ご挨拶
本稿は、40数年(1970年始め頃)に脱稿、そのままになっていました
学位請求論文です。 全文は少し長過ぎなようですので、
概要のみを掲載させて頂きます。
ご一読賜れば、幸甚に存じます。
尚、もし全文にご関心をお持ち下さる方々には
、AshiyaーGalleryーT (phone/fax 0797-31-0269)
まで、ご一報、ご連絡頂きますように。
団野 薫
微視的社会現実
ーー 客観主義から主観主義、
そして相互主義から共同主観主義へ
《概要のみ》
第Ⅰ章 《自我/自己概念》と《主体性》
ーー 主観主義の復権を求めて
1960年代後半、現代社会学的思潮の顕著な趨勢として、構造-機能主義への批判が
加速され、その深い懐疑から、主観主義(subjectivism)への還帰・再興が提唱され
ました。 このような状況下で最も有力な動きとして登場したのが、象徴的主観主義
symbolic subjectivism. ⋆
それは、行為者が、自身の主観的な意味構築/解釈を通じて、社会現実を把握する
過程であり、その力動は社会的変革、変動への潜在力を示唆しています。⋆⋆
⋆ 例えば、Mannis, JeromeC.,& Bernard N. Meltzer,
Symbolic Interactionism, 1972.
〔著書の出版社及びその所在地の掲載は割愛します、以下全てに
おいて同様です、ご了承下さるように。 本文には掲載しいます。〕
⋆⋆ Blumer, Herbert, Society as Symbolic Interaction,
1970.
本節では、このような行為者の能動的主観性を主体性と呼び、その特色・質の探索を
試みるために、先ず、自己概念 self-conception ; self-concept を、
«1» 自己概念
«2» 自己概念の形成/社会化
«3» 自己概念の安定と変容
«4» 主体性とは ーー ①
«5» 主体性とは ーー ②
の順次で、取り挙げました。
«1» 自己概念
自己/自我論展開の歴史は、それ程深くなく、先達者としては、James,William
(Psycholpgy,The Briefer Course, 1962 )の自己(self), Cooley, Horton(Hu-
man Nature and Social Order,1906)の鏡の中の自己〔looking-glass self),
Mead,George, H. 1967)の客我(Me)と主我(I)、Freud, Sygmund(New
introductory lectures on Pshychoanalysis,1936) のイドー自我ー超自我
(Id—Ego—Superego)が挙げられます。
例えば、Seriff,M. (Concept of Self, 1968)は、自己概念を社会との関わり、
”相互関係的態度”における発達的形成物”と捉え、Secord,p. & Backman, Carl W.
(Social Psychlogy, 1964) は、更に、細分化し、自己概念の特徴を:
ⅰ) 認知的自己概念 (cognitive self-concept ) ーー 自己概念が
自己の内容(私は何?) を外的環境界(社会/文化)との関わりで構成される
もの。
ⅱ) 情緒的自己概念(the affective self-concept) ーー 認知的自己概念を
どう感じるか、感情的/情緒的評価によって構成される自己概念。
ⅲ) 行動的自己概念(the behavioral self-concept) ーー 外界との関与
において、具体的な行動を制御する自己概念
として輪郭づけています。
自己概念を、自身の内・外の環境界との関わりにおいて構成する過程であり、その
結果と捉えられていると見做してよいでしょう。
«2» 自己概念の形成:社会化
次に、自己概念はどのように形成されたか、社会化の過程に焦点を絞りますと、
社会化を、その発展的系譜を含めて、Zigler, Edward & I. Childe (Socialization,
1969) が詳察しています。
それは、簡潔に云いますと、社会的鋳型理論。 自己概念が、行為者が役割演技、
役割取得を通じて、自身に内在化した社会構造/規範的文化に準拠しつつ、自己を客観化
(視)しながら、形成される過程であり、それは、重要な他者をモデルとしながら、自らを
社会/文化的鋳型に填め込むと云う、謂わば、社会の側からの要請が明確化されます。
«3» 自己概念の安定化と変容
Lecky, Prescott⋆ によれば、自己概念の一貫性の維持、つまり、安定化は、他者との
関わり、社会的評価が重視され、特に、自己概念と社会的評価の適合性(congruency )
によると想定され、このことは、自己概念の安定化に繋がると同時に変容の過程にも連携
しますが、この変容過程は、例えば、年齢による帰属集団の変化、それによる自己概念
の変容というような、秩序ある変容であり、従って、自己概念の安定化と変容は、社会/
文化と行為者の一致モデルと見られています。
⋆Lecky, Prescott, Self-Consistency; A Therory of Per-
sonality, 1969.
更に、如上の自己概念の形成:安定化と変容、Freud 学派のErickson, E. H.⋆
の自我/自己論へ導かれます。
⋆Erickson, Erick H., Childhood and Society, 1950;
Self in Social Interaction: Identity and the Life Cycle,
1966; Identity, 1968.
彼は、2種類の同一性、自我-同一性と自己-同一性を挙げます。
前者は、個人の内側に子供時代から同一視によって培われた自我概念の同一性、
後者の自己-同一性は、個人の自己-定義(自己-概念)とその社会的承認の一致・
調和の獲得を図る自我機能とされ、このような過程に出現する’自己-同一性の危機’に
照明が当てられます。
’危機’は、個人が社会的要請を充たせない場合に置かれる猶予期間 (moratorium)
に伴う危機。 けれども、
モラトリアムでの逡巡は、個人が自らの人生を捉え直す内発的な強靭さと社会の
創造的革新の原動力となる契機を見出せるならば、そこに自我の能動性、能動的
主観性/主体性を予想も可能となるでしょう。
«4» 主体性とは ①
主体性は、何よりも先ず、自己概念の社会的鋳造(論)からの離脱の開示と云える
でしょう。 それは、個人行為者が、受動性から能動性への飛翔を意味します。
それは、Wrong, Dennis H. ( The Over-Socialized Conception of Man, 1966)
もひとの過-社会化を糾弾し、社会構造/規範的文化、或いは、社会秩序の維持と云う
既存態に対してそれを打破しようとする個人の対抗エネルギー、究極的には、(社会/
文化への)変革的諸力にまで発展する可能性を孕む自己/自我の存在の想定です。
代表的、古典的例には、Mead,G.H. (op. cit.)の主我、即ち、I が呼び覚まされます。
主我/I は、客我/Me に対する反応、反発、不確実で、新奇/新規な要素、更に、
創発性(emergence)によって構成される社会変革の潜在力となると考えられています。
1960年代になって、
Meadの主我論は、象徴的的相互行為主義 (Symbolic Interactionism)の発展
とともに再評価され、その旗手、Blumer, H.⋆は、自我概念をその’構造’よりも’過程’に
注視、主我/I の復権に結びつけ、独自の解釈を展開し、自我の反映的過程を掲げ、
その内容を、自己-相互行為(process of self-interaction)、或いは、解釈過程
(process of interpretation)として把握、より具体的には、行為者が、対象を自らに
指摘し、この自己指摘(self-indication)における対象について判断、分析、評価
する、即ち、意味付け(/意味構築)する過程と見えます。
このような自我(概念)の意味付けの過程にこそ、主体性の萌芽が洞察されてよいで
しょう。
⋆Blumer,Herbert,Commentatary Debate: Sociological
Interplitation of the Thought of George Herbert Mead,
1969; Symbolic Interaction:Perspective and Method,
1969.
-
もう1人、Turner, Ralph(The Real Self: From Insutitution to Impulse)
を取り挙げますと、彼は、自我概念を制度に投錨された自己と衝動的な自我として
識別、 制度化(/社会化)される自己よりも、制度的枠外の衝動、社会化されない内
的衝動に力点を置きます。 つまり、衝動が中心軸の’現実的自我’の浮彫。
このような把握は、社会/文化への受動的自己(概念)から社会にとって決して制御
不可能ではないけれども、社会を揺るがさずには措かない自我の能動的」活力を
覚醒させることを意味します。
Meadー-BlumerーーTurner を総括しますと、 自己概念において、
主我=I / ’現実の自己=I’の能動的な意識過程、つまり、対象の意味の自己-指摘、
或いは、意味解釈過程が取り挙げられ、それは、取りも直さず社旗/文化の変動・変革
の潜勢力を示唆し、この意味において主体性を看取可能と云えるでしょう。
対象(他者の行為)の解釈釈過程の具体的な内容として状況の定義(definition of
situ-ation)を想定しました。
Thomas、William I. (The Definition of Situation:From the Unadjusted
Girl, 1967),Thomasを踏襲したStebinns ,Robert A.(Studying the Definition
of situation, 1965), 更に、Blumerに依拠したMacHugh,Peter(Defining the
Situation,1966)の論文を瞥見しましたが、後者2編は、状況の定義を行為者の社会的
行為における対象の意味付け、意味解釈/編成の過程に置きますが、私達のテーマ:
主体性への論及は余り見出せず、残念な結果となりました。
« 主体性とは » ーー ②
ということなので、ここからは、筆者が勇を鼓して、主体性とは何か、その特色の解明を
試みることにしました。
主体性を5つの角度から輪郭付づけますと:
‹ⅰ› 自主性
‹ⅱ› 個性: 独自性
‹ⅲ› 一貫性と柔軟性
‹ⅳ› 創造性と独創生
‹ⅴ› 実践性
の特徴が挙げられてよいでしょう。
‹ⅰ› 自主性
自立せいには、2つの要素:意思決定と自律性が想定され、前者は、行為の最適な
選択肢の選択過程にあり、その一つの例として、Dewey,John (Experience and
Nature, 1952)のドラマ的リハーサル(dramatic reharsal)が挙げられます。
それは、複数選択肢を仮想し、その未来的可能性(結果)を予想しつつ、最適の選択肢
を見つけ出し、実行すること。
このような意思決定には、自律性が要請されます。
自律性は、個人が外界からの圧力・拘束を排除しつつ、自らの価値、規範に従って自己-
統制することにあり、その成立には、自由が指摘されます。 Douglas,Jack D.(Free-
dom and Constaints,1972) に依れば、自由は相対的 ーー つまり、社会/文化との
相対関係において作動し、従って、個人の自由度は、社会/文化的拘束に対抗して選択肢
の数が多いほど可能性が開かれていると云うことになります。
‹ⅱ› 個性:独自性
Meadは、主我/Iにおいて、個人の独自な個性(unique personality)、独自な〔行動〕
パターンを指摘しています。
それは、Shibutani,Tamotsu(Society and Personality)によれば、個人差
に根差し、個人内的なものと外界との相互作用の結果から生起するもの、つまり、個人が、
社会/文化的なものを’濾過’ (filtering)し、私人的な香り(personal flavor) を加味し、
行為、意味構築・意味解釈すれば、個性:独自性が誕生すると見られます。
‹ⅲ› 一貫性
ここでの一貫性とは、行為の意味づけ過程に貫かれ、維持される統一性(unity)と統合性
(integrity)が示唆されています。 それは、ーー Shibutani S. は説明します ーー
自己の鮮明な自己-意識過程と自尊心で裏付けられ、外的環境界からの衝撃にも
かかわらず、ときには、対抗し、時には、濾過しつつ、独自に編成した自己-規制( self-
regulation)を貫く自我/自己の特質。
けれども、そのような特質が、硬直化を招かぬよう、臨機応変な状況の定義という柔軟性
を併せ持つ逆説的な存在であることが、一貫性を強固なものにすると考えられています。
‹ⅳ› 創造性
創造性は、大雑把に捉えますと、過去の情報、敬虔や知識の再編成、再更新。つまり、
既存のパターンを破り、新しいパターンへの組み換え、新しい組み合わせにあると
想定されます。
その過程を、Mackinney,Donald W.(Creativity,1967)は:
1 準備期間 ーー 問題提起とその解決法の模索の期間;
2 集中の期間 ーー 問題(解決)へのエネルギーの動員;
3 問題からの撤退 ーー 集中からの一時的離脱、 〔発想の〕抱卵/培養の
期間;
4 洞察の期間 ーー 気分の高揚、霊的な直感力の発揮;
5 最終期 ーー 問題解決の結果に対する入念な仕上げと実現の時。
以上の創造過程は、主体性にとって、既存態としての社会構想/規範的文化の不適用
性についてひとが状況認識し、問題提起し、その状況の情報収集に駆り立てられ、と同時
に、様々な仮想や試行錯誤を踏まえつつも、、一時退き〔休憩の時をもち〕、其処に直感的、
自発的に、望ましい方向が洞察されるならば、そうなれは、社会変動の契機となり得るで
しょう。
‹ⅴ› 実践性
実践性は、行為者が、認識主観としてではなく、’行為主体’として、実際に行動すること
それは、ひとが、実際的な行動によって外的環界へ、積極的、能動的に働きかけ、対象
(外界)になんらかの具体的な結果をもたらす実行性を意味末うといってよいでしょう。
Jeagler,Edward &Irvin Child (op,cit.) 行為者からの積極的な働きかけを
親子関係の相互影響において捉え、親から子への一方的な影響(’鋳造’)に反論し、
子の能動性に着目し、子を環境界を新しく加工する”能動的な加工者”と見做す過程に
子、即ち、主体的行為者の実践性、実行性を看取してもよいかと思われます。
第Ⅱ章 他者理解
ーー ”外側”から”内側”へ
ここでは、他者理解を、暫定的に、他者の行為(動機、意図、態度‥など)についての
意味構築・意味解釈の過程として想定し、照明することに致しましょう。
他者理解は、外側からの対人知覚(interpersonal perception)と内側に立つ共感
的知覚 (empathetic perception) 的知覚が識別され、且つ、その組合せと考えられ
ます。
対人知覚では、様々な角度からの研究が試みられ、例えば、知覚の”過程”の重視⋆
或いは、判断(知覚)の立証性(verificality) や正確さ(accuracy)⋆⋆が挙げられますが、
⋆Allport, Gordon (Pattern and Growth in Personality 1961)
Tagiuri,Rand & L. Petruillo, (eds., Person Perception
and Interpersonal Behavior, 1958)
⋆⋆Secord, Paul F. & Carl W.Backman,( Social Psychology,
1964).
対人知覚の一般的な特色としては、Tagiuri, Rand, & Petruillo (eds, op. cit.)
に拠りますと、
1) 知覚者と被知覚者の2人関係
2) 知覚者の内的・外的環境、外的には、特に、他者、
3)知覚者と被知覚者の類似性
4)他者に対する知覚的表象、換言しますと、主観的意味構築/意味解釈
が注視されています。
ここでは、4)の特色に焦点を絞り、幾つかの要素を列挙しますと:
ⅰ 観察
ⅱ 範疇化
ⅲ 類型化
a) ステレオタイピング(stereotyping )
b) ラベリング(rabelling)
が挙げられてよいでしょう。
このような対人知覚は、外側からのもの。謂わば、客観時な他者把握であり、ーー
例えば、範疇化は、行為者の私人的な特色、心理的な過程、微妙なニュアンス、綾は
等閑視されます。
ということは、他者理解には、内側からの(対人)知覚が要請さるということです。
それは、平易に云えば、’相手の身になる/立ち場に立つ’ ことであり、’自他融合’の状況
を意味し、Merleau-Ponty, Maurice (Phenomenology of Perception;)における
’前-人称的生’ (la viepre-personel )であり、Schutz, Alfred (The Phenom-
enology of Social World, 1971; DerSinnhafte Aufbau der Sozialen Welt) の
相互主観性( intersubjectivity ) 或いは、我等(/我々は共に年取る現象( the
phenomenon of we grow older toghether )の論述、説明に見出せます。
端的に云えば、共感 ( empathy ).
内側からの他者理解は、取りも直さず、共感を基盤とする共感的理解(empathic
understanding) ということに他ありません。
では、共感とは ーー この概念から探索しました。
共感は、大別して3つの特質が描出されます:
ⅰ) 自我意識の一時的放棄;
ⅱ) 他者の受容、或いは、自我への投入;
ⅲ) 自我と他者の一体感/一体性
より詳しくは、共感は、
行為者、自我は、自我意識から自らを離隔、忘我し、そこへ立ち現れる他者をそのまま
(我が)身に受け入れ(自我-投入)、この時、自我と他者は、自他不分明な状態、即ち、
’一つになる’ 一体性/一体感を獲得すると云う過程と想定されます。
因みに、一体性/一体感を、Schutzは、Bergson,Henri の持続(durée)(=意識の
流れ)を踏まえつつ、私と他者の〔意識の流れの〕同時性:「共に年取る」現象として把握
していますが、この心的過程こそが共感の基底を成すと考えられます。
ところで、
他者理解のための共感は、更に、2種類の様式:
情緒的共感 (affective empathy ) と認知的共感( cognitive empathy )が識別
されます。
情緒的共感は、自他の一体化を情緒や情感のレヴェルで監督する様式であり、
Scheler, Max (The Nature of Sympathy, 1970) は、4つの類型を挙げますが、
4番目に母子間の情緒的一体感、現代的解釈ではスキンシップに言及しています。
この ’肌の触れ合い’ こそが共感の原型と見做されてよいでしょう。
認知的共感の特徴は、象徴的過程に生起すること。
それは、想像力」の解放、飛翔であり、直感よりも想像/仮想的なリハーサルによる自他一
体化を実現します。このような発想は、Dewey,J. やMead, G. H. に見られ、Couto,
Walter (Role-Playing vs Role-taking: Approach to Clarification) における
’もしも’-行動 (as-if behavior)として 継承されています。尚、追体験もこのジャンルに
入るでしょう。
このような象徴的共感は、更に、想像的共感(imagimative empathy)と予測的共感
(predictive empathy)が区別されます。
前者は、仮想的な取替え体験(vicarious experience)〔/役割取得〕を通じて他者の
行動を想像的にリハーサルし、意味解釈・意味構築を試みるタイプ。Stotland,E.&
Cottrel, N.B.*等が、提唱していますが、源泉は、言うまでもなく、Meadにあります。
⋆Stotland,E. Cottrell,N. B., 1960.
Hayakawa,S.L., Language in Thought and Action,
1964.
Turner,R. Role-Taking,Role Standpoint, and Reference
Group Behavior,1966.
予測的共感は、想像的共感の1つのヴァリエーション:’もしも・・・’という仮想の仮定法を
含蓄し、その主眼は、行為者による他者の未来行動の予測にあります。
予測は、その能力を、正確さ ーー 仮想的共感による他者の行動の予測と他者の
実際の行動の一致、に求められています。Dymond,Rosalind F. (A Scale for the
Measurement of EmpatheticAbility,1949) の実験が示唆的です。他にも、
批判的踏襲として Hastorf, A.H. & I.E. Bender, (A Caution Representing
Measurement of Empathic Ability,1952) などが挙げられます。
亦、Laing, R. D. (et al., Interpersonal Perception, 1969) は、
自己の他者行動に対する仮想のリハーサルの過程を想定し、自己と自己の予想/予測する
他者との間螺旋状的相互行為を展開しながら、他者の行為を予測するという方法を展開
しています。
この仮想的過程には、同時に、Schelling,Thomas C. (The STrategy of Conflict,
l960)の提示する暗黙の調整(tacit coordination)という発想も参考になるでしょう。
最後に身体模倣を。
身体模倣は、共感的他者理解の一助として、いわば、随伴、或いは、促進剤となるもの。
それは、身体への筋力の動きの’受胎’であり、行為者と他者の身体的動作、パフォーマンス
などによる他者との同一化、行為者の身体的再生産、身体的同一化と想定されます。
直接的に、眼前のモデルに倣い、身体を動かすことにあります。⋆
⋆身体的模倣に着目し、論を展開した幾らかの研究者には
Wallen,Henri, Le Origines du Carracter d'Enfant, 1973.
Merleau-Ponty, Maurice, Les Relations avec autrui chez
l'enfant,1960.
Moreno,Jacob, Psychdrama Vol. 2, 1959.
が挙げられます。
« 離脱/客観化»と«振り子現象»
これまでの共感的他者理解は、謂わば、前半線、後半へと進まねばなりません。
そのために、Katz, Robert L.(Empathy,19??) に拠り所を求めましょう。
彼は、共感を4つの構成素に分類します。
① 同一化 ( identification )
② 投入 ( introjection )
③ 反響 ( reverbration )
④ 離脱 ( detatchment )
③の反響は、自他同一化による自己〔概念〕に対する反響/反論を自己自身が惹起する
過程であり、弁証法的交錯が想定されていますが、ここでの関心は、第4番目の、共感
それ自身からの解放、換言しますと、共感/同一化から自らを離脱する、共感者の理性的
な手続き、客観的分析を意味します。
では、離脱とは: 今少し詳察しますと、
ⅰ 自己-観察 (観照) ーー 同一的他者像を措き、他者の出来るだけありのままの
現実の姿を映しだすこと;
ⅱ 照合 ーー 自己の共感的他者像と他者の実際的自己像との間の適合性、一致度
をチェックすること;
ⅲ 整序 ーー 他者像に関する情報は、断片的、特定的な場合があります。
そのために情報を取捨選択しつつ、修正しながら、一つの纏まった像を描出する
こと。
これら3要素の基盤は、距離を置くこと。 自我/共感者と自我の共感/同一化的他者像
に、間を置き、 そこに虚構・虚像を入り込ませず、そのために他者の現実・実像を探索。
把握するように心掛けることと云えるでしょう。
以上のような共感的他者理解は、離脱のレヴェルまで到達した場合にも、猶、他者像
に死後、歪み等が生起、増幅する傾向が経ち現れることがあるようです。 そのような
場合は、Katz が提唱する’振り子現象’に身を委ねることでしょう。
先ずは、同一化への還帰。
’初心へ戻り、’他者との同一化による共感的他者理解を試み、そこからの離脱を図る
も、齟齬、歪み‥が生じれば、また、同一化へ立ち還り ・・・ というように、つまり、
’振り子’のように、同一化と離脱の間を往ったり来たりしつつ、共感的他者理解の高み
に挑むということです。
第Ⅲ章 社会的相互行為モデル ⑴
ーー 客観的分析思潮への検討
社会現実の考察を微視的レヴェル、つまり、私と他者の社会的相互行為に、第Ⅰ章、
第Ⅱ章との発展的関わりも考慮しながら、焦点を絞り、今一度、明細化を試みますと、
微視的社会現実は、
Thibau,John & Harold H. Kelley(Performance and Interdependence,
1966) に準えますと:
ⅰ ダイアド(dyad)、即ち、私と他者の2人関係;
ⅱ 〔私の〕他者志向;
ⅲ 〔私と他者間の〕行為の交換;
ⅳ 〔行為の〕相互性、相互影響/規定性。
以上の4構成素から成り立つと想定されます。
本章では、2人関係の社会的相互行為への探索を主題とし、そのモデルの幾つか
を取り上げ、概観を試みました。 先ずは、Parsons,Talcott から。
«Parsonsの社会的相互行為モデル»
Parsons⋆に拠りますと、 社会体系(概念)は、複数行為者の相互行為体系であり、
3つの主要素: 相互依存性、秩序維持的均衡、境界線維持(閉鎖性)によって特徴
づけられます。
⋆Parsons,Talcott, The Social System,
Parsons,Talcott,& Edward Shils, eds., Toward A
General Theory of Action, 1951.
Parsons,Talcott, Social Interaction in IESS, op.cit.
より詳しくは、
社会体系の3構成素として、2人関係の相互行為から成り、3つの準拠拠点:行為主体と
対象、及び、行為者(私)の対象(他者)志向を挙げつつ、Personsは、その特徴へ論及
します。
即ち:
⑴ 二重の状況依存性 ーー 自我(Ego) の行為は他者(Alter) の期待〔=状況〕
に依存、他者もまた同様であるという両者の役割(期待)の相互補完性の想定。
⑵ 統合と均衡 ーー 相互行為体系は、共同の規範的文化に基づく秩序維持で
統合、均衡が保持され、それは、行為者の規範への同調と逸脱に対する制裁、及び、
規範的自己‐統御を意味します。
⑶ 閉鎖系 ーー といっても相互行為体系を取り巻く諸環境界と相互浸透の関係に
ありながら、境界線を維持。
以上を踏まえますと、Parsonsの社会体系は構造‐機能分析に加えて、静態分析的傾向
が強く浮彫りされ、翻って、主観主義(subjectivism)の鈍麻が憂えられました。例えば、
Buckley, Walter ( Sociological Modern System Theory, 1967) は、情報科学
的体系概念を挙げつつ、社会体系の自発的能動性(voluntarism) 、つまり、体系と環境
界を’仲立ち’する媒介過程に着目し、それによって社会体系の構造的変動を主張、社会的
相互行為体系を動態分析へ導引しますが、ここに、主観主義の復権が看取されてよいで
しょう。
«社会的交換論とHomansの社会的行動モデル»
社会的交換論は、文化人類学などにおけるように多岐に渡っております。
Blau,Peter ( Exchange and Power in Social Life)は、交換モデルを社会現実
へ援用する場合の留意条件として、ⅰ 交換を人間行動の’利得の関数’とみること;ⅱ
他者のもたらす欲求充足を他者からの報酬に依存すること; ⅲ 報酬の互恵性を挙げて
います。 Homansと軌を一にしていると見ることが出来るでしょう。
では、Homans,George C. (Social Behavior Its Elememtary Form,1960)の
社会的交換論とは:
彼は、基本的な社会行動を、「少なくとも、2人の間の有形。或いは、無形の そして、
多かれ少なかれ、報酬のある(rewarding)、或いは、費用のかかる(costly)活動の交換」
と定義します。
Homansは、彼の理論的モデルの設立のために、Skinner,B.F.( Science and
Human Behavior, 1953)の行動心理学:強化学習理論/オペラント条件付けと
基本的経済学を援用しつつ、それは、少なくとも4つの構成素、ⅰ) 報酬; ⅱ) 要求充足
(=強化)因子; ⅲ) 損失; ⅳ) 利得 (報酬マイナス損失)から成り立つと捉え、
5つの一般命題を演繹します。
⑴ 人はの活動始発の頻度は、人の過去における報酬獲得経験の状況と現在の
それとの同様性/類似性;
⑵ 一定期間内の他者(交換相手)による強化(報酬供与)の頻度に依ること;
⑶ 報酬の種類と質(=価値)の程度に正比例します;
⑷ が、報酬の飽和状態は、反比例的効果、即ち、活動の逓減、消滅を招き;
⑸ もし’分配正義の法則’が、不利に働くならば、交換者は怒りの感情を爆発させ
易い傾向を見せます。
以上の命題を立証するために、Homansは、様様な強化学習論的実験を基に社会交換
的な例解を展開します。 が、ここでの注目は、彼が、Parsons批判の実際的な担い手
の一人であること、そして、’制度された側面’から、下位制度的な、社会行動への微視的
分析を掲揚し、微視的社会学への復権に貢献したことにあります。
けれども、
Homans自身も、亦、他の角度から、批判の的に。
つまり、彼の〔行動〕心理学的還元主義。 それは、人の活動/行動を自然科学的
な、”外側”からの視野に立つものであり、”内側”からの主観的過程が、ブラック・ボックス
に入っているということ。 と云うことは、象徴的相互行為主義の再登場を促すことに
なりました。
Gouldner,Alvin (The Coming Crisis of Western Sociology) や
Abrahamson,Bengt (Homans on Revived)に示唆的な論調を見ることが出来
るでしょう。
«フィードバックプロセス モデル»
社会的相互行為モデルへの探索・検討を試みる際に、或る種の物足りなさを看取、
それを行為の相互性をめぐる説明・論述の不充分さに見出し、最終節では、フィードバック
過程を取り上げることにしました。
ブリタニカ国際大百科辞典( op. cit.)を検索しますと:
フィードプロセス
【 feedprocess 】
環境内のある対象に対して、外部から変容させることを入力といい、その
入力によって対象が環境に産み出す変化を出力という。 そして、情報
の入力に反応して活動し、その後の行動を修正するため、自身の活動の
結果を新しい情報の中に取り入れることをフィードバックといい、そのような
過程をフィードプロセスと呼ぶ。
上掲の説明の前半の入力‐出力過程は、基本的にはS-Rモデルに相応すると見られ、
Homansのモデルが想起されます。 注目は、後半部分、修正、自己-制御の過程に
あります。 この過程の等閑視が、社会的相互行為モデルに物足りなさを感じる所以と
なったということでしょう。
もう1つ: 2人関係の相互行為レヴェルでは、フィードプロセスは、双方向であること。
つまり、私の行為/A₁が、他者の行為/B₁に影響し、その結果他者の行為に変化・修正
が生じると同時に、他者の行為もまた私の行為/A₂ に影響し、修正が加えられ、自己‐
制御し、且つ他者の行為/B₂に影響を与え、修正を迫り、・・・となるような相互影響過程、
或いは、修正、自己-制御の過程が生じるならば、私と他者の間でフィードバックの環が
連鎖し、螺旋状に展開されるでしょう。
双方向的フィードバックプロセスは、相互影響とも云えるでしょう。
Cartwright, Darwin & Alvin Zander(eds, Group Dynamics,1968) は、
対人的影響と勢力の分析において、もし、他者(O)が、私(P)の特定の状態に変化をもたら
すならば、それは、他者が私に影響を与えたこととなると想定、実験を行っています。
このような影響が私と他者間で相互に生じた場合、それは相互影響過程と見られ、また、
影響/変化が結果する’特定の〔心理的〕状態’を、態度と捉えるならば、態度変容(
attitude change) と解釈されてもよいでしょう。@
@Festinger,Leon (Theory of Cognitive Dissonance,19 )
は、態度変容に関して興味深い、不協和音論を展開しており、
この場合も他者からの影響行使を視野にいれれば、自-他間の
相互影響過程が想定されるかもしれません。
以上の考察、検討を踏まえますと:
フィードバックプロセス・モデルは、行動心理学的S-Rモデルと相似する処があるようです。
つまり、自然科学的な観察、”外側”からの分析という手続きに焦点が、態度変容と
云う心理的状態がクローズアップされているとはいえ、絞られていました。
このことは、私達の関心からしますと、どうしても、S-R過程の間に介在する過程、
”外側”からは不可視な潜在的過程、即ち、行為者の意識、主観性への還帰を意味
します。 と云っても、決して、内観法などを懐古し、標榜する積りは無く、唯、主観的
過程の再認識、再評価が無意味なものではないでしょうことを言いたいだけということ
です。
そこで、主観主義が強く打ち出されているモデル、象徴的相互行為主義の登場を
促すことに致しましょう。
第Ⅳ章
《 社会的相互行為モデル》
ーー 主観主義への移調:象徴的相互行為主義へ
«象徴的相互行為主義»
象徴的相互行為主義は、米国’原産’の理論系であり、特に、既述のように、Mead,
George H.(Mind,Self, and Sosiety, op. cit. ) の論述が傑出しています。
概要しますと:
ⅰ) 有意味的な動作の会話(conversation of meaningful gestures)/
象徴的コミュニケーションを社会的過程とし、それを基盤に役割取得過程を
展開します。
ⅱ) 役割取得を通じての自我の社会的形成、即ち、社会化。客我(Me)と
主我(I)の設定します。
このようなMead の自我論は、客我変調が。Parsonsの社会(役割)構造/共同の規範的
文化への同調、社会への統合と秩序に必然的に寄与と考えられ、究極的には、Anslem,
Strausは、主観主義の喪失を招き兼ねないと危惧を表明しています。
ですので、主観主義志向への復権を目指す必要に迫られます。
とはいえ、今日的な象徴的相互行為主義は、残念ながら、理論的統一性、或いは、一般論
は、未だ熟せず、というようですが、共通する特色は幾つか列挙してもよいでしょう。
ⅰ. 象徴 (symbol) と意味( meaning) の重視 ーー。
環境界/対象についての意味構築/意味解釈を強調し、社会行為は、私と他者間の
意味構築・解釈的相互行為として想定します。因みに、Rose, Arnold (Symbolic
Interaction, 1962) によりますと、”象徴は、他のもの〔対象〕を代表する(stand
for ) もの” を指します。
もの〔意味〕”を指し示します。
ⅱ.役割取得過程 ーー
この役割取得は、象徴的相互行為の礎柱であり、象徴/意味の構成・解釈の根底
にある過程、不可欠な、切り離せない要素として、Roseも、 Blumerも強く指摘して
います。
ⅲ.能動的自己/自我 (active self )としての行為者 ーー
過程的な(processual) 自己/自我の再鑑賞によって行為者の主体性、即ち、
能動的主観性の復権と自己/自我概念の精緻化;
ⅳ.力動的な相互行為 ーー
象徴的相互行為主義では、行為者間の(相互)行為を役割取得や社会化の
過程として把握するのではなく、むしろ、この過程を行為者に意味構築/意味解釈
の過程として、更に、この過程の不断の再編成、更新による〔自己と社会の〕
変革、創造の実現化の過程として捉えます。
以上の象徴的相互行為主義モデルの特色を、Blumer, Herbert (Society as Sym-
bolic Interaction, 1972)に拠りつつ、
もう少し詳察しますと:
ⅰ)〔相互行為の〕S-R(刺激‐反応) 図式で説明され得ないこと;
ⅱ)独自性を持ち、 この独自性は、(行為の)解釈や定義を含蓄し、更に;
ⅲ)行為に意味が付与されること( meaning-attachment);
ⅳ)この付与される意味を基盤に成立すること;
ⅴ)人間的相互行為は、従って、(意味と云う)象徴で媒介され、解釈され、定義
されること;
ⅵ)つまり、行為の刺激ー反応の間に、主観的な意味付与とその解釈過程が
介入すること、 と把握されます。
端的に云いますと、象徴的相互行為は、象徴/意味の媒介を通じた〔意味〕構築、解釈
の過程を意味すると見做してよいでしょう。
彼は、いうまでもなく、Meadの論述に立脚しつつ、独自の行為/相互行為論を
展開します。即ち、一つは、行為者/自己の自己-指摘( self-indication)過程。それは、
自己が自身へ向かって行為し その行為が、意味構築・意味解釈として役割取得を
通して獲得されること。 もう1つは、その役割取得過程には、役割-創作過程(role-
making process)を想定、導入し、人が他者の役割に対して持つ概念を不断に検証
する過程と内容づけるていることです。
Blumerは、更に、意味を巡って、a) 〔対象〕志向、b)意味は社会てき所産 ーー
行為者間の意味定義の被創造物、c) 意味は、行為者の解釈過程を通じて、修正、処理
されることから成るとし、それは、行為者が状況に照合しつつ、意味を選択、検討、
中断、再編成、変容する過程を含蓄し、既成の意味の単なる自動的通用ではない、
と論じます。
以上のように、Blumerの象徴的相互行為主義モデルは、社会的相互行為の中心的
契機を象徴と意味にもとめ、その明細化を、自己-指摘過程から象徴/意味の構築と解釈
過程に見出しましたが、そこで、私達に強い感銘を与えたのは、彼の、行為者の側から
ーー ”内側”への着目です。
それは、即ち、行為者の主観性、引いては、主体性の復権を意味し、行為者の主観〔意味
構築・解釈〕的過程は、その選択性を、そして能動的エージェントとしての位置を獲得し、
社会的相互行為を不断の継起的過程(on-goiung process)として把握する動態分析
を企画していると看取されと云うことに他ならないでしょう。
« 想像的フィードバックプロセス »
象徴的相互行為主義モデルを、その最大の特徴:意味構成・解釈過程を中心に検討しましたが、このような主観的過程の介在する過程には、他に、想像的フィードバック過程が挙げ られてよいでしょう。フィードバックプロセスは、人間行動=S-Rモデルでは、把握しきれないS-Rの間に 介在する潜在的な過程(主観的過程)を浮かび上がられ、特に、フィードバックの還帰の 際の修正と自己制御が注目されます。 このことを理解するために、 Meadの論述する 反映的知性(reflective intelligence)が挙げられます。 それは、R (反応)の遅延(delay)を意味し、行為者は、実際の行動に先立って、行動と 環境界に対しい予想、仮想、期待を行います。つまり、未来(的結果)の勘案 (予想、仮想、期待) と云う反映性を行使し、その結果を実現する知的過程が述べられています。 また、Dewey(Humann Nature and Conduct, op. cit.)は、 熟慮 (delibration) について論考します。 行為者は、行為の複数選択肢を想像、 想定し、演劇的リハーサル(dramatic reharsal) を行うことで、 実現可能な行動や選択の実験を試行すると説明されています。このジャンルには、仮想的な役割 想像的代替経験や’もしも’行動が挙げられてよいでしょう。 そして、このような想像的フィードバックの環が個人内から私と他者の間で展開しますと、想像的フィードバックの相互行為が成立し、、理論上は無限大となるかもしれません。 因みに、Garfinkel,Harold (Studies in Ethnomethodology,1967、p。50) の論述が興味を惹きます、 彼は、Schutzに倣いつつ: 「人は、日常的な出来事の行動として他の人が〔自分と〕 同じ様に想定すると想定すると想定すると想定すると想定し、そのことを彼が、他の人に想定するように他の人も想定する」と記しています。Garfinkelのは想像的フィードバックの環の螺旋状的発展(の可能性)を彼特有の言語で示唆しているものと看取されます、が、現実の世界では’忖度’程度で留められているようです。</address><address> 以上の象徴的相互行為主義モデルには、«現象学的社会学的モデル» と «エスノメソドロジイ モデル»が付け加えらてもよいでしょう。
« 現象学的社会学の相互行為モデル »
ここでは、象徴的相互行為主義との統合(synthesis)が試みられている、実存主義的
社会学(派)の代表的な一人、Tiryakian,Edward(Structual Sociology,1970) の
提言を傾聴しましょう。@
@ 現象学的社会学派の代表的旗手、Schutz,Alfred に
ついては次節で紹介、概観します。
彼は、社会現実を”互主観的意識の全体的現象”として見做しつつ、行為者間の意識
地平(行為)状況についての意味構築を指摘しながら、社会構造を、”相互主観的意識
の規範的現象」として想定します。
このような社会構想が、社会的力動の源泉であると、彼は考え、社会構造は、社会的生
の”実存的な枠組み”であり、苞範囲な規範的枠組み”」である一方、社会的な行為(意味
構築)への潜勢力を秘めていることを意味します。
<address> </address>
それら潜勢の実際化(actualization)、或いは、生成(becoming) に際しては、
衝突が余儀なくされるのであり、彼は、ここにおいて、社会が、制度的なもの(the
insutitutional)と非-制度的なもの(the non-institutional )(或いは、聖と俗)の
力動的な緊張(対立)状態に置かれると主張します。
このように、Tiryakianは、社会現実を主観的現実主義 の立場を掲げつつ、個人(間)
の意識地平 ーー 即ち、相互主観的な意味構築を取り戻し、制度と非制度の弁証法的
対立(dialectic)関係において把握を試みました。@
@残念なことは、彼の提言には、微視的宇宙、つまり、行為者
(2人関係の)主観的過程/意味構築過程から巨視的宇宙
への足掛りや道程について充分な説明がない事でした。
«エスノメソドロー»
創設者、Garfinkel (Studies in Ethnomethodology, op. cit.) の研究対象は、
日常生活世界/場面の諸買う動/実践に在り、その研究手続きの基盤は、”内側”から、
(from " within ") と反映性 (reflexivity)にあり、彼のテーマは、日常生活/常識的
世界の相互行為的場面に生きる人々の諸活動の(意味)解釈過程において把握すること。
その具体的な手続きには、特に、アカウント(acount )分析と解釈のドキュメント的歩手法
(the documentary method of interpretation)が挙げられます。
アカウント分析は、日常生活場面の自明性を故意に転覆させ、(人びとの反応、否定的
感情爆発)を分析、解釈する’(準-)実験’手法。究極的には、社会構造の安定、均衡を
確認します。
解釈のドキュメント的手法は、行為者が、相手の行為の実際の現れを、その表層下の/
根底にあるパターン( the underlying pattern )のドキュメントをすることによって、相手
の行為の発言されていない含蓄(/意味構成)を明示し、探索し、解釈する手法で、その一
例として、偽のカウンセリングが’実験’されています。 特徴的には、被験者(クライエント)
の発言・意見が過去想見的ー未来想見的 (retrospective - prospective)に(自己-)
解釈している過程が指摘されます。
エスノメソドロジイ的相互行為モデルは、その研究(対象)を行為者の主観的過程(意味
構築・意味解釈過程)において看取され、ーー 亦、その過程のより特殊な側面/場面が
摘出されていますが、ーー この意味で、象徴的相互行為主義モデルと合致点が見出され
てよいでしょう。
第Ⅴ章
《3極型の相互行為モデル》
ーー 共同主観性モデルへの”前奏曲”
前・前章、前章では、S-R図式に準拠する、或いは、関連する健在的なタイプの相互行為
モデルとその’内側’からの、潜在的な過程の把握、検討を試みました。
ここでは、これまでのモデルでは、触れられることのなかった領域、S-R 的モデル、即ち、
«2極型»を超越する«3極型»を想定し、相互行為モデルに新しい地平の導入を図ることと
致しましょう。
この新しいモデル構想の担い手としてAsch, Solomon E. と Newcomb,Thodore
が挙げられてよいでしょう。 先ずは、Asch ( Social Psychology,1952)の論述を:
彼は、行為者Aが、行為者Bの行為を観察し、理解し、Bもまた、同様の行為をする
と云う形の相互行為は、不充分であり、「社会的相互行為の卓越した事実は、参加者が
共同の地盤(the common ground)に立ち、彼等が互いに向かい合い、彼等の行為が、
相互滲透し(interpenerate) その結果、互いを規制する(」Ibid., p. 161)」ことと
看取します。
端的に云って、Asch論 の卓越した特徴は、社会的相互行為は、行為者の主観的
過程の相互交換に留まらず、行為者/参加者による共同の地盤の想定にあると云って
よいでしょう。 つまり、”共同の地盤”の導入です。
今少し、詳察しますと、
共同の地盤は、相互行為者を包む周囲状況(surroundings)を意味し、この状況の
中で行為者が相互に志向し、この志向の相互性が〔行為者の〕”観点の相互浸透性”
(interpeneratation of perpectives)を産み出します。
観点の相互浸透性は、行為者の〔相互〕行為の混合ではない、とAschは強調します。
それは、各参加者が独自に視界を保持し、相手の心理学的場を想定し、従って
〔相互〕行為者(私と他者)は、互いの心理学的ばの一部に過ぎなのではない、と云い切り
ます。
それは、また、相互行為者が、「具体的な行為の中で、夫々、”相互に共有する場”
(mutually shared field)を確証し、強固にする(Ibid., p.163)」ことを意味しますが、
この相互共有の場/共同の地盤を、Aschは、客観的場と表現し、このことには、個人
行為者〔主観〕に対してそれを超越して存在する境域、即ち、相互主観性の想定が
看取されます。
Aschは、このような共有された場/共同の場は、どの相互行為場面にも常在、偏在
するものではない、と念を押しますが、彼の論述の最大点は1つ: 彼の想定の
導入は、S-R図式モデル、更に、介在過程/主観過程モデルを突破し、新しいモデル:
3極型モデル、即ち、S-R図式+介在過程+相互共有の場/共同の地盤を示唆したこと
にあると云って過言ではないでしょう。
彼の示唆は、Newcomb (An Approach to the Study of Communicative Act,
1965) にも当て嵌まります。
彼は、A—B—Xシステムを提示します。 このシステムの基本は、行為者、Aが、他者、Bに
(志向)対象について情報伝達する行為(communicative act)に在ると定義され、
他者Bから行為者Aにも同様の行為が展開された場合、社会的相互行為を意味します。
Newcombは、特に、志向( orientation) を重視し、2種類の特色を挙げます。
1つは、AとBのそれぞれの志向は、共同の環境界/対象X、と共同の関心に依ると
特色、もう1つは、A の対象Xへの志向は、Bの志向に依存、影響されるという特色。
とういうことは、A—B―Xシステムにおける志向性は、行為者に依る共同対象への志向と
行為者相互に対する志向が識別されると云うことです。
より詳しくは:
共同志向は、行為者Aが志向する対象Xへ行為者Bも志向し、この意味で、同じ対象志向を
共有することを意味し、相互志向は、行為者間において、Xに対するAの志向はBの
志向に状況依存(contingent)、影響を受け、且つ、このような指向性はBもまた、Aの志向
に依存する場合、両者の志向の相互性(相互依存性)が認められます。。
このように同一対象志向の共有/共同志向と志向の相互依存性を、Newcomb は
想定しつつ、更に、志向を、志向の対称性と共‐志向( co-orientation)の力動に進み、
対称性は、志向の同様性と同時性を意味し、それが維持されれば、A-B-Xシステムの
均衡が保たれ、そうでなければ、志向の対称性への緊張/圧力が生じ、解決策が色々と
講じられます。
いずれにせよ、システムを修正、強化するような、何らかの効果がもたらされるならば、
結果として、共-志向は、比較的安定した均衡を獲得します。
以上のAschとNewcombのモデルを振り返りますと、
Aschは、社会的相互行為に、行為者個人の各々の心理学的場を超えた、’相互に共有さ
れた場’を想定し、他方、Newcombは、社会的相互行為をA—B―Xシステムを案出し、
行為者、A とBの対象Xへの志向の共有/共同に注目しました。
このような構想は、少なくとも、3つの見解を引き出すことが出来るでしょう。
何よりも先ず、両モデルが、S-R図式モデルに比べて、第3者的要素に照明を当てている
こと、従って、社会的相互行為は、3極構成として、両モデルを際立たせる特長として
解釈されます。
第2には、両モデルは、一見、別々、ばらばら。 夫々、異なる種類の姿を呈しているか
のように見えますが、視角を転じて接近しますと、共通項が透けて見えてきます。
つまり、Asch モデルの”相互に共有された場”には、Newcomb モデルの”志向の共同”/
”共-志向”のモメントが包み込まれ、両者は軌を一にしていると見做せるとしても、強ち、
誤っているとは想えないということです、
最後に、第3の見解を誤解を恐れずに披露しますと、
両モデルは、その中心と見られる構成素、”相互に共有された場”と”共-志向”という想定
が、Schutz,Alfred の相互主観性の概念に想い至らせるということです。
不思議な事に、Aschの論文にも、Newcomb のそれにもSchutzに言及された箇所
は、本文中にも参考文献のリストにも、この現象学的社会学者の著作は掲載されて
いないのです。 上掲の筆者(私本人)の指摘は、単なる’偶然の一致’でしょうか。
決して、無理なこじつけではなく、私には難なく想起出来ました。
そこで、次章において、Schutzの世界 ーー 「日常生活の世界は、原初から、
相互主観的なものである」という世界 ーー へ踏み入れることに致しましょう。
第Ⅵ章
《相互主観性から共同主観性モデル》へ
ーー Schutzの現象学的社会学を基軸に
ここで、Schutz,Alfred⋆ の論考、著作を概観することは、
彼の社会的相互行為論の基底に在る‹相互主観性›(intersubjectivity) が、新しい
地平:‹共同主観性›を開拓し、私達を相互主観性から共同主観性への飛翔へ導くと考え
られからです。
⋆Schutz,Alfred, Der Sinnhafte Aufbau die Sozialen Welt,
1960; trans. by G. Walsh & F/Lehnert, The Phenomen-
ology of the Social World, 1967
それには、先ず、彼のコミュニケーション論を概観することでしょう。
彼のコミュニケーション/社会相互行為(論)の骨子、構成素は:
ⅰ)行為者(私)のコミュニケーションと(他者)の解釈図式の一致;
ⅱ)行為者(私と他者)間での同じリレヴァンス体系の共有;
ⅲ)共同の類型化;
ⅳ)認知的規範コード〔常識的知識〕の共有;
が挙げられ、
特に、下線の語句、一致、同じ、共有、共同は、‹共同›に一括りにされてよいでしょう。
このような考えをより明かにするために、Schutzの相互主観性論に触れねばならない
でしょう:
彼は、行為者、私と他者は、夫々、(ⅰ) 身体的位置 ーー <そこーここ>と伝記的
状況 (biographical situation)の相違から、異なる視界を有するけれども、それは、
2つ基礎的理念化(basic idealization)よって克服されと論じ、ⅰ立場の互換可能性
(the inteterchangeaility of standpoints)、即ち、私は、他者と同じ距離〔位置〕に
在れば、対象を他者と同じ類型性で見る思い、他者も私に対して同じように思うだろうと
思うこと、そして、ⅱリレヴァンス体系の合致(the congruency of systems of re-
levance)、即ち、行為者、私と他者は、同じ対象を同じ仕方〔類型性に準じて〕選択、
解釈し、そのことを当り前と思い、相手も当たり前と思うと論述します。
以上の2つの理念化は、視界の相互性の一般定立(the general thesis of reciproc-
ity of perspectives) を構成し、Schutzの相互主観性の内容、基幹となります。
では、彼の相互主観性論と上掲の‹共同›との関連性はどうなのでしょうか。
ここで、是非とも、相互主観性、共同、そして、共同主観性について考察・検討しなければ
ならないでしょう。
先ず、共同は、同一対象についての私と他者の同一志向の共有、Schutz的に捉えれ
ば、同じリレヴァンス体系の合致の相互想定を意味するといえます。
共同主観性は、共同と同じ過程を共有します、即ち、同一対象への同一志向の相互想定
を内容としますが、加えて行為者間の相互承認が必要条件となります。社会的相互行為
の3極型モデル<私ー対象ー他者>が顕在です。
他方、相互主観性は、基本的には、3極型モデルですが、志向対象の共有、共同の
対象志向は、背後に退き、深着し、潜在化し、行為者間の志向の互換性、乃至、
相互性が強調され、際立つ過程と想定されます。
概要しますと:
共同 ーー 行為者(私と他者)間の同一対象への同一志向の共有。
相互主観性 ーー 行為者間の同一対象志向の互換性/相互性の相互想定。
共同主観性 ーー 同一対象への同一志向の共有/共同についての相互想定の
相互承認。
と識別されます。
以上の考察・検討は、
相互主観性から共同主観性への’飛翔’の浮彫を結果したこととなり、本章の’結論’を
先取りした形を呈 していますが、やはり、Schutzの論述にもう少し踏み入れねばなら
ないと痛感されます。
そこで、これから、Schutzの理論的背景の描出、摘出へ歩を進めることに致しましょう。
«Schutzの理論的背景»
彼の思想の萌芽と開花の圧倒的な影響を与えたのは、Weber,Maxの了解社会学
とHusserlの現象学的社会学が挙げられます。
Schutzは、Weberの了解社会学を意味現象の構成分析として、つまり、個人の行為
とその主観的意味のみが了解〔解釈〕の対象であるとして把握、このことを彼の社会的
世界の意味構造の解明の鍵と端緒に見出し、更に、Weberには、他者志向、他者理解
の地平が暗く閉されていることを鋭く指摘した上で、更に、自我による他我/他者の先験的
構成を撃破しつつ、彼独自の理論を展開しました。
暫く、概観してみましょう。
彼は、先ず、日常生活の世界への還帰し、その解明を試みました。 暫定的に、
5つの項目に分類されます:
ⅰ) 自然的態度;
ⅱ) 行為と投企と動機;
ⅲ) 常識的知識;
ⅳ) 我等関係;
ⅴ) 社会的相互行為;
順次、検討して行きましょう。
ⅰ) 自然的態度
自然的態度は、第一に、前-科学的な経験、諸活動から生じる主観的形成( subjective
formation)で特徴づけられる世界知覚(世界/他者への意味構成)。第二は、当然性。
ーー それは、"問われないものとして当り前のことと思い、思われている(taken for
granted )" ことを意味し、更に、2つ基礎的理念化: ”そして、等々”と”私は、もう一度
出来る”によって世界の意味構造の恒常性をも獲得します。但し、そこでは、”反証
(提起される)迄(until counterevidence)”という留保が必ず付帯しています。
ⅱ) 行為と投企と動機
Schutz は、行為をWeberに倣って、個人/行為者の" 自発的生の主観的に有意味
な体験”として把握して上で、それを’反省的態度’ において、つまり、行為を過去、回顧
において捉え直し、この意味て、行為を主観的意味構成@としました。
@象徴的相互行為主義モデルでは、行為を主観的意味構築(construc-
tion of meaning ) の用語が広く用いられいますが、Schutz的論考
では、意味構成(consititution ofmeaning )が使用されています
ので、本章では彼の顰に従いました。
投企(project) は、行為の未来完了(the future perfect tense) おいて想定され、
既に達成されたであろう未来に付いての予想、行為の未来的結果(への自我の注視=
’反省的態度’)を意味します。
行為(/主観的意味構成)の動機は。2種類が区別されます:目的-動機と理由-l動機。
前者は、未来の行為(予想) によって実現される状態、つまり、投企おいて前もって
構成されるもの、後者は、過去の経験、回顧、’反省的態度’において構成されます。
ここで決して看過されてならないことは、如上の行為、投企、動機の基底に厳存する
”意識の流れ”、”持続”の概念”に他なりません。
ⅲ) 常識的知識
この知識は、自然的態度の中に保持され、手許の備蓄知識(the stock of knowledge
at hand)と類型性の構成体の体系(a system of constructs of typicality)で構成
され、相互/共同主観性で特徴づけられています。
ここでの文脈関係での相互主観性を省察しますと、
日常生活世界の了解(知覚)は、行為者の個別な視界と個別な伝記的状況に準拠します
が、その際の差異〔個別性〕は、既述しました2つの理念化:立場の相互互換可能性と
リレヴァンス体系の合致によって克服され、この過程は、行為者、私と他者の間で
当り前のことと相互想定され、 常識的知識の常識性は、まさに、このような相互主観性に
よって裏打ちされているということです。
ⅳ) 我等関係性
Schutzは、我等関係性の理解のために、先ず、他我(Alter ego)を想定し、
他我は、生き生きとした現在に生きる主観的思考の流れ、或いは、意識の流れとして
捉え、他者も〔私と〕同一の意識構造持つことを意味し、従って、私と他我の意識の流れ
は、生ける現在において同時的(simultaneous) であり、”我々は、同じ生ける現在
を共有する”ということです。この意味がより平易に表現されますと、”我々は、共に
年を取る現象( the phenomenon of" grow older together ")deari、このような
意識の流れの同時性、或いは、意識の流れの共有過程こそが、我等関係の基盤を構成
することが指摘されます。
因みに、Schutz は、他我、つまり、生き生きとした現在に生ける他我を、汝(Thou/
Du) と呼び、このような他我の現存在、汝を私の志向対象とする場合、私は、他我の直接
把握が可能となり、我等関係は、私と他我の間の汝-志向の互換性に存立することと
なります。
ⅴ) 社会的相互行為
Schutzは、、日常生活の社会的世界を重層的現実として把握、3つの層に大別。
原初の境域を対面関係(face-to-face relation) と呼び、その特徴を私と他者の時・
空間の共有、及び時・空間的直接性に見出します。
このような対面関係の1つが、既述の我等関係。
いま1つが、(私と他者間の)社会的相互行為です。
彼の社会的相互行為(論)は、動機の互換性の理念化( the idealization of
reciprocity of motives)に依って説明されています。
行為者、私の〔行為の〕目的動機@(in-order-motive) は、相手〔の行為〕の理由動機
( becauze-motive) となり、自他間ではそれはvice versaであるということが基盤と
なり、それは、更に、行為の動機に対する投企(project )と解釈(interpretation)の
相互想定を含蓄します。
@動機は、目的- も 理由‐の場合も、共に、ここでの文脈関係
においては、行為の主観的意味と捉えられてよいでしょう。
より明細化しますと、私は、他者が私の有意味的(meaningful)行為/意味構成的
を有意味的に解釈することを期待しつつ、行為を投企するのであり、この時、私の投企図式
は、他者の解釈図式に志向します、つまり、私と他者間の行為の意味の投企と意味解釈の
互換性が提示されているということです。
更に、このような投企と解釈は、常識的知識に準拠するということ.
常識的知識は、私と他者の共有する共同の環境界であり、同じ類型性の構成体(con
structs of typicalities)から成り立ちますので、投企と解釈は類型的(typical)
てあり、類型化(typifying)が行われ、従って、社会的相互行為は、類型的な動機の
互換 性ということにもなります。
端的に云いますと、Schutz の社会的相互行為(論)は、行為者、私と他者が、常識的
知識(/共同の環境界)に準拠しつつ、相互想定的に、行為の類型的な動機(/主観的意味)
を類型化しながら、投企し、投企され、相手の動機 を類型的に解釈し、解釈され、
動機を’目的’として、’理由’として互換する行為過程と描出されます。
第Ⅶ章
共同主観性モデル (1)
ーー 共同主観性の力動、或いは、
主観的相互行為の継起的達成の過程
ここでは、Schutz の社会的相互行為論の基底を特徴づける相互主観性の新しい
地平の開拓へ乗り出すことに致しましょう。
彼の相互行為論/相互主観性の世界は、それにしても、なんとまあ、静かで、穏やかな
世界でしょう。
Schutz とParsonsは、ーー 前者は、相互行為者の常識的知識(/共同の環境界)
への類型的準拠による生き方、処方箋を、後者は、共同の規範的文化の同調と制裁に
依る遵守を照明しつつーー 夫々、関心を圧倒的に社会現実の静態、即ち、秩序維持、
或いは、Tiryakian、Edward ( Sociological Theory,1970 ) が鋭く論及します
ように、”制度的な生”( the instututuinal life ) に集中していることは、周知のことで
しょう。
勿論、二人とも、社会現実の動態(分析)を完全に無視、等閑視した訳ではありません。
特に、Parsonsは、社会体系の構造的変動過程の一般理論は、まだ成熟しておらす、
しかし、社会体系の下位変動論の存在を指摘し、制度化の概念を用いつつ、境界線
維持的体系の内部で生起する変容( alteration) を論考しています。
また、Schutz も、Husserl に倣って、社会的相互行為の基盤としての常識的知識/
類型性の構成体(維持・安寧)に対して"反証の提起がある迄”と留保条件をつけて
います。
では、相互主観的世界の安寧さ、秩序維持重視の静態分析を突破し、動態分析への
転換、飛翔の手掛かりは? 何処に在るのでしょうか。
この難題に挑む為に、再び、社会的相互行為場面へ立ち還りましょう。
そこでは、私と他者の間での意味構成・解釈的不一致 (dissensus) ーー つまり、
誤解、食い違い、口論、反目、対立、抗争‥ 等、様々な葛藤 (conflict) の噴出、偏在
が目撃されます。 このような意味的不一致の解消過程、或いは、意味的一致(con-
sensus)の(再)構成の達成過程の解明こそが、共同主観的社会的相互行為、共同
主観性の動態分析の主軸になると想定されます。
このことを、Schutzの論述を踏まえながら、幾らか敷衍しつつ、3つの特徴を挙げますと:
ⅰ 個人行為者の能動的主観/主観性の活性化;
ⅱ 相互主観性モデルの再検討 ーー
3段階構造の明確化;
ⅲ 意味構成・解釈の継起的達成過程
ⅰ 個人行為者の力動、能動的主観性
行為者の能動的主観性は、Schutzに従い、理解しますと、日常生活世界の”反証提起
まで”、つまり、’問題ない(unproblematic)” 状態から、”問題がある(problematic)"
への範て・転覆の差異の原動力、社会現実への対抗勢力として把握され、それは、
バイオグラフィー的状況と個人の独自性(uniquness)と個(別)性( individuality )
に特徴づけられます。
留意すべき点は、能動的主観性が、社会現実の”既存態”(”問題ない”状態)の基盤を
震撼し、その結果として、一時的カオス(/意味的不一致)から、新しい意味とその一致(/
共同・共有)の探索、獲得から、更に、常識的知識と’制度的生’の再編成に立ち向かい、
従って、私と他者の間の共同主観性の力動的な達成過程が看取されるという一点です。
ⅱ 相互主観性の再検討
相互主観性は、3層構造が浮き彫りされます。
より詳らかには:
第1層は、相互後者、私と他者間における同一対象についての同一志向、換言しますと、
自他間の意味的構成・解釈の一致にあります。
第2層は、このような意味的一致は、行為者相互では、当り前と思われている当然性と
恒常性の相互想定。
第3層は、第2層:相互想定の相互承認。
前者は、静態的現状維持過程、後者は動態的(な達成過程)に深く関わります。
つまり、相互想定の前提の当然生と恒常性が(個人主観の”反証提起によって”)打破され
れば、相互主観性は、’静’から’動’へ。 その際、出現する過程は、相互承認 ーー
是認ー否認のそれ。 この過程には、相互想定の確認、確証を伴います。そして、その
結果、そこに、2人の間に意味的不一致となる場合、葛藤が生じ、この葛藤解消過程が、
相互主観性の力動、つまり、継起的達成の過程の内実を含蓄します。
第3層は、第2層の相互想定に関する相互承認。
この過程は、2人の間の相互想定に留まらす、実際的妥当性(確証)、或いは、客観的
証拠の確認に立脚しつつ、行為者、私と他者が、お互いに同意する相互同意/合意
(mutual agreement)を獲得する過程が想定され、ここに、共同主観性の力動:
達成過程を開放する鍵を見出すことが出来ると考えれます。
と同時に、私達は、まさにここにおいて、Shutz的相互主観性から、一段高みの地平、
即ち、共同主観性へと進展することを確認、銘記しなければなりません。と云うことは、
本節では、共同主観性という用語を用いることを意味します。
、
ⅲ 継起的な達成過程 (the process of on-going acconplishment)
継起的とは ーー
行為の相互主観的意味構成・解釈過程は、いつも一定不変でもなく、恒常的でもないと
いうこと、つまり、常識的知識世界の現状維持は、’反証提起のある迄’であり、従って、社会
現実はいつも変革、再編成の危機に晒されでいるということです。
それは、(相互)行為者の独自な個別主観(/能動的主観性)と静態的の相互行為的
世界の常識的知識の対立、齟齬、相剋、葛藤‥などよって、相互主観的意味の一致
の到達、獲得が、不断に、継続的に模索され、生起すると云う、この意味で、継起的と
理解されてよいでしょう。
以上、相互主観性の力動の3つの特徴を描出しました、ここでの文脈関係において
特徴的な構成素、基軸は継起的達成過程と看取されます。
それは、端的に云いますと、相互主観的意味の不一致、即ち、葛藤解消( conflict
solusion )の過程であり、そこから、意味的一致の再建、つまり、相互同意・合意の形
による意味の共有/共同へと立ち向かう過程と想定されます。
このような相互主観的相互行為過程の(継起的)達成過程を輪郭づけるために、
5つの特色を挙げますと:
① 個別的な意味の提案;
② 葛藤の出現;
③ 葛藤解消と合意形成過程;
④ 常識的知識の再編成。
⑤ 制度化
5つの特色をより明細化しますと、
① 個別的な提案
行為者の個別的提案は、行為者側から見れば、行為者個人の能動的主観性/主体性に
よる自発的発言、或いは、個人的・個別的意味構成の提出を意味し、このような提案
は、環境界側からは、例えば、常識的知識の露呈する規範的(/類型性的)曖昧さ、不明確
さに対する個人行為者の対抗措置として対(抗)案(counter-proposal)として把握され
てよいでしょう。
② 葛藤解消過程
常識的知識に対するあからさまな対(抗)案、相互行為者から独自な意味構成・解釈
が提示され、亦、そのような行為/提案が、私と他者の間で相互に相容れられず、対立
的である場合、前者の場合も、後者の場合も、意味的不一致が生起します。
つまり、葛藤の出現です。
それは、既述しましたように、意味的対立が、一時的なカオス(混沌)、アノミー(無規制)
状態を惹起し、共同主観的世界は、一時的にせよ、部分的にせよ、消滅することを
意味します。
③ 葛藤解消と合意形成
葛藤解消と合意形成の過程/手続きには、2つの方向:破綻と統合が予想されます。
その具体的な手続きの代表格は、交渉(negotiation) と取引/折衝bargaining)
に見出せるでしょう。そのことについての考察・検討は次章で行います。
④ 常識的知識の再編成
葛藤解消/合意形成の過程を経て、新しく、新規に獲得された共同主観的意味構成の
現存(’既存態の)常識的知識の’構造変動’を誘発する契機となるということでしょう。
その際、少なくとも、3つの方向が想定されます:
a 原状復帰/回復
b 変容、変革、変化
c 解体、消滅
ここでは、新しい意味的一致(共同/共有)による意味の再構成(re-construction)が、
既存の常識的知識へ再編入され、原状復帰し、その’現状維持’が確認される場合、a),
よりも、 b)の常識的知識それ自身の再編成(re-organization) ーー 部分的であれ、
全体的であれ、ーー それ自身の変容、変革、或いは、再生(re-generation)を意味する
場合に注目しました。
⑤ 制度化
常識的知識の構造的変動と制度化(institutionalization) について考察しておき
ましょう。
制度は、ブリタニカ国際大百科辞典に拠りますと、
せいど
【制度】
〔institution〕
学習すべきことの規範的な妥当性が社会的に認定されている
ものとして認知されるような行動様式。 規範的な拘束力をもって
諸個人に働きかけ、しばしばこれに合致しない行動をとる個人には、
制裁が加えられる。諸個人の思念から独立した、社会的な実在として
現れるところに、制度の重要な特徴がある。
常識的知識は、このような制度について日常生活場面で普通の人々の保持、遵守する
一般的知識と見做され、この意味での制度と常識的知識の関連性から制度化が検討
対象になって来ます。@
@因みに、常識的知識、制度化、更に、類型化を巡る、
Berger,Peter, & Thomas Luckmanの著書:The Social
Construction of Reality: A Tretice of the Sociology of
Knowledge, 1966)に興味深い論述が展開されています。
紙幅の都合で割愛しました。興味のある方は、拙稿本文を
どうぞ。
ところで、Parsonsの制度化(論)は、制度、或いは、共同の規範文化/社会(役割)構造
への同調、逸脱に対する制裁によって社会秩序の安定化を図ることを想定する静態
分析。
けれども、日常生活世界では、様々な衝突、対立が生じ、制度(/共同の規範的文化・
社会構造)の存立が危うくなる様子が窺えます。ときには、噴出、頻出の気配すら。
この場合、最早、制度化の静態的分析は、機能しなくなります。
制度化の力動、動態分析が要請されます。
では、制度化の力動的過程とは、ーー
それは、端的にいって、共同主観的相互行為の継起的達成の過程と見做してよいで
しょう。 制度は、常識的知識に包絡される規範的構成体であり、亦、動態的制度化に
は、常識的知識の構造変動に深い繋がりを、今一度念頭に置きつつ、継起的達成過程
と制度化の力動的過程の関連を再把握して置きしましょう。
先ず、個人行為者の能動的主観性が既存の制度に対して新たな意味(構成)の探求、
提案。この過程を葛藤解消、意味的一致の形成に向けて昇華させ、意味的一致、合意
形成に至る場合、ここに、共同主観性の達成過程、即ち、制度化の力動が想定されます。
それは、常識的知識の構造的変動も予想され、新・旧制度の編成替え、旧制度の放棄と
新制度の再生創生の可能性が看取されます。
より詳らかにには、
ⅰ)社会的行為場面における新しい’処方箋’の採択、適用、この場合、、むしろ、
制度/常識的知識の側の、個人者の提案(意味構成/解釈)に対する柔軟性、許容性、
耐久力次第であること。
ⅱ) 波及的効果による再編成
より小規模には、新しい代替選択肢の関連場面への浸透、伝播。 一般化。汎化
(ramifiction )。
ⅲ) 日常生活世界での様々な’小規模’変革の集合/総計や積み重ねが、究極的には、
制度、或いは、常識的知識の全体的な’構造変動’の導火線となる場合。
ⅳ) 変革は、段階的でゆっくり、緩慢な場合と過激で劇的なもの、変動が挙げられます。
その結果、常識的知識、或いは制度は、安定期を迎え、それを準拠枠とする社会的
相互行為もSchutz的静穏な相互主観的世界へ戻って行くかもしれません。
けれども、それは決して、’恒久的安寧’を約束するのではなく、むしろ、暫定的な過程
に過ぎないと云ってよいでしょう。
またもや、新しい構造的変動が、行為者の内・外の環境界からの衝迫によって生起、
出現するのでしょうから、そして、このことは、取りも直さず、制度化の力動と共同主観性
の継起的達成を物語っていることを意味するということです。
第Ⅷ章
共同主観性の力動:達成過程
ーー 具体的手法の解明に向かって
前章では、
共同主観性の達成過程を相互行為者、私と他者の間の意味構成/構築的不一致。
つまり、葛藤の解消過程として把握、考察しました。
本章では、このような葛藤解消過程の更に踏み込んだ解明とその具体的な手法の
幾らかへの探索、把握を試みることにしました。
そのために、先ず、〔社会的〕葛藤の再把握を。
葛藤を広辞苑で調べますと、
かっとう
【葛藤】
➀ 割愛
② 〔心〕試の中に、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の要求や考え
があって、その選択に迷う状態。「心の中に__を生じる」 「心理的__」
ブリタニカ国際大百科辞典に拠りましと、
かっとう
【葛藤】
〔conflict 〕
(1) 心理学用語。人が2つの同程度に魅力的な(あるいは)同程度に嫌いな)
選択肢のなかから一つを選ばねばならない状況。このような葛藤は基本的には
3つの型が分けられる。(a)接近・接近型 〔割愛〕 (b)回避・回避型 〔割愛〕(c)
接近・回避型 〔割愛〕。 (2) 精神分席用語。本能てき要求(イド)とそれを抑制
しようとする超自我との間の対立などをさし、これから生じる深い・苦痛な感情
状態を神経症発生の主要な原因と考えている。
上掲の語釈、説明を概要しますと、
葛藤は、個人行為者の”心の中に”生起する、対立的な選択肢二者択一的選択をめぐる
迷いを指し、それは、取りも直さず、個人・内、或いは、私人的(personal)な心理/精神
過程と見做されているということです。 社会的な側面/レヴェルは等閑視されていると云える
でしょう。
本稿では、葛藤を、社会的相互行為場面における複数行為者、私と他者に生起する
意味的不一致として、つまり、対人的(interpersonal)な関係上の過程のそれとして
想定しました。 それは、取りも直さず、社会的葛藤を意味します。
では、社会的葛藤とは、 ーー
この設問に対してCoser,Lewis (The Functions of Social Conflict, 19??)@ の社会
的葛藤に立ち寄りましょう。
@彼は、社会的葛藤を論じた数少ない先人のお一人です。
意外なことに、また、残念なことに、社会的葛藤を取り上げる
方々は余り見当たりませんでした。
彼は、Simmel,Georg の論文/文言を引用、命題として捉えつつ、社会的葛藤に関して
新しい視野を開きます。
彼は、社会的葛藤は、対人関係の’接着剤’となる要素であり、勿論、社会現実の既存
態(秩序維持)を攪乱し、カオス、アノミーを産出しますが、時には、社会現実への
革新的衝迫となり、構造的変動への可能性を孕むと主張します。
つまり、社会的葛藤の肯定的機能への着眼、慧眼です。
このことを、私達の’主張’に即して捉えますと、
肯定的な社会的葛藤は、葛藤解消の過程を含蓄し、それは、換言しますと、合意形成の
過程であり、行為者の主観的意味構築(構成)の不一致から意味的一致へ到達する
過程: 対立する ーー 相互行為者間であれ、社会現実(構造)に対してであれーー
行為、意見の提案、反提案の応酬、修正‥から新しい選択肢の再編成、つまり、合意
形成に到達しよう、する過程を意味します。そして、この意味的合意形成過程に、私達の
共同主観性の力動、達成過程の本質が再認識されねばならなでしょう。
如上の想定の下に、
共同主観性の力動:達成過程の具体的な手法の探索を試みることにしましたが、
暫くの’放浪の末’辿りつきましたのが、交渉(negotiation)でした。交渉は、共同主観性
的達成過程への手法としては最も有効なものと見做されてよいでしょう。 他には、
が挙げられますが、先ずは、交渉から検討致しましょう。
«交渉/negotiation»
negotiationは、International Encyclopedia of the Social Sciences (op. cit.,
p.117.) に拠りますと、「個人、組織や政府が、彼等の共同の、且つ、対立する関心の新
しい組み合わせを明示的に取決めようと努力する(或いは、そのように望む)相互行為の
1形式〔翻訳、引用者〕」と説明されています。
3つの要素が抽出されてよいでしょう。
ⅰ) 社会的葛藤の出現 ーー それは、同一対象への関心の対立、つまり、意味的構築の
差異、不一致によるもの。
ⅱ) 新しい組み合わせ ーー 意味構築の一致とその承認を意味しますが、そのような
決着過程は、Pruitt, Dean G. に依れば、反証的(提案―反提案)性格をとります。
ⅲ) 取り決めのための明示的努力 ーー それは、合意到達迄の努力の過程であり、
提案の対立から新規の意味選択肢の組み合わせに向かう過程であり、どのような
最終決定が下されるかが注目されます。
更に、Wikipediaで、negotiationを検索しますと、 大きく、
分配的交渉(distributive negotiation)と統合的交渉(integrative negotiation)が
分類されていまいた。
分配的交渉は、行為者が、相手に犠牲(損失)を強いつつ、”限られたパイ”(利得)の
分配に関して、自身のみの利益の最大化を図る戦術。 他方、統合的交渉は、行為者
がお互いの利益(獲得)のための合意達成を図り、新しい価値〔行為選択肢〕を創造する
戦術と見做します。
前者は、日本語釈では、折衝、或いは駆け引き。 後者には、交渉、或いは、取引が
大凡、当て嵌められてよいでしょう。@
@ 広辞苑で、交渉とその関連用語を調べますと、折衝、駆引き、
取引が記載されていますが、それぞれの語釈には重複部分が
認められます。
因みに、Rubin,Jeffery & Bert Brown, (Social Psychology
of Bargaining Process and Negotiation, 1972)は、
bargaining と negotiationを葛藤解消の主要メカニズム
として捉え、両用語が殆ど等価地適な仕方で定義されている
ことを鋭く指摘しています。
分配的交渉、或いは、折衝/駆引きについて今少し考察、検討しますと、
この戦略は、所与の事象/対象をめぐる行為者間での意味構築の相違、対立から
葛藤が出現、その解消を目指した新規の意味構築に対する共同主観的達成を模索
する過程であり、ーー ここまでは、交渉の一般的定義と同義ですが ーー
その特徴は、利己主義(self-interest) 的であり、相手の犠牲(損失)を強要し、自身の
利益の最大化を図るやり方にあります。
ですから、
2人関係の相互行為では、2人の未来、相互行為の有効的な継続、発展を期待する
ならば、折衝は、その利己主義的志向の故に、意味的一致、合意達成の見込みは
薄いことが、懸念され、葛藤解消にとって適切で、な妥当な手続きではないことは容易に
想像されます。 解体、消滅の危機に晒されることでしょう。
日常生活場面へ立ち還って、観てみますと:
ここでは、4つのタイトルのみ提示、事例/エピソードのスケッチは割愛します。
(以下同様です。)
エピソード 1: 《Aさんの体験: ATMの前の行列の出来事》
エピソード 2: 《友達付き合い》
エピソード 3: 《ご老体の怒り》
エピソード 4: 《リビングルームの壁紙の模様替え》
以上の事例に関しては、Pruitt,Dean G. (Indirect Communication and the
for Agreement in Negotiation, 1967) の論述を傾聴すべきでしょう。
彼は、交渉(negotiation)を3つの志向段階: ⅰ)分配的志向、ⅱ)問題解決的志向、
ⅲ) 合意形成的志向 に分別しつつ、ⅰ)では、相手の犠牲の上に最大の利益を獲得
しようとする高圧的な戦略なので、防衛的機能を惹起し、ⅱ)利益獲得は部分的となり、、
問題解決(葛藤解決)には至らず、究極的には、当事者相互の譲歩の交換から、ⅲ)
合意形成を目指す統合的交渉へ向かうと述べています。
以上の検討を踏まえますと、
折衝が利己主義的志向である限り、双方の利得獲得、合意の模索、達成に重きが
置かれる限り、ーー そして、何よりも、本稿の主題:共同主観性の力動=達成過程の
解明に最も深い関わりが想定されますので、愛他的な統合的交渉への検討、考察が
要請されねばならないでしょう。
そこで、これから、統合的交渉について ーー 特に、そのより具体的な手法:《妥協》、
《譲歩》、そして《歩み寄り》について探索、検討を進めて行くことに致しましょう。
先ずは、《妥協》。
《妥協》
Nemeth, Charlarn⋆に拠りますと、
⋆Nemeth, Charlan, A Critical Analysis of Research
Utilyzing the Prizoners's Dilemma Paradigm for the
Study of Bargaining, 1972).
≺妥協≻(compromise) は、当事者双方が満足の行く解釈を追求する交渉の過程であり、
本稿/本章の文脈関係では、共同主観的に、当事者の行為(=意味構築)の提案ー
反提案が当事者の間で何らかの解決に至るよう、即ち、各人の望む方向に合意が、
共同主観的に達成されるよう、模索する過程と見做されます。
因みに、Iklé, F. C. ( Compromise, Interpersonal Encyclopeadia of the
Social Sciences, op. cit. )は、妥協を、譲歩を通じて合意形成迄、穏当な立場
から犠牲を払う交渉と述べています。
ここで、妥協をめぐる2つの事例/エピソードを(本文では)紹介しました。
エピソード 1: 《 2人でランチを ・・・ 》
エピソード 2 : 《 久し振りのお喋り 》
以上を捉え直しますと、
妥協の第一義的特徴は、合意点の模索と発見です。
合意点は、交渉中の当事者が、お互いに、或いは、一方が対立・対抗的な代案を
提示したとき、双方の立場(福利)に配慮しつつ、双方の意見を調整しながら、双方が
ある程度満足出来るように、双方の意見が一致する地点として解釈されます。
妥協は、葛藤解消のための合意(点)の模索、到達過程と見ることが出来るでしょう。@
@合意点の研究に関しては、Pruitt (op.cit.) は、妥協は、
交渉過程における期待の水準(LOA=level of aspiration) の
実現と行為者自身望ましく思う’希望的観測’の最低限度の間で
当事者各人が決着を付ける事に依って合意点に到達すること、
つまり、行為者が、相手の立場を考慮しつつ、過不足の塩梅を
調整しながら、合意点を探る過程であり、その際、特に、公正の
理念、公正の基準が深く関わり、作用しまkす。(Morgan,W.R. &
Sawyer J. , Bargaining Expectation and Preference for
Equality over Equality, 1967).
《譲歩》
譲歩は、交渉の当事者が自身の主張を差し控え、取り下げ、相手の意見に応じ、
自らの立場の変更をしばしば余儀なくされる過程を意味し、⋆Siegel, Sidney &
Fouraker Lawrence( Bargaining and GroupDecision- Making: Experiments
in Bilatera Monopoly, 19??)は、分配的交渉を誘発する一方的な譲歩と統合的交渉
を結果する譲歩の互恵性を挙げています。
日常生活場面へ立ち還って、譲歩の事例/エピソードを例解しますと (但し、
タイトルのみ):
エピソード 1: 《クッキーの争奪戦、
亦は、譲歩、その一線は譲れない ・・・》
エピソード 2: 《 アナログな会話、亦は、優しい気遣い(の譲歩)》
より詳しくは、統合的交渉の譲歩は、自発性と愛他性を含蓄します。
当事者がお互いに自らの意志で自発的に、ーー つまり、相手に犠牲を強要すること、
されること無く、相手の福利へ配慮しつつ、合意点を求めて暫定的な合意点を設定
しつつ、且つ、違憲の修正、或いは、調整しながら、最終的な解決を試みる過程。
葛藤の強化や行き詰まりを回避、克服する結果も期待されます。
譲歩は、譲歩の互恵性が、共同主観的相互行為には、よりふさわしいと解釈されます。
《歩み寄り》
交渉における譲歩は、一方的なものよりも、互恵性。
互恵的な譲歩は、相手への気遣い、気配りをしつつ、交渉する愛他主義的行動
(altruistic behavior) を意味します。
それは、換言しますと、歩み寄りと見做してよいでしょう。
広辞苑では、
あゆみより【歩み寄り】は、「折れ合うこと。双方の条件・主張を近づけ合うこと」と語釈
されています。”折れ合うこと”は、自己-抑制を伴います。自身の意見の過度な表明
は差し控えつつ、相手と対峙、対話すること。その際の手法は、褒めること。賞賛によって
緊張が緩和し、更に本音を吐露することになるでしょう。
もし、交渉中の当事者が、お互いに賞賛の手法を展開するならば、究極的には、
本音の話し合いが可能となり、それは、合意点の到達への道程となります。 修正、
変更を繰り返しながら、合意点を模索しますが、このような本音(/意見)、つまり、主観的
意味構築の提案―反提案による合意形成(/葛藤解消)が、共同主観性の継起的達成
過程に他ならないのです。
ここで再び、一つ事例/エピソードの素描をしました。
エピソード 1 《 ちょっとお節介な、けれども思い遣り深い女性の物語 》
さて、これまで、
共同主観性の力動:継起的達成過程が想定される過程として、統合的交渉に着目し、
更に、その具体的な手法として《妥協》、《譲歩》、そして《歩み寄り》を取り上げ、検討
してきましたが、他にも、〈協調〉、〈調整〉、〈折衷〉が指摘されてよいと想われます。
そこで、先ず、協調を。
《協調》
協調は、辞書的定義(広辞苑)を ーー 関連語の協同、調和も含めつつ ーー 調べます
と、「利害の対立する者同志が、おだやかに」問題解決〔葛藤解消〕のため努力すること
であり、お互いに譲り合って、「調和をはかること」、更には、その際、当事者が「ともに
心と力をあわせ、助け合って、仕事すること」そして仕事〔当事者同志の葛藤解消・
合意形成〕は、「うまくつりあい」全体に整っており、矛盾なく、「ほどよいこと」を意味する
と解釈されます。
ここで、日常生活場面での事例/エピソードを:
エピソード 1 《ブーケは、どんな花束に・・・》
協調は、交渉中の当事者が、お互いの対立する意見、つまり、葛藤の’おだやかな’
解消へ向かうことであり、この’おだやかな’解消は、譲り合いながら、調和を図りつつ、
合意(点)に到達することにあると想定されます。
〈調整〉
広辞苑の語釈を掬い上げますと、 調整は:
「〔物事、或いは、乱れているものの〕調子を整えること」であり、それは、「過不足なく」、
「ほどよく」、「」秩序づけ」、「調和させること」、「具合よくまとめること」と解釈されます。
それは、当事者/行為者間の行為(/意味構築)的葛藤の解消を、”乱れているもの”
換言しますと、対立する意見の調和を考慮しつつ、過不足なく、’ほどよい’形に整えながら、
合意の実現を図る共同主観性の継起的達成過程の1つの手法と見ることが出来るで
しょう。
ここで、事例/エピソードの素描を。
エピソード 1: 《 友人2人の小冒険のウオーキング》
〈折衷〉
広辞苑のせっちゅう 【折衷】、そして関連語の折衷学派、折衷主義の語釈を踏まえ、
統合的交渉の文脈関係に絡めながら、敷衍しますと、
折衷は、当事者が夫々提出する意見、提案の良し悪し、好‐不都合などをお互いに
勘案しつつ、より良い状況を選択しながら、相互に’調和出来るあたり、つまり、適当な
ところ’で合意に達する、意見/意味構築の一致を実現させる過程、手法と想定されて
よいでしょう。
ここで、事例/エピソードを1つ:
エピソード 1: 《卵と毬の物語
ちょっと荒唐無稽な ・・・ 》
一言付け加えますれば、
折衷の過程で模索される折衷点 ーー 共同主観性の継起的達成過程 ーー は、
玉虫色になり易いと云うこと。 つまり、当事者は、お互いに出来るだけ都合の良い
折衷点を獲得しようとするために合意(点)が曖昧になるということです。このことは、
折衷は、或る意味’万華鏡の如き’過程とも見ることが出来るでしょう。
《 話し合い》
以上、統合的交渉とその具体的手法の幾らかを取り挙げましたが、
最後に、これらの過程に通底する基礎的要素、即ち、話し合いについて今少し考察、
検討することに致しましょう。
話し合いの第一義的要素は、相談と想定されます。
広辞苑に拠りますと、相談は、「互いに意見を出して話しあうこと」。
より具体的には、意見の表明(/自己現前)と意見の傾聴と理解を含蓄します。
意見の表明は、Goffmanの描く自己表明の色々な手法、例えば、当事者が相手に見せ
付ける’外連味’の強いパフォーマンスは、趣を異にし、当事者が、自らのあるがまま、その
ままの姿を相手に対して自己現前するということ。 それは、’胸襟を開く’、’腹蔵なく’
語ることを意味します。
今1つの基礎的要素、傾聴は、聞き巧者の特徴であり、相手の話に耳を傾けること。
それは、相手に真っ直ぐ向き合い、相対すること、そのためには、何よりも、自制が要請
されます。 つまり、先入観、偏見、‥などの蟠りを捨て、虚心坦懐に。
そして、当事者は、相手と歩調、波長を合わせること。
相手の話すままに耳を傾けること。 日常的言語では、”相手の身に(立場に)に
立って” 話を聴くことであり、それは、共感を意味します。
けれども、この場合の共感には、同一化(一体感)に加えて、自己離隔(自己客観化)
による共感からの離脱が必要です(Katz, Robert, op.cit.)。 それは、 共感から獲得
した情報を冷静に見直し、客観的に分析することであり、慧眼と心眼が最適な過程で
しょう。
傾聴には、共感と離脱の相反する過程の間を振り子のように往ったり、来たりしつつ、
相手への理解を深化させて行くということです。
以上を締め括りますと、
共同主観性の力動:継起的達成過程の解明を、葛藤解消過程のそれとして把握 ーー
つまり、相互行為者(私と他者)間の行為/意味構築の対立、不一致から一致、或いは、
合意(形成)への到達過程として捉え、第一義的特色を、統合的交渉に求め、その
具体的な手法として、妥協、譲歩、歩み寄り、更に、協調、調整、折衷を挙げ、それら
下位-過程に底通する基礎的要件として、話し合いに言及しました。
最後に一言を:
本稿での究極的主題、共同主観性の力動(の解明)は、微視的社会現実の最小単位に
照点が絞られており、この意味で、限定的、’閉鎖系’的と見做されます。
より広範な、開放的な、社会学的’宇宙’への探究は、別の機会に、ーー 出来ますれば、
他の方々にお譲りして、一先ず、ここで、本稿(の概要)は、閉幕とさせて頂きます。
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、
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を含蓄します。
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想定。
最後に、
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