「__ の仲」
どうして ‹つう› といえば、‹かあ› なのか、どうして ‹つう› に ‹かあ›
ーー ’まあ’、’はあ’ や’けえ’ ではなく ーー ‹かあ› が対応するのでしょうか。
それぞれのことばの起源も意味内容も不明で、上掲の語義以上に探索すること
は無理なようですが、 ‹以心伝心› に関して、もう少し踏みこんで、ジーニアス和英
辞典を調べますと、この見出し語の下には、telepathy が挙げられていました。
そして、telepathy の和訳として、テレパシー、精神感応、以心伝心 が続いて
います。 この中で、精神感応は、既に検索しましたので、telepathy を取り挙げ、
OXFORD 現代英英辞典では、テレパシー、精神感応、以心伝心 で調べますと、
telepathy
the direct communication of thoughts or feelings from
one person to another without using speech, writing,
or any other normal method
_________________
〔 ひとりの人から他の人へ、スピーチ、文書、或いは、他の通常の
方法を使用せずに、思いや気持ちを伝える直接的なコミュ-
二ケーション 〕
____________
と説明されます。
端的に言って、
‹以心伝心› も telepathy も、 ーー 精神感応も ーー 通常の伝達媒体を
使用せずに、或いは、それらを超越した方法で、人と人が、心を通わせる伝達現象/
コミュニケーションを指していると云えるでしょう。
閑話休題
気と心 の解明を試みて、かなり遠回りして来ましたが、
そろそろ、 本題 ーー 気感覚の内容をめぐるこう差すへ立ち還っていくことに
致しましょう。
いま一度、振り返りますと、
気感覚は、人間の通常の5感覚(extra )以上の、或いは、超越した(super )感覚
この意味で、’超-感覚’であり、それが、気のはたらきによって可能になると想定
されますので、このことを強調して、ここでは、‹気感覚›と名付けました。
気感覚は、 ‹超-視覚›、‹超-聴覚›、‹超-味覚›、‹超-嗅覚›、‹超-触覚› ーー
更には、複合的には、‹超-視聴覚› などの、いわば、総称と云うことが出来るでしょう。
そして、気感覚の特徴のもう一つは、
それが、通常の5感覚的には、つまり、通常の身体感覚では、感受不能であること、
不可視的、不可触的な感覚であること、が指摘されねばならないでしょう。
ここで、所謂、皮膚感覚について少し言及しておきましょう。
というのも、今日的日本文化では、皮膚感覚と呼ばれる感覚(名)がすっかり定着して
居るように見受けられるからです。 この今流行りの概念を広辞苑で調べますと;
ひふ-かんかく
【皮膚感覚】
皮膚にある受容器にもとづく感覚の総称。 触・圧・冷・痛などの
諸感覚を含み、下等動物には、皮膚光覚などがある。
と記されています。
5感のうちの触覚と殆ど同価値的な語釈、或いは、別称、もう一つの言い回しとして
説明されているようにみえますが、日常的な使用法や使用例を勘案すれば、今少し、
この通常の触覚以上の神秘的な意味合いが込められているような感じがします。
ところが、この’感じ’が、実は、曖昧模糊。 具体的には、なんとなく... というような、
でも、確かに存在すると云うよう掴み処のない実体です。 不分明。
云えることは、一つ: 神秘的なということは、通常の皮膚感覚 (=触覚)を超えた感覚。
むしろ、超を冠した皮膚感覚に限りなく、近似しているということを直感されるということ
です。
ですから、
超触覚よりも、超皮膚感覚を直感的な把握の下で、本稿では、使用したいと想います。
ご理解下さるように。
V 気感覚 の特色 I
―― その形態・類型
ところで、気感覚は、その姿、形が、多種多様。
人は、関わりを持った環境・状況に応して、いろいろ異なった種類の気感覚を、
多くの場合、そうは気付かずに、展開します。
気感覚は、変化自在。
これから、このような気感覚の姿、形 ーー 形態・類型を想いつままに揚げ、
考察、検討して行くことに致しましょう。
≴ ガス(気体)のような・・・ ≵
春霞。 それは、 春の大地の霊気 (オーラ)。 といっても、
それは、いわば、微細な水滴の空中浮遊物なので、ガスよりも質量的に濃く、
眺める側には、気感覚の発揮・発動の必要はなさそうです。
5官/感で、充分感受出来、楽しむことも出来ます。
では、後光は、どうでしょうか?
広辞苑に依りますと、
ご-こう
【後光】
① 仏・菩薩の体から放射すると云う光輝。 また、それを表すために、
仏像の後ろにせた新色の環。
② (aureole) キリスト教芸術で、聖画ちゅうの人物の全体をつつむ
金色。 その人物の栄光を表す。 光輪。
後光は、御仏・菩薩、或いは、聖画中の人物からの霊気。
このような霊気は、オーラ/aura に他ならないとみてよいでしょう。
それは、多分、ガス〔気体)のような物質なので、その可視的な具現化が必要なの
だということでしょう。 光輪、光背は、その顕著な例と考えられます。
阿闍梨 (あじゃり)、山中を、厳しい千日の荒行 (回峰行)を満願成就された修験者の
方には、TVので映像で拝見したのですが、あたかも、’後光が差している’ような
神神しい霊気(=オーラ)が立ち籠めている雰囲気が感受され、回りの人びとの伏し
拝む姿が深く印象に残っています。
もっと身近には、
ふんわりとした柔らかな雰囲気で、周りの人びとの気持ちを和ませる人、
’ あの人と一緒にいると、なんだか、心が落ち着くような気がするの... ’
といわれる人。
そんな人びとは、言葉や会話などの言語行動、或いは、身体的動作だけではなく、
気感覚で、 ーー この場合のそれは、‹ガス(気体)のような›もの、否、それ以上に
柔らかですのです、気障りにならず、相手を優しく包み込み、相手の人も触発されて、
同じような気感覚で感受していると思います。
反対に、
ピリピリした雰囲気の場合 ーー
TVの映像で見ました。
舞台裏で出番を待つバレリーナの張りつめた緊張感。 視聴者のこちらにまではっきりと
伝わってきました。
それは、強張った顔の表情や姿 ーー つまり、通常の5官/感からの、可視的なもの
からと云うよりも、彼女の存在全体から放たれている雰囲気/オーラからのよう
でした。
彼女の気感覚は、目に見えない ‹ ガス(気体)のようなもの› の筈ですが、
それにもかかわらず、私 (視聴する側)に感受出来たのは、私もまた、気感覚で
反応していたからかもしれません。
≴ ヴェールのような・・・ : カーテンのような・・・ ≵
痛々しい事故や大惨事など、過酷な体験に出会うと、人は、それが、何かヴェールか
カーテンの向こう側の世界の出来事のように感じられ、現実感覚が麻痺したかのように
なってしまうと、物の本で読んだことがあります。
強い衝撃を緩和し、心の調和・均等の維持・回復を図って、‹ 緩衝地帯› ーー
つまり、ヴェールを創り出し、垂れ籠める、と想像されます。
ヴェールの向こうがわの世界は、薄ぼんやりとした境域。 全てが、定かでは
ありません。
このような気感覚/超皮膚感覚のヴェールは、どちらかと云えば、希薄、無色透明、
本人にも気付かれないような、何か、非現実的な違和感は、否定し難いような感じ
でしょうか...
時には、ヴェールが、分厚くカーテンのようになり、感じられたり、更には、硬直化して、
壁のようになることもあります。
この壁を、まるで要塞のように、地震お周囲に張り巡らせている場合もあります。
いろいろな場合があります。
未知の土地、見知らぬひととの出会い。 緊張眼が、思わず、気付かない内に、
堅牢なかべを築き上げていることも。 或いは、それは、詮索好きな人のプライバシー
侵害か身を守るために必要、有効な手段となるでしょう。
けれども、この気感覚/超皮膚感覚が、慢性的・恒常的になると、いつも、’鉄の
鎧’に身を固めているような身構えを取ることになります。
このような場合は、上半身の力を抜いて、リラックスさせれば、自然に、余計な肩肘を
張った突っ張りが抜けて、いつの間にか、堅牢な壁や要塞、鎧も消え、‹ガスのような›
優しい、柔らかな雰囲気を醸し出していることになるでしょう。
≴ バルーンのような... ≵
気感覚/超皮膚感覚の海だすバルーンは、ガス(期待)が、一つの塊を創出している
創出していること。
その大きさは、いろいろ。 風船ガムのようなものがら、ゴム風船、もっと大きな気球
のようなサイズまで、様々。それは、ゴム風船的な気感覚/超皮膚感覚の、幼子の頭上に
ふわふわ浮かんで、周りに漂っているような雰囲気。
もっと緊張して、大人全体をそのなかnに包み込むようなサイズにもなります。
柔らかな、物優しい雰囲気を醸し出している人は、その人の全身が、春霞のような
バルーン的気感覚で覆われており、周囲の人びとも、そんなバルーンの中に引き
込まれて行きます。
多人数の集まりとなれば、バルーンは、人びとの気感覚を集約して、一層甚大化
します。
人いきれや熱気で咽んでしまいそうな会場。 そこでは、会場全体に気感覚的
バルーンが充満して、人びとは、その中で酔い痴れ、陶酔状態を体験します。
バルーンは、人びとを融合の世界に導き、やがて、人びとは、「一つになる」
ということです。 一体感の達成が可能になるということです。
≴ 帯(/サッシュ)のような ≵
TVで不思議な体験談を視聴しました。
北海道の然る島でのこと ーー 奥尻島だと記憶しています。
突然の大津波の襲来に逃げ遅れた方のお話です。
怒涛の勢いで押し寄せて海水に海水に呑み込まれて、 もう駄目だと思ったその瞬間、
ご自身の体から、白い帯のようなものが伸びて出してきて、近くの背の高い、強い
草に絡みつき、引き返す大波に浚われずに済んで、九死に一生を得た、
とのことでした。
「誰も、信じてくれないんですよ。 私の体から、白い帯が出て来たなんて... 」
微苦笑しながら、けれども、真剣な表情で話していらっしゃいました。
私は、信じます。
白い帯は、人の発する霊気/オーラ。 即ち、気感覚であり、それは、頑丈で、太い
超皮膚感覚。 気感覚=超皮膚感覚が、腕よりもずっと、ずっと長く、太く、逞しく、
強靭なおびになって、茎のしっかりとした草に巻き付いたに違いありません。
命拾いなさって、本当によかったですこと。
≴ 触手のような ≵
イソギンチャク等の無脊椎動物の触手のような、或いは、それよりももっと長く、遠く、
伸びることの可能な気感覚/超皮膚感覚。
’あっ、釘を拾った。’
自動車の運転手の声。 運電中のことでした。
小さな釘を拾ってしまったそうです。なにのことかしらと訝しく思っていますと、
後輪のダイヤが釘を轢いて、刺されてしまったのだという説明でした。
運転中で、車を降りて目撃・確認したわけでもないのに、d
どうしてわかるのかしら、とそのときは、摩訶不思議に思いました。
これは、まさに、気/気感覚の世界の現象。
彼は、愛車に彼の気感覚=超皮膚感覚を隅々まで張り巡らし、車にダメージを
与えるかもしれないどんな微細な異物の衝撃も見落とさない、否、感じ落とさなかった
のでした。
そう考えれば、長い間、謎だった彼の説明は理解することが出来ました。
≴ 蜘蛛の糸のような ≵
突然、何か雁字搦めになって身動きが取れないような、或いは、なんとなく
奇妙に束縛されたような」雰囲気や、鳥かごのなかの小鳥のような閉塞感に包まれた
ような気がしましたら、それは、たぶん、周囲の誰が、地震の気感覚を、蜘蛛の糸の
ように発射して、貴女に絡みつき、絡み捲くっているからです。
このような’身動き取れない’状態は、就寝中に起きる夢/精神現象の’金縛り’では
なく、山伏 (修験者)の’金縛りの法’に近似していると思われます。
広辞苑を調べますと、
かなしばりのほう
【金縛りの法】
修験者 (しゅげんしゃ) の行ずるほう。 不動明王の威力によって、
金鎖で縛るように (あるいは人に害を与えるもの)を身動きできない
ようにするもの。
金縛りは、気感覚敵に解釈しますと、
雲の糸が、強化・硬化して、’鋼鉄のように’ なったもの。 修験者の気(/気感覚)力
は強力なのです。
普通は、蜘蛛の糸ていど。 細く、なよらか。 けれども、これが恐ろしくなることも。
粘着力があって、ねちねちと絡まれると大変。 しかも、muisiki/潜在意識下のこと
なのでなかなか気付かず、逃れることは容易ではありません。
そんな時は奥の手を、先ず、状況を冷静に、意識的に把握・覚悟して、こちらも、
自身の気感覚をナイフのように先鋭化して相手の’蜘蛛の糸’を断ち切ることです。
気付かずに、引き摺り込まれますと、≪安珍清姫≫ のような悲劇を招致します。
≪安珍清姫≫の伝説とは:
広辞苑に拠りますと、
あんちんきよひめ
【安珍清姫】
紀州道成寺の伝説の男女の主人公の名。 熊野詣で若僧に清姫が
横恋慕。帰途の約束を裏切られたことから大蛇となって後を追い、
道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を鐘とともに焼き殺したという。
「法華験記」 「今昔物語」などに減刑が見えるが、安珍清姫の名が
定着するのは近世以降。 能・浄瑠璃・歌舞伎・舞踊などに脚色。
ここからは、私 (筆者)の個人的解釈を ーーー
若い僧の安珍は、清姫の美しさ*に一目惚れ。
’ 高根の花 ’ と見上げていれば良いものを、その内に欲と未練が起きて、恋慕の情に
身悶えします。 その上、小心者の男のくせに、自惚れが強い。**
_________________
* 清姫は、見目麗しい佳人だったでしょう。
’清’の自から連想しての、清雅、清麗、清艶、清純、清楚、
晴朗、清清、清涼 ‥などと佳人を讃えるにふさわしい言葉
続きます。
** 他方、安珍の ’安’ は、安価、安直、安物、安値、安易‥
などが想起され、’珍’に至っては、珍奇、珍妙、珍獣、
珍無類珍糞漢 (ちんぷんかん)、珍優 ‥など。これでは、
到底、ハンサム・ボーイを想像し難いと印象付けられます。
___________
文(ふみ)を渡すなど、真正面からのアタックでは、とても無理と判断したのでしょう。
安珍は、気感覚の動員・発揮を始めました。
最初は、超気感覚。 念力です。
’念力岩を通す’の一念・執念で、清姫にアピール、直訴。 無垢な清姫の心を攪乱
します。
次に、リモート・コントロール的気感覚で、清姫に ’安珍に恋慕せよ’ と姫の心を
マインド・コントロール。 その上、’蜘蛛の上’のような気感覚/超皮膚感覚で姫の
身体を雁字搦め、身動き出来ない状態に陥れたのです。
アンチんの’蜘蛛の糸’は、強靭でした。
蜘蛛の糸よりずっと、ずっと粘っこく、執念深く、執拗なのでした。 簡単には剥がせません。
感受性の強い清姫は、安珍の邪悪な奸計の罠に落ちてしまったのです。
状況は、大逆転。
安珍の清姫への恋慕が、清姫の恋慕に、様変わりしてしまいました。
安珍は、たとえ、それが彼の仕掛けた罠であったとしても、清姫の恋慕を、ようやく、
やっとの思いで獲得したのですから、素直に喜んで受け入れれば、よかったのに、
けれども、少し冷静になれば、彼は、修験者。 色・恋にまよっている場合ではありま
せん。
その上、小心ものの、醜い若僧には、美しい清姫は、きっと荷が勝ちすぎたので
しょう。清姫の振る舞いに、恐れ戦き、姿を暗ましたのも止むを得なかったことなの
でしょう。
清姫は、怒り心頭。
何の関心もなっか若造の僧に、彼が、どこまでも執拗に請い願うからこそ、やむを
得ず、気を向けて、デートの約束までしてあげたのに、感謝するどころか、ドタキャン
(土壇場でキャンセル)して、こそこそ逃げ出すなんて。
’私を何んと思っているの!’
清姫の自尊心は、何処までも深く癒し難いまで傷けられました。
男女の間の感情的な亀裂・縺れ・葛藤‥などの殆ど全ては、元を質せば、
’傷つけられた自尊心’ に起因します。 愛だの恋だのは、吹っ飛んで行ってしまって、
憤怒は、やがて、清姫の〈気感覚〉と合流して、’蜘蛛の糸’を紡ぎ出します。
人を狂わせます。
憤怒、怨・恨の狂焔。もう’凶器の沙汰’の世界です。
清姫の’蜘蛛の糸’ (=超‐皮膚感覚)は、それに止まらず、どんどん増大して、
最後には、大蛇となって、安珍を釣鐘と一緒にぐるぐる巻きにして焼き殺してしまう
ことになりました。 〔大蛇は、清姫の超‐皮膚感覚の視覚化といえるでしょう。
それにしても、
安珍は、そんなにまで、清姫に恋慕されなかったの、と、聊か、呆れてしまいます。
醜男の妄想 ・・・ ?
普通の ーー つまり、’正気の沙汰’の日常生活世界だったら、清姫は、途中で、
安珍の’安っぽい’ 奸計を見破って、「何よ、失礼な若僧ネ!」 とそっぽ向いて、
以後、彼女の視界/意識世界から安珍を、一切締め出し、排除して、その存在を
徹頭徹尾認めないという辺りに落ち着くと思うのですが、
《安珍清姫》は、伝説の物語。
やはり、過激に、ドラマティックな幕切れが、必要なのでしょう。
それにしても、
私は、大蛇は、気持ちが悪くて嫌い。 大蛇と鰻。 それから、みみずも。
美しい清姫が、醜男の安珍のせいで、大蛇に変身させられるなんて、酷い、ひどい。
本当に可哀想。
何方の発想か分かりませんが、悪趣味そのもの。
大蛇、鰻、蚯蚓は、3大苦手。 清姫も、きっと、そうだったでしょうに ...
≴ アメーバのように;
ブランケット/テーブル・クロスのように ≵
広辞苑で調べ、一部抜粋しますと、
アメーバ
【amoeba, ameba 】
原生動物の一群。 単細胞で大形のものでも、直径は約0.2メートル。
形を変え、仮足を出したり、食物を摂取したりする。
アメーバ様(よう)の気感覚/超皮膚感覚は、原生動物のそれよりも、遥かに増大します
ーー 相手の生気/精気を取り込みつつですから、何百、何千倍にも。
ですから、時には、ブランドやテーブル・クロスにまで、伸長・膨張しながら、相手の
身体に纏わり搗いたり、或いは、すっぽりと覆い被せながら、べったりと寄り着きます。
その粘着力は、強力。 鳥黐か強力瞬間接着剤でくっつかれたようで、簡単には、
剥がせず、剥がれません。
依存度の高い人びとに、しばしば、認められ、親子の場合、この気感覚/超皮膚感覚
的ブランケットにすっぽり包まれてしまうと、発育不全に陥りかねません。
:: 投網のように ... ::
気感覚/超皮膚感覚の ’網’ は、漁業で使用されるそれよりも、むしろ、細かい気孔の
あるプラスティック・ラップに’変身’して稼働する場合が多いようです。
例えば、聴衆をうんざりさせる演説家、多弁家。
演説を始めて間もなく、目前の聴衆へ巨大なサランラップ様(様)の気感覚/超皮膚感覚
を投げつけ、拡げて、つまり、投網して ーー 多分、本人には、無意識的行動でしょう
ーー 聴衆の考えや気持ちの自由な動きを封じ籠めて、自身の主張を、一方的に
滔々と捲し立てます。
独壇場。 そして、多分、自己陶酔。
演説家は、聴衆が、彼が投げかけた’網’ と云うよりもサランラップのような気感覚/
の下で、心理的に身動きが取れなくなり、あまつさえ、気分は窒息寸前。 すっかり
うんざりしてしまって、聴衆の心も、気持ちも彼の演説から離れてしまいます。
やがて、一人、また一人 と退席し、最後には、演説家の’ 託顔 (かこちがお)’が
残る結果になるかもしれません。
投網は、やはり、海で打つのがよいでしょう。
≴ レーダーのような、ソナーのような・・・ ≵
小学生の頃、夏休みには、毎日のように裏山へ登って、蝉取りに明け暮れた
昔の元気な男の子の物語。
朝、目が覚めて、蝉の鳴き声が、裏山から聞こえて来ると、
’あっ、あの樹の枝に止っている!’
直ぐに分かったそうです。
実際には、裏山ではなく、蝉の声が、閑静な、と云っても住宅街に住む小学生
耳に聞こえた、つまり、通常の5感覚の1つ聴覚で感受出来たとは、到底思え
ません。実際に、耳(通常の聴覚受容器)で捕らえられるのは、せいぜい、お庭
の樹にとまって鳴いている蝉の声でしょうから。
蝉の声は、彼(小学生)の超‐聴覚 で聴き取られたに違いありません。
レーダーは、電波で対象物に感応、探知しますが、昔の子供は、気 で
研ぎ澄まされた超‐聴覚で感知して、蝉の居場所を超‐皮膚感覚で探知して
いたということなのでしょう。
今の子供達には、もう無理な夏休みの体験かもしれません。
このような気感覚は、所謂、’千里眼’の範疇に ーー 裏山は、千里程も遠い
遠隔の地という訳ではありませんが ーー 入れられてよいでしょう。
’千里眼’は、広辞苑によりますと:
せんり‐がん
【千里眼】
遠隔の地の出来事を直感的に感知する神秘的な能力。また、
それを持つ人。仏教でいう天眼通 (てんがんつう)。
’千里眼’ の又の名は、’透視’。
ブリタニカ国際大百科辞典を調べますと、
とうし
【透視】
千里眼。 心霊現象の一種。 遠方での出来事のような、感覚的、
視覚的には把握することのできない対象を、超感覚的にしること。
対象が過去に起こったこと、あるいは未来に起こる場合もあり、時間的・
空間的に離れたもの「見る」ことができる。 箱の中身や封筒の中を
知ることをX線透視といい、このほか人体の透視や夢による透視など
がある。
この透視に関わる(と想えます)エピソードを 1件、
ここで、ご紹介致しましょう。
隋分、昔のこと。 旧制高等学校時代の回想です。
クラスの一人の成績が、あんまり熱心に勉強している気配がないのに、成績優秀なので、
或る日、どんな勉強をしているのがと周りの連中が、問い質したところ、目を閉じて
瞑想すると、試験問題が見えて来るので、その問題だけを集中して勉強しているとの
こと。
早速、その瞑想、つまり、透視 ーー 因みに、当時、透視体験が、色々、流行して
いたそうです ーー してくれ、と級友たちが迫ると、九段の生徒は、透視のための
瞑想に入りました。
級友達が、息を潜めて待っていると、彼は、やおら目を開いて、一言。
「あかん。 あかんわ。」 と云って、首を横に振りました。
どういうことなんや、とせまると、もう一言。
「 先生が、未だ、試験問題を作っておらん。」
なんだか、落語の落ちのような結末ですが、本当にあった出来事。
実際にその場に居合わせた元旧制高校生の回顧談ですから。
≴ 拡大鏡のような; 虫眼鏡 のような ≵
TVの映像で見ました。
小さなお米粒に、超微細な文字がびっしりと書きこまれていたのです。
カメラのズーム・アップで確認、判断できました。
カメラの威力のことを話しているのではありません。 カメラのレンズは、通常の
視覚感覚器官の延長線上のこと。
注目は、文字を書き込まれた中国人の方。
拡大鏡なんて、無用なのです。 お米粒をじっと凝視し続けると、お米粒が、だんだんと、
大きく見えて来て、それで書くことが出来るのだそうです。
それは、 まさに、気感覚/超視覚の世界。 達人の境地と云うことなのでしょう。
因みに、別の機会。 別のTVプログラムでお見受けした日本人の方は、
大きな、強力な拡大鏡を使用なさっていました。
≴ 光線のような ≵
また、TV映像です。
子供達の様子が写し出されていました。 大きな瞳を輝かしながら、でも、黙ったまま。
大人達は、少し離れた場所から、訝し気な、鋭い眼光を放っていました。
アフリカ大陸のどこかの村でした。
遠方の地へ、旅行した際の、その土地の人びととの最初の出会いの情景。
皆 誰何しているようでした。
’誰なの(だ)?’
’何処から来たの(だ)?
目の物理的な動き。 視覚は、人物の外観を探査するだけですが、この場合、
明かにそれだけでなく、気感覚/超視覚的光線を内蔵しているようです。
読心術という他者理解の方法があります。 広辞苑に依りますと、
どくしん-じゅ
【読心術】
顔の表情、筋肉の微細な運動などを通じて相手の思念を感知する
術。
僅かな身体的動き・表情で、人(相手)の’思念を感知をする、’ ’心を読む’ という
語釈ですが、それだけでしょうか。 相手の ’心を読む’ためには、人は、気感覚/
超視覚を働かせているように想えます。
更に、’見抜く、’ ’見透かす’ という行動は、どうでしょうか?
広辞苑を調べますと、
み-ぬく
【見抜く】
奥底まで、みとおす。 面に現れない本質を知る。 見すかす。
洞見する。 「うそを__ ・く」
み-すか-す
【見透かす】
① すかして見る。 見とおす。
② (他人の心の中や将来の成り行きなどを) 見ぬく。
あらかじめさとる。
(用例割愛)
’見拔く、’ ’見ぬかす’ という知覚行動は、推理・推察などの理性/知性的能力
超の冠された能力、即、 超感覚、/気感覚を俟って可能になるのではないでしょうか。
尤も、対人関係的場面では、人は、自分の心の中や本心を、見抜かれ、見透かされ
たりすることを決して快く感じないもので、また、そのような態度・行動を取る、相手には
取ろうとする相手には、一層、心を鎖してしまいます。
プライヴァシイ の侵害という問題も浮上してくるかもしれませんし、対人関係の
円滑な維持・継続は、むしろ、困難となるでしょう。
この種の、’眼光鋭い’ (気感覚/超視覚)の使用は ーー 出来ればのことで
すが ーー 相手の行動への警戒が、特に、必要な状況などを除いて、ほどほどに
・・・ といいうことがよいようです。
≴ 遠隔操作/リモート・コントロール ≵
これは、テレパシー的現象。
広辞苑を引きますと、
テレパシー
【telepathy 】
ある人の精神から他の人の精神に思考・観念・感覚などの内容が
伝達されること。 実証的には確認されていない。 遠感現象。
精神感応。
「実証的には確認されていない」 と説明されていますが、日常世界では、
ある程度、’直感’的に ーー ですから、気感覚的な体験として、確認とはいかない
までも、 気付かされます。
例えば、こんな経験はお持ちではないでしょうか?
’そろそろ、彼女(お友達)からの電話がほしいわネ...’ と想いはじめますと、
不思議なことに、彼女から連絡があって、暫くの間、楽しいお喋りの時間を持つと
いうような・・・。
この場合、こちらの想いが、気感覚に乗って、遠隔の彼女の心を動かし (感応
させ) 電話を掛けると云う具体的な行動を取らせるでしょう。
そして、こちら側も、彼女の暇な時間を気感覚/超視聴覚で察知してメッセージを
送った、伝達したのだと考えられます。
リモート・コントロール的気感覚の発動は、その人(対象)の精神全体をコントロール
することを意味するものではありません。 離れた ーー 場所に在る人に思いを
伝え、その思い通りに、その時限りで、状況限定的に、動いてもらうということ。
時には、’思い通り’ではなく、逆方向の結果を招致することもありますが、
これは、気感覚の伝達仕方の失敗か或いは伝達内容 (想い/思い)が、マイナスの
刺激になった場合と云えるでしょう。
≴ 受信機のような; レシーバーのような ≵
相手の働きかけを聴取すること。 といっても、具体的な耳 (聴覚受容器) を
使用してではなく、気感覚/超聴覚 で感受するという方法です。
物の本で読みましたエピソード:
ミケランジェロ ーー あのイタリア・ルネッサンス期の巨星。
ダヴィデの大理石像など傑作を残した芸術家は、彫刻のために、
石切場で、掘り易そうな大理石を探していると、 石の方から
’ 私を掘って欲しい・・・’ と訴えて来る、
と語っていたそうです。
大理石も気の集合。 気を発しているのです。 ですから、
大理石の気、気感覚的に発した思い、訴えを、ミケランジェロの気感覚/超視聴覚が
感応したのです。
いずれにせよ、両者の’思い’が一致した瞬間 ーー ミケランジェロが大理石に
触発されて、制作意欲が掻き立てられ、奮い立った時、ダヴィデ像の傑作誕生の
時となったのではないでしょうか。
これも、両者の‹気が合う› ことが大切。 もし大理石が嫌がったり、ミケランジェロ
も嫌がったりすれば、どうなっていたでしょうか。
仏師の方も同じような経験をお持ちのようです。
彫刻しようとする木材に、御仏の御像が浮かんで見えて来るとのこと。
時には、この辺りは、こう彫って欲しいとか、かなり具体的な中門も
感受なさるとか・・・ (TVの取材でしりました。)
これは、いうまでもなく、気感覚、なかでも、超視聴覚の世界。
木(材)の内からこのような語り掛けがあれば、弥が上にも、敬虔な
祈りの気持ちと共に、仏像制作がなされることでしょう。
園芸家や農業従事者の方々も、植物、農作物の話しかけて来るという体験は、
豊富にお持ちのようです。
気感覚/超視聴覚によって、相手の思い/想いに耳を傾ける、つまり、気感覚的に
感受するということは、池沼は、人間だけにとどまらず、人間以外、以上に拡がって
おり、そこでの接触は、新しい世界が開示されているといってよいでしょう。
ここで、ちょっと違った角度から ーー。
’虫の知らせ’ という、嘗て、日常的によく使われた成句があります。
広辞苑を検討しますと、
むしのしらせ
【虫の知らせ】
何の根拠もないが、なんと無くそのような気がすること。
予感がすること。
虫の知らせの’虫’ は、虫の項の語釈を一部抜粋しますと、
むし
【虫】
①本草学 (ほんそうがく)で、人類・獣類・魚介類以外の小動物の
総称。 昆虫など。
(以下割愛)
⑤潜在する意識。 ある考えや感情を起こすものとなるもの。
古くは心の中にある考えや感情をひき起こす虫がいると考えていた。
(以下割愛)
ですから、
この ’虫’ は、気、気感覚。 特に、超気感覚に関わるとみてよいでしょう。
虫は、この場合、黄金虫 (コガネムシ)や 紅娘 (テントウムシ)、或いは、
やがて蝶々になる芋虫ではなく、「勘」 ( ’直感’や’第六感’ )のような前栽意識に
属するもののようです。
例えば、交通事故。
偶然、その場に居合わせた、通り掛かったばかりに、事故に撒きこまれて犠牲に
なった運の悪い人と反対に、その時刻にいつもその場所を通るのに、その時に
限って、なんとなく、気が進まず、遠回りをしてしまって難を逃れたという強運の
人。
運命の明暗を分けたのは、もしかしたら、’虫の知らせ’ の所為。 お蔭?
不幸にも、前者の場合は、’虫’がが、騒がす、胸騒ぎもせず、何の不吉な予感も
持たなかったということでしょう。
後者は、’虫’が、事故を予知・予感して、つまり、気感覚/超視聴覚がしっかり
来るべき自己を予知・予感して、無意識の内に事故回避のためのその状況に
適切な行動を取ったということでしょう。
’虫の知らせ’ は、是非とも欲しいものですね。
’虫の知らせ’ を感受・受信出来る人の他にも、もっと強力な受信機/レシーバー
のような気感覚を所有する種類の人々が存在します。
シャーマン、巫女など、古今東西、様々なタイプの霊媒と呼ばれる人々。
このような人々の’虫’は、一般の人々のそれよりも遥かに強力で、影響力も強い
場合があります。 人々は、超-人間=超-自然界からメッセージを’超能力’
ーー つまり、超感覚・気感覚で感受・受信していると見做して良いでしょう。
広辞苑で検索しますと、 シャーマンは:
シャマン
【shaman】
自らをトランス状態 (忘我・恍惚)に導き、神・精霊などと直接に
交渉し、その力をかりて託宣・予言・治病などを行う宗教的職能者。
シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。
シャーマン。 巫覡(ふげき)・巫女(みこ)
みこ
【巫女】
神に仕えて神楽・祈祷を行い、または神意をうかがって神託を
告げるもの。 未婚の少女が多い。
TVドラマの一場面。
長い髪の毛を振り乱して、一心不乱に舞い、祈祷している女優の姿は、迫真の
演技で、実際の巫女 (シャーマン)を目の当たりにしたような錯覚に囚われましたが、
このような所作・パーフォーマンスは、心身の虚脱状態を実現し、気感覚/超感覚
が活動しやすい環境整備されますので、気感覚が十分に発揮されれば、
’神がかり’ ーー 「神が人身にのりうつり (広辞苑)」 ーー して、神のお告げ、
即ち、神/超自然からのメッセージをじゅしんするということでしょう。
更に、 霊媒を、この度は、ブリタニカ国際大百科辞典で調べますと、
れいばい
【霊媒】
〔medium〕
神霊、死霊などの霊的世界と人間との間を交通、媒介し、
さらにその他の超自然的心霊現象を起こす能力を持つ人間。
日本では口寄せとしてしられるが、世界各地にもシャーマンなど
古くからみられる。 霊媒は女性が多く、彼女たちは、一種の
入神状態 (トランス)に入って、自動言語、自動書記などの心霊
活動を行う。 (以下割愛)
霊媒は、今日的には、チャネリングとも呼ばれているようです。
ブリタニカ国際大百科辞典に依りますと、
チャネリング
【channeling】
特別の能力をもちいて霊的・精神的な世界と交流し、そのメッセージを
一般人に伝えること。 訓練によってそうした能力を獲得した物を
チヤネラー channelerと称する。 特にアメリカで19世紀以来続いて
きた心霊主義の流れをくみ、チャネラーは伝統的に霊媒と呼ばれるものと
ほぼ対応するが、出版物による訓練が新しいといえる。
チャネリングという特別な能力 ーー つまり、チャネラーが持つ霊的世界との交信
(媒介)能力は、チャネラー/霊媒者の気感覚、或いは、緒感覚の性能といえるでしょう。
チャネラー/霊媒者は、この気感覚/超感覚によって超自然・著人間的世界へ動員され、
方向づけられ、水路づけられ、そこからのメッセージを受信すると想像できます。
それにしても、このような’とくべつn能力’は、どのような’訓練’によって獲得される
のでしょうか?
もし分かれば、気感覚の生成・発展の謎の解明に大きく迫ることになると期待したい
気がします--
≴ ケイタイ(携帯電話)のような ≵
ケイタイは、耳 (通常の感覚器官) と小型通信機での意思伝達方法。
気感覚的に解釈すれば、’以心伝心’。 これは、既に触れましたように、媒介手段抜きで、
直接的な、2者間の ’心から心への’ 伝言/コミュニケーションであり、超聴覚を働かせて
の伝達です。
暫く前 ーー 今は、もう当たりまのことでしょうが ーー 目の前の友達との遣り取りに
ケイタイが使用されていると、呆れたような驚きの声を耳にしましたが、近くの人同士の、
ーー遠くは勿論のことですがーー伝達は、以心伝心という風には行かないものでしょうか。
この方法の方が、省エネ/i節電対策に貢献し、経費節約になると思いますが、
如何でしょうか。
Ⅴ 気感覚の特色 2
今まで気感覚の姿・形ーーつまり、形態について考察検討して参りましたが、
これからは、この超-感覚の性格と能力という角度から、特徴づけ、その
把握を試みて参りましょう。
気感覚の性能を、幾つかを揚げますとあげますと、
ⅰ) 延長拡大性
ⅱ) 伸縮(自在)性
ⅲ) 粘着性
ⅳ) 激化性 ; 先鋭化性
ⅴ) 浸透性
ⅶ) 反発性
が指摘されます。
少し詳細しますと、
ⅰ) 延長拡大性
’千里眼’は、この範疇の好例。
気感覚を’千里’の遠隔の地まで伸ばして、対象物と接触、探知/探索するのですから。
‹レーダーのような› ‹ソナーのような› 気感覚も同じですし、‹帯のように› 伸ばす
超皮膚感覚もこのジャンルに属します。 ‹遠隔操作のような›気感覚も、念力も、
これら ’中範囲’ のものそう。
身近には、‹触手のような›超感覚/気感覚が、こまやかな気配りをみせつつ、どんどん
’手’を広げて行く場合もあrます。
ⅱ) 伸縮(自在)性
’伸’ の方は、’延長拡大’と重複するようですので、ここでは、’縮’の場合を考えて
行きましょう。
例えば、
突然、森で、熊と遭遇した場合、死んだ振りをすればよい} と云われています。
或いは、’木や石、岩のようになって動かない’ ことも、もう一つの選択肢 のようです。
このことは、人は、無意識的に発している気感覚/超皮膚感覚を、体内に引き
込める ーー つまり、収縮しなければことを意味しています。 静止すること。
恐怖に駆られて、気感覚が不用意に、間違った方向に働けば、熊の警戒心から
惹起された気感覚が、刺激され、強い攻撃力に ’伸長拡大’され、予期せぬ悲劇
を生むことになるかもしれません。 ですから、
’死んだ振り’ や ’木や石、岩になる’ だけでは、不充分。 恐怖感、恐怖に
捕われた気感覚を収縮して、体内に沈めなくてはなりません。
’気後れ’ を起こした場合も、気感覚は、収縮。 萎縮した状態といえるでしょう。
’猫かぶり’ も気感覚が萎縮した、或いは、萎縮された状態。
広辞苑に拠りますと、
ねこ-かぶり
【猫かぶり】
本性を包み隠しておとなしそうにみせること。 また、そういうひと。
ちょっと辛口の意味付けのような、的を得ないような気がします。
’猫被り’は、「借りて来た猫のようにおとなしい」 というどとでは ...
ここ場合、相手の、或いは、周囲の雰囲気に圧倒されて、気感覚が収縮・萎縮して
しまって、いつものように振る舞えないということを意味すると想えますから。
もし、意図的ならば、気感覚は、僅か。 伸長していて、’猫を被っている’にしては、
何処か図々しい、ふてぶてしいという印象を与えます。 そうでしたら、本性を隠している、
隠し損ねている本物の’猫被り’でしょう。
それにしても、猫さん達は、いつも本性の趣くままに生きているようにしか見えないのに、
それが、どうして’猫被り’なのでしょう。
猫(の本性)を被っているならば、人間は、おとなしそうに振る舞うどころか、気の向くまま、
気儘に、気感覚を伸び伸びさせながら、生きることが出来るというものでしょうに。
ⅲ) 粘着性
小鳥さんは、蛇に睨まれると、固くなって動けなくなると聞きました。
広辞苑で調べますと、 小鳥さんではなく、蛙さんでした。
へびにみこまれたかえる
【蛇に見込まれた蛙】
(蛇が返るをにらむと蛙が動けなくなるという俗説から)
おそろしさから身をすくんで動けなくなった状態。 とでも対抗できない
相手とむきあって、十分に力が出ないさまをいう。
蛇に睨まれた蛙。
’蛇に睨まれた蛙’は、唯、恐怖で凍ってしまっただけでしょうか。
この時、蛇さんは、蛙さんに向かって、長い、細い舌の先をちょろちょろさせて、蛙さんの
’目晦まし’ をしただけではなく、気感覚/超皮膚感覚を、’蜘蛛の糸ように、’ そして、
それを、’プラスティック・ラップのように’伸長拡大しながら、’投網を打つように、’
投げ、絡んで、’雁字搦め’ にしていたに違いないでしょう。
この時の蛇さんの気感覚は、’粘着性’がどても強力なので、蛙さんは、身動きが
取れず、 固まってしまっているように ーー これは、単なる憶測に過ぎないと
思われますが ーー 見えるのではないでしょうか。
人間にも粘っこく絡んで来る人種があります。
’ねばねば’ しているだけでなく、’ぬるぬる’と蛞蝓 (なめくし) の表皮よりも、もっと、
もっと気味の悪い粘着質の超皮膚感覚を使って攻めてきます。
その’ねばねば’/’ぬるぬる’ の本質は、どのように生み出すのか、と訪問・反撃
しても、’ぬらりくらり’ と躱されて、結局、生ある解答は、期待すべくもありません。
対応は、本当に、困難を極めます。 もたもたしていると ーー その相手と関わり
が続くわけですから、その分、相手の思う壺に嵌ってしまうことになります。
どうすれば、よいのでしょうか。 次に、歩を進めて見ましょう。
ⅳ) 激化 ; 先鋭化
メキシコのとある街角の出来事。
TVの映像で目撃しました。
大きな猫に追っかけられて、びるの隅っこに追い詰められていました。
絶対絶命の窮地に陥った鼠ちゃん。 いきなり振り返って、大きな猫君目掛けて
猛反撃。
まさに、’窮鼠猫を噛む’ を地で行く反撃でした。 その映像を見ていました私は、
思いがけない光景に、吃驚 仰天。 文字通り、大きな猫君に 噛みつかんばかり
の動きには、猫君も、 驚愕。 たじろく間に、鼠ちゃんは、窮地脱出に成功しました。
その時、鼠ちゃんは、牙を剥いただけではありません。
それ位のことだったら、
大きな猫君は、’何を笑ってんだ? それとも、欠伸? ... ’ と意に介さなかった
でしょう。
鼠ちゃんを窮地から救ったのは、彼の恐怖から発動された気感覚/超皮膚感覚。
それが、最初は、針のように先鋭化(激化)して、’ 針鼠 ’のように、次で、
山嵐 (ヤマアラシ)、 この段階では、大きな猫君は、様子を見るように、
前肢で、ちょっと2・3回、 ’猫パンチ’を出すだけ。 鼠ちゃんの気感覚/超皮膚感覚
の激化・先鋭化は、まだまだ必要。
この時には、栗や雲丹にイガイガ (毬) のような球が、炸裂。 最後には、
’手裏剣’状の超皮膚感覚が、猫君に向かって、次々と放たれました。
流石の猫君も ’手裏剣’ 攻撃にはたじろいた様子。
猫君も気感覚/超聴視覚で、鼠ちゃんの猛反撃をしっかり感受・感応して、脅威を
感じたようで、すっかり怯んでしまって、折角の’餌食の捕獲' ーー ランチ用
だったのでしょうか、諦めたように退場していきました。
それにしても、メキシコにも、’窮鼠猫を噛む’ という 諺は、あるのでしょうか。
メキシコの方に伺ってみたいと想いました。
ここで、一言:
執着質のタイプに絡まれてしまった時、鼠ちゃんのように、或いは、それ以上の
猛反撃を、相手がねばねば・ねちねち/ぬるぬるの気感覚を収縮するまで、どこまでも
繰り返して撃退するか、それとも、そこまでする価値を見出せないと判断すれば、
こちらの気感覚は、先鋭化せあうに、さっさと退場することでしょう。
ⅴ) 浸透性
絵筆をとる前に、気を入れます。
然る公明な日本画の大家のお話。
先ず、画材を拡げて、手で隅々まで丁寧に撫でながら、ゆっくりと気を入れ、ご自身の
気を集中させつつ、絵を書き始めると語っていらっしゃいました。
この場合、超触覚で、丁度、布に水が染みこむように、気感覚をこませるということと
想われます。
絵と画材、そして、画家は、気と気感覚の超-有機的な連繋の中で、織りなされて
いる世界であることを知るべきでしょう。
閑(しずか)さや 岩(いは)にしみ入(い)る 蝉の声
ーー 松尾 芭蕉
この時の’蝉の声’ は、本当に、’岩にしみ入って’ いたのでしょうk?
ーー とは、まことに、無粋で、無風流な疑問ですが、もし、岩にしみこんで、
染みこんで/浸み込んで/沁みこんで、いずれの場合か定かではありませんが、
いたのならば、それは、蝉たちの気感覚のなせる業。
蝉のお腹にある細長い口吻を岩に刺し込んで鳴き声を注入しようとすれば、
かなり痛い目に遭うでしょうから。
ⅵ) 融合性
或る日のこと、
蝶々さんが、ヒラヒラと楽し気に舞うように飛んでいる姿を眺めていますと、
こちらも、いつの間にか、その飛び舞うリズムに合わせて、同じように身体を動かせて
いるように想いました。
私の気感覚も働いていました。 気感覚/超視覚で、蝶々さんと’一つになる、’
或いは、’一体になれた’ からこそ、自然にリズミカルな身体行動(の想像)が可能に
なったといえるでしょう。 5官の1つ、視覚器官で感知して運動中枢神経系を
刺激しただけとは、想えませんでした。
或る春の日の小庭の出来事でした。
蝶々さんと私の身体は、物理的に、ぴったりと接触・密着して、一つに、一体になった
いたのではなく、空間的隔たりもありました。 にも拘らず、そう感じて、一緒に
遊んでいるような気分になったのは、私の気感覚によるものと見てよいでしょう。
この‹一体性›は、
私が蝶々さんの動き(舞い)を目で追いながら、通常の視覚を用いつつ、模倣や真似を
した結果ではないように思えます。
気感覚は、2者の間に横たわる通常の5官/感では、超・超困難、或いは、不可能な
隔たりを超越して直接、相手(対象)に迫る能力を有しています。
この場合の一体性 は、融合性。
広辞苑で調べますと、
ゆうごう
【融合】
① とけて一つになること。 とかして一つにする。
「二人の気持ちが __ する。」
② 〔生〕
㋐ 細胞・核などが合一すること。 核融合・細胞融合など。
更に、合体 を検索しますと、
がったい
【合体】
① 二つ以上のものが一つになること。合同すること。
「公式__」
② 心を一つにすること。
③ 〔生〕 原生動物などで、2個の細胞あるいは配偶子が合一して
一個の接合子を生じること。 融合。
気感覚の融合は、相手(対象)の心/気未知と’ 溶け合って、’ ’一つになる’ (と
感受する)こと。
それは、綯い交ぜ(ないまぜ) とかモザイク模様的結合を意味するのではなく、
自他の区別が不分明な、無差別な精神状態が出現する時に、生ずるもの、そして、
その時にこそ、一体性 が看取されます。
更に、気感覚的融合は、相手(対象)の身体的動作、あるいは、心/気持ちを、そのまま、
’ありのまま、’ こちら側に取り入れ、つまり、(自己へ)投入し、そのことに依って、
’一つになる’ 一体性を実現します。
蝶々さんと私の場合、
その舞いを眺めている私が、自分勝手に ’振付け’ をしたり、’役作り’ や’演出’
をせずに、目の前に現れるままに、そのままを私の心身に取り入れ、写し取り、
一緒に舞う(気持ち)になると云うことです。
人間同士のレヴェル/場面でいえば、人の悲しみを私の悲しみのように感じ、
喜びを喜びと感受することです。 ’思い遣り’ も’同情’ も、同様。
気感覚の融合/一体性があってこそ可能になるといえるでしょう。
ⅵ) 反発性
心/気持ちを一つにしょうと気感覚を働させても、撥ね付けられ、拒絶される場合
もあります。
気感覚には、融合ばかりでなく、反発・拒絶する力も備えています。
’矢面に立つ’ という比喩的な表現があります。
この場合の’矢’ は、シンボリックな喩え。 実際には、本物の矢が正面から飛んで
来ることは先ずないでしょう。 大概は、質問、詰問、避難、抗議などの ’言葉の矢’
です。 この言語的矢に気感覚が乗り移って、激化すれば、 最初は、普通の矢のよう
でも、その内、鏑矢(かぶらや)、毒矢になることもあって、その威力は相当なものに
なります。
一方、’ (矢面に) 立つ’ 側は、 身を固くして、気感覚の壁を築き、張り巡らせ、
防御態勢を取ります。 壁は、やがて、鋼鉄製のように、そして、砦、要塞のように
なって、相手の次々と放って来る数々の矢を撥ね返します。
跳ね返るということは、反発・拒絶を意味します。
言葉で、いくら陳謝を繰り返しても、身体的動作/パフォーマンスで深々と平身低頭
しても、気感覚で反発・拒絶していれば、お互いの気・心が通い合う筈もなく、矢を放った
側は、やり場のない不満、苛立ち、憤怒 などを早大させるばかりです。
やはり、のこ場合、気 (気感覚)を使いつつ、気・心を一つにしながら、相互理解へ
努力することが大切でしょう。
とはいうものの、時には、反発。拒絶も必要です。
毒のある言葉、弁舌、理不尽な要求、悪意、誹謗中傷 などに晒された場合、
ネガティヴな言動は、気感覚が絡むと、本人がネガティヴな性向の持ち主であれば、
それと相俟って、ますます苛烈になります。
ですから、真面(まとも)に、無防備に受け止めれば、こころに深い傷を負います。
出来るだけ素早く気感覚を動員して身構えて、相手の攻撃を撥ね付け、撥ね返すこと。
’ 来る者は、拒まず、ではありません。 人は、勿論、言葉にも 気感覚の反発・
拒絶緑を発揮して、取捨選択することが大切なようです。
VI 気感覚の特色 (2)
―― その性能
以上、気感覚の性能を巡って考察・検討を試みて来ましたが、以下では、
その”性”について ーー いままでは、’能’ (=能力)についてでしたので、 ーー
つまり、性質・特性を浮き彫りしつつ、気感覚を特徴づけて見ようと想います。
気感覚の性質・特性を幾つかを挙げますと、
ⅰ) 無色 ーー 有色 (彩色)
ⅱ) 甘さ ーー 辛さ
ⅲ) 冷気 ーー 熱気
ⅳ) 濃 ーー 淡
ⅴ) 強 ーー 弱
ⅰ) 無色 ーー 有色 (彩色)
気感覚は、春の野原に、ゆらゆらと揺らぎ立つ陽炎のように、無色透明な場合が、
普通。
陽炎が、視覚的に可能なのは、質量感があるからのようですが、 気感覚の場合、
’ガス(気体)のような’ ので不可触として特徴づけられます。けれども、時には、
有色/彩色的なこともあり、見えるひとには見えるのです。
特定の環境や状況下で見えることが出来るようです。
中国武術/医術(健康法)の一つ、気功法の熟達者の方は、
赤や青の気焔 (=オーラ)が見えるそうです。 赤は、心臓、 青は、腎臓 が
弱っている場合。 確かに、健康や幸福感で輝いている人は、その輝きが
黄金色のオーラを放っているように見えます。
或る時、
胸の辺りが、黒い透明な雲 ーー あれは、オーラに違いありません ーー で
包まれておられる方を見掛けて、どうなさったのかと、驚き、心配したことがありました。
お身内にご病人を抱えていらっしゃって、心痛が深かったことを後で知りました。
’黄色い悲鳴、’ ’ 紅涙 (美人の涙)’ は、気感覚で彩色されたものと見てよい
よいでしょう。 ’黄色’ は、若い娘の甲高い声が、受け手の気感覚 ーー
を刺激して、色彩を帯びることになったのでしょう。
’黄色’ が、’赤’ にエスカレートすれば、精神状態は、危険信号。
’黄色’は、その前の警告かもしれません。
気感覚は、白色を放つこともあるようです。
白けたムード。 座(の雰囲気) が白ける。 ’白ける’ を広辞苑で調べ、一部抜粋
しますと、
しらける
【白ける】
① 白くなる。 「壁紙が___ ・ける」
② 負色(まけいろ)になる。 ぐあいが悪くなる。 間が悪くなる。
③ 興がさめる。 気まずくなる。 「 座が __・ける」
上掲語釈③ が、差し当たっての項目に該当すると見られますが、この時、放散
されている気/気感覚の色彩は、白色と想像されます。
だからこそ、みえる人、つまり、超視覚が鋭敏な人には、その色彩が見えるので、
そのばの雰囲気が ’白けた’ と表現されるのでしょう。
実際、大津波に巻き込まれて九死に一生を得られた方は、ご自身の身体から
出て来た(放出された)’白い帯’ の体験を語っていらしゃいます。
ⅱ) 甘さ ーー 辛さ
人との出会い、搗き合いが、楽しい、敢えて嬉しい・・・ 等。
’喜怒哀楽’ の内、’喜’ と ’楽’ の雰囲気的側面には、何処か甘さが漂います。
お互いの気/気感覚が、’甘さ’を醸し出し、振りまいているのです。
蜂蜜のような甘さ。 薔薇の香りの」ような甘さ。
甘さは、通常の5感覚的にも、超気感覚的にも、嗅覚的にも、超嗅覚的にも、
感受可能と想われます。甘美なムードを演出するために、様々な香水やオーデコロンが
用いられるようですが、本来的には、お互いが、甘い気(=オーラ)を放ち、それを
気感覚/超嗅覚で享受することで充分なのではないでしょうか? なかなかそうは
行かない... ということでしょうか。
他方、’辛さ’ は、
緊張で神経がピリピリ。 こんな時は、気/気感覚もピリピリ、辛く、尖っていること
でしょう。
’怒’ も同じ。 怒号、怒声 には、’辛さ’が強く放出されます。
怒気が、何時までも耳に残るのは、相手の’辛さ’を帯びた気(=オーラ)にこちらも
過敏に気感覚で感受して、そのまま残響しているからでしょう。 ’辛い’ 雰囲気も
少し甘さが加味されれ、状況は違って来るかもしれません。
喧嘩友達。
この種の人々の付き合いは、辛辣な言葉の応酬の中にも、何処か’甘さ’を漂わせて
います。 気感覚は、両刀遣いなのです。 もし、2人の間が、ギクシャクするようになる
ならば、甘さと辛さの均衡・調和が崩れて、 ’辛さ’が強くなっている証拠。 友情を継続
させたいのならば、時には、相手に甘い気感覚の触手を舐めるように、なだめるように、
伸ばすこと、優しく甘美な春霞を棚引かせるように相手を包み込むこと ...
そんなこと、嫌だ、出来ないということならば ーー 拒絶すると云うことならば、
友情の終焉を待つのみでしょう。
ⅲ) 冷気 ーー 熱気
冷ややかな視線、冷たい態度、冷淡な口調... などは、冷え冷えとした気/気感覚を
伴います。 真夏でも、思わずぞっとするような霊気を感じることは、多分、相手(対象/
物・人)が放つ気/気感覚の生起に直接触れてしまったからでしょう。
物理的な体温とは関係なく、心が冷えきった気感覚に作用しているので、真夏でも、
気感覚、この場合、超皮膚感覚が突き付けて来る霊気を感受してしまっているのです。
熱弁をふるう人。熱く語り合う人々。 発言・発話された言葉それ自身が、熱い
わけではないようです。 その時放出される気/気感覚が熱を帯びているのです。
情熱は、気感覚と相俟って身体を熱くし、心をもっと熱く燃え上がらせ、それが周囲の
雰囲気を否応なく熱くします。
興奮状態も同じ。 人々の熱気が、それそれの気/気感覚から、霞よりも、霧のように
放散され、やがて、大きな一つの塊 (バルーン)のようになり、人びとは、陶酔状態に
陥ります。
激昂した時も、やはり、熱い気/気感覚の噴出です。 熱気の爆発。
’頭から湯気を立てる’ ーー この場合、頭からの湯気は、お茶瓶から湯気が噴き
出ている湯気のようには見えません。 目視は出来ないようです。 この湯気は、
気感覚による憤怒の表出、表現。 頭上高く吹上げ、まるで活火山のように噴火
しているのです。 近づくと、火傷をするかもしれません。 気を付けたほうがよい
でしょう。
中間のあたたかな (暖かな、温かな) 気/気感覚。
励まし(の言葉)は、何よりも暖かい気/気感覚が大切、必要です。
励ましが、逆に、これは、度々あるようですが、相手をますます窮地へ追い遣る
結果となる場合は、差し伸べられた気感覚の手が、冷たく沈んで、陰鬱、或いは、
反発力・拒絶反応が強く、突き放してしまう、搗き離されたと感受された故だと
いえるでしょう。
春の陽炎のような、ご飯から立ち上がる湯気のような、柔らかな、暖かい気感覚で
包み込みながら、心/気持ちが、’一つになること’が、出来れば、励ましも大きく
生きて来ると想われます。
ⅳ) 濃 ーー 淡
濃厚な雰囲気。 気/気感覚が、濃霧のようにたち米、相手を包み込み離さない
状態。
熱愛中の恋人たち ーー お互いがそのような状態にある場合、どちらか一方の
気/気感覚が冷めて、収縮しなければ、そのまま。 冷めてしまえば、
’蜜月時代’は終わりをつげるでしょう。
親の期待も、濃くなればなるほど、子の等身大(の力量・実力)を超えます。
高望みは、濃厚な気感覚で、’アメーバのように’ なって、ぴったり忍び寄り、
’蜘蛛の糸のように絡みついて、子を苦しめ、悩ませることになります。
溺愛は、気感覚による濃厚な愛情表出を伴って、子を窒息させてしまいかねません。
’淡い望みをかける’ ということがありますが、相手 ーー それが誰で
あろうとも ーー に対して、その程度 (淡い) が丁度良いのではないの
でしょうか。
’淡い’ の場合。
春の微風のようなので、のんびりと暖かく落ち着きます。
’温かいお人柄’ と称賛される方は、淡い気/気感覚を優しく湛えておられる方。
余計な緊張感を惹起しないので、何の蟠り (わだかまり) も生じる気/気感覚も
濃くならず、あっさりとし 「君子の交わりは、淡(あわ)きこと水の若(ごと)し (広辞苑)」 という格言も対人関係
では、気感覚は、濃くなく、でっしゃばらずに、控え目が相応しいという意味ではない
でしょうか。
ⅴ) 強 ―― 弱
' 気掛り’ も同じような働き。相手の行動を同種の気感覚で探査・探知して、
その結果、心に留めながら、継続的に保留し、その成り行きを記感覚的に見守る
ということと云えるでしょう。
:: 気が置けない ::
この状態は、緊張しなくてもよい、リラックスした精神的な緩和状態。
気感覚も、春霞を棚引かせるような、淡い、柔らかな雰囲気を、おおらかに、
のんびりと醸し出しています。 ’気楽’ も、ほぼ同じでしょう。
人が、’気を許す’ 場合も、相手の気感覚が、淡く、ゆったりとしていて、
緊張感・警戒心を溶解してくれます。 ことらの気感覚も落ち着くことでしょう。
:: 気が利く ::
この成句は、そのばに相応しい適切な判断をし、素早く対応・行動することに
あるようですが、’適切な判断’ には、目や耳で得た5官/感的情報では不充分で、
それらに加えて、気感覚で感受した情報が必要です。
例えば、相手の雰囲気が冷静で穏やかなのに、何処か不満足。
このような場合、気感覚を動員して ―― それは、状況に応じて、超皮膚感覚で
あったり、超視聴覚であったりしますが ―― 、 その原因を探り、その上で、
相手が何を望んでいるか、を把握して、進んでその野老の実現のために努力を
惜しまないといううことが、’気が利く’ ということをいえるでしょう。
’気を利かせる’には、気感覚をレーダーやソナーのように張り巡らせ、働かせて、
相手の状況を察知すること、時には、磯巾着(いそぎんちゃく) の触手のように、
或いは、アメーバのように、伸張・伸縮を繰り返しながら、出来るだけ細部にまで、
手抜かり無く、行き届かせつつ、相手の心/気持ちを読み取り、行動すること。
相手の心/気持ちを気感覚で、’読心’するどとが、’気を利かせる’ 骨(こつ)と
云えるでしょう。
:: 気が知れない ::
この場合は、気感覚も、’気が知れなくて’ もう ’お手上げ’という状態。
こちらが、声を上げても、頓珍漢な反応。 手を差し伸べても、無反応。気感覚も、
無活動。 ですから、こんな場合は、こちらが、幾ら気感覚を働かせても、空振り、
空回り。 相手がこちらに反応しないのですから、捕らえ処がなく、何を考えているの
やら... 嘆息ばかりが聞こえてくるのみでしょう。
相手は、気感覚を引っ込めたまま。 殻に閉じ籠って、 蝸牛状態。
こんな場合、気感覚(のすべて)を使って相手の殻をこじ開けて、気感覚を引きずり
出すか、製缶、あるいは、諦めて退場するかでしょう。
:: 気詰まり ; 気兼ね ; 気後れ ::
’気が詰まる’ のは、相手の押し (圧力/プレッシャー)が強くて、こちら側は、気感覚
が委縮。 伸びやかさを失ってしまい、気も心も希薄になった感じで、窒息しそうな
状態。
’気兼ね’ も相手に対して、気感覚を発揮するよりも、 萎縮させて、気を小さく
するばかり。 思うように、気感覚も気も働かすことが出来ない状態。
’気後れ’ も、相手(の気感覚)に圧倒されて、対抗出来ず、気感覚は、手も足も
出せずに、怯んでしまっています。
:: 気にする ::
この場合、 気感覚のうち、超視聴覚が、’虫の知らせ’の形を取ります。
この’虫’は、悪い方向を予知・予感するので、本人は、気が気でなく、気でなく、仕方が
ないでしょう。
:: 気に留める ::
気感覚は、超視聴覚 プラス 超皮膚感覚で、触手を舐めるように伸ばしながら、
丁寧にものごとの仔細にまで至り、情報を掬い上げ、心に留め置きます。
:: 気難しい ::
この種の人は、自分の考え/気持ちに固執し、他人との同町を嫌うので、その分、
気感覚は、 先鋭化します。 地震の周囲に超皮膚感覚を有刺鉄線のように
張り巡らせ、人を寄せ付けず、殻を作って、祖中に閉じ籠ります。
けれども、この殻は、案外、脆く、壊れやすいようなので、逆に、一層硬直化し
頑(かた)なになりがち。 本人は、ますます気難しい構えを崩さなくなります。
:: 気配り ; 気遣い ; 気働き ::
思い遣りは、相手の心を障り気なく、察知することから始まります。
最初に、新興宗教の勧誘のエピソードから*:
____________
* 以下で取り上げるエピソードは、全て、前掲拙論
≪<間>と対人関係≫ の事例/エピソードの
再検討ですが、その掲載順列は順不同です。
ご了承下さい。
____________
:: 新興宗教の勧誘 ::
或る日、突然、麗さん(仮名)の所へ、藍さん(仮名)から厳しい追及の電話が掛かって
来ました。
麗さんは、舌鋒鋭く、居丈高な態度。 しかも、短く、荒い吐息で、’押しの一手’ で
押し捲り、状況は、どんどん‹間詰まり› の方向へ。
この時の麗さんの気感覚は、先鋭化して、激化。 彼女の発言は、まるで、毬栗、
どころか、手裏剣が飛んで来るような勢いで、しかも、粘着力の強力な’蜘蛛の糸’ の
ようになって、藍さんをぐるぐる巻きの金縛り状態に。
一方、藍さんは、あまりのこと(不意打ち)に、驚き、為す術もなく、彼女の気感覚は、
すっかり萎縮。 状況を探知・探索するレーダー的・ソナー的超視覚も縮かんだまま。
<間>も、藍さんに押され続けて、詰まりっ放しでした。
そして、次の日:
藍さんの態度は、豹変。 彼女の周りは、柔らかな、優しい春霞のような雰囲気で
満たされ、呼吸も穏やかな長息で、<間>も、ゆっくりと置かれました。
彼女の気感覚的金縛りから解き放たれた麗さんは、彼女の気感覚にわざわざ頼る
までもなく、冷静な判断から事情を把握しました。
藍さんの息遣いと気感覚の使い分けは、新興宗教への勧誘のためのものだった
のです。
麗さんは、直ぐに対応。
静かで、穏やかな長息を使いながら、彼女の気感覚/超皮膚感覚を鉄壁のように、
そうでなけれが、強い遮光型のカーテンのように強化して、聴覚は、耳を超聴覚も塞いだ
ままにしながら、藍さんの執拗な説伏(勧誘)を躱したのでした。
:: 友情 ::
2人は、悠揚せまらぬ態度。 ゆったりとした雰囲気。
2人の気感覚もふんわり、柔らかな靄のよう、気になりません。
でも、 時には、小さな衝突も。
この場合は、<間>も狭くなり、呼吸も短く、荒くなっています。
友達の一人の期間核が先鋭化して、相手に、薔薇の棘のように鋭く突き刺さりそうに
なれば、相手も気感覚で防御態勢に。 ヴェールかカーテンのような気感覚/超皮膚感覚で
自らを包んで、暫く様子をにます。
<間>は、出来る限り距離を取って、広げて、呼吸も、静かで、おとなしい長息に。
相手の気持ちが落ち着いて、気感覚もふんわりと和らいだ処で、ことらもし越し甘味の
雰囲気を醸し出しつつ、相手を包みこみます。
2人の気感覚は、何時ものように ーー それが、’ありのまま’の姿なのですが、
融合して、’一つになり、’ 友情の復活です。
と云っても、2人の間は、ぴったり、 ぴったり密着・粘着状態なのではなく、どちらかと
云えば、淡い霧のような、粒子が少し荒く、雑な感じ。 風通しがよいような雰囲気を
取り戻し、其処に安住します。
保持している筈です。
:: 同情 ::
悲嘆・悲哀の烈しい表現は、その場合、短い、浅い胸式呼吸で、 適当な<間>も
崩れ、 気感覚は、特に、超皮膚感覚が、ささくれ立ち、刺々しく、先鋭化・激化します。
適当な <間>が消滅していkるので、隔てる距離がなく、悲壮な叫びは、人々の心に、
鋭く差し込み、深く食い込み、居たたまれない気持ちにさせます、
周囲の人びとの気感覚を悪しく刺激して、超皮膚感覚め、同じように、ささくれ立ち、
刺々しくなって行く反発力を惹起し、人びとは、態度を硬化します。 その結果、
同情よりも強い反感を買ってしまうので、相手の気持ち(悲哀/辛さ)を感受し、気遣う
優しさは、最早、霧散してしまっています。
他方、
悲嘆・悲哀を淡々と表現する人は、気丈に自身の気持ちを押し殺し、大袈裟に ーー
と見える ーー 振る舞いを刺し控えます。
気感覚は、穏やかで、おとなしく、淡い春霞がたなびくような雰囲気を漂わせている
だけなので、周囲の人びとの気感覚も、不当に刺激され、苛立つことなく、静かに
感受・感応出来ます。
息遣いは、静かな、穏やかな長息。 <間>も穏やかに構成・維持されます。
周囲の人びとも、静穏な一時(ひととき)。 <間>の出現に、気を取り直して、
やはり、柔らかな優しい、春霞のようなブランケットの超皮膚感覚で包むように
寄り添います。 人びとは、一つになり、心の安寧が訪れることでしょう。
同情が、芽生え、その成立が想われる時と云えるでしょう。
:: 雄弁家 ::
多弁家は、呼吸が、短く、浅く、荒い。
気感覚は、反発力を強め、相手の考え・感情を押し退け、払い除け、追い払うように
働きます。 そこで、超皮膚感覚をブランケットかべっド・スプレッドのように広げて、
相手 (聴衆)に覆い被せて、殆ど窒息状態にしつつ、’一人舞台、’ ’独断場’ を
創り出します。 <間> は、多弁家のためだけの存在と化します。
雄弁家は、発言と発言の間に、小休止の<間>を置きます。
これは、静止/静観の時間で、雄弁家は、この間、ゆっくりと穏やかに、柔らかな
ブランケットのような、或いは、優しい春霞のような気感覚を聴衆に向かって投げかけ、
聴衆の緊張を解すように心掛けます。
そして、聴衆が、雄弁家の演説に反応し始めると、自ら、自身の超皮膚感覚を
収縮して、聴衆の気/気感覚の受け入れ準備にはいります。
と同時に、別の超感覚 ーー レーダーやソナーのような ーー を発動して、
隅々まで気を巡らせ、聴衆の様子を感受し、探知・探索し」ます。
雄弁家の演説は、一方的なものではなく、聴衆とのやり取りの力関係は、一見、
雄弁家の側が、圧倒的に優位にあるように見えますが、気感覚の世界では、
’押したり、引いたり’と云う、ほぼ互角の関係が展開されていると見てよいでしょう。
雄弁家が、滅弁の余りに、鋼鉄の大波のような気感覚で聴衆に迫ると、聴衆は、
’気後れ’ を起こして、気感覚を萎縮させ、雄弁家の強硬な気感覚を押し返す
反発力を消失させてしまいます。
会場は、停滞・沈滞。 空気も淀んで、白けた雰囲気が漂い始めます。
こんな場合、場合によっては、ということですが、聴衆の中から、’合いの手(あいのて)’
が入ります。
’合いの手’ を入れる人は、気感覚を打ち上げ花火のように、或いは、手裏剣を
を飛ばすように発して、会場の弛んだ雰囲気を引き締める役目を担い、果たします。
’合いの手’ を入れる人は、周囲の人びと(聴衆)の間に、色々な気感覚、例えば、
超皮膚感覚や趙視聴覚 などを張り巡らせつつ、人びとの思いや気持ちを探知・
察知しながら、’ 合いの手’ を入れる時機(/タイミング)を待ち、掴みます。
’合の手’ を入れる人と雄弁家は、前もって仕組まれる場合があるようですが、
どちらにせよ、両者の意志伝達は、気感覚的な’ 以心伝心、’ ’ 阿吽の呼吸 ’
でしょう。
両者とも、受信機のような、レーダー/そなーのような 気感覚で連絡を取りながら、
殆ど瞬時に、’ 合いの手’ を入れる時期を相互了承出来るようです。
’合いの手’をいれるという行動/パフォーマンスを通して、演説家と聴衆の間で、
気感覚上の遣り取り(’ 押したり、引いたり’ )が、さらに、展開されると、両者の気心が
知れるようになり、聴衆同士’の間にも親近感が、生まれ、そして、会場の全員 (’合い
の手’ の行動者/パフォーマー も一緒に) の気感覚が、触手のように伸び、触れ合い、
握手をしているかの状態になれば、そのように結束/結合した気感覚は、陽炎のように
ゆらゆら揺らめきながら、融合して、一つの大型バルーンになると想われます。
今や、演説は、最高潮に達し、会場は、熱気に包まれ、雄弁家は、自身の演説が、
成功裡に終わったことを確信することを確信することでしょう。
:: 初対面のぎごちなさ ::
初対面のぎごちなさは、’気詰まり’ そのものと云えるでしょう。
<間>の取り方もぎごちない。
'気詰まり’な時は、人の気感覚は、殆ど働きません。 ですから、一層ぎごちなく
なって、もう悪循環です。 短い、浅い胸式呼吸 ーー 初対面では、大概そのよう
ですが ーー を穏やかな、柔らかい長息に切り換えること。 そう出来れば、気感覚が
働き出すでしょう。
春霞のような気感覚/超皮膚感覚に、ちょっと甘さを匂わせながら、 相手を包み
込めば、相手もまた、呼応して、同じ様な気感覚の雰囲気を造り出すようでしたら、
そして、2人が、1つのバルーンのように雰囲気に包まれているような感触を持てば、
初対面のぎごちなさは、消滅して、楽しい出会いの序曲が、聞こえて来ることで
しょう。
もし、それが無理ならば、更に、親近感を誘うような気感覚でアピールし続けるか、
諦めて、さっさと気感覚を引っ込めて、次の機会を待つことにする法が、賢明かも
しれません。
:: 突っ張る人 ::
肩を怒(いか)らす姿勢は、気感覚をみの回りに七重、八重に張り巡らせ、
ときには、鉄条網・有刺鉄線のように先鋭化させています。
一分の隙のない構え、着こなしも同様。
気感覚をウエット・スーツを着装したような、あるいは、コルセットできつく締め付けた
ようなので、見ている側、たぶん、本人も、生きも気も詰まりそう。
こんな気構えの人は、ちょっと風穴があけられると状況が変わります。
けれども、その方法は、さまざま。その都度、状況次第ですので、’万能薬’はない
でしょう。
唯、云えることは、本人が、穏やかな、優しい、長息を使いながら、隙 ーー 一分位の
ーー を作ること。 長息で期間核が、夜話楽なると、突破口が開かれ、雪解け、
春の訪れが予想されます。 自然体 への転身も可能となるでしょう。
対人関係的場面では、
本人が、ほっと息を吐いた時、張り詰めた記感覚が弛緩する時、などがあります。
そんな時が、チャンス。
こちらも、長息で適当な<間>を取りながら、できるだけ、柔軟な気感覚で感応・
対応します。そうではなくて、こちらの側も刺々しい気感覚を働かせてしまい、折角
開かれた風穴を目掛けて、短剣を振りかざすようなことにでもなれば、大変。
スパークして、花火が散ります。
だからと云って、相手の超気感覚的鉄条網/有刺鉄線に触れないようにと気遣って
いるいるばかりだと、気疲れしています。 その場合は、敢えて、気感覚を作動
せずに静観しましょう。 無理強いは、禁物です。
反対に ーー
:: 頑張らない人 ::
このタイプの人は、2種類あるようです。
一つは、気が、だらしなく、弛んで、伸びきったゴムのような、不活発、 無活動。
このような人には、気を利かせて離れるか、近づかない、或いは、勇気づけるか、
元気を鼓舞するか ... 後者の場合でしたら、気感覚は、ふんわり、優しく寄り添う
ように、ゆるゆる相手の心に浸透して行きます。 決して、強い、鋭い、気感覚を突き
付けないこと。 行き過ぎは、厳禁。
相手の心の襞(ひだ)まで、気を回し、気感覚を至らせ、プライバシー を侵害したり、
弱点を刺激、逆鱗に触れて、思わぬ方向に、相手の気感覚を誘発してしまうことも
あります。
相手が、’ 頑張らない人’ の場合には、より一層深刻な気落ち (鬱状態)に
追い込んでしまう結果になってしまうかもしれません。
もう一つのタイプは、自然体の人。
’ありのまま’ の態度で現れますので、気負いはなく、緊張感も、ほどほど。
だらけてしまわない程度。 ですから、
気感覚は、伸びやかで自由。 その都度、その状況に応じて、様々に、変化/変幻
し得る可能性が開かれています。 相手も、同じように、自然体を保っていれば、
相性は、多分、ぴったり。
自然な、有るがままの姿で、出合えれば、これに越したことはないでしょう。
<間>も、息遣いも、穏やかな、ゆっくりとした長息。 気感覚も、いずれの超感覚が
動員されても、素都度、その状況に応じたものが、展開されるでしょう。
2人の間には、たとえ、ひとときであれ、平穏な世界が開示・実現されると想われ
ます。
:: 反抗期の娘と母親 ::
2人の間の烈しい言葉の応酬 ―― 口喧嘩には、 気感覚も参戦の模様。
お互いの超皮膚感覚が、ボールから毬栗のようになって、投げ付けられ、 ’雪合戦’
状態に。 或いは、もっと先鋭化して、弾丸のように、雨霰と降り注ぐかも...
2人共、気が強いので、気が立って、気が取り上せているのです。 このような場合は、
一息(ひといき) 入れて、適当な <間>を置くように努めますと、気感覚も、
柔らかく、優しく、春霞のようなもの、雰囲気を放ちます。
どちらか一方が ーー 母親であれ、娘で荒れ ーー そう出来れば、他方も、
釣られて、連れて、宥和な雰囲気を醸し出すようになり、母娘の間には、’雪解け’
の日も近くなることでしょう。
もし、娘が、反抗的な態度を続けるようでしたら、’奥の手’ があります。
無理は、しないこと。
帯や蜘蛛の糸のような超皮膚感覚を投げつけて、ぐるぐる巻きにするのではなく。
娘を解き放ち、気感覚を、つまり、超皮膚感覚から 超視聴覚、或いは、遠隔操作に
切り換えます。
娘は、解放されて自分の思い通りにことが運びそうで、晴れやか、嬉し気。
けれども、母親は、超視聴覚、つまり、レーダーやソナーを駆使して、娘の行動を
追跡しているのですから、もし、娘に行き過ぎがあれば、軌道修正するように
指示し、軌道内へ誘導します。
娘は、それが、母親からの指示・誘導だとは気付かすに ーー 期間核の利点 ーー
自分自身の考え、意志と思い、行動します。 自分自身の考え/意思であれば、納得して
行動出来るのです。 反抗期の娘は、他人(大人)、特に、母親の押しつけは、何事に
よらず、殊の外、強い」’拒絶反応’ を示すようです。
ですから、不可視的で、不可触敵なき間隔を駆使すれば、きっと、望ましい結果を、
母親は取得することが出来るでしょう。
以上の事例をめぐる気感覚的解釈を、実際に適用することは、 ちょっと無理 ...
そう上手くは行かない、としか見えないかもしれませんが、それは、既述のように、
現代社会が、ありとあらゆるストレスを孕んでいるからです。
もし、ストレスから解放されれば、 ーー 例えば、自然への回帰などによって ーー
身体内の気の循環がよくなり、気感覚は、蘇るでしょう。 或いは、遠距離にある事物
の感受、知覚を、通常の5感の気感覚を働させて行こうことが出来ます。
最後に、
人間よりも、まだ自然性、野性性を残し、持っている仔猫ちゃん親子の事例*を振り
返っておきましょう。
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* 因みに、この事例は、前掲拙≪<間>と対人関係≫
第Ⅲ節でご紹介したものです。
併せて、ご参考下さい。
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:: 仔猫ちゃん ::
ニャ~~ァ、 ニャ~ァ
可愛い声と共に、私の足元に身を擦り寄せて来た黒猫の仔猫ちゃん。
その小さな頭を撫でようとした途端、
ギャャーー、ギャ-ギャ と鋭い警告音。
道路を見下ろすと、下は、小公園。 滑り台の脇の砂場に大きな雌猫さんが、
仔猫ちゃんのママでした。
通常の5感では、決して見えない下方の距離・位置。 それなのに、どうして、ママは、
彼女の頭上はるか上の道路での出来事を察知出来たのでしょうか。
その時、不思議でたまりませんでした。 謎でした。
今は、その謎が、解けたような気がします。
仔猫ちゃんのママは、気感覚を働かせ、張り巡らせていたのに違いありません。
ママは、彼女の仔猫が、彼女の通常の5感的世界から遠く離れていても、
気感覚/超視聴覚で、我が子の存在(位置) と行動を探知・追跡していたのでした。
そして、私は、ママの気感覚的 ’探知網’ に気付かす、触れてしまったのです。
残念ながら、私の気感覚は、全然作動せず、ママの鋭い、威嚇的な鳴き声を、
通常の5感的感覚、つまり、聴覚で捕らえ、反応していただけでした。
私は、驚いて、仔猫ちゃんを撫でようとした手を引っ込めました。 一方、
仔猫ちゃんは、といいますと、 慌てて、ママの処へ戻ろうとはしませんでした。
’ いいのよ、そこで遊んでいても・・・、
でも、人間には、あんまり 近づかないで。’
ーー これが、ママからのメッセージのようでした。
仔猫ちゃんは、相変わらず、無邪気で、人懐っこい態度は崩しませんでしたが、
もう私の足元に、体を摺り寄せて来ようとはしませんでした。
仔猫ちゃんも、また、気感覚/超視聴覚を働かせていて、ママからのメッセージ、
言いつけをしっかりと感受し、従ったのでした。
気感覚が働かず、麻痺していたのは、人間の私だけ。
私も、もう少し’動物的勘’を取り戻して、仔猫ちゃん親子のような気感覚/超視聴覚的
世界で暮らしてみたいと想いますが、そんな夢想、願望は、現代社会では、やはり、
無理なことなのでしょうか。
最後に、今まで試みてきました気感覚の関する考察・検討の
結びとしまして ーー
気感覚は、第1、2節で扱いました呼吸法と相俟って、対人関係の日常世界に立ち
現れる<間>の置き方・取り方/維持・構成を基盤として支える主要素と想定され
ました。
換言しますと、<間>は、気感覚 ーー 呼吸法も勿論 ーー 無くしてあり得ない、
成立し難いものであり、この意味で、気感覚は、<間>の置き方・取り方/維持・構成
の必須要件といえるでしょう。
なのですが、
気感覚は、実際には、捉え処がない...。 <間>と同じ。
捕らえたかと思えば、捉え損ねてしまう、ユニコーンのような...。
今後の課題の一つとして、気感覚のより可視的な、可触的は客観化が挙げられますが、
無理やり推し進めれば、姿や実質も崩れ、異形なものに変容する虞が危惧され、
ある程度、成功すれば、今度は、気感覚の持つニュアンスが損なわれ、剰え、その
神秘性のヴェールが剥ぎ取られ、何だか虚しさばかりが残響するのではないかしら、
と索漠たる思いい囚われそうになります。
気感覚の探求には、<間>のそれと同様に、遠く、この上もなく、困難、難儀な
道程が待ち構えているようです。
ほんとに、捉え難く、難しい・・・
:: 激化性; 先鋭化 ::
メキシコのとある街角の出来事。
TVの映像で目撃しました。
大きな猫君に追っかけられて、ビルの隅っこに追い詰められました。
絶体絶命の鼠ちゃん。 いきなり振り返って、大きな猫君目がけて猛反撃。
きがしれない
【気が知れない】
その人の気持ちが理解できない。
きがつく
パーソナル・カタカナ語辞典を調べますと、
フィトンチッド
〔fitontsid ロシア〕
樹木から発散される殺菌力のあるhoukousei物質。
森林浴は、これを浴びることを目的の一つとする。
聴衆を見渡します。 <間> が、取られています。