団野 薫
 団野 薫
  
  エスノメソドロジー的研究を巡って  ( II )
 
 
                 ーー  当り前の概念を中心に
 
 
 
   上掲の拙稿では、Garfinkel のエスノメソドロジー的研究の構想を概観、検討・敷衍
 
  してきました。
 
    簡略に云えば、エスノメソドロジー的理論は、日常生活世界の常識的知識に準拠する
 
  人々のありふれた、普通の諸活動、即ち、実践を対象とし、それは、Garfinkel的社会学の
 
  見解からは、”内側”からと反映性 の2つの基調理念で特色づけられています。
 
    具体的な手法 ーー つまり、エスノメソドロジー的方法論 ーー としては、
 
   1つは、日常的な場況/場面の転覆を図るという”実験” を行い、それをリポートする、
 
  つまり、アカウントするという手法。
 
   もう1つの代表的な手法は、解釈のドキュメント的方法 であり、この場合の解釈
 
  の過程を、過去想見的ー未来想見的可能性の図式 と 待つ/待機する(静観する)
 
  ことにおいて捉えられ、亦、この過程は、管理、操縦、或いは、精錬、調整を含すると云う
 
  意味で、操作的 と呼ばれています。
 
    更に、それは、修正 も意味しますので、変更、変化が予想され、継起的達成、延いて
 
  は、基準化の内実の解明も期待、想定出来ると考えられます。 が、
 
  Garfinkelの”実験”では、最終的には、原状回復、つまり、社会的秩序の維持の再構築に
 
  落ち着きました。
 
   従って、Garfinkelのエスノメソドロジー的研究、或いは、理論に底流する基礎理念
 
  は、日常生活世界の常識的知識にに基づく社会的秩序の維持に在ると解釈することは
 
  可能と考えてよいでしょう。そして、何よりも、彼の研究対象が、「日々の生活のありふれた
 
  活動」⋆ 他の表現では、「日常生活の常識的世界」⋆⋆に生起する事象/出来事である
 
  つまり、日常生活世界に生きる人々、社会成員の活動/実践にあり、彼等の行動は、
 
  日常世界の常識的知識に準拠していることに最大の注目を払わなければならない
 
  でしょう。
 
                 ⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 1.
 
                ⋆⋆ Ibid., p. 36.
 
 
   ここでは、この常識的知識の2つの特徴 ーー GarfinkelがSchutzに依拠しつつ、
 
   展開した、《当り前と思っている》、《他の人々と共に知られた》、 及び、《知られて
 
   いるが、気付かれない》 として浮彫りした特色を巡って幾らかの検討・考察を進めて
 
   参りましょう。
 
 
        《 当り前と思われている 》 
 
     そのための準備段階として、Schutz, Alfred の論述を引用致しましよう。
 
    「 〔それは、〕 原初から、慣れ親しみ(familiarity) と前-知見性(pre-aquaint-
 
    anceship)の地平の対照であり、 〔それは、〕質疑さることのないものとして(the
 
    unquestioned) 、”更なる告示があるまで”  ("until further notice") 、只、
 
    当り前と思われている(just taken for granted)が、何時でも質疑され得る
 
    (questionable) 手許の備蓄知識である。」⋆
 
    「反証があるまで、当り前と思われている。」⋆⋆
 
    
                           ⋆Schutz,Alfred, Collected Papers I、
 
                p.7.  他に、p.74; p. 95.
 
               ⋆⋆ Ibid., p. 12。  他に、p. 13, p. 19, et al.
 
 
      このように、Schutzは、 《当り前と思われている》 という理念を、知識(常識的
 
   知識)のみならず、彼のそれは、日常生活世界に生きる人々の多様な体験に
 
   対して ーー ”反証提起があるまで”と留保とともに、提唱しています。
 
   Garfinkelは、上掲のSchutzの理念を踏襲しながら、《当り前と思われている》と
 
   いう日常的現象を、彼自身の言語で、つまり、《当り前と思われている》を《当たり前と
 
   思っている》と変換、解釈しつつ:
 
    「・・・実践的行為と照査の妥当性について、成員は、・・・ を当り前と思って
 
   いる。」⋆
 
   「成員 ・・・は、反映性を当たり前と思っている。」⋆⋆
 
 
               ⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 8.
   
              ⋆⋆ Ibid., p.30. 他に、p.35; p.37.
 
 
    Garfinkelは、人々の《当り前と思っている》現象を、日常生活世界に生起する
 
  様様な事象/出来事、成員の諸活動に当て嵌め、そのように把握した上で、まず、
 
  ’質疑されていない’ (=当り前と思われている/思っている)現象を、超-普通な、
 
  (extreordinary)、’奇想天外な’発展を提示します。
 
    即ち、より省察しますと、
 
  Garfinkelは、エスノメソドロジー的研究において様々な”実験”を日常生活世界
 
  のありふれた、普通の日常場面での常識的知識、或いは、背景の期待への故意な、
 
  意図的な挑戦、背信による一時的な覆し/転覆を試みたことが第一に挙げられます。
 
   このことは、彼が、「当り前と思われている」日常世界を、それへの故意の”実験”
 
  を突き付けなければ、当り前と思われ続ける ーー 更には、「他の人々と共に
 
  知られ」、 「見られているけれども、気付かれない」まま ーー というように、それが
 
  揺るぎない信念として《当り前に》想定されているかのように、恣意的な解釈が許さ
 
    れるならば、見えます。
 
    けれども、身近な日常生活世界を見渡し、少し具体的に観察しますと、そこで
 
  織り成す’普通の人々’ の生き方、つまり、日常生/性は、Garfinkelの”実験” を
 
  待つまでもなく、何処か危い、儚い、移ろい易い ・・・ 現象のように見えて来ます。
 
   「当り前と思われている」 日常活動の常識的世界は、その”当り前さ”を維持
 
  することが、意外にも難しいのではないのでしょうか。つまり、この世界は、それほど
 
  (にまで)「当り前と思われている」世界ではなさそうです
 
   彼方此方に、”当り前と思われていなくなっている、” ”当り前でなくなって
 
   いる” 非・日常生/性 が見え隠れすることに覚醒します。このような 非・日常生/
 
   性は、非・自明性 及び、非・恒常性 を含蓄すると想定されます。このことを理解する
 
   ためには、今一度、《当り前と思われている》ことの意味を詳察しなければなら
 
   ないでしょう。
 
    「当り前に思われている」 は、「当り前のことと思う」 (to take for granted)
 
    の受け身形。 英和辞典を引きますと、grant の英和成句として2種の語句が挙げ
 
  られています。
 
 
               take O for granted
 
                             ⑴ ・・・ を当然のことと思う
 
                 ∦ Stop taking things for granted.
 
                                    物事を当たり前のこととしておろそかにしては
 
                    いけません
 
                ⑵  〔割愛〕
 
 
                take it for granted
 
                              ・・・ だということを当選のこととみなす
 
 
   「当り前(と思う)」 は、「当然」と意味解釈されています。 ですので、「当り前」
 
   と 「当然」、そして、更に、日常的に、亦、用意に連想されろ「自明」、「自明の理」
 
   を広辞苑で調べますと、
 
 
              あたり‐まえ
 
              【当り前】
 
              ①そうであるべきこと。 当然。 「そんなことは__だ」
 
              ②ごく普通であること。 なみ。 「__の服装」
 
             
              とう‐ぜん
 
              【当然】
 
              道理上からそうあるべきこと。 あたりまえ。
 
               「__の権利」 「__ そうなるだろう」
 
 
              じ‐めい
 
              【自明】
 
               何らの証明を要せず、それ自身ですでに明白なこと。
 
             
              じめい‐の‐り
 
              【自明の理】
 
               わざわざ説明する必要もなく、おのずかr明かな論理。
 
 
 
 
   「当り前」と「当然」は、広辞苑では、意味内容的に相関関係が強く認められ、
   
  その使用は、お互いに代替可能性が想定されます。
 
   他方、「当り前」と「自明」/「自明の理」の理解のためには、Schutzの「反証〔が提示
 
  される〕まで (until counterevidence)」 という想定が指摘されてよいでしょう。
 
  ということは、「当り前」は、条件付き(「反証まで」)の自明性と解釈されるからです。
 
  が、これら3つ語句、当然、自明、自明の理は、Garfinkelの著書には見当たりません
 
  ので、指摘するだけに止めておきましょう。
 
   更に、進んで、「当り前」をジーニアス和英辞典を引きますと:
 
     
                あたりまえ(の) 【当たり前の】
 
                ➀〔当然〕
 
                  natural
 
                                  (論理的・人道的に)当然の、当り前の
 
                  reasonable
 
                                   道理にかなった、 もっともな
 
                 ②〔普通の〕
 
                  usual
 
                                   通常の
 
                  common
 
                                  〔限定〕 並の、普通の
 
                 ordunary
 
                 〔通例限定〕 普通の
                  
                                と語釈されています。
 
 
   「当り前」には、その意味選択肢①『当然」の他にもう1つの意味選択肢② 「普通の」
 
  が含意されていることが判明しました。そこで、 続けて、 「普通の」を調べますと、
 
 
                ふつうの 【普通の】
 
                normal
 
                               標準; 正常; 普通の、通常の
 
                usual
             
                いつもの、通常の
       
                ordinary
 
                              〔通例限定〕普通の、通常の; 正規の
 
                common
 
                              普通の、ありふれた
 
                general
 
                             〔通例限定〕普通の; 大多数のひとに共通する
 
               average
 
                             〔限定〕 平均の; 普通の、並みの
 
                                  と説明されています。
 
       
    もう一度、、広辞苑へ立ち還って、ふつう【普通】を調べますと、
 
 
               ふ‐つう
    
               【普通】
 
               ①ひろく一般につうずること。
 
               ②どこにでも見受けるようなものであること。
 
                 なみ。 一般。 「__の成績」 「__に見られる」
 
                 「___六時に起きる」 ↔ 特別・専門
 
 
              なみ 【並】
 
              ①ならぶこと 〔以下割愛〕
 
              ②たぐい。 同類。
 
              ③通性。
 
              ④特に良くも悪くもないこと。 普通の程度であること。
 
              ⑤ 〔割愛〕
 
    
    ふつう【普通】は、「一般」、「なみ【並】」 と特色づけられます。
 
   以上を踏まえますと、
 
   「当り前と思われている」には、大まかに、2種類の語釈が識別されます:
 
      当然 と 普通。
 
   英言語の、to take O for granted /taken for granted の特色は、当然 で
 
   代表され、 普通 は、よりくだけた日常語のnormal, usual, ordinary,common,
 
    general, averageが列挙され、Garfinkel的には、ordinary の他にusual,
 
    familiar, commonplace, routine が使用されています。
 
   そして、「当り前と思われている」 現象の主要特色、自明性 と恒常性 は、
 
  ーー どちらかといえば、 前者では顕示的に、後者では潜在的に認められます。
 
  換言しますと、自明性と恒常性が、少し薄れ日となり、意味的にずれて来る傾向が
 
  あるようです。
 
   このことに留意しつつ、自明性については、既に検討しましたので、恒常性について
 
  広辞苑を調べますと:
 
 
              こう‐じょう
 
              【恒常】
 
              定まって変わらないこと
 
 
   あまり詳しい説明とは思えませんので、もう少し詳しく知るために、恒常を 恒 と
 
  常 に分解して、漢字源を検索しますと:
 
 
              恒
 
              〔割愛〕
 
              常読: コウ
 
                〔割愛〕
 
              <意味>
 
               ①{名・形}つね。いつもかわりなく張りつめていること。
 
                 いつも一定しているさま。
 
               ②{動}つねにする(つねにす)。いつもたるみなく張りつめる。
 
                     〔用例割愛、以下同様〕
 
               ③{動}つねにする(つねにす)。 いつもそうだと考える。
 
                 いつもそうだと考える。ふつうのこととみなす。ふだんの
 
                 ならわしとする。
 
                ④{副}つねに。 いつも。
 
 
               常
               
                〔割愛〕
 
               常読: ジョウ/つね/とこ
 
                〔割愛〕
 
               〈意味〉
 
               ①{名・形} つめ。いつまでも同じ姿勢で長く続くづこと。
 
               ②{名} つね。いつまでも長く続いて変わらない物事や道理。
 
               ③{副} つね。
 
               ④「不常=常ならず」とは、いつもこうとは限らない、の意。
 
               ⑤{副}とこしえに (とこしえに)
 
               ⑥{形}普通の。 並の。 (対)⇒奇⇒特。 「常識」 「常人」
 
                   〔以下割愛〕
 
   
   という解説で、ここでの、つまり、日常生活世界での当り前に関して、恣意的に
 
  把握すれば、恒常は、いつもかわりなく、一定して、いつもそのようで、いつまでも、同じで
 
  長く続くこと。
 
   ですから、常④に挙げられている語句: 「不常=常ならず」 に注目しますと、
 
  《当り前》は、”恒常的でない” を意味すると解釈されます。
 
 
   以上のように検討・考察しますと、
 
  《当り前と思われている/思っている》 日常生活世界の«当り前» は、決して恒常的
 
  ではなく、一定・不変な状態を維持しているわけではないようです。
 
  更に、当り前と思われている日常生の常識的知識は、いつの間にか、当り前では
 
  なくなっているという現象/状況が目撃されます。
              
     «当り前»の自然消滅。 
 
      或いは、当り前は、最早、当り前に非ず、«非・当り前»。«没・当り前»。
 
   そして、当り前は、消滅します。
 
   ところで、このような日常生活の常識的世界の、《当り前と思われている/思って
 
  いる》過程を修飾している副詞: ’いつの間にか’、’最早’、或いは、後出のような
 
  ’その内’は、この過程が’流動的な’特色を含蓄することを表現しているとみてよい
 
  でしょう。
 
    力動的というより、むしろ、流動的: fluid.
 
           ジーニアス和英辞典 に依れば、
 
 
               fluid
 
               ①流動体の、流動の(↔solid)
 
               ②〈約束・計画・意見・状況などが〉 変わりやすい(changeable)、
 
                 流動的な、不安定な
 
               ③  〔割愛、以下同様〕
 
               ④ 
 
                          と説明されています。
 
 
    この説明(特に、②と③)は、当り前の過程の流動性とは、ここでの文脈関係と
 
   意味内容的によく相応し、適合し、表現していると見てよいでしょう。 更に、
 
   このことは、当り前は、その現象の状態よりも、成り行き、経緯、換言しますと、
 
   過程において現れると想定されますので、過程的 (processsual) とも云える
 
   でしょう。
 
    このように見ますと、 《当り前と思われている》現象は、いつでも、いつまでも、
 
   当然のこととは思われず、自明性にも、恒常性にも裏打ちされず、可変的で、流動的。
 
   何時でも、何処からでも、’栄枯盛衰’する過程だと解釈されます。
 
    この意味で、日常生活の常識的世界は、Garfinkel的発想/エスノメソドロジー的
 
   構想に沿えば、”結果”(product)よりも”過程”(process)、そして、なによりも、
 
   継起的達成過程 (process of on-going acomplishment) として把握する
 
   ことが出来るでしょう。 
 
     つまり、
 
    《当り前と思われている/思っている》 日常生活の常識的知識の世界は、
 
   それほど自明的でも、恒常的でもなく、流動的。 可変的 ーー 変化・変遷
 
   すること。 
 
     このことは、«当り前‐化» を意味します。それは、更に、 «非・当り前化» と
 
   «新・当り前化»の過程を含蓄します。 非・当り前化は、それまでの当り前な、
 
   或いは、常識的行動の後退、衰退、消滅の過程に特徴づけられ、時には、
 
   没/無・当り前化 となることも推察、想定されることも考えられます。
 
    新しい常識的知識の出現、創出の過程を指し、それは、新規/新奇な現象が、
 
   旧い常識にとって代わり、人々の意識生へ侵入、普及され、一般化される時に
 
   生起すると見ることが出来るでしょう。
 
       このような《当り前化》の<非・当り前化ー新・当たり前化> の過程を、今少し、
 
  明細化しますと、
 
   ⅰ) 先ず、日常生活の常識的世界に、一見揺るぎない、一定・不変な≺当り前≻の
 
      状況。
 
    ⅱ) ≺当り前≻の動揺。 何らか内外の要因の出現、衝撃によって、≺当り前≻の世界
 
       の足元が危うくなり、瓦解、崩壊、消滅の可能性が生じます。
 
    ⅲ) 最早、、或いは、いつの間にか、それまでの≺当り前≻は、≺当り前≻に非ず。
 
        《非・当り前化》の状況です。
 
    ⅳ) この時、新しい(新奇/新規な)考え、意見、行動に表示される、新しい常識
 
       が登場。
 
    ⅴ) この新常識が、人々の間で相互確認され、合意(同意の共有)が達成、
 
       獲得されれば、新しい当り前の定着が想定されます。
 
         《新・当り前化》の出現です。
 
 
  以上のように《当り前化》過程の特色を踏まえた上で、実際な事例を幾つか検討して
 
  参りましょう。 このことは、私達が、いま、ここで、生き、暮らしている、日常生活の
 
  常識的(知識)世界に関わる諸現象を、ランダムに抽出し、その検討を試みることを
 
  意味します。
 
 
     着物や草履など。
 
   1950年代から60年代までは、特に、ご年配の方々の和服姿は、当り前のこと
 
   のように見受けられました。
 
    その後、欧米系ファションが、ご年配層にまで浸透、ーー これは、ファション性
 
   よりも洋服の着易さに在り、和服の牙城を堅守なさっていらした方々にも、遂に、
 
   洋装の方が優勢となり、当り前となりました。 
 
    偶に、和装の方をお見掛けしますと、’まあ、珍しい・・・ ’
 
              嘗て、当り前だった光景を懐かしく想い出すばかりです。
 
      ≺当り前≻の《非・当り前化》現象の1つの事例。
 
 
    お辞儀。 出会いの挨拶。
 
   親しい間柄での挨拶。 深く頭を下げ合いながら、お辞儀をする風景。 この頃は、
 
   昔ほど見掛けなくなったような気がします。
 
    ハイ・タッチ(high five) やハグ(hug)が際立ちます。
 
   これは、昔、何処にでも見掛けることのあった、ありふれた日常的生活世界の
 
  当り前の振る舞い/パフォーマンスが廃れ、最早、当り前に非ず、≺非・当り前≻ となり、
 
  新しい挨拶の様式、米国風が取り入れられ、従来の和風に取って替わりつつある、
 
  新しい当り前化、≺新・当り前化≻の兆し、登場と認めてよいでしょう。
 
   このような傾向 <非・当り前化ー新・当り前化>は、食事(文化)にも、より歴然と
 
  現われています。
 
 
      朝食の場合:
 
   嘗ての和食 ーー ご飯に、お味噌汁、お漬物、目刺し ‥等という代表的な
 
   献立は、いつの間にか、或いは、気付いた時には、その日常的な«当り前» が
 
  蔭を顰め、パンにジャム、紅茶/コーヒー、チーズ、ハム・エッグ 野菜サラダ、etc.
 
  の洋食が、朝のテーブルを飾るようになりました。
 
   そして、この食事風景の方が、当り前と思われるようになりました。
 
      昔からの風習が廃れるということは、当り前と思われていた伝統的文化、行動様式
 
  が、残念ながら、衰退へ方向づけられdることになります。
 
    けれども、
 
   現在(いま、ここ)に目を移せば、
 
    当り前と思われている日常的場面でのそれに ーー ’いま、ここ’ の日常行動
 
  に視点を構えますと、新しい当り前の潜勢力を見透すことが出来ると云えるでしょう。
 
  と云うことは、≺新・当り前化≻ の出現です。
 
    中には、<非・当り前化ー新・当り前化>の成り行き/過程が泥んでいる場合もあり
 
   ます。
 
   
        書物の横書き
 
   日本では、書物は、古来、縦書き。
 
   それが、今や、横書きの様式が、(拙稿も横書きですが、) かなり多く出現しています。
 
   その分、長い間、日常的に慣れ親しんだ伝統的な書き方が、≺当り前に非ず≻の日常が、
 
   当り前になっていることを意味します。
 
       当り前の常識的知識世界が消滅の危機に晒されているとも見えます。
 
     が、 実際は、ーー 例えば、
 
   某新聞紙上では、かなり以前から、横書きのコーナーが見受けられます。 でも、
 
   このコーナーは、大きく紙面を占領することはなく、一隅にそっと設けられたまま。
 
   これは、守旧派、縦書き派/読者層 ーー 筆者もその一人、どういう訳か新聞の
 
   横書きには馴染めないのです ーー の反対、抵抗感が根強く、国際化志向/嗜好
 
   の改革派の人々のの主張は、暗礁に乗り上げているようで、それでも、なんとか、
 
   紙面の片隅で、日々新聞に馴れ親しんでいる普通の人々(読者)にとって、横書きが
 
   支障なく、苦痛なく、当り前と思われる日常を希求しつつ、アピールし続けている状況
 
   が現状ということでしょうか。
 
    新聞紙上の縦書きが、当り前と思われるている常識的世界は、まだ、暫くの間
 
   持続するかもしれません。
 
    この事例は、当り前の世界は、時には、なかなかしぶとく息づき、生き延び、簡単
 
   には、破壊されないという一例とも把握され得るでしょう。
 
 
     新造語
 
    日常的行動の当り前化には、日本語の新造語の出現があります。
 
   日常生活場面で新しく創り出された言葉、語句。 《当り前》 の尺度では、到底、
 
   把握できない、類のもの。
 
     流行語は、特に。  
 
   普通、これらの言葉、語句は、直ぐに、短期間で終息。
 
   当り前と思われるまで使用される日常語にはなり切れないことが多いようです。
 
    けれども、なかには、広辞苑に掲載されるまでに、日常語としての市民権を
 
   獲得しているものもあります。
 
     例えば、
 
             だん⁻とつ
 
             【断トツ】
 
             (「断然トップ」の略)他を大きく引き離して首位に在るの俗語。
 
 
             ーー 1960年代に流行した造語と記憶していますが、いまでも、
 
             時折邂逅することがあります。
 
 
            るんるん
 
            陽気に浮かれているさま。
 
 
            ーー 発信源は、確か、少女漫画。 1970以降に流行し、もう
 
            廃れてしまって、見聞きすることは無いと思っていましたが、
 
            広辞苑のなかで、’るんるん’生き残っていました。
 
 
            ナウい
 
            《形》 (now を形容詞化っした俗語) いまふうである。流行の
 
            先端をいっている。
 
 
            ーー 和製英語とは、一風変わった英語とわごの合体。 1980年代
 
            新奇と驚きをもって若い世代に支持され、’今い’、’恐怖い(きょふい)
 
           など派生語も出現したようですが、もう、すっかり廃退したようです。
 
 
  これらの新造語は、最初は、そのことば、語句を愛用する特定の集団以外の人々の
 
  間では、突飛な、奇抜な、奇妙な、つまり、超‐普通な(extraordinary) 日常的言語
 
  として受け止められ、忌避と嫌悪感の対照にもなったりしますが、面白いに結びつく
 
  向きもあり、でしから、流行語となり、、」世間を席巻することとなり、そうなりますと、
 
  その言葉/語句が耳慣れてくるようになり耳障りさも消え、いつの間にか、当り前と
 
  思われ、常識的知識の一部となり、広辞苑に収録されるまでになった、ということ
 
  なのでしょう。
 
   けれども、 このような 《当り前》 は、流行と云う要素を内容とする限り、長続き
 
    しないのが運命のようですが ・・・
 
 
 
    今まで、《当り前化》の過程を、つまり、日常生活世界の常識的知識を巡る現象を、
 
   断片的に取り上げつつ、考察・検討しましたが、これから、少し角度を変えて、日常生活
 
  世界の特定の状況 ーー より具体的には、微視的社会現実レヴェルの社会相互
 
  行為/2人関係の場面を例解して参りましょう。
 
 
      エピソード: 嫁・姑問題
 
   ” ・・・あんな非常識な人とは、どう付き合って行けばよいのか、分からない ・・・”
 
      という身の上相談を坊新聞紙上で出会った事を想い出しました。
 
 
              主人公〔ヒロイン)は、嫁。
 
              彼女は、義父母(舅と姑)とは別居。すこし離れた処に、
 
              一家で暮らしています。
 
               或る日のこと。
 
              義父母は、車で外出することになり、その途中、彼女の家へ
 
              寄り道をして手土産を届けることにしました。
 
               この届け方が、いけない、なっていない、新聞の身の上相談
 
              へ投稿するほどに悲憤慷慨。
 
               届けに来たのが、義父(舅)だけだったからのようでした。
 
              義母(姑)は、車の中に座ったまま。
 
               ’私(嫁)に挨拶をするために、車を降りるどころか。窓から
 
              顔を出して会釈をすることすらしなかったのです。
 
               ’もう、こんな非常識な人達(舅・姑)とは、これから先どう
 
              付き合ってよいのか、分からない ・・・’
 
 
  相談のあらましは、こんな風だったと記憶しています。
 
   このエピソードをご紹介しますと、常識 と 非常識 の意味・区別が分からなくなり、
 
  戸惑いを隠せない方々も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 
  嫁の方が、遥かに、非常識な振る舞いをしているように見えるからです。
 
  この場合、彼女の方が、玄関か門の外まで出て、或いは、車に近づいて、お義母さま/
 
  姑の心遣い(お土産)に感謝し、お礼の挨拶をすべきではないのでしょうか。
 
   少なくとも、旧い世代の常識的知識に則れば、そういうことになります。
 
     けれども、
 
  この当り前と思われている常識的知識は、新し世代の嫁には通じません。
 
   ‹当り前›は、最早/いつの間にか、当り前ではなくなっているのです。
 
  当り前の≺非・当り前化≻の出現です。
 
   つまり、新しい世代の彼女(嫁)の常識からすれば、姑も、舅と一緒に手土産を
 
  携えて、私(嫁)に挨拶に来るのが、’当然’なのに・・・  嫁には、それが、当り前と
 
  思われている常識的世界なのです。
 
   ですから、’非常識な’ と糾弾されたのは、姑の方でした。
 
   常識(と非常識)の意味が少し不分明になってしまいましたので、常識 の
 
  常識的な/一般的な理解を得るために、改めて、広辞苑を調べますと、
 
 
              じょう‐しき
 
              【常識】
 
              (common sense) 普通、一般人が持ち、または、持つべき
 
              知識。専門的知識ではない一般的知識とともに、理解・判断力・
 
              思慮分別などを含む。
 
 
   因み、一般的 の一般 は:
 
              
              いっぱん
 
              【一般】
 
              ①広く認められ成り立つこと。 ごく当り前であること。 すべてに
 
               対して成り立つ場合にも、少数の特主麗を除いて成り立つ
 
               場合にも使う。 ↔ 特殊
 
               ㋐普遍。
 
               ㋑普通。 多くの普通の人々。「___会社」 「__受けのする
 
                 話題」 「__に公開する」
 
 
  Garfinkelの常識的知識は、ーー 明確な定義は見当たりませんが ーー 内容的
 
  には、常識 についての上掲の語釈と大差はないと考えられ、彼の使用する’常識的
 
  知識’ を一般的知識 と置き換た方が、一般的には、分かり易くなるかと想われます。
 
 
   ここでの事例/エピソード: 嫁・姑問題では、
 
  常識、つまり、「普通、一般人が持ち、持っているべき知識」/一般知識 は、機能
 
  していないようです。 最早/いつの間にか、嫁と姑という一般人、或いは、普通の
 
  人々の間で、当り前と思われなくなっています。
 
   先行世代(姑)と後続世代(嫁)には、それぞれ、異なる常識的知識が存在して、
 
  お互いの常識は、相容れない、食い違っています。 特に、嫁はその食い違いを
 
  容認・容赦出来ずに、声高に自身の常識を、埒を超えて、主張、振り回します。
 
  つまり、嫁は、姑との関わり、社会的相互行為場面という枠(埒)の外へ出て、より
 
  一般的な世界(新聞紙上の身の上相談欄)に向かって、’事の是非’、或いは、常識の
 
  ’是非’ を問い掛けます。 彼女(嫁)は、自身の信奉する常識(的世界)を、何の疑い
 
  もなく、当り前と思っていますので、姑の非(常識) を訴えている、ということです。
 
    ここでの最大の問題点は、
 
   嫁の新しい考え、彼女の’常識’が、常識として当り前と思われるものとして(一般
 
   的知識)として、人々の日常生活世界で暮らす普通の人々に受け入れられるか、
 
  受け入れられているか、にあります。
 
   もし、排除されれば(受け入れられなければ)、嫁の言動が、非常識となるでしょう。
 
 
     《当り前化過程における齟齬、衝突、葛藤・・・》
 
  以上のように、日常生活世界では、相互行為者各人によって当り前と思われて
 
  いる常識的知識を巡って当事者の間でずれ、食い違い、齟齬、不一致、或いは、対立、
 
  衝突、葛藤 ・・・ が生起することは、決して稀な、珍しい事柄ではないと云っても
 
  過言ではないでしょう。
 
   文化的背景/環境が異なる人々の出会いの経緯に様々な形での出現が目撃されます。
 
     例えば、カルチャーショック。
 
                   広辞苑に拠りますと、
 
               カルチャーショック
 
               【culture schock 】
 
               異文化に接したときに習慣や考え方などの違いから受ける精神的
 
               な衝撃
 
 
     因みに、culture shock をブリタニカ国際大百科辞典で検索しますと、
 
 
               culture shock
 
                            a feeling of confusion and anxiety sb may feel
 
                           when they live in or visit another county
 
               ________
 
                人々が、他の国で暮らしたり、訪れたた時に、感じる 当惑と
 
                不安な感情
                          〔翻訳引用者〕
                                ________
 
                          
   カルチャーショックをここでの文脈関係で敷衍しますと、
 
  相互行為場面の当事者が、それぞれ、当り前だと思われている常識的知識/一般的
 
  知識がそうでなかった、或いは、非常識である、という現実に遭遇、突き付けられ、
 
  当惑、不安を抱く衝撃を指すということでしょうか。
 
   このことは、外国ばかりでなく、同じ社会/文化的環境内の常識的知識に準拠して
 
  いる(筈の)人々の間でも生じる場合も、日常生活世界では、多く散見されます。
 
    先例の嫁・姑問題は、その一例です。
 
    
   常識が通じない ・・・ 
 
   どうして通じないのでしょうか。
 
   人々の常識は、各人の生活環境 (家庭、学校、友達、職場、地域社会、それから、
 
   世代も ‥ )の物理的/精神的、社会的/文化的背景、そこでのバイオグラフィ@
 
   更に、それらに準拠、影響されつつ、構成・構築される個人的な色づけで特徴づけ
 
   られます。
 
                 @ ここでのバイオグラフィ(biography) は、Garfinkel
 
                    からSchutzに遡る用語、バイオグラフィ的状況
 
                    (biographical situation) から派生しています。
 
                                     Schutzの定義を引用しておきましょう。
              
                    「人は、彼の日々の生活のいつどんな時でも、バイオグラフィ
 
                    的に決定された状況に自らを見出す。つまり、彼によって
 
                    定義された物理的、そして社会・文化的環境においてであり
 
                    ・・・ それは、歴史を持ち、全ての人々の以前の経験の
 
                    沈殿であり、彼の手許の知識の習慣的所有において
 
                    組成され、それ自身、彼の独自な所有である。・・・」
 
                     (Schutz,Alfred, Collected Papers I, p.9.、
 
                      翻訳筆者、以下同様。)
 
             
 
 
       個人的な’色付け’は、上記絵の引用文の後半箇所、特に、「・・・ 独自な所有」に
 
   描出されます。 それは、ほとが、一般的知識である常識〔的知識〕に独自性を
 
   供与することを意味し、人々のああいだには、個別な、異なる常識 (への解釈)
 
   産み出されます。
 
    そうなれば、ですから、其処では ーー つまり、個人の独自な発想や考え、意見
 
  が優越し、その結果、翻って、一般性の失効、欠落 している状況では、《当り前と
 
  思われている》常識の特徴が危うくなる、と云うことです。
 
      常識の危い安寧。
 
   普通の人々の馴れ親しんだ、身近な日常生活世界の常識的知識は、このような
 
  状況から成り立ってと看取しても過言ではないでしょう。
 
    と云うことは、既に例解しましたように、特に、今日では、案外、脆い。 彼方此方
 
  で亀裂が入り、溝が生じ、時には、飛び超え難い、修復不能に見える深淵、大きな
 
  隔たり、乖離 ‥等 様々な現象が出現します。 
 
    けれども、人々は、それぞれの信じ、準拠する常識の間のずれ、齟齬、不一致、
 
  にも拘らず、日常生活世界の常識的知識の’常識性’(/’一般性’)を維持しています。
 
       どうして/何故 という問いが投げかけられます。
 
   この設問を解明するために、先に挙げました常識的知識の孕む2つの主要特色
 
  の1つ、’他の人々とともに知られた’ : known in common with others⋆
 
  が手掛かりとなると考えられます。
 
 
                ⋆ Garfinkel, Harold, op.cit., p.37; p.93,et al.
 
 
     《 他の人々と共に知られている 》
 
   Garfinkel においては、「日常生活の常識的世界の常識は、その特色の1つ
 
   として、「他の人々と共に知れれた常識(敵知識)」を含蓄します。
 
    Garfinkelからの引用文を幾つかあげますと:
 
  「 ・・・ 日常的な出来事の慣れ親しんだ場面、他の人々と共に知られ、他の人々
 
   と当り前と思われている日々の世界」⋆
 
    「彼〔Schutz〕は、それら〔背景の期待〕の場面的属性を”共に知られ、当り前と
 
  思われている世界”」と呼んだ。⋆⋆
 
   「共に知られている環境」⋆⋆⋆
 
 
              ⋆Garfinkel, Harold, op. cit.,, p. 35.
 
                        ⋆⋆ Ibid.,p.37.
 
                       ⋆⋆⋆ Ibid., p. 93.
 
 
  上掲の論述を理解するためには、Garfinkelの独特な説明へ振り返る必要がある
 
  でしょう。
 
   Garfinkelは、説明します:
 
  「Schutzは、日常の出来事の行いについて人は、他の人が、〔彼と〕と同じ様に
 
  想定すると想定し、そのことを彼が想定するように他の人が想定し、他の人が
 
  同じことを〔同じ様に〕 彼について想定すると装丁すると想定すると、〔Schutz
 
  は〕 提案する。」⋆@
 
 
              ⋆Garfinkel, Harold, op.cit., p.55.
 
              @ 因みに、Garfinkelは、他所で(Ibid.,p. 51)、このような
 
                 発想の対象となる内容について簡素な、といっても難解な
 
                 列挙を試みています。ここでは、内容の検討は割愛して、
   
                  想定の形(式)(=過程)にといてのみ注目しました。
 
                 何故なら、私達の関心は、’他の人々と共に知られている
 
                 こと(”結果”) にではなく、”過程”の解明にあるからです。
 
 
 
     このような想定の想定の個人内交換には、’思い込み、’ ’思い入れ、’ ’思い違い’
 
  等の個人主観的要素の介入の危惧されます。 ’想定の相互性’の孕む陥穽です。
 
    相手に対する想定が、相手の考え(内側の状況)とそぐわない、食い違い、不一致
 
  にも拘らず、その現実には、気付かず、自身の想定を相手に投射し、当り前と信じる
 
  時、そのような思い込み、思い入れ、思い違い ‥ が誤解を招致することになります。
 
   最早、当り前と思われている、常識的世界は、機能不全、消失の憂き目に遭って
 
  いると云えるでしょう。
 
   私と同じように、彼女(相手)は思っているとばかり ・・・ 同じ様に思っていることを
 
  当り前と思っていたのに過ぎず、現実わh、当り前でない世界を開示しています。
 
  
   《当り前化と共同理解》
 
   けれども、
 
  誤解はには、’美しい誤解’もあります。 相手への想定(内容)が、’方向音痴’であった
 
  としても、それで、会話が成立し、対人関係に支障を来さない、それどころか円滑、
 
  円満に維持されるならば、誤解を’悪’と決め付ける訳には行かないでしょう。
 
     相手への想定(内容)が、’方向音痴’であったとしても、それで会話が成立し、対人
 
  関係に支障を来さない、それどころか、円滑に維持されるならば誤解を’悪’と極め
 
  付ける訳には行かないでしょう。
 
   誤解の幸せ、誤解していることの幸せ、誤解をそれとは気付かない幸せ。
 
  人々は、互いに自らの想定〔誤解〕に対して疑いをもたず、懐疑せず、当り前のこと
 
  と思い、相対し、会話し、付き合うことによって、円満な人間関係を維持しているとも
 
  見えます。
 
   むしろ、人間関係は、(幸せな)誤解の上に危うく、或いは、危ういながらも、成り立って
 
  いると見た方だ良いかもしれません。
 
   とは云え、当り前と思われている日常生活世界においては、やはり、相手への正しく、
 
  適正で、適切で、妥当な想定がなされ、誤解は、出来るだけ回避、排除されねばならない
 
  でしょう。
 
   そのためには、共同理解が望まれるます。
 
  既述しましたように、相互想定の過程は、人びとが、想像(/仮想)の中で相手に対して
 
  想定の想定の ・・・ と云う過程でした。
 
   このような発想に対して、共同理解は、「実質的な事柄についての共有された同意」⋆
 
  とGarfinkelは定義します。 彼は、更に、次のように述べています。
 
  「”共有された同意”は、規則に従って話されたものについての成員の認知を達成する
 
  ためのさまざまな社会的手法を指し、実質的な事柄のマッチングを云うのではない」⋆⋆
 
 
               ⋆Garfinkel, Harold, op. cit.,p.30.
                             
             ⋆⋆ Ibid., p.30. 原文はイタリック。普通の字体にしました。
 
 
  ”共有された同意”は、成員間の実質的な事柄/対象の認知を達成する過程と解釈され
 
    ます。 ちょっと立ち止まって、このような共同理解の状況を≺解釈のドキュメント的手法›
 
  に絡めて解釈してみましょう。
 
    Garfinkelは: 「この方法は、実際の現れを。推定される表層下の/根底にある
 
  パターンを、’ドキュメントしている、’ '指し示している、’ ’代表している’としている
 
  取り扱うことから成り立つ」⋆と論じています。
 
 
                             ⋆ Garfinkel,Harold, op. cit., p. 78.
 
 
  実際の現れとは、日常生活の常識的世界に生起する活動・実践を云い、表層下の/
 
 根底にあるパターンは、(相互)行為者が、相手の実際の現れを解釈する際にに相手が
 
 ’心に思うこと’を指し、究極的には、常識に準拠すると想定されます。
 
  そして、解釈の手法は、この表層下の/根底にあるパターンについての探索が試み
 
 られます。
 
 
   《共同理解と常識的知識》
 
  如上の解釈の手法を共同理解/‹人々と共に知られている›と云う日常的現象を
 
  先の≪嫁・姑≫の事例に照らしつつ、吟味しましょう。
 
 
   嫁は、姑の態度や行動〔=実際の現れ〕を礼儀知らず、非常識と解釈します。 
 
  彼女は、姑の態度/行動の表面だけを捉え、つまり、表層下の/根底にあるパターン
 
  を汲み取り損ね、捉え損ね、読み違えをした可能性が考えられます。
 
   ’姑は、非常識’ と ーー 嫁は、彼女が、「他の人々と共に知られている」彼女の考え、
 
  つまり、常識が、当り前のこととして機能せず、怒りを露わにしているのです。 が、
 
  実は、そうではなく、常識、非常識をとやかく言う前に、姑は、膝が痛かったのかも
 
  しれません。 老人性関節炎の兆候のように思えたので、大事をとって歩くことを控えて
 
  いたのかもしれないのです。
 
   ですから、姑の側の表層下の/根底にあるパターン(=’心に思うこと’ 即ち、彼女の
 
   気持ち/意見)は、’私が、気軽に動けないのだから、嫁の方から挨拶に出向いて
 
  来てくれれば、いいのに・・・  この頃の若い人は、気遣いが出来ないのだから ・・・’
 
                              と云うことでしょう。
 
   嫁は、姑の置かれた状況が察知、解釈出来ず、彼女は、姑の態度(実際の現われ)
 
  に怒り、玄関で届け物を受け取り、さっさと奥へ入ってしまったと想像されます。
 
  姑も、嫁の態度には、ーー 姑は、彼女の常識、多分、旧い知識:‹嫁は、姑に
 
  敬意を払うべき›という考えにこだわり、それを、「他の人々と共に知られている」と想い、
 
  嫁もそう想っていると想っていますので、納得が行かず、理解出来ないということに
 
  なります。
 
   2人とも、相手の表層下の/根底にあるパターンの探索、つまり、相手の気持ち/考え
 
   の探索に失敗しているようです。 2人の間には、意見の一致が認められず(相互不認知・
 
  不承知)。 齟齬が。 関係は悪化の一途です。
 
   この場合の意見の一致/齟齬は、帰属集団の文化(/常識)の差異から生じています。
 
  嫁の方は、彼女の準拠する集団、例えば、同世代の友達グループの常識に準拠し、
 
  姑も、また、彼女の信じる常識に依っています。 ですから、それぞれの常識が「他の
 
  人々と共にしられている」/共同理解を前提とする一般的知識が、異なり、相違し、
 
  食い違い、つまり、2人の準拠する常識は、同一ではないので、このことが、相手の
 
  気持ち/考えへの解釈、表層下の/根底にあるパターンの探索を、一層、困難にしている
 
  と云えるでしょう。
 
 
   嫁・姑問題について、もう1つの可能なエピソードの展開を:   
 
  嫁・姑2人は、同じ常識に準拠、従っています。 けれども、2人の間には、対立、齟齬
 
  が発生し、2人の間の常識は、その基盤的特色「他の人々と共に知られた」/共同理解を
 
  消失した場面の設定です。
 
    嫁が、姑の常識は、’そんなの、もう旧いわ、’ 受け入れ難い、と反発し、従って、姑の
 
  考えには、、彼女の態度/行動(実際の現れ)から、彼女の表層下の/根底にあるパターン
 
  を探索・解釈しながらも、撥ね返し、彼女の個人的な意見を ーー これは、必ずしも、彼女
 
  の同世代の常識を反映しているとは限らないと推定され得ます ーー 飽くまでも、
 
  主張します。
 
   姑の方はと云えば、無論、嫁の態度も意見も、表層下の/根底にあるパターンも、
 
  分からないまま。
 
     ’もう、どうして、今の人ってこんな風なのかしら・・・’ と嘆息を漏らします。
 
  嫁の態度/行動は、姑の理解力、そして解釈の域を超えてしまっているか、或いは、
 
  理解の拒否の可能性も視野に入ってくるでしょう。
 
   いずれにせよ、嫁・姑の間には、「他の人々と共に知られている」/共同理解に基づく
 
  常識は、存在しているとは想い難い。ということは、また同時に、2人の間には、最早、
 
  当り前と思われている常識の世界も消失、無くなっていると想像されます。
 
      没・当り前化とでも表現されてもよいかもしれません。
 
 
   もう1つもう1例考えられるエピソードは:
 
  「他の人々と共に知られている」常識的世界が、伝統てきな、幾世代も、受け継がれ、
 
  その共同理解性が嫁・姑関係で究極的には、維持される場合。
 
   嫁は、舅の心遣い(手土産持参)に喜び、感謝し、姑の不参加(という実際の現れ)
 
  のドキュメントされる処、即ち、姑の表層下の/根底にあるパターンを探索します。
 
   ’あら、お義母さまは、お膝の具合がお悪いの、’ 舅に嫁の様子を聞き、姑の〔行動〕
 
  パターンを知り、理解します。 この時、常識を支える共同理解は、無効になっていり
 
  のではなく、姑の個人的な事情の故に、一時的にそうなっているに過ぎません。
 
   ですから、
 
    嫁は、彼女の方から、車へ近づき車内の姑に声を掛け、お土産のお礼と膝へのお見舞
 
  いの挨拶をすることでしょう。 姑も、 この嫁の態度/行動(実際の現れ)から彼女のパター
 
  ンを知り、理解、解釈し、車の窓から顔を出し、笑顔で挨拶、’これからも無理しない
 
  ように気を付けるつもりよ、心配させて御免なさい、’ と優しく返礼します。
 
   聊か、理想的な展開のようですが・・・
 
  この場合、嫁・姑関係では、嫁が姑の個人的事情に理解を示し、嫁が、姑の常識
 
  (旧世代のそれ)へ歩み寄り、遵守した結果として、2人の間に同一の知識の共有が
 
  彼女達の常識は、「他の人々と共に知られている」という特色を確保することになります。
 
    逆に、姑が、嫁の考え、つまり、表層下の/根底にあるパターンを忖度・探索し、理解し、
 
  彼女(嫁)の常識に順応する場面を想定することも可能です。
 
   ’今の世の中、こんなものかもしれないわね。’
  
  ’嫁なのに・・・ と昔通りの嫁(のイメージ)を期待することは捨て、嫁が望むように、私が、
 
  車を降りて、手土産を持参すれば、よいのね。’
 
   (但し、この場合、姑には老人性関節炎の兆候が無い場合です。)
 
  舅は、嫁の常識の埒内に参加し、ですから、最早、非常識呼ばわりされることはもう
 
  ないでしょう。 彼女は、嫁の「他の人々と共に知られている」常識を支持し、それに
 
  従って思意しているのですから。
 
  
   上に素描された3つのタイプの事例/エピソードを概要しますと、 
 
  嫁・姑のそれぞれが、「他の人々と共に知られている」常識的知識において齟齬や不一致、
 
  衝突や葛藤 ‥など が、正規・出現し、状況は、混乱しました。 このような難事/トラブル
 
  を対処、解釈するための過程としては、‹忖度›という考えが指摘されてよいでしょう。
 
   広辞苑によりますと、
 
 
                 そん-たく
 
                 【忖度】
 
                 (「そん」も「ど」もはかるの意) 他人の心中をおしはかること。
 
                 推察。 「相手の気持を___する」
 
 
   忖度は、他人(相手)が、’心に思っている’ことについて想像・推察する思い遣りを含意し、
 
  それは、換言しますと、相手が見るように見、感じるように感じ、思うように思う、精神的/
 
  心理的な同一性(同一化)を体験しつつ、相手の立場(気持ち)を推し量るという過程へ
 
  到達することを含意します。
 
    このような忖度が、円滑に、適切に作動すれば、お互いの理解が深化されますので、
 
  嫁・姑間の齟齬、不一致や衝突、葛藤 は、かなりの程度で緩和、解消される方向へ
 
  進むと予想されます。 が、けれども、相手の立場は、理解出来ても、それはそれ、私の
 
  主張/意見は、一歩も譲れない・・・ となりますと、「他の人々と共に知られている」/
 
  共同理解は、危うくなり、消滅の危機に晒されます。
 
   嫁の常識は、彼女自身と多分彼女と同世代では、「他の人々と共に知られている」
 
  一般的知識と把握されますが、嫁の準拠・遵守する一般的な知識、すなわち、’嫁の
 
  常識’は、彼女(姑)によってたとえ理解されたとしても、認知、承認もされない状況を
 
  呈しています。そこには、当然、彼女と嫁との間には、お互いの主張/意見の相互承認
 
  は、発生せず、従って、2人の間には、共同理解に基づく常識は成立しないことになります。
 
   姑だけが、非常識と非難されるに能わず、非難の矛先は、或いは、嫁の方に、
 
  姑と同じ世代から、向けられるかもしれません。 いずれにせよ、ここにはもう、常識の
 
  「他の人々と共に知られている」世界は、消失しているとみてよいでしょう。 
 
    姑の態度/行動を非常識と糾弾する嫁の考えは、もしかしたら、姑と彼女の世代が
 
  受け入れ(認知・承認し)ないばかりか、嫁の世代でも、未だ、常識とはなっておらず、
 
  嫁の個人/私人的な発想に過ぎないとも、みることが出来ますが、嫁の主張はかなり
 
  強硬。
 
    姑の側も、彼女(姑)の常識を、たとえ穏やかな形でも、主張、固執し続ければ、
 
  2人の、それぞれの常識は、打っつかり合い、相剋し、このことは、それぞれの常識が
 
  相手にとっては、最早、常識ではなく ーー つまり、「他の人々と共に知られている」
 
  と云う常識の特色を際立たせる存在理由を喪失します。
 
      非・当たり前化が現象します。
 
    ここで、「当り前と思われている」ことについて、今一度、確認をしておきましょう。
 
   日常生活世界の対人関係/社会的諸場面では、常識は、「他の人々と共に知られて
 
  いる」いう特色の他に、「当り前と思われている」という特色が挙げられます。
 
   常識の、この特色:「当り前と思われている」、或いは、当り前性は、いつも、そこに、
 
  存在/現象するように’当り前と思われている’にも拘らず、実は、それほど堅硬、牢固
 
  でもないかもしれません。 いわば、蜃気楼のような、茫漠とした、曖昧なもの。
 
   けれども、
 
   1つ云ってよいと考えられますことは:
 
  相手の実際の現れ、つまり、考え/行動から、それがドキュメントし、指し示し、代表して
 
  いる「表層下の/根底にあるパターンをを探り、忖度/推察しながら、各々が準拠・遵守
 
  する常識にまで辿りつつ、相手の内側を理解する過程が、「当り前と思われている」
 
   常識の確認を意味するということです。
 
 
       《 当り前化と基準化 》
 
   このことを考察・検討するに先立って、‹秩序の維持› を振り返らねばならない
 
  でしょう。
 
   ‹秩序の維持›という観念は、Garfinkelの思想に底流するもの。それは、彼の
 
  ”実験”が、日常生活のありふれた場面を故意に覆し、最終的には現状回復にいたる
 
  状況をアカウントされていることに、つまり、秩序の再構築への視野が看取され、
 
  この秩序は、Garfinkelにおいては、’道徳的秩序’ を指し、それは、とりもなおさず、
 
  「他の人々と共に知られている」/「当り前と思われている」常識の遵守にあります。
 
   秩序の維持=常識の遵守は、継続的な達成過程であり、操作的構造を有し、
 
  マネージされ、操縦され、つまり、修正・修復される過程ですが、結局は、秩序の回復
 
  に落ち着くと解釈されます。
 
   とは云え、
 
  実際には、秩序(維持)を回復した場合、以前の古い秩序に対して齟齬、食い違い、
 
  不一致や衝突、葛藤‥など、微妙に、或いは、歴然と ーー 程度の差こそあれ ーー
 
  現れるようです。そうならば、そこにこそ、常識の再構成の余地や契機が、継起的達成の
 
  過程として見出されることになるでしょう。 
 
   上掲の事柄を、当たり前化の過程の概念で捉え直しますと:
 
  常識、「当り前と思われている」一般的知識が、当たり前と思われなくなり(非・当り前
 
  化)、人々の間で新しく提出・提案する新規/新奇な知識との接触、衝突などによって
 
  取って代わられ(新・当り前化)、更に、そのことが、常識の再構成の実現に繋がる
 
  可能性を含蓄するということです。
 
    
    《当り前化と常識の再構成》
 
  常識の再構成は、Garfinkelの思考、Ethnomethodology的術語では、基準化
 
    (standardization)⋆@と解釈してよいでしょう。
 
              
                ⋆Garfinkel,Harold, op. cit., p. 53;pp。66~67.
 
                @因みに、Garfinkelは、制度化という用語も使用しています。
 
                  「社会生活の事実についての常識的知識は、社会成員に
 
                  とって現実世界の制度化された知識である(Ibid.,p。53.)」
 
                  明らかにParsons,Talcott,(The Social System,op. cit.,
 
                                  p.38ff;p.51ff.)から影響と見られます。内容的には、
 
                  Parsonsの場合、制度化は、制度(価値規範体系)への同調
 
                  それからの逸脱への制裁)と把握され、Garfinkelは、それを、
 
                   基準化:常識の遵守と捉え直していると見えます。
 
 
   基準化は、簡単に云えば、常識の遵守。 ですが、ここで照明したい特色は、その
 
  過程、つまり、基準化の動態分析への飛翔です。
 
   では、基準化の動態的過程とは?:
 
   ここで指向する常識の遵守の過程、つまり、既に基準化された常識の〔そのままの、
 
  そのままの形/状態での〕維持を云うのではなく、したがって、「当り前と思われている」/
 
  「他の人々と共に知られている」一般的知識の遵守・維持を意味するのではありません。
 
  未だ基準化されていない、或いは、一般化されていない、つまり、「当り前と思われて
 
  いない、特定の、個別レヴェルの、常識とは異なる新規/新規な、いわば、個人/私人的
 
  な知識との遭遇の結果、様々な程度の衝突・葛藤、或いは、融合を経て、通じて、既存
 
  の常識の再編成されていく過程であり、それは、当り前化の過程を意味し、まさに、
 
  特定の新規な/新奇な個人/私人的発想や知識が’当り前と思われる’ようになる過程
 
  とも捉えることが出来るでしょう。 捉えるべきでしょう。
 
    
     《当り前化と基準化
               ーー 常識の遵守と再構成》
 
 
    このような’当り前と思われていない’特定の意見/知識の常識への編入、或いは、
 
  常識の再構成を解明するためには、先に検討しました、想定の相互性/相互想定
 
  を考慮に入れねばならないと思われます。が、この過程から、更に、一歩進展する
 
  必要があるようです。 つまり、相互想定のいま1つの内実的特色:相互承認の再照明
 
  です。
 
   相互承認は、2人(私と他者)の間で、2人が同一対象への志向/認知をお互いに承認
 
  する過程として把握してきましたが、このことを、ここでの文脈関係に限って、敷衍し
 
  ますと、
 
   それは、同一対象、たとえば、個人の私的発想や意見、その実践、或いは、特定の
 
  ’まだ当り前と思われて’新奇/新規な知識への志向/認知が、人々の間でお互いに確認
 
  されること、相互確認を含蓄すると考えられます。
 
   この相互確認は、合意 ーー エスノメソドロジー的構想に従えば、’共有された同意’/
 
  同意の共有 ーー という要件が請求され、さらに、合意には、エスノメソドロジー
 
  から少し離れて、意見の一致が含蓄されます。 合意/意見の一致は、その到達の道程
 
  において、人々(当事者)の間でいろいろな手法で話し合い、意見の交換が試行され、
 
  その際、特に、相手の状況(立場)への理解が強調されます。
 
   この他者(相手)への理解が人々/当事者の間で、共同の理解に発展した場合、つまり、
 
  共同理解とは、志向対象を相手の立場(状況)に身を置きながら、お互いに相手を思いやり
 
  考慮に入れつつ、確認・承認し、理解するということですので、その結果、意見の一致が
 
  認められるならば、相互承認は、達成され、合意に到達される、ことを意味します。@
 
 
                @ここで、ちょっと立ち止まって、想定の相互性と共同主観性
 
                  の関連性/違いを明細化しますと、まず、4つの構成素に
 
                  分解されます:
 
                      ⅰ) A=(同一)対象 
 
                      ⅱ) BとB’=当時者
 
                      ⅲ) C=(対象への)志向/認知
 
                      ⅳ) D=対象認知についての)BとB’の間の承認
 
                  想定の相互性は、対象認知の承認が、お互いの想定(/仮想)
 
                  によるものであり、更に、強調は、当事者BとB’の間の
 
                  相互承認の想定に置かれます。相互想定は、この意味で、
 
                  相互主観性の内実と見做されてよいでしょう。
 
                   他方、共同主観性は、同一対象の認知 ーー 対象Aと
 
                   当事者B: A→B;A→B’ が浮き彫りされ、その後BとB’
 
                   の間での相互確認、相互承認、つまり、合意/同意の共有が
 
                   実現した場合、成立すると考えられます。
 
 
    閑話休題
 
    基準化の過程へ戻り、以上を捉え返しますと、
 
   基準化は、共同主観性が、人々/当事者の間での対象志向/認知の想定の相互性
 
  とその相互確認・相互承認承認が対象の同一性をめぐって意見の一致、即ち、合意
 
  (/同意の共有)到達したとき、成立しますが、その際、志向/認知対象が、個人の特定の
 
  私的発想や意見であり、また、それが行動の規則・価値規範、つまり、行動の基準である
 
  場合、如上の共同主観的合意到達の過程を通して一般化される過程を意味します。
 
   それは、取りも直さず、特定の新奇/新規な発想や意見の常識への編入、更に、
 
  常識の再構成に他ならないといえるでしょう。
 
   そして、常識は、「当り前と思われている」一般的知識ですので、そこへ編入、再構成
 
  された知識は、当然、’当り前性’ で採色され、ここに、当たり前化の過程の実現と
 
  解明の鍵を見出すことが可能と考えられます。
 
   常識への編入、再構成は、常識の‹構造変動›を招致する可能性が示唆されます。
 
  それは、変更、変容、或いは、改革、革新‥ など様々な形をとります。
 
  いずれにせよ、殆どの場合、常識への編入、再構成は、抜本的な変化よりも、部分的、
 
  漸進的。 漸次的な変化。 部分的修正、追加、入れ替え、勿論、新しい常識の創出
 
  も見込まれます。
 
       そして、人々の間で合意が獲得/形成されなかった場合、その結果、新奇/新規な
 
  発想・意見は、却下、除外、箒されることになります。つまり、’当り前になり損ねた’
 
  ということです。ちょっと可哀想な感じもありますけれど・・・
 
   ここで、暫くの間、
 
   先に挙げた嫁・姑関係のエピソードを振り返ってみましょう。
 
  嫁・姑の2人の間で、挨拶の作法、仕方が問題(対照)になっていました。 この対象
 
  (=挨拶の仕方)についての発想/考えが2人の間で相違していました。
 
  嫁は、’姑が、私の玄関の前まで出て来て、お土産を持って来て、私に挨拶すべきなのに、
 
  路傍に停めた車の中に座ったまま、舅に持って来させるなんて! もうっ、非常識!’
 
   と、嫁は、自身の’常識’を振り翳し、姑(の常識)に反発、糾弾、憤慨します。
   
  一方、姑は、嫁は、どうして家から出て来て、私の処へ挨拶に来ないのかしら、
 
  この頃の若い人は・・・’ と、こちらも、嫁の常識を弁えない、不作法な態度に聊か
 
  不満の様子(と想像されます。)
 
   このような状況では、(認知・志向)対象の相互想定も相互承認も不可。 合意(=
 
  意見の一致/同意の共有)には程遠く、望むべくもありません。
 
   日常生活の常識的世界の当たり前性は、少なくとも、この場面では、見出せなくなって
 
  います。 とは云え、嫁は、姑との関係を断絶する積りはないようで、某新聞の人生相談の
 
  コーナーに ’これから、どう付き合えは、良いのでしようか’ と投書したのでした。
 
   基準化の過程へ達成のためには、幾つかの試みが可能です。
 
  その1つは、嫁が彼女の考え/作法 ーー 彼女には、常識。姑には、新奇/新規な、
 
  異質で、受け入れ難い、特定の発想/意見の正当性・正統性をどこまでも、主張。
 
   姑の側も、彼女の信奉する常識の保守、遵守に加えて、この、すでに、折り合いの悪い
 
  嫁とこれ以上の摩擦(=意見の不一致)を起こしたくないという消極的な’危機回避’の
 
  配慮が想定されます。 ですから、嫁には、距離(≺間≻)を置いて拒絶反応。 或いは、
 
  嫁の振る舞いを厳しく否定。
 
   これでは、2人の考えは、相違したまま。意見の一致どころか、’談判決裂’状態にも
 
  なりかねません。 基準化のために求められる合意も共同主観性も出る幕は、なく、
 
  嫁・姑の相克状況は、悪化の一途を辿ることになるでしょう。
 
   では、’嫁が譲歩する’という場合/方法は、どうでしょうか。
 
    嫁の譲歩。
 
    ’良く見れば、やっぱり、私の方が外へ出て、お義母さまにご挨拶すべきだったの
 
  かしら・・・’  嫁は、内省。
 
   相手(姑)に対するよりも、自身の発想を再考し、自己反省を試みます。 そして、
 
  彼女は、自身の主張」、姑のそれとは異なる、新奇/新規な知識の申し立てを放棄して、
 
  姑の’旧い’常識へ参入、義母の作法に従うという選択をします。
 
   姑のほうはと云えば、もし彼女が強硬派ならば、’嫁のあんな態度(作法)はとても
 
  許せないわ、’と嫁の常識の正統性/正当性は認められないと、排斥、排除してしまう
 
  でしょう。
 
    いずれにせよ、この状況下では、嫁が姑に合流すること ーー つまり、姑の常識
 
  と合致、遵守することによって、姑の’旧い’常識は、維持・存続の方向へ向かうことで
 
   でしょう。 ’旧い’常識は、非・基準化の過程を免れるということです。
 
    或いは、いま1つの方法は、姑の譲歩。
 
   嫁の譲歩に呼応して、’この頃若い人(嫁)は、あんな風に考えるのが当り前なのかもよ、’ 
 
   ’この間、お友達に嫁の振る舞いに、つい腹を立ててしまって愚痴をこぼしたとき、
 
   彼女(友達)は、そう云っていたわ。’
 
   姑は、相手(嫁)の見方(立場)に身を置いて、彼女の言動を理解するよう試みつつ、
 
  彼女(姑)自身の態度への再検討、再考慮、反省と将来への見通しをたてます。
 
  ’やっぱり、私も、届け物を夫に任せず、車から降りて、持っていけば、よかったのかも
 
  しれないわね、膝が少し痛くても・・・’
 
   こうして、姑は、嫁の発想、意見、或いは、彼女の常識 の ーー それは、姑のそれとは
 
  異なり、彼女にとって、新奇/新規なものですが ーー 受け入れが始まります。 そして、
 
  やがて、姑の常識へ取り込まれ、彼女の常識を部分的に変更、変容をもたらしつつ、
 
  編入、再編成されていくでしょう。 基準化の過程(の端緒)を意味すると見てよいでしょう。
 
   更なる方法は、
 
   嫁と姑の歩み寄りです。
 
   それは、2人が、直接顔をあわせ、話合いをし、折れ合いながら、妥協点/合意点
 
  を模索し、最終的には、2人の間には、意見の不一致から意見の一致への転換と
 
  いう状況が予想されます。  つまり、
 
    姑は、届け物をするために車を降り、嫁は、玄関を出て姑を出迎える、ことで決着
 
  されるかもしれません。 ’一件落着’の選択です。
 
  この場合の決着は、嫁・姑が、2人の間で、それぞれが自身への反省と相手への理解の
 
  作業を通じて、お互いに相手の考え、意見を配慮し、思い遣ろ気持が生じるという結果を
 
  招致すると想定されます。 それは、共同理解の誕生。
 
      そうなれば、挨拶の仕方(志向対象)の同一性に対する認知から相互承認へと導かれ、
 
  やがて、必然的に、、共同主観性へと発展すると見てよいでしょう。
 
    このことは、同時に、姑の常識にも、嫁の主張する常識にも属さない、新しい智識
 
   ーー 挨拶の仕方についての行動基準 (/価値規範的体系)が形成されたことを意味
 
   します。 基準化のいま1つの過程です。
 
    ここで、ちょっと、複雑な問題が生じます。
 
   この場合の基準化は、当たり前化、或いは、一般化を伴わないということです。
 
  基準化は、その随伴要件として当り前性を想定し、必要とし、逆にいえば、常識の
 
  当り前化は、基準化を俟って成立すると解釈しました、ですから、基準化の過程を
 
  検討したのでした。
 
   ところが、嫁・姑関係、社会関係の最小単位(ダイアド/dyad)では、基準化、即ち、
 
  当り前化に疑義が差し挟まれる状況が洞察されます。
 
   より詳しく明確化しますと、嫁と姑の意見には2種類が想定、指摘されます。
 
  嫁に関していいますと、まず、嫁の個人的なもの。独自の、嫁のみの発想。時には、
 
  独り善がりと受けとられることもあるでしょう。更に、嫁の帰属する集団の、例えば、
 
  同世代の友達が合意、共有する常識に準拠する意見(の主張)が指摘されます。。
 
   姑は、 姑の意見は、個人的というよりも、彼女ほ世代の。そして、多分、世間一般
 
  に支持されている常識に則したもの。
 
   ここで、
 
   もし(仮に)、嫁・姑2人の、異なる意見が、それぞれの帰属集団の常識に起源し、代表
 
  するならば、嫁・姑間の対立、相克は、2種類の異なる常識の’代理戦争’を 呈することに
 
  なるでしょうが、このことが、問題を複雑にします。
 
   何故なら、このような’代理戦争’は、たとえ、嫁・姑の間で決着がついたとしても、ーー
 
  既述のように、嫁・姑の間っでえ、共同主観的合意(同意の共有)が達成し、新しい行動
 
  基準/新知識が成立し、従って、基準化の過程が実現しても、それは、当り前化の
 
  必然的に含蓄することを意味しないからです。
 
   では、どうして基準化=当り前化を意味しないのでしょうか。
 
   常識は、端的に言えば、一般的知識とみられています。
 
   広辞苑によりますと、 一般は、
 
 
              いっ-ぱん
              【一般】
 
              ①広く認められ成り立つこと。ごく当り前であること。
 
                 〔以下割愛〕
 
 
  と語釈されています。
 
   嫁・姑の間合意され、基準化され、構成された新知識は、まだ、上記の語釈、’一般’
 
  という特色、’広く認められ、’成立、獲得するに至っていない、従って、一般化されてい
 
  ないということです。 ですから、たとえ、常識と見做されても、それは、嫁・姑の間だけに
 
  通じる2人の間でのみ’当り前と思われ’/ ’共に知られている’ 新しい常識に過ぎず、
 
  未だ、常識/一般的知識 の地位を獲得していないと考えられます。
 
   では、どのような状況下で、
 
      基準化は、当り前化するのでしょうか。
 
   一般 と云う言葉/語釈には、「広く・・・」という要件が、充たされねばならないと云う含意
 
   が看取されます。
 
    では、’広さ’ とは?
 
  これは、既に少し触れましたように、’他の人々’の数。
 
  第一義的に、人数的な’範囲・拡がり’として捉えられてよいと想われますが、
 
  それには、2人:ダイアド関係以上の纏まった人々(の承認・支持)を含蓄され、その一例
 
  として、専門家集団が挙げられます。
 
   専門家集団では、新しく呈出された報告諸(/新知識)は、やがて、共同主観的合意
 
  を獲得し、基準化され、常識となる可能性を孕みますが、この場合の人数的広さ、拡がり
 
  は、限定的なもの。 そこで成立、編入、再構成された新常識は、専門家集団のもの、
 
  内部で、私秘、私蔵され、集団へは、拡散されない、しない状況 は、多々存在する
 
  ようです。 そして、遺憾なことに、広さの規模は多様なので、その拡散性をめぐる人数
 
  的要件・条件を把握し、定義することは、(筆者にとっては)至難の業と認めざるを得ま
 
  せん。 いずれにせよ、
 
  新規/新規な意見や考え(知識)は、基準化が、一般化を伴ってこそ、「当り前と思われて
 
  いる」/「他の人々と共に知られている」常識(的知識)として成立することが、なによりも、
 
  指摘されてよいでしょう。
 
     基準化(+一般化)に依って成立した常識は、少なくとも、部分的には、ーー つまり、
 
  旧常識への編入/再構成された部分において、新生しています。  
 
       新しい常識の創生。
 
   それは、常識の構造的変化: 変更、変容や改革、革新を意味し、常識は、基準化の
 
  過程によって、時には、ゆっくり、おだやか、緩慢に、時には、烈しく、急速に、急激に、
 
  且つ、いつもーー 常に、不断に、絶えることなく、’新陳代謝’ を繰り返していると
 
  見てよいでしょう。
 
    このような’他の人々’(「と共に知られている」)と云う意味で人数的要件が挙げられる
 
  基準化の「当り前と思われている」と云う要件を、
 
    最後に、今一度、捉え返しておきますと:
 
   日常生活世界の「当たり前と思われている」常識的知識が、いつも、恒常的に、
 
  「当り前と思われている」のではなく、Schutz, Alfred も、「反証〔提示される〕まで」⋆
 
  と条件を付与していますように、状況次第で、当り前と思われなくなり(非・当たり前化)、
 
  新しい当り前性を呼び起こし( 再・新・当たり前化) 起こされると云う継起的達成の
 
  過程を意味するということです。
 
                  ⋆Schutz,Alfred,op.cit., p. 12.
 
     以上、
 
   本稿においては、当り前化の過程  ーー 新奇/新規ま考え、意見の旧常識への
 
  編入、再編成、或いは、新生、創生という基準化を通じて実現すると想定され、その
 
  過程を考察・検討しましたが、
 
   ここでの場合は、この過程を、2人:ダイアド関係を基軸に検討しましたので、既に
 
  指摘しましたように、2人の間の当り前化の過程には限界が生じます。
 
   ということは当り前化の考察を更に推進するためには、より広い世界、日常生活の
 
  常識的世界に生きる、普通の人々の世界へ立ち還って、何よりのまず、どの程度
 
  (人数)、どのぐらいの規模の人々によって意見、知識が’当り前と思われて、’ ’ 他の
 
  人々と共に知られて’ いるかという課題への挑戦を試みなけらばならないのですが、
 
  そのことは、他の機会に譲って、と云うよりも、力量不足を痛感しておりますので、この
 
  辺りで、本稿は閉幕とさせて頂きます。
 
 
              ご通読有難うございました。
 
                         深謝いたします。
 
 
                                       団野薫
 
 
 
 
 
        補足
 
           《常識的知識の広範性》
 
                ーー 2人関係の障壁の突破を目指して
 
 
   いままでの常識的知識 ーー Garfinkelの論考・提唱に従えば、「他の人々と共に
 
  知られ」、「当り前と思われている」知識 ーー の考察、検討を、嫁・姑問題の事例を
 
  挙げつつ、2人関係と云う微視的社会現実において展開して参りました。
 
    より具体的には、当り前化の過程 ーー 静態的には、当り前性の維持、つまり、
 
  常識遵守の過程、動態的には、常識の非・当り前化の過程 ーー を浮彫りする試み
 
  であり、全ては2人関係での現象・出来事に照準されました。
 
    けれども、
 
    嫁・姑問題の例解で、幾度か触れましたように、また、看取されますように、ーー
 
  普通、普段、人々は、孤島で、或いは山中深く、2人切りでひっそり暮らすということは、
 
  特殊な場合を除いて、あり得ない。 人々が、「他の人々と共に知られている」、「
 
  当り前と思われている」常識的世界で日々の生活を暮らしています。
 
   そうならば、
 
  私達は、どうしても、2人関係の常識的世界を打ち破り、凌駕する、より広い地平の開示
 
  に挑戦しなければならないでしょう。 
 
   そこで、今から、この重苦しいーー筆者にとっては、重荷過ぎると思えます ーー 課題: 
 
  常識の広がりと常識の及ぶ範囲 について聊かな考察を試みることに致しましょう。
 
   常識の範囲は、それが、どの程度広がり、或いは、普及、浸透しているか、と云う特色
 
  が考慮にいれられなくてはならないでしょう。
 
   そのために、まず、常識(の語釈)の検討を進めますと、 広辞苑では、
 
 
                じょう-しき
                 【常識】
 
                普通、一般人が黐、また、持っているべき知識。 専門的
 
                知識ではない。 一般的知識とともに、理解力、思慮分別など
 
                をふくむ。
 
 
  上掲の語釈では、一般という言葉が注目されます。 そこで、同辞典で引きますと、
 
 
                い-ぱん
                【一般】
 
                ①広く認められて成り立つこと。ごく当り前なこと。
 
                  すべてに他愛して成り立つ場合にも、少数の特殊例を除いて
 
                  成り立つ場合も使う。  ↔ 特殊。
 
                   ㋐ 普遍。 「__性に欠ける」 「今年は__に景気が悪い」
 
                   ㋑ 普通。多くの普通の人々。 「__の会社」
 
                      「__受けがする話題」 「__に公開する」
 
 
   上掲の語釈のうち、㋐普遍 と ㋑普通を摘出し、調べますと、
 
 
                  ふ‐へん
                  【普遍】
 
                  ①あまねくゆきわたること。  すべてのものに共通に存在
 
                    すること。
 
                  ②   〔割愛〕
 
 
                  ふ‐つう
                  【普通】
 
                  ①ひろく一般に通ずること。
 
                  ②どこにでも見受けられものであること。 なみ。
 
                    「__の成績」 「__に見られる」「__六時に起きる」
 
                     ↔ 特別・専門。
 
  
   上掲語釈を通じて、ここでの文脈関係に沿って、掬い上げますと、
 
  「ひろく認められて・・・」; 「あまねくゆきわたること」; 「ひろく一般に通ずること」;
 
  「どこにでも見受けられる」 〔下線引用者〕 という語句が列挙されます。
 
   更に、広がり、そして関連(性が想定される)言葉:普及、浸透、拡散へ踏み入れますと、
 
  
                ひろがり
                【広がり・拡がり】
 
                ひろがること。 また、その程度。
 
 
                ふ-きゅう
                【普及】
 
                広く一般に行われていること。 また、行きわたること。
 
                 「テレビの__」
 
 
               しん-とう
               【浸透・滲透】
 
                ①しみとおること。 しみこむこと。
 
                  「水分の__を防ぐ」 「広く __した見方」
 
                ②  〔割愛〕
 
              
               かく-さん
               【拡散】
 
                ①広がり、散ること。
 
                ②  〔割愛〕
 
 
  上掲関連語の語釈には、 ‹広がり›、‹広く›、‹その程度› が認められ、このことは、常識
 
  的知識が<広がり> という特色を物語っていると解釈されます。そして、それは、
 
   広がりの範囲は、常識的知識が、「他の人々と共に知られている」、「当り前と思われて
 
  いる」知識が、”どの程度の広がりを持つか” によって決定されるということを意味します。
 
   広がりは、たとえば、嫁・姑関係では、2人の間でそれぞれが準拠、遵守する常識的知識
 
  による対立、葛藤が解消され、意見一致が確認、承認され、同意の共有され、合意に到達
 
  し、その結果、創出された新しい知識が、常識となる可能性が潜むところに見いだされる
 
  といるでしょう。
 
   けれども、 2人関係では、
 
   そこでの常識の広がり、及ぶ範囲/程度は、基本的には、嫁・姑関係に例解されました
 
  ように、極めて狭小。特殊・特定的、個別・独特なものと考えられます。 常識的知識を
 
  特色づける、「他の人々・・・」の ”他の人々” は、嫁・姑関係においては、実質的、
 
  実際的には、唯一人ーー 嫁にとっては姑、姑には嫁一人なのですから。
 
     また、例えば、造語の場合、どの位 (範囲/程度)の数の人びと(の意識生)に普及、
 
  浸透すれば、新しい、新奇/新規な言葉は、常識として認知され、承認され、合意を獲得し、
 
  「他の人々と共に知られている」、「当り前と思われている」常識となるのでしょうか。
 
   如上の問いは、2人関係に間の常識が、この場合は、より大きな規模の、より包絡社会
 
  の常識へ広がり、及ぶ限界、限度を指し、且つ、この域を凌駕し、進展せねばならないこと
 
  を意味し、その解を、これから、社会現実に探索することに致しましょう。
 
   社会現実は、微視ー巨視的域において配置される多種多様な社会集団、そして、
 
  それらの社会集団は、2人/ダイアド関係を基軸に、謂わば、”同心円”を描きつつ、
 
  複雑に錯綜していると見做すことが出来るでしょう。 このことを別言しますと、所与の
 
  社会集団は、より規模の大きな、より包絡的な環境界/社会集団に包絡されていることを
 
  意味します。
 
   このような社会現実の状況下においては、所与の社会集団の常識の広がり、及ぶ範囲
 
  には、限界が現れ、限定的なものになり易いという傾向、傾性が現存します。
 
   ここでは、その、謂わば、ネガティヴな側面に着目しつつ、所与の社会集団の常識が、
 
  より大きな規模の、包絡的な社会集団において「当り前と思われている」、「他の人々と共に
 
  知られている」の常識となり得る可能性、状況への探索を試みることに致しましょう。
 
 
    « 郷に入っては郷に従え »タイプ
 
          広辞苑では、
 
 
              ごうにいってはごうにしたがえ
              【郷に入(い)っては郷に従え】
 
              (童子教による)人は住んでいる土地の風俗・習俗・習慣に従う
 
              のが処世の法である。
 
  新入者は、参入する集団 ーー どのようなタイプのものであれ ーー の常識に従うこと。
 
  当該集団の遵守が、無用な相克、対立を回避させ、新入者の成員性を高めます。
 
  つまり、同調行動の用ですから、逸脱すれば(遵守しなければ)、その都度制裁が加え
 
  られ、従わなければ、仲間はずれ。 集団からは排除、追放されます。
 
   常識の範囲は、旧態(旧体制)のまま。 広がることはないでしょう。
 
 
        « 一国一城 »タイプ 
 
   広辞苑に拠りますと、
 
 
                いっこく-いちじょう
                【一国一城】
 
                ①一つの国を領し、一つの城を有すること。 転じて、他の干渉・
 
                  援助を受けず、独立していること。 「__の主(あるじ)」
 
                ② 〔割愛〕
 
 
  常識的知識の衝突、対立は、集団内・外の環境界と深く関与しますが、特に、外的環境界
 
  との衝突の解消は、その集団の自立/自律度、換言しますと、分立性で決定されると
 
  考えられます。 つまり、どれほどの分立を実現しているか、 「一国一城の主」たり
 
  得るかということです。
 
    このことに関しては、一つは、集団の独立性が。 もう一つは、外的環境界/社会集団
 
  の許容性、更に、常識の規約性の曖昧さ、解釈の’自由裁量’が挙げられてよいでしょう。
 
 
    « 相互不干渉の論理 » タイプ
 
   この場合は、地域成員の独立性が、高い。
 
   地域社会では、家族と家族間の付き合いは、表層的で、緩やか。
 
  常識の”厳格な”遵守、は、たとえ、伝統的な習俗:冠婚葬祭についても、地域としての
 
 規約的な締め付けは無く、個・個人の立場、意志、状況が尊重され、独立性が保守され
 
  ます。 このような緩やかな付き合いの常識的世界の出現の基底にあるものは、
 
  価値体系の多様性、一律的な価値観の否定に在ると見られます。
 
 
    « サブカルチャー »タイプ
 
   ブリタニカ国際大百科辞典に拠りますと、
 
   
               サブカルチャー
               〔subculture〕
 
               社会の中心となる支配的な文化に対して、その社会の内部にある
 
               集団の持つ独立した文化のことで、下位文化、部分文化ともいう。
 
               支配的文化にとって周辺的と考えられる集団の属性を実体化した
 
               もの。 1960年代後半、アメリカの少年非行研究においてサブカル
 
               チャーの概念が用いられ、その後60年代青年文化をさすものとして
 
               普及した。  〔割愛〕
 
 
   このタイプの分立性は、特定の文化/社会集団が、より大きな、より包絡的な規模の
 
  文化/集団内に存在する独立した文化/集団として想定されます。 この意味で、
 
  ‹一国一城›タイプ的。
 
   外的環境界、換言しますと、当該集団を包絡する’上位’の文化/集団とは軋轢、摩擦
 
  を避け、時には、’棲み分け’ を行い、或いは、’〔抽象的な〕城壁’ を巡らし、独立性を
 
  維持、分立を果たします。 けれども、このことは、状況に依っては、差別化、差別意識
 
  を産み出し、解文化/集団の常識的知識は、孤立化。 ’域内’でのみ通用している現象
 
  のまま、その普及、浸透は、つまり、より上位の文化/集団において、「他の人々と共に
 
  知られている」/ 「当り前と思われている」と云う常識の主特色は、殆ど認められない
 
  場合。 当該集団が内在する外的環境界から排斥(運動)が生じることも。
 
    例えば、ヤクザ組織。
 
  この組織の成員は、その文化/集団内の常識を遵守、行動しても、その範囲は、
 
  限定的。 そして、同質集団間の抗争が生じれば、また、外的環境界と強い摩擦軋轢が
 
  大きなトラブルを引き起こすならば、常識の普及、浸透は、厳しく拒否、されることが必至
 
  となります。
 
    ですから、下位文化/集団の分立性は、’上位の’ より包絡的な文化/集団の中での
 
  存在、存続が認められるか、承知、承認されるか否か、更に、下位文化/集団の常識が、
 
  より包絡的な文化/集団に編成され、そこで新しい常識となるか、が大きな課題となると
 
  考えられてよいでしょう。
 
 
      《 カウンターカルチャー 》タイプ
 
   ブリタニカ国際大百科辞典に掲載のサブカルチャーの説明後半を続けましょう:
 
 
                サブカルチャー  
                【subculture】
 
                              ・・・〔サブカルチャーは〕 また特定の階級やエスニック・グループ
 
                (民族集団)の固有の文化に対しても広く用いられるようになった。
 
                そのうち既成の価値体系に対する否定を強め、中産階級的な
 
                生活様式を拒否し、挑戦的な態度で新たな意識改革を迫ったもの
 
                カウンターカルチャーcounterculture  (対抗文化)と呼ばれ、
 
                人種問題の激化、ベトナム戦争の泥沼化、大学紛争などを背景
 
                 に起こったヒッピー現象がその典型である。
 
 
   カウンターカルチャーの文化/集団 は、上位文化に屈しないエネルギー諸力が動員
 
  され、そのことは、特定の前者の主張が、そこでの常識への愛着、執着が、社会的/
 
  経済的な逼迫と相俟って、後者の価値観・世界観、或いは、常識への揺さ振り、転覆を
 
  迫ることを示唆し、それは、更に、巨視的レヴェルでの常識の編成、変革の可能性も
 
  現れるで しょう。
 
   換言しますと、カウンターカルチャーと呼ばれる文化/集団が常識が、何処までーー
 
  どの程度、どの範囲まで ーー 許容、認知・承認されるか、ということが焦点が絞られ、
 
  それは、状況の複雑さ故に、激化の一途を辿るか、漸次に、徐徐に行われるか、は
 
  不可知ですが、いずれにせよ、粘り強い’闘争’がどちらの側にも予想、要請され、
 
  困難な、長い道程を経た末、新しい結果を待つことが出来るでしょう。
 
    カウンターカルチャー/文化集団とより包括的な上位文化/集団の間の対立、抗争‥は、
 
  ーー この現象は、どの社会集団レヴェルでも、基本的には’同じ論理’で展開されると
 
  想定され、また、社会成員の遵守、準拠する常識は、単一なものではなく、重畳的であり、
 
 それは成員が、帰属する社会集団/文化によって決定されると見做されます。
  
   このような重畳する常識は、既述しましたように、様々な衝突を繰り返し、繰り広げますが、
 
  それは、破壊、破綻、破局、終焉に至らず、それどころか、時には、新しい常識の出現さえも
 
  見るという意味で、常識のより包括な、上位の文化/集団への普及、浸透、つまり、広がり
 
  (の過程と結果)をポジティブに探索、把握する契機となると考えられます。
 
     が、 筆者の手許には、そのための、一次資料も、二次資料も全く無く、彼女の細やかな、
 
  且つ無謀な試みは、敢え無く、呆気なく頓挫。 他の方々に、探求索の機会をお譲りして
 
  ーー 挑戦なさって下さるように ーー 本補足は、甚だ未完ながら、遺憾ながら、
 
                   終わりにさせて頂きます、