はじめに
Garfinkel, Harold, Studies in Ethnomethodology (Prentice-
Hall, Inc., Englewood, Cliffs, New Jersey, 1967)の翻訳:
全訳 ーー 第5章、及び、図形と図表を省く ーー を40数年前に試みて、
そのままになっていました。
今更、と云う感じも否めませんが、出来れば、出版を、と考えております。
どなたか、出版の手続き等ご教示頂ければ、幸甚に存じます。
どうぞ、宜しくお願い致します。
連絡先は、下記のアドレスへ。
以下では、
上掲の著書の前半 (第1章から第4章まで)の概要を、敷衍・恣意的解釈
を含みつつ、掲載します。 全文掲載は、著作権問題が絡んでくると思われ
ますので、差し控えさせて頂きます。
ご了承下さいますように。
尚、 全文をご所望の方は、下記の連絡先までどうぞ。
ASHIYA- GALLERY- T
phone /fax 0797-31-0269
***********************
エスノメソドロジー的研究を巡って (1)
ーー 概観と感懐
Garfinkel の Studies in Ethnomethodology/エスノメソドロー的研究
の理解を試み、深めるために、以下の順列で考察・検討を重ねたいと
思います。 お暇があれば、ご一読ください。 エスノメソドロジイ的研究
ご理解の一助となれば、光栄です。
Ⅰ エスノメソドロジー的研究の対象とは?
Garfinkel のエスノメソドロジー的研究の理解を試るに当たって、
先ず、彼の研究対象を探ることに致しましょう。
彼は、「社会学をするに際して、... その準拠するものは、日常生活の
組織化された活動 (the organized activities of everyday life )
である。」*と彼の序文で提唱しています。
* Garfinkel,Harold, Studies in Ethnomethodology,
( Prentice Hall, Inc., Englewood Cliff, New Jersey,
i967 ), p. vii.
研究対象は、端的に云って、「日常生活の常識的世界( commonsense
world of everyday life) 」*に置かれます。
この’日常生活〔の世界〕’は、亦、’日々の生活の〔の世界〕( daily life )
という言葉と互換/変換されており、例えば、「他の人々と共に知られ、他の
人々と一緒に当たり前と思われている日々の生活の世界」**;
「日常生活の慣れ親しんだ常識の世界」***、「日常生活の社会的に構造化
された場面」****という表現にしばしば遭遇します。
* Garfinkel, H.,op. cit., p.
** Ibid., p. 35.
*** Ibid., p. 35.
**** Ibid., p. 36.
更に、’日常の’ 〔生活〕/’日々の’〔生活〕 は、様々な日常会話的言葉
遣いの修飾語が代替的に使用されています。 ランダムに上げますと、
ありふれた (commonplace)
普通の/普段の (ordinary )
いつもの ( as usual )
馴れ親しんた ( familiar )
ルーティンな ( routine ) ‥等が、
指摘されてよいでしょう。 ーー 他にも、ガーフインケルの著書の序文、
第Ⅰ章、第Ⅱ章、特に、p。ⅶ ;p。9; p。14; p。36; p。37を
ご参考下さい。*
* Garfinkel、H. op. cit.
因みに、各々の英単語の日常的修飾語に対して日本語の各々は、
意味的に、また、”類語”的にも重複する部分があり、混乱を避けるために、
’一つの英単語に一つの訳語’と云う風に、’一つの日本語訳’を選別
しました。 が、ジーニアス英和辞典*に拠りつつ、もう少し詳しく、
明細化しますと、
SHARP電子辞書 (製造番号:OMO14457) に所収。
commomplace
ーー 形
❶ ごくふつうの、平凡な;つまらない 《 common より
「ありふれた」の意が強い》
(「類語比較」 ⇨ ordinary )
用例:
∦ commonplace duties
日常の(きまりきった)職務
ordinary
ーー 形の
❶{通常限定} ふつうの、通常の (common);
正規の、常勤の
用例:
∦ What ordinary people want is to live in peace.
庶民の望みは平和に暮らすことだ。
∦ in the ordinary way
いつもの場合(なら)
❷ 〈特に優れたわけでもなく) ありふれた、
平凡な(⇔ extraordinary )
as usual
いつものように、例の通りに
∦ She arrived late as usual.
いつものように彼女は遅れてついた。
∦ business as usual
いつもと変わらないお決まりの日常の仕事(生活)
routine
ーー ❶ いつもの、 日常の
用例:
∦ routine work
決まりきった日常の仕事
❷ 規定通り、型通りの
❸ ありふれた、ふつうの、退屈な (dull)
上記の列挙を瞥見しますと、
’日常’/’日々の’ の意味内容は、「ごくふつうの」、「ふつうの」、「通常ん」、
「ありふれた」、「平凡」、「いつもの」、「いつもと変わらないお決まりの」、
「きまりきった日常の」、「型通りの」 という形容詞によって、主として、
特徴づけられていると看取されます。 簡潔に、エスノメソドロジー
的に解釈しますと、日常/日々の生活世界は、ふつうの〔普通の〕、いつもの、
ありふれた、馴れ親しんだ、そして、ルーティンな生活の世界に落ち着いて
良いでしょう。
このような日常の/日々の生活世界は、また、常識の世界(common-
sense world) と想定されています。
では、常識とは、 広辞苑*を調べますと、
* SHARP電子電子辞書 所収。
じょうしき
【常識】
( commom sense)
普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。 専門
知識とともに、理解力・判断力・判断力・思慮分別などを
含む。 〔用例割愛〕
更に、ブリタニカ国際大百科辞典*に拠りますと、
* SHARP電子辞書所収
じょうしき
【常識】
( common sense) 一般に学問的知識とはことなり、
普通人が社会生活を営むために持ち、持つべき意見、
行動様式の総体をいう。 これは罫線の集積からなる
ことが多く、時代や階層がことなれば、通用しないものも
あり多分に相対的なものである。
〔以下割愛〕
’以下割愛’としましたのは、常識の解説が、哲学的傾向を帯びて行き、
ここでの関心から離隔して行くからです。そこで、初心に立ち還って、
Garfinkelの「常識(的)」の用語を、ーー 更に、Schutz, Alfred へ
遡上しつつ検討しましょう。
Garfinkelは、「常識(的)」を、彼の著書の第Ⅰ章で試みた3種類
の「実践的な社会学的推理」 の内の最初の項目の見出し: 「”選択の
常識的状況”においてアカウントすること」のなかに使用しています。*
* Garfinkel,H. op. cit., p. 11.
具体的には、UCLAの自殺防止センターの記録に纏わる照査で、この
用語 ーー つまり、、「常識(的)」の意味内容についての説明は見当たり
ませんでした。
けれども、第3章では、タイトルそのものに 《社会的構造の常識的
知識》 が揚げられており、論文の冒頭のパラグラフでも、「... 家族
の振る舞い、市場の組織 ... など、 そのような社会生活の是認
された事実は、彼 〔集合体の成員〕 の実践的な出来事のマネジメント
への集合体の成員の関心という観点からの記述から成り立つ。」*
そして、そのような協調された行為の社会的に組織化された環境について
の知識を ”社会構造の常識的知識” ("common sense knowledge
of social structure")**と言明し、このような使用法は、Schutz, Alfred,
に基礎を置くと続く、 脚注で、彼の著作集を紹介しています。***
と云うことなのですが、Garfinkelの「常識」をめぐる説明/解釈は、
どうにも、とも不可解・難解ですので、Schutzの著作****を紐解いて
みることにしました。
* Garfinkel, Harold, op.cit., p. 76.
** Ibid., p. 76.
*** Ibid., p. 76.
**** Schutz, Alfred, Collected Papers: The
Problem of Social Reality (Martinus/
Nijihof, The Hague, 1971)
彼は、第Ⅰ章の項目Ⅱにおいて、「常識的知識」について論述して
います。 概要しますと、
先ず、最初に、それは、「類型性〔という〕構成概念の体系 (a system of
constructs of typicality)」であり、ⅰ) 視界の互換性〔/相互主観性〕、
ⅲ)社会的分配 を含蓄すると論考されています。* そして、彼の常識的
知識〔への構想の理念化(idealization)〕は、「前‐慣れ親しみ(fa-
miliarlity) と前‐親しみ性〔(pre-acquaintanceship)の地平の内での
対象であり、更なる告知まで (until further notice)そのものとして、
疑い無きもの(the unquestioned)として在り、しかし、何時までも、
疑われるものとして、まさに当たり前と思われている(taken for granted)
手許の備蓄知識」**であり、Garfinkel的観点からしますと、特に、
引用文の後半が注視されてよいでしょう。
*Schutz, Alfred, op. cit., pp. 8-9; p. 11.
**Ibid., p. 7.
因みに、この鍵括弧部分は、いま一度捉え直しますと、「反証まで
(until counterevidence)、当たり前と思う」*; 「反証が現れるまで
(counterevidence appears)、当たり前と思う」**と説明され、
この方が理解され易いかと思われます。***
*Garfinkel,Harold, op. cit., p. 12.
** Ibid., p. 327.
*** これらの語句に関しては、その出典は、Husserl,
Edmund の後期代表作(E. フッサール、細谷恒夫・
木田元訳、ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学、
中央公論社、2011)に見出されますが、彼の語法、
文体は、Schutz , Garfinkelを遥かに凌駕する難解
極みなものと思えます。お暇な方、或いは、学究心に
燃え捲っていらっしゃる方は、ご挑戦、ご精読なさって
見て下さい。
何はともあれ、
以上が、Schutz の著作から抜粋しました「常識」を巡る論述ですが、
ご賢察のように、彼の論述は、深化するほどに、Garfinkel の場合と
同じように、複雑に駆らぬ言語/思考のジャンルに迷い込むばかりのよう
ですので、「(反証が出るまで)当たり前に思われている」 と云う語句
を掬い上げたことに労が報われたことにして、私達の主関心:
エスノメソドロジー的研究の理解へ立ち還ることに致しましょう。
その前に一言:
「当たり前と思われている」 という語句は、Garfinkelの著書の第Ⅰ章と
第Ⅱ章(のみ)のなかで、かなり散見され、したがって、比較的よく出会い
ますが、それは、日常的な話し言葉/言葉遣い(として根源的には、
あくまでも準拠されていますけれども)を超越し、Husserl からSchutz
を経由してEthnomethodology的学術語として圧倒的な意義を含蓄
していると解釈されます。 このことを踏まえた上で、エスノメソドロジー
的研究の理解へ歩を進めて参りましょう。
彼の「常識」を巡る既述は、大別して、
ⅰ) 「当り前と思われている ( taken for kgranted )」*
ⅱ) 他の人々と共に知られている ( known in common with
others) **
* Garfinkel,Harold, op. cit., p. 8; p. 13; p. 37, et al.
** Ibid., p. 35; p. 51; p. 56; p. 57, et al.
と云う2つの特色によって照明されています。
ここでは、云うまでもなく、専ら、第1の特色を取り上げます。
ーー 第2の特色については、後述します。ーー
そこで、この特色:「当たり前と思われている」 と云う語句が織り込まれて
いる文章の幾つかを列挙してみましょう。
⁂ 「・・・ 成員によって当たり前だと思われているその
達成の普通の、技巧的なやり方」*
⁂ 「・・・ 成員は、その反映性を当たり前と思っている。」**
。
⁂ 「彼等の日常的な出来事の振る舞いに対して、
人々は、 ・・・ を当たり前のことと思っている。」***
⁂ 「”共に知られ、当たり前と思われている世界”」****
⁂ 「その成員は、・・・ 〔社会に記述〕 を他の人々と
共に知っており、当たり前と思っているとして使用し、
取り扱う。」
が挙げられます。
*Garfinkel,Harold, op. cit., p. vii.
** Ibid., p. 8.
*** Ibid., p. 30.
**** Ibid., p. 37.
****** Ibid., p. 77.
瞥見しましても、Garfinkel においては、「当り前と思っている」という
発想は、「成員 ・・・ のやり方」、「成員の反映性」、「彼等〔人々の行う〕
日常的な出来事」、「〔日常生活の〕世界」、更に、「社会の記述の使用と
取り扱い」について〔「当たり前と思っている」〕 ーー 換言すれば、
”指向対象”の内実を巡る既述に強調が置かれ、当該語句それ自身の
意味内容を窺い知ることは容易ではないと看取されます。 ので、
いま少し、この角度からの検討を試みる必要がありそうに想えます。
そこで、その口語的/日常的基盤における意味解釈から ーー 何故なら、
そこには、何と云っても、エスノメソドロジーの根源的準拠地ですから ーー
始めることに致しましょう。
そのためには、最も手っ取り早く、広辞苑へ立ちより、「当り前」を
調べて見ますと:
あたりまえ
【当り前】
➀そうあるべきこと。 当然。 「そんなことは____」
➁ごく普通であること。 なみ。 「___の服装」
更に、拡大解釈して、当然 に目を向けますと、
とうぜん
【当然】
道理上からそうであるべきこと。 あたりまえ。
「___の権利」 「__そうなるだろう」
と解説されています。 亜也のも簡潔過ぎますので、もう少し説明が
ほしい... と閃いたのが、 自明 と自明の理。 広辞苑に拠りますと、
じ‐めい
【自明】
何らの説明を要せず、それ自身ですでに明白なこと。
じめい‐の‐り
【自明の理】
わざわざ説明する必要もなく、おのずから明らかな論理。
次いでに、「自明(の)」 の英単語は、self-evident.
OXFORD英英辞典*を検索しますと、
*SHARP電子辞書に所収。
self-evident
adj. obvious and needing no further proof or
explanation.
⋆ The dangers of such action are self-evident.
⋆ a self-evident truth
________________
〔 以下は、筆者の翻訳です。〕
自明の
形 明かで、且つ、それ以上の証明や説明を必要としない
⋆ そのような行為の危険さは、自明だ。
⋆ 自明の真実。
_________________
上で検察しました辞典では、当たり前 は、「そうあるべきこと」/『当然」
と「普通の」と云う2種類の解説が施され、当然 は、「道理上そうあるべき
こと」とあり、更に、 自明/自明の理 は、「何らの説明を要せず」、「それ
自身ですでに明白なこと」、「わざわざ説明する必要もなく」、「おのずから
明らかな」ことであり、 self-evident は、「 明白であり、それ以上の証明
や説明を必要としない」と語釈されています。
このように「当たり前」の意味内容を、その意味的路線上に沿って、把握
して行きますと、Schutzの理念化/発想が呼び覚まされます。 彼の思惟的
特徴は、Husserlのそれを踏襲しつつ、「当たり前と思うこと」/自明性や
「反証(counterevidence) が現れるまで」*という条件を付帯していると
云うことです。 つまり、限定条件です。
*Schutz, Alfred, op. cit. p. 12; pp. 326~327.
と云うことは、「当たり前」/自明性の孕む’明白さ’は、決して永久不変な、
恒常的なものではなく、機会・状況によって、それに対立、対抗する証拠が
出現し、その妥当性が確認/確定されれば、打ち砕かれ、或いは、覆される
可能性を含蓄すること云うことです。
このような発想が、SchutzのHusserl現象学理解に深く帰依している
Garfinkelの「当たり前と思われている」の意味内容解釈の中核的な特徴
の1つをなしているとみてよいでしょう。
それは、Garfinkelの「正確に云えば、実験的ではない」* 彼の”実験”に
証左を得ることが出来るといえます。 彼は、日常生活世界の常識的
知識の様々な場面においてそれら諸場面を、故意にひっくり返して、人工
的な転覆を図り、 ーー 即ち、「反証」 の”演出” を試み、被験者に
”演技” させて**、そして、「頑強に慣れ親しんだ世界の異邦さ」***
を探査した手法を指します。
*Garfinkel, Harold, op. cit., p. 38.
** Ibid., 第Ⅱ章。
*** Ibid., p.38.
以上を素描的な考察を概観し、簡潔に云いますと、
エスノメソドロジー的研究の研究対象の主特色:日常生活の常識的知識は、
ふつうの/普通の、ありふれた、いつもの、慣れ親しんだ、ルーティンな
日常生活の当たり前と思われている常識的知識として彩られています。
さて、
ここからは、エスノメソドロジーの研究対象の更なる明細化へ進みましょう。
日常生活世界の具体的な場面/場況は、端的に云えば、組織 に準拠
します。 組織に関して、Garfinkelは、彼の著書の序文の冒頭で「社会学
を行うにおいて、・・・ 準拠は、日常生活の組織化された活動である。」
と本稿最初に、既でに触れましたように、提唱しています。
”組織 (化された) ” という用語は、彼の著書の第Ⅰ章、第Ⅱ章
にかなり乱舞しています。 幾つかの例を挙げますと、
⁂ 「・・・ 組織的に実証可能な意味として ・・・」⋆
⁂ 「・・・ 日常生活の組織化された、技巧的な行為 ・・・」⋆⋆
⁂ 「・・・ 同様の組織的に供給された”関わりの優先順序”」⋆
⋆⋆
⁂ 「実験的な行為の組織化された場況」⋆⋆⋆⋆
⁂ 「組織化された社会的アレンメントは、場況の組織的
なやり方のアカウント可能性を達成する手法から
成り立つ。」⋆⋆⋆⋆⋆
⁂ 「組織的な環境の実際的な機会」⋆⋆⋆⋆⋆⋆
‥等
⋆ Garfinkel, Harold, op. cit., p. 11.
⋆⋆ Ibid., p.11.
⋆⋆⋆ Ibid., p.13.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.32.
⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., pp. 33~34.
⋆⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.32.
組織 (化された/的な)は、上記の抜粋から推察されますように、組織
それ自身とその働き(継起的達成の過程)を含意し、彼は、第Ⅱ章では、
組織を表す用語として集合体(collectivity)⋆ を使用し、その脚注に、
「”集合体”と”集合体メンバーシップ”と云う用語は、Parsons,Talcott:
The Social System (1951) 及び Talcott Parsons et al. : Theories
of Society (1960) への一般的序文における使用法とげんみつに合致
することが意図されている。」⋆⋆と記しています。
⋆ Garfinkel, Harold, op. cit., p. 57.
⋆⋆ Ibid., p. 75.
より具体的に明細化すれば、家族/家庭、学校、職場‥など、別言すれば、
集団、コミュニティ、社会と云うような抽象的な構成体もGarfinkelの視野
に入り込んでいるように見えます。
このような組織、或いは、組織的な場面/場況に対して日常生活世界
の常識的な知識を背景に深い関わりを持つ”普通の人々” が、〔社会〕
成員と解釈されます。 このような成員こそが、云うまでもなく、エスノメソド
ロジーの主対象なのです。
成員と云う用語も序文からよく使用されています。そこで、序文から
引用しますと⋆:
⋆ Garfinkel, Harold, op.cit., p. ⅶ.
⁂ 「・・・ 成員ひよって知られ、使用され、当たり前と思われて
いる・・・」
⁂ 「社会学を行う成員にとって ・・・」
⁂ 「成員の ・・・ アカウント可能にする手法」
⁂ 「成員の実際の、普通の活動 ・・・」
エスノメソドロジー的研究における成員は、組織 ーー 即ち、家庭/家族、
学校、職場など、集合体の構成員を指しますが、更に、より抽象的に、
「社会の成員」⋆と云う用語も採用されています。
⋆ Garfinkel, Harold, op. cit., p. 77.
このような成員は、Garfinkelによって、その特色:有能さ(com-
petence) と本物/誠実さ(bona fide) が挙げられ、彼は、彼の著書
の第Ⅱ章、p. 57 の脚注で、次のように説明しています。
引用しておきましょう。
「私は、”有能さ”と云う用語を集合体の成員が彼の日常的活動を干渉
(without interference) マネージ出来ると云うことを遂行するよう
資格づけられているとのクレームを意味するために使用する」、そして、
「成員がそのようなクレームを当たり前と思っていることを、私は、
”本物の” 集合体成員としての人物 (person) と呼ぶことによって
準拠したい」@と綴ります。
@ 「”有能さ”と”社会構造の常識的知識” について
のより拡大された議論に関しては」 同じ脚注
に参考文献がリストアップされていますので、
関心のおありの方は、時間をかけて、ご精読
なさいませ。
重言しますと、有能な成員は、’干渉なく 〔反証がないので〕、従って、
〔目の前の〕日常的出来事をマネージする能力’を持ち、そのような
能力と資格を持つことを当たり前と思う人(物)を本物の〔社会〕成員
であると解釈されます。
そして、何よりも、このような有能で、本物な成員は、ふつうの、ありふれた、
馴れ親しんだ、ルーティンな、いつもの日常生活の常識的知識の世界
にあって組織的/社会的に活動し、振る舞い、行為する ’普通の人々’
であることを主要な対照に他ならないのですから。
ところで、このような ”普通の人々’ である〔社会〕 成員の ”日常
生活の普通の活動” は、実践 (practices) ⋆ としてGarfinkel的
には認知され、使用されています。 実践は、捉え返せば、日常生活
の、ふつうの、ありふれた、慣れ親しんだ、ルーティンな、いつもの、
日常な状態〕・現象を指し、修飾する用語であり、特に、第Ⅰ章に頻繁に
に出没し、例えば、「実線的な活動」⋆、「実践的な環境」⋆⋆、「実践的な
行為」⋆⋆⋆、 「実践的な達成」⋆⋆⋆⋆、 「”実践的な目標のために” 」⋆⋆
⋆⋆⋆ 等等、集中的に使用/愛用されています。
この用語、実践 は、次節でもう少し詳しく検討することに致し
ましょう。
⋆ Garfinkel,Harold, op. cit., p. 8.
⋆⋆ Ibid., p. 1.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 4.
⋆⋆⋆⋆ Ibid, p. 7, et al.
Ⅱ エスノメソドロジーの基礎的概念
前節では、エスノメソドロジーの研究対象について幾らかの検討を試み
ました。
では、この研究の方法論は、どのようなものでしょうか。
この設問に先立って、先ず、エスノメソドロジー的研究を巡る基礎的
概念・用語を浮き彫りにすることが必要ではないでしょうか。
そこで、幾つかを取り上げ、列挙しますと、
ⅰ) 実践的な、実践 (practicaal ; practice)
と 実際的な(actual)
ⅱ) 反映性 (reflectivity)
ⅲ) インデックスシカルな表現 (indexical expression)
ⅳ) 現れ (appearance)
ⅴ) 表層化の/根底にあるパターン (the underlying pattern)
ⅵ) 過去想見的 - 未来想見的 (retrospective―prospective)
ⅶ) 継起的達成 (on-going accomplishment )
ⅷ) 操作的 ( operational) と 一歩づつ (step by step )
ⅸ) 背景の期待 (background expectance;expectancies ) と
共同理解 (common understanding)
ⅹ) 合理的な (practical; rational )
これから、上掲の概念・用語を、順次、考察・検討して行くことに致しましょう。
ⅰ) 実践的な、 実践 (practical ; practise) と
実際的な (actual)
第Ⅰ章の冒頭で、「以下の研究は、実践的な活動 ( pracdtical
activities)、実践的な環境 ( practical environment)、実践的な
社会学的推論(practical sociological reasoning)・・・ 」⋆ と云う
語句 に出会います。
実践的な と云う用語は、第1章では、 実践 と共に頻繁に使用
されています。@
⋆ Garfinkel, Harold, op. cit., p. 1.
@ 実践的も実践も、序文、第Ⅰ章の冒頭から出現しとり、
ですから、全編をメロディー/主旋律のように、繰り返し
流れるのだとばかり思っていましたら、意外にも、
第Ⅲ章以降は、影を潜めたまま。 そこでもう少し
詳しく、
広辞苑を調べますと、
じっ‐せん
【実践】
➀実際に履行すること。 一般に人間が何かを行動に
よって実行すること。 「考え__に移す」
➁ 〔割愛〕
ジーニアス英和辞典で、practice を引きますと、
practice
― 名
❶(理論に対して)実行、実施; 実地、実際
❷慣例、慣行、習慣、やり方; (規則的な)常習行為、
癖;風習
以上に、ピックアップしました、実践 の説明/語釈を、エスノメソドロジー
的文脈関係において捉え直しますと、実践(的な) は、’日常生活の
ありふれた活動’ に振向けられ、より具体的には、”現実の世界”
(”real world”)、即ち、’日常生活の慣れ親しんだ常識の世界’でそこに
活動する人々が実際に行っている、或いは、実行している、普通の行動
を指すと見做せます。
このことは、’実践的な活動、実践的な環境、実践的な社会学的推論’
と云う上掲の文言の含蓄を、実践的な環境、即ち、日常生活の常識的
世界での成員が、「実際に履行する」、或いは、「行動〔活動〕によって
実行する」「慣習、慣行、習慣、やり方」、つまり、ありふれた、ふつうの
諸活動を、社会学者も彼の釈迦烏嶽的推論を、成員の”内側”から、
反映的に行うことと解釈してよいでしょう。
では、反映的 とは ーー
この極めてGarfinkel的概念の解明へ進むまえに、 実際の について
検討を試みなければなりません。 と云うのも、Garfinkelは、この言葉を
実践的な と殆ど同義語のように使用しているように見受けられからです。
しかも、第Ⅰ章に止まらず、にです。
幾つかのセンテンスを上げますと:
「彼等〔成員〕の実際的な ・・・ 実践の合理的な特色」⋆
「アカウントの個別項目はそれらへの実際の使用と ・・・」⋆⋆
「実際の順列は記述されめばならないだろう。」⋆⋆⋆
「組織的な環境の実際の機会」⋆⋆⋆⋆
「・・・実際の現れは、彼〔成員〕にとって・・・」⋆⋆⋆⋆⋆
「・・・ 実際の発言は、共同の ・・・ 分かり易い話の事象として
承認される」 ⋆⋆⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel,Harold, op. cit., p. 8.
⋆⋆ Ibid., p.3.
⋆⋆⋆ Ibid., p.24.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.32.
⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.36.
⋆⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.41
継いで、 実際 を広辞苑で調べますと、
じっさい
【実際】
➀想像や理論ではなく、実地の場合。 現実の有り様。
「理論と___とは異なる」 「____にやってみて驚いた」
実際(的な) と 実践 (的な) は、語釈的にも、重なり合う処が覗え
ますが、エスノメソドロジー的には、両者とも、日常生活世界での事象・
出来事 を指し、敢えて差異を特徴づければ、前者は、対象/行為の
目の前的な現れ、後者は、行為(者)の実行力に見出せると解釈され
ます。
ⅱ) 反映性 (reflexivity)
関連のセンテンスの抜粋から始めましょう。
「エスノメソドロジー的研究は、日常的活動の組織として成員が
アカウント可能にする手続きである。」⋆
「・・・ 成員が組織された日常的出来事の場況を産出し、マネージする
活動は、それらの場況を’アカウント可能にする手続きと同一 (identical)
である。」⋆⋆
更に、
「・・・ 次のような’反映的な’ 実践に注意を喚起したい:彼のアカウント
する実践によって、成員は、日常生活の慣れ親しんだ、ありふれた、
活動として認知出来るもおにすること」⋆⋆⋆
以上の抜粋で、一応、ピリオドを打ちましょう。
⋆Garfinkel,Harold, op. cit., p. ⅶ.
⋆⋆ Ibid.,p. 1.
⋆⋆⋆ Ibid.p. 7.
なんとも複雑で、晦渋(かいじゅう)なセンテンスでしょう。
けれども、無理を承知で捉えなおしますと、エスノメソドロジー的研究の
対象、即ち、日常生活世界の慣れ親しんだ、ありふれた活動/実践は、
その世界で生きる成員が行っている(産出し、マネージしている)それで
あり、社会学をする人々の研究手法は、そのような日常的な成員の活動/
と同じ、同一の体験〔活動/実践〕をすること。
換言すれば、或いは、恣意的に敷衍しますと、日常生活の常識的
知識の世界に生きる成員 (’普通の人々’)と社会学者は、同じ舞台/
場況に立ち、出演し、それぞれの役柄/役割を演技しつつ、時には、
後者は、前者と同じように振る舞いながら、社会学的探求を試みること
と解釈されます。
反映性 の第一義的特徴は、ですから、’普通の人々’と社会学の間
の日常的活動の同一性を含蓄すると見做せるでしょう。@
@ このような概念的意味付け、或いは、Garfinkel
の発想は、筆者には、文化人類学の主要な方法論
の一つ:参与観察 (participant observation)
を想起させます。 Garfinkelの著書には、私の知る限り
では、言及されていないようですが、興味深い主題
ですので ーー 取り組みの仕方では、エスノメソドロジー
の方法論を巡って新しい展開が予想・期待されますので、
意欲のある方は、挑戦なさってみては、如何でしょう。
更に、 反映性 は、この同一性に加えて、もう一つの特色、”内側#から、
(from "within") という特色を包含しています。 関連のある論述を
幾つかを、少し長くなりますが、また、抜粋しましょう。
「それらの研究は、いかに実際の、普通の活動が実践的な行為、
実践的環境、社会構造の常識的知識を分析可能にする手法から成り立つ
か:継起的達成としての実際的な場況の ”内側” から、ありふれた、
実践的な、常識的行為を発見すること ・・・」⋆
「・・・ 文化的場況の秩序あるやり方、その場況の”内側”から認識し、
使用し、産み出す ・・・」⋆⋆
「・・・ 過程も所産も両当事者〔行為者〕によってこの展開の内側から
知られる ・・・」⋆⋆⋆
「・・・ その社会の”内側”からみられた社会での生活についての信念の
正当な秩序として・・・」⋆⋆⋆⋆
「共同の文化の発見は、社会科学者によって、社会構造の常識的知識
する社会の内側からの発見から成立する。」⋆⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel,Harold, op. cit., pp. vii-viii.
⋆⋆ Ibid., p.31。
⋆⋆⋆ Ibid., pp. vii-viii.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p. 40.
⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.54.
⋆⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p. 76.
以上のように、様々な箇所/機会において「”内側”から」、或いは、
「”内側”から」 と云うまさにエスノメソドロジー的構想が展開されています
それは、社会(的な環境/場況)にある成員の側から ーー 別言すれば、
日常生活の常識的知識の世界に生きる ’普通の人々’ の側から、つまり、
そのような人々の立場に立ちつつ、差し当たっての場況を人々が活動
する様子を、社会学者が同じく、同一のやり方で把握/理解すると云う
意味で、 反映性 の特色を示唆していると云うことです。
ⅲ) インデクシカルな ( indexical )
この発想は、少し複雑に見えます。
先ず、インデクシカル と云う用語の意味内容を吟味しましょう。
ジーニアス英和辞典から関連部門のみ抜粋しますと:
index
— 名
❶ 索引、見出し; 目録
❷ しるし、現れ; 指標 (sign)
➐ 〔コンピュータ〕 インデックス 《 データを検索するための
索引情報》
インデックスは、上記の語釈から推察すれば、それは、”何か” を指し
示しているもの、つまり、サイン:sign と解釈さあれ、この”何か”は、
レファレント:referent は、広辞苑によれば、〔言〕 (語・句)指示
対象〔概念〕、つまり、被指示対象、或いは、被指示物を意味すると
見られます。
このサインとリファレントの対応関係は、エスノメソドロジー的には、
日常的な活動/行為、或いは、普通の、ありふれた事象/出来事の研究
に応用されますが、より独特な明確化が試され、indexical と云う
用語が 造語され、展開されています。⋆
⋆Garfinkel, Harold, op. cit., p. 27ff.
その例解として、彼の著書の第一章での学生夫妻の会話⋆を挙げますと、
当事者 (夫と妻) が、それぞれ相手に実際に話したこと ーー つまり、
実際の発話は、サイン(=インデックス)のレヴェルに属し、各人が、
話した事柄について’心に思ったこと、’ 或いは、〔主観的〕理解は、リフェレント
に相当すると見做されます。
⋆ 詳細な会話については、Garfinkel,Harold, op. cit.,
pp. 25~26. をご参照下さい。
このようなサイン(=インデックス)―リファレント図式が追う評される
表現と行為が、インデクシカル と呼ばれています ーー 即ち、インデクシカル
な表現とインデクシカルな行為。 そして。インデクシカル と云う難解な
用語は、今一つ、別の角度から検討する必要がありそうです。
Garfinkelの著書の第Ⅰ章、p. 9 の項目の見出しに「コンテクスト‐内の‐
行為 (action-in-context) という語句が挙げられていますが、この語句に
インデクシカル の別の顔が看取されます。
つまり、’ コンテクスト’ は、成員の日常的な活動/行動の出現、生起
する状況(場況や機会)を指し、’内の’ は、成員の活動/行為がその
ようなコンテクストの内で生起・出現することを意味し、その限りで、
後者を、 状況依存的(conntingent) であると解説されています。
と云うことは、「コンテクストの使用は、例外なく、それ自身基本的には
インデクシカルである」⋆ことに到達します。⋆⋆@
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. ⒑
⋆⋆ Ibid, p. 10ff.
@ Garfinkelは、客観的とインデクシカル を峻別します。
(Ibid., pp. 5-7)。 客観的 の意味内容に関して、
彼は、「客観的 ( コンテクスト-から自由な: context-
free)」と、一度だけですが、この語句を記しています。
( Ibid., p. 4.) 。
恣意的に解釈しますと、それは、日常生活の常識的
知識の世界に準拠する普通の、ありふれた表現、或いは、
行為のコンテクストから離脱し、従って、”内側”からでは
なく、 ’外側から’ (from without) に存立する客観的
発想を指しています。
これは、エスノメソドロジーとは、対立的な発想で
あり、Garfinkelは、その存在は招致していますが、
組しないことを照明しようと晦渋な解説を展開した
ようです。
以上の検討をお浚いしますと:
「コンテクスト‐内の‐行為」は、少し強引な敷衍かもしれませんが、此処での
行為は、サイン、つまり、インデックスを意味し、それは、コンテクスト
(内実)を指標していると意味付けられ、更に、穿った見方をしますと、
行為は、コンテクスト〔状況〕依存的であると云うことは、行為が、場況/
機会次第であり、そのことは、コンテクストの ”内側”から の把握を
含蓄し、コンテクストそれ自身は、勿論、日常生活の常識的知識に準拠
していると構想されます。
端的に云って、行為は、日常世界に準拠するコンテクスト〔の内実〕
のインデックス/指標と見てよいでしょう。
ⅲ) 現れ (appearance)
現れ を含む語句をいちぶ抜粋しますと、
「・・・ 一貫した、筋の通った、明快な、選ばれた、計画性のあるアレンジ
メントの現れ ・・・ 探索し、例証し、・・・」*
「それら〔背景の期待〕の使用とともに、実際の現れは、彼〔成員〕に
とって慣れ親しんだ‐事象‐の‐現れ として諸王人可能で、理解可能
である。」⋆⋆
「・・・ は、対象の実際の現れと特定の方法で現れる志向された対象の
間の是認/制裁された関係性 ・・・」⋆⋆⋆
⋆ Garfinkel、Harold, op. cit., p. 34.
⋆⋆ Ibid., p. 36.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 50.
現れ は、指向された対象、或いは、日常生活過程での成員/行為者
が差し向けられる対象が「特定の方法で現れる」、「慣れ親しんだ‐
事象〔対象〕‐の‐現れ」と解釈されます。
Schutz, Alfred⋆ に準拠しつつ、もう少し踏み込みますと、現象学的
還元 ーー 世界存在を懐疑し、世界認識/信念について〔’判断中止’/
エポケー(epoche) する〕、つまり、括弧に入れた後の’自然的態度’
において人が認知する日常世界のありふれた対象の現れを指し、例えば、
”椅子が、私に現れるままの" (" the chair as it appears to me"」⋆⋆
「指向対象は、最早、それらが存在し現実に在る外界の物事ではなく、
それらは、〔自然的態度の認識主義〕に現れるがままの現象」⋆⋆⋆を意味
すると解釈されます。
⋆Schutz, Alfred,op.cit., p. 104.
⋆⋆ Ibid., p.106.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 106.
エスノメソドロジー的 現れ は、「対象の実際の現れ」、〔意識/認識の
外の〕外界の対象そのものの現実/存在としてよりも、それ〔対象世界〕
が成員/行為者の日常的態度〔意識/認識〕に現れる現象、即ち、 現れ
と見做してよいでしょう。
因みに、生起(occurance)という語も散見しますが、 現れとほぼ
同様に理解してよいと考えられます。
ⅳ) 表層下の/根底にあるパターン the underling patterns
サインーリファレント/sign-referent 図式から浮かび上がったインデ
クシカルな表現/行為と云う基本的用語に関連する、もう1つの発想/
概念としてれかいされます、表層下の/根底にあるパターン が提唱
されています。
最も顕著に説明されている文章を抜粋しましょう。
「・・・ 実際の言語的事象を事柄の表層下の/根底にあるパターンの
”ドキュメント” (" the document of ") して、 ”指し示している”
("pointing to") として、 ”・・・を代表している "("standing on behalf
of ") として取り扱うこと」⋆
⋆ Garfinkel,Harold, op. cit., p. 40.
如上の引用文の含蓄する処は、 表層下の/根底にあるパターン が、
例えば、実際にとられた行為、つまり、サインがその発話の 表層下の/
根底にあるパターン、つまり、リファレント (「心に思っていること」)を
「ドキュメントし」、「指し示し」、「代表している」 と云うことと把握されます。
詳しい検討は、次節のエスノメソドロジー適研究の具体的手続きの1つ、
解釈のドキュメント的手法の項で、改めて試みる予定です。
ⅳ) 過去想見的ー未来想見的 (restopective—prospective) @
@ restrospective は、ジーニアス英和辞典に拠り
ますと、「❶ 回想の、追想にふける、回顧的な
レトロの 〔以下割愛〕 と説明され、prospective
は、「予想される、将来の、見込みある、期待される」
と云う語釈が挙げられています。
Garfinkelの着想を考慮しますと、それは、状況/
場況、或いは、活動/行為の過去と未来を想像してみる、
想って見ると云うことと把握出来ますので、語句の
統一性も考慮しつつ、ちょっと苦しいのですが、
見出しの語句を選びました。私 (筆者/翻訳者)の
造語です。
前項の 表層下の/根底にあるパターン は、この発想を内蔵します。
繰り返し、使用されていますので、その意味内容が説明されている文章
の幾つかを抜粋しましょう。
「各人は、前に詳しく話されたことを知るために、何かがもっと話される
まで待ち/待機し、喜んで待つ/待機する。」⋆
「・・・ 発言を会話の‐中の‐事象として注視しながら、各当事者は
現在の相互行為の生育歴(biography) 〔過去〕 と見通し〔未来〕
準拠する ・・・ 」⋆⋆
「・・・ 彼〔会話者〕や他の人物が後で云っただろうことを俟つ/待機
することによって既でに云われたことの現実的意義が明確にされた
・・・」⋆⋆⋆
⋆Garfinkel, Harold, op. cit., p.40.
⋆⋆ Ibid., p. 40.
⋆⋆⋆ Ibid., P. 41.
以上の抜粋を踏まえますと、会話の当事者は、話をする場合、その発話
の現在の状況をその過去を振り返りつつ、回想し、未来を見通しながら、
予想しながら意味づけ、或いは、”定義” します。@ が、その際、〔予想
する〕未来の状況が、実現するまで、待つ/待機する(wait for) という
過程が顧慮されてします。
端的に云えば、wait and see: 静観する ということでしょう。
@因みに、行為 に関しては、Schutz, Alfredは、行為
(action) を、「・・・ 前もって構想された投企 (project)
に基づいた行動(conduct)*と定義し、行為(act)を
「この継起的な過程の結果、達成された行為(accomplish-
ed action)」**と明示しています。
*Schutz, Alfred, op.cit. p. 19.
** Ibid., pp. 19-20.
「全ての投企することは、空想する(phantasy) という未来行動予想
に依るが、しかし行為の継起的な(on-going)過程ではなく、全ての
投棄の出発点である、既に達成されたとして空想された行為である。」⋆
⋆Schutz, Alfred, op. cit., p. 20.
このように、投企(すること)は、未来的結果を予想し
つつ、既に達成されたであろう未来了形(Future
Perfect Tense) と云う空想のなかで構築される
と論じるSchutzの時間的視野の概念はGarfinkel
において 過去想見ー未来想見的 と云う独特な着想
したのではないかしらと想われます。
更に、注目すべきGarfinkel の説明は、このように、多くの表現が、
会話の更なる経緯を通して漸進的に実現され、実現可能になるという
特性を持つ⋆と云うことであり、つまり、過去想見的ー未来想見的可能性
を有する会話 ーー より一般的には、相互行為の過程は、漸進的に
展開されると云うことです。
換言しますと、既に吟味しましたように、 待つ/待機する と云う発想は、
会話 ーー より一般的には、相互行為の過程が漸進的であり、展開的
であることを含蓄します。 そして、このことは、一歩ずつ(step byn step /
stepwise)という過程@も意味します。
⋆Schutz, Alfred, op.cit., p. 41.
@この過程、 一歩ずつ についての寄り詳しい内容
についてのGarfinkel 的発想は、次節の解釈の
ドキュメンタリー的手法の項の操作的構造に付いて
の検討をご覧下さい。
尚、より一層の理解を切望さるr方は、
Schutz, Alfred,The Phenomenology of the Social
World ( trans. by Geroge Walash and Frederic
Lehnert, Nothernwestern University Pressm 1967,
p.113ff). 原書は、Schutz, Alfred, Sinnhafte Aufbau
der Sozialen Welt (Wien Springer-Verlag, 1960).
Schutzのこの発想は、Husserlのそれを踏襲したものです。
ⅴ 継起的な達成 (ongoing accomplishment )
継起的な達成 と云う概念の使用は、例えば:
「継起的な、実践的な達成としての実践的な行為の実践的なアカウント
可能性 ・・・」⋆
少し長文になりますが、
「社会的事実の客観的現実は、日々の生活の協調された活動の継起的
な達成として、また、その達成の普通の、技巧的なやり方が成員によって
知られ、用いられ、当たり前と思われていることと相俟って、社会学を行う成員
にとって、根本的な現象である。」⋆⋆と記されています。
更に、「私は、エスノメソドロジーという学術語をインデクシカルな表現と
他の実験的な行為を日常生活の組織された、技巧的な実践の状況依存的
な継起的な達成として指し示したい。 本書の論文は、この達成を関心の
現れとして取り扱う。」⋆⋆⋆
⋆ Garfinkel、Harold, op. cit., p.4.
⋆⋆ Ibid., p. vii.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 11.
Garfinkelは、このように、 継起的な達成 のエスノメソドロジー的意義
を強調した上で、 達成 について 「その達成は、民俗学を行い、認識し、
使用する成員から成り立つ。 この 達成 は、成員にとって、知られて
いない、ありふれた現象である。・・・ それ〔達成〕は、成員が協調された
日常生活の活動をインデクシカルな表現とインデクシカルな行為の ・・・
合理的な特性を認識し、例証する手続きとして使用することから成立
する。」⋆ と続きます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 10 .
達成 は、エスノメソドロジーの内容それ自身を術語化したと解釈
よいでしょう。
ただ、この 達成 という術語は、序文と第一章には、しつこいほど
使用されていますが、それ以降は鳴りを潜めてしまいます。 ですから、
今以上の追及は無理・無駄のようですので、
継起的な に移りますと、
継起的な は、日常生活世界の普通の、ありふれた活動/行為が、”所産”
(”product” )よりも ”過程”(”process”)の側面が強調され、⋆ 流動的な、
力動的なもの、つまり、過程的なものを示唆していると解釈されます。
⋆ Garfinkel,Harold, op. cit., pp.24-25.
更に、恣意的な解釈を推し進めますと、 過程的な の内容は、’展開的で、’
’漸進的な’、’一歩ずつ’ を含蓄し、既に、検討しました 過去想見的ー未来
想見的可能性 の特色 ーー Garfinkel による具体的な」設ッ名は、次項:
ⅵ) 操作的 でより明らかにされます ーー と重なり合うことが推察
この感覚で、継起的な と云う特色は、決して看過してはならないエスノメソ
ドロジー的用語の1つと云ってよいでしょう。
ⅵ 操作的な; 操作 (operational; operation)
操作的な とは、更に、当事者にとって現在の状況の未来的状態
が、「性格上、漠然としていて、知られない」⋆ として把握され、従って、
〔現在の〕可能な未来の状態〔直線的な予想〕よりも「ここーいまの未来
からそれ〔未来〕がどの方向にもたらされるだろうか」⋆⋆〔と云う予想〕
関心が持たれ、このような未来が、操作的未来」⋆⋆⋆と呼ばれています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.97 .
⋆⋆ Ibid., p. 97.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 97.
つまり、操作的 とは、現在の未来完了形 (Future Perfect Tence)
において、起こるであろうことを予測して、現在の状態の意味決定(/
解釈)すること ーー 過去想見的ー未来想見的可能性の図式によって
未来から現在を把握するということです。⋆ このような未来完了的想定
は、また、一歩ずつの操作 で特色づけられています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 98 .
それは、「はっきりとしたやり方で知られている未来が、それがどんな
未来であっても与えられた場合に、始まりつつある現在の状態に対
する 一歩ずつの操作 のセットとして未来の状況を実際化する代替的
選択のパスは、特徴的には素描的で、辻褄が合わず、精錬されていない」⋆
と想定されています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.98 .
けれども、それ故に ーー 即ち、明確さに欠けるが故に、 一歩ずつ
の操作 は、「 ・・・ その経過のなかで、実際的な現在の状態の継続
を操縦する。 既に決定された ’ この-場合‐では‐どう‐するか’
〔という〕戦術のセット」⋆を、更に、当事者が、「出来事が実際のやり取り
のコースの関数として実際の動くだろう未知の、望ましまい方向に
対して何らかの制御を保持しつつ、有益なシークエンスにおいて彼の
質問を行うことが出来るやり方」⋆⋆で、 一歩ずつ のコースが 操縦
〔/操作〕される、と云うことを意味します。 それは、また、「最終的には、
会話が当事者の望む方向で終結することを希望しつつ」⋆⋆⋆ ーー
つまり、「・・・ 現在という機会」に適合する、アド・ホッイング戦術の
セット」⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.97 .
⋆⋆ Ibid., p. 98。
⋆⋆⋆ Ibid., p. 98.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p。98.
更に、
一歩ずつの操作 は、「全身てきmに調整される」* 過程とも説明され
ています。少し敷衍しますと:
漸進的 は、状況の解釈 〔管理・操縦/精錬・調整〕は、地道に、
’普通の速度で’、 ’手堅く’、 ’着実な’態度 ーー つまり、相手の速度/
歩調に合わせつつ、決して、飛躍せず、過度に想像を逞しくせずに、
状況の未来的結果(未来完了形)を指摘し、脚色・潤色せず、そうして、
実際の現れ を出来るだけ、ありのまま受容しつつ、相手の ’心に
思うこと’ (/表層下の/根底にあるパターン ) を探ることと想定され
ます。
状況の 解釈 (/管理・操縦)の操作的構造 は、 過去想見的ー
未来想見的可能性の図式、 一歩ずつ の漸進的な戦略を包蔵して
云ってよいでしょう。
v) 背景の期待 (background expectansies) と
共同理解 (common understanding)
背景の期待 は、社会学的には未だ解明されていないものとして、
先ず、記されています。
「通例になっているが、1セットの考察すべき事柄が調査されていない:
日常生活の場面の社会的に基準化された、そして基準化されつつある
” 見られているが告げられない” (seen but unnoticed) 期待された
背景という特色」⋆ そして、「社会の成員は、この背景の期待を〔彼等の
日常的活動〕解釈の図式として使用する」⋆⋆ それは 端的に云って、
「日常的活動のみられているが、告げられて背景」⋆⋆⋆ であると論じて
います。@
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.36.
⋆⋆ Ibid., p. 6.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 37.
@ 「見られているが、告げられていない」 と云う
Garfinkel の発想の後半部分:「告げられていない
について付言しますと、この彼の特色づけの基盤は、
Schutzの「更なる告示まで (until counter
notice」* と云う付帯条件を指摘しなければならない
でしょう。
* Schutz, Alfred,The Collected Papers I,
op, cit., p. 7; p. 12, et al.
Schutzは、視界の互換性の理念化を論じた際に、この
理念化の相互想定は、私と他者の間て当たり前のこと
度も割れているが、それは、「更なる告示まで」、問題に
ならない/質疑されないこと、 ーー つまり、告示されない、
告げられないことを意味します。
Garfinkelは、Schutzのこのような論述を念頭おいて
彼独特の表現: ’告げられていない’ を用いたと解釈
されます。
因みに、ジーニアス英和辞典を引きますと、unnoticed は、
「気付かれない、顧られない; 人目に付かない」と語釈
されていますけれども、ここでは、上掲の脈絡関係を踏まえ
つつ、辞典的解釈とは離れますが、「告げられていない」を
採用しました。
Garfinkelは、「彼〔Schutz〕は、それら〔背景の期待〕を”日々の生活
の生活の態度” ("the attitude of daily life") と呼んだ」⋆
と言及し、「彼は、それらの場面的属性を”共に知られ、当たり前と
思われている世界” として差し示した」⋆⋆ と続けます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 37.
** Ibid., p. 37.
ですから、
背景 と云う特色は、「見られているが、告げられていない」、「共に知られ、
当たり前と思われている」ことに見出されます。
少し敷衍しますと、 背景の期待 の 背景 は、〔期待が〕 日常
生活世界に生きる人々、或いは、社会の成員 〔の意識生〕の目の前
に現れているものではなく、〔人々/成員の認識・知覚〕からは覚醒されない、
或いは、背後に退いているという意味での表現と看取されます。
では、 背景の期待 の 期待 は、 ーー
Garfinkelは、更に、2つの特色: 「共にしられた」 と 「当たり前に思われて
いる」を、 「Schutzが、記述」した背景の期待の1つは、ともに理解されて
世界の構成的特色として懐疑の制裁/栽可された使用 (the sanctioned
use of doubt) に関連する。」* と晦渋的に捉えつつ、「彼の日常的な
出来事の行動(conduct) に対して、人は、〔それを〕想定し、他者も彼と
同じように想定すると想定し、〔その上で〕 そのことを他者が想定する
と想定し、また、他者もそのことを彼が想定すると想定すると云う、この
懐疑されることのない対応関係は、対象の実際の現れ、特定の方法で
指向された対象のあいだの制裁/栽可された関係性である。」**と把握
します。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.50.
⋆⋆ Ibid., p. 55.
如上のGarfinkelの発想は、簡略に表現/意訳すれば、当事者が相手に
対して、投企・空想しつつ、想定する螺旋状の想定過程、或いは、〈
想定の相互性〉 ーー これは、筆者の造語です ーー と捉えることが
出来るでしょう。この過程」には、即ち、 背景の期待 の 期待 が看取
されてよいでしょう。
ここで、暫く、Schutzへ遡りましょう。
彼は、彼の論文において、常識的知識の相互主観的 (intersubjective)
性格とその含蓄を論じた際に、 視覚の互換性の一般適定立 と云う
概念を掲揚し、その主要構成素として、ⅰ) 立場の相互交換性の
理念化 と ⅱ) リレヴァンス/関わりの体系の合致の理念化 を挙げ、
下記のように論述しています。⋆
⋆Schutz, Alfred, Collected Papers I (op. cit.),
pp. 11~12.)
ⅰ) 立場の相互交換性 に関しては:
「もし、私が、彼の”ここ”が、私のものになるように、彼と位置〔立場〕
を交換すると、私は、物事から、〔彼と〕同じ距離にあり、それら〔物事〕を
彼が実際にそうするように同じ類型性(typicality)lで見る; その上、
同じ物事は、実際には彼のものである私のリーチに在るだろうと云う事を
当たり前と思い、ーー 私の同輩も同じことを想定する.」⋆
⋆ Schutz, Alfred, op.cit., p. 12.
ⅱ) リレヴァンス/関わりの体系の合致 について:
視界の相違にも拘らず、「・・・ 彼と私、つまり、”われわれ”は、実際的に、
潜在的に共同の対象とその特色を同一の仕方で、少なくとも、”経験的
に同一の” 仕方で ・・・ 選択肢、解釈したと想定する。」⋆
⋆ Schutz, Alfred, op. cit., p. 12.
Garfinkelは、当引用文(とそれ以下の(Schutz, Ibid.,
p. 12) において用いられている語: 想定する(assume)
に着目し、それを起点に、彼の独特の相互想定の構想
を展開したと想定されます。
以上の2種の理念化を、Schutz の他の著書⋆に沿って、よりへ英に捉え、
’机’ を、私と他者がそれぞれの位置/立場から眺めています。
私と他者は、お互いにその〔眺めている〕位置を交換することが可能であり、
〔もし、交換すれば、〕立場の同一性が仮想され、 ’机’ は、2人の間の
リレヴァンス/関わりの対象であり、立場の同一性 〔の仮想〕によって、
2人は同じ対象(机)を見ていると云うことを意味します。
⋆Schutz, Alfred, The Phenomenology of the Social
World (trans. by G. Walsh and F. Lehnert, op.cit,
1967, p. 105); 併せて、p。165 もご参考下さい。
’机’が、’飛んでいる小鳥’の例となって解説されています。
原書は、Schutz, Alfred, Der Sinnhafte Aufbau der
Sozialen Welt (op. cit., 1960).
このような交換可能な立場(同じ距離)から対象へのリレヴァンスの合致
(同一性)を、私と他者、或いは、行為者が当たり前と思い、相互想定する
場合、換言しますと、 想定の相互性 が供与される時、 相互主観性が
現前します。
因みに、 相互主観性 は、Garfinkel におけるように、その 相互想定
が強調される場合には、むしろ、フィットし、リレヴァンス/関わりの合致
〔対象の同一性〕に、対象の共有に着目するならば、共同主観性と見られる
べきでしょう。
更に、以上の少々回りくどい解明が、 背景の期待 への一助になる
ことを期待し、そして、人々によって、 視界の互換性 や その 想定の
相互性 は、「他の人々と共に知られ、当たり前と思われ、」 「見られて
いるが、告げられていない」 と云うこと、それが、また、 背景の期待
と直接的に拘る特色であることを、今一度、確認した上で、
次の設問に進みましょう。 即ち、
背景の期待 は、何に準拠しているのでしょうか。
それには、端的に云って、日常的出来事の常識知識〔への準拠〕、或いは、
社会構造の常識的知識 〔への準拠〕が相当すろと推察されます。 このこと
をより詳らかにするために、この問題にはいる前に、 共同の理解 に
注目することがどうしても必要と想われます。
と云うのも、
上記で取り上げた 想定の相互性 / 相互主観性 がその構成素
として、地盤として、深く関わっていると思えるからです。 つまり、行為者
は、他者と共に、同じ志向対象を知覚/認知していると他者に対して
想定し、他者もまた・・・ と想定することによって他者〔の指向対象と
その知覚/認知〕を理解すると云う、このような想定的な過程を通じて
共同理解 (common understanding) を実現、達成すると看取
されるからです。
そして、また、 共同理解 と 背景の期待 は、同じ項/節に出没・
使用されていることを踏まえた上で、検討を進めて行くために、
幾つかの抜粋を試みますと:
「どのような種類の期待が共同理解の”見られているが、告げられて
いない背景〔の期待〕を作り上げているのか・・・」;⋆
「背景の理解 (background understanding)」;⋆⋆
「共同理解の背景」;⋆⋆⋆
ーー 等と半ば代替的に入り乱れて使用されているように
見えます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 44.
⋆⋆ Ibid., p. 49; p.53.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 49.
さて、差し当たっての質問: 背景の期待/共同理解 が日常生活世界の
常識的知識 に準拠するとは、具体的には、どのようなことななのでしょうか。
それは、遵守 (compliance )。
下記の引用文に見出されるでしょう。
「 ・・・ 共同理解の可能性は、社会構造の共有された〔常識〕の事象
の計量された量にあるのではなく、その代わり、道徳性/道徳学としての
日常生活の〔背景〕期待の遵守(in compliance with the expect-
ancies of everyday life) 行為の実施可能な性格に完全にある。」⋆
「日々の態度を作り上げる〔背景の〕期待の動機づけられた遵守は、
”生活の自然な事実” の彼の把握と加入と云う人の見解からなる ・・・」
⋆⋆
⋆ Garfinkel、Harold, op. cit., p. 53.
⋆⋆ Ibid., p. 64.
簡略に云いますと、 背景の期待 / 共同理解 の準拠的特色は、
日常生活世界kの常識的知識の 遵守 として解釈されます。
この特色は、更に、少し角度を変えますと、
「社会学を行う人は、素人であれ、プロフェッショナルであれ、共同理解
を実質な事柄について共有された合意として扱うことが出来る ・・・」⋆
「”共有された合意” は、何なが 規‐に‐従って‐云われた(said-accord-
ing-to-a-rule) のであり、実質的な事柄の明示され得るマッチングに
ついてではないという成員の認識を達成する様々な社会的手続きに
依拠する。」⋆⋆
「云われたことは、明確にされる必要のない手続きに従って(in accord-
ance with methods) 発せられるので在り ・・・」⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 30.
⋆⋆ Ibid.,p. 30.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 30.
更に、もう1つの抜粋を加えますと、
「社会の成員は、・・・ 他の人々と共に知られており、他の人々と共に
当たり前と思っている日々の生活世界と遭遇し、知っている。」⋆
「共に知られ、当たり前と思われている世界」⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 35.
⋆⋆ Ibid.,p. 37.
更に、ここでは、もう一つ1つのフ語句にも注目されてよいでしょう。
「誰もが知っている事( What anyone knows )」⋆、「われわれのような
〔人々〕誰もが必ず知っているようなこと」⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 54.
⋆⋆ Ibid., p.54.
この2つの語句、或いは、特色は、取りも直さず、 共同理解 の’共同の’
意味内容を指摘していると見られ、日常生活世界での理解の有り様を、
当たり前と思っている と云う語句に随伴しつつ、照明していると云うことを
付け加えておきましょう。
ところで、
「社会学者は、共同理解の意味の”所産”("product") と”過程” (
process") を区別する。 ”所産”としては、共同理解は、実質な事柄
についての共有された含意から成立すると考えられ;”過程”としては、
人が言ったり、したりすることが規則に従う(to accord with a rule) と
認識される様々な手続きによって成立する。」⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., pp. 24~25.
日常生活世界の常識的知識への準拠は、遵守 に加えて、従う/合致
という特賞を持つということ。 つまり、’規則’’や’様々な手法’ ーー
それらは全て常識的知識の一部を構成しています ーー へ従うこと
(according to; in accordance with; to accord) は、一括りに
すれば、合致 を意味します。 そして、この合致 が準拠のもう1つの
特色なのです。
背景の期待 は、日常生活世界の常識的知識に準拠し、つまり、遵守し、
従い/合致しつつ、相手の行動〔立場〕について想定を相互交換し、そのよう
想定の相互性 は、共同理解 の地盤を含蓄しますが、それは、”知られて
いるが、気付かれていない”、ですから、当たり前と思われている 現象
と解釈されるでしょう。
最後になりましたが、「共に知られている」⋆ ーー この語句は。
「当たり前と思われているのそれと対句のようにならべて使用されています。
例えば、
「社会の成員は ・・・ 他の人々と共に知られており、他の人々と共に
当たり前と思っている日々の生活世界と遭遇し、知っている。」⋆⋆
「共に知られ、当たり前と思われている世界」⋆⋆⋆
というように。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 59.
⋆⋆ Ibid., p.35.
⋆⋆⋆ Ibid., p.37.
更に、ここでは、もう1つの語句にも注目されてよいでしょう。 つまり、
「誰もが知っていること (What anyone knows)」⋆、 「われわれ
のような〔人々の〕誰もが必ず知っているようなこと」⋆⋆
*Garfinkel、Harold, op. cit., p. 54.
⋆⋆ Ibid., p.54.
この2つの語句、或いは、特色は、取りも直さず、共同理解 の ’共同の’
意味内容を指摘していると見られ、日常生活世界での理解のあり様を、「
「当たり前と思っている」という語句に随伴しつつ、照明していると看取
されるということを付け加えておきましょう。
ところで、
操作的な (operational) という用語は、 共同理解 のそれと合わ
せるように使用されています。
「 ・・・ 共同理解についての適切なイメージは、従って、重複する
〔認識の〕セットの共同の交差よりも操作 (operation) である。」⋆
「ありふれた会話を報告すると云う学生の体験をめぐる分析は、”所産”
であれ、”過程”であれ、どちらの場合も、共同理解は、解釈という作業
内的‐時間のコースから成り立つ。彼等の体験は、どちらの場合でも、
共同理解は必然的に操作的構造を持つと云う事実の幾らかの不思議な
結果を指示する。」⋆⋆
⋆Garfinkel, Harold, op. cit., p.30.
⋆⋆ Ibid., p.25.
共同理解 は、それが 所産 であろうと、過程 であろうと、操作的
構造で特徴づけられ、それは、即ち、行為者の内側、 解釈の時間的
流れ/コースを意味します。
もう少しの明細化を求めて、具体的なセンテンスを探しますと、
操作的 とは:
「もし共同理解が、地形の張の継続的な一と整合する事象 ーーから
成るならば、行動の理解は、共有の理解は、共有された合意の測定される
量から成る ・・・ もう1つの時間のパラメーターが求められる。即ち、時間
の役割が ”詳しくかたられた事柄” の構成素として、それを産出した
行動の経過を通時宴会しつつある、そして、展開した事象として、過程を
所産の両方が、両当事者によって各人が、彼自身と同様に他者を代表して、
この展開の内側から知られているとして求められている。」⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.40.
難解ですが、
共同理解 の 操作的 という特色は、地形の針が刻む物理的な動きではなく、
精神的、或いは、主観的な、もしくは、意識的 解釈 の展開であり、それは、
当事者 (私と他者)の間で彼等の 内側から、つまり、解釈 の「内的時間の
形か」として展開される現象として把握されます。
このような 操作・展開は、言うまでもなく、既に少し触れました 継起的達成
のもう1つの顔、側面的過程として考えられ、より具体的には、つまり、
操作の内的‐時間の経過 は、過去想見的ー未来想見的可能性の図式と
待つ/待機 に結びつき、それらによって理解がより可能になると指摘
されてよいでしょう。
ⅹ 合理的な (rational)
合理的な のGarfinkel的に特色づけられ意味内容を抜粋しますと、
「〔成員の〕 実際的な活動の筋の通った、或いは、一貫した、或いは、
計画のある、即ち、合理的な性格を定義する ・・・ 」⋆
「 ・・・ 彼等〔当事者〕 が云っていることは、その明白で、一貫した、
筋の通った、理解可能で、或いは、計画的な、つまり、合理的なもの
として ・・・ 」⋆⋆
「そのような〔実践的/実際的な〕活動の合理的な、即ち、筋の通った、
或いは、選択され、計画的であり、効果的であり、或いは、順序だった、
或いは、理解できる(knowledgeable)性格を明らかにする。」⋆⋆⋆
「場況のやり方を明確な、筋の通った、計画的な、一貫した、選ばれ、
知り得る、画一的であり、再生産可能な関連 ーー 即ち、合理的な
関連として ・・・」⋆⋆⋆⋆
「 ・・・ 効率性、有効性、効果性、理解可能性、一貫性、計画性、
類型性、画一性、再生産性 ーー 即ち、実践的な活動の特性 ・・・」
⋆⋆⋆⋆⋆ 等。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 30.
⋆⋆ Ibid., p.30.
⋆⋆⋆ Ibid., p.32.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p. 34.
⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., p. 33.
以上の引用文から、日常的な、つまり、実践的な/実際的な合理的な特色は、
読み取れますが、それは、修飾語の形容詞による非常に長いシリーズの
明細化で、今少し理解に苦しんでしまいます。@
@Garfinkel自身は、 合理的な と云う用語には、深い
関心があるようで、彼の著書の最後に、1章を、第8章
《科学と常識の合理的特性》 を設けています。
お暇と情熱と興味のおありの方は、ご精読下さい。
日常生活世界の普通の、ありふれた、いつもの慣れ親しんだ、そして、ルー
ティーンな ーー つまり、実践的/実際的な 活動、或いは、行為の全てが、
合理的な という範疇に編入されとは、直感的にも、素人の判断としても、
容認し難いものを感じますが、けれども、
Garfinkelが、「実践的な活動の合理性」 と明記していますように、
エスノメソドロジー的研究では、合理的な 活動は、 実践的/実際的な
と等価的属性を有するものとして構想されていると見てよいでしょう。
換言しますと、 合理的な という用語は、実践的/実際的な 日常的
合理的な という用語は、実践的な/実際的な日常的な事象や出来事と、
それらが生起・出現する実戦的な/実際の環境、場況、状況、機会など
を全てを網羅し、特徴づけるエスノメソドロジー的用語の1つと解釈され
ます。
Ⅲ エスノメソドロジーの具体的な手続き
前節では、エスノメソドロジー的研究の基本理念の浮彫りを試みましたが、
では、その具体的な方法論的な特色、つまり、手法は〕どのようなもので
しょうか。
ここでは、アカウントの内容説明とその具体的な手続き: ”実験”と
解釈のドキュメント的手法 の2つに焦点を絞って、それらの検討を進め
ましょう。 先ず、 アカウントについて。
アカウント (accout)
この手法は、エスノメソドロジー的研究を代表する方法論的特色であり、
その対象は、無論、日常生活の日常生活の常識的世界に生きる人々
の「日々の最もありふれた活動」⋆ であり、 「組織された日常的な出来事
の出来事の場況」⋆⋆に見出されます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 1.
⋆⋆ Ibid., p. 1.
この アカウント と呼ばれる手続きは、より具体的には、
「〔日常生活世界/社会〕成員にとって、見ること‐の‐そして‐話すことの状況
づけられた実践として、観察可能‐そして‐リポート可能な、つもり、入手可能な
事柄」⋆
「いずれの場況もその活動をその特性が実践的活動の組織された環境として
感さく可能にし、推察可能にし、記録可能にし、リポート可能にし、物語すること
を可能にし、分析可能に ーー 手短にいえば、アカウント可能な(accountable)
にするようにマネージする。」⋆⋆
「 ・・・ それらの同じ〔日常的な〕活動を視覚的に‐合理的な‐そして‐全て‐の‐
実践的な‐目的‐において‐リポート可能に ーー つまり、アカウント可能に
する。」⋆⋆⋆
⋆Garfinkel, Harold, op. cit., p. 1.
⋆⋆ Ibid., p. 33.
⋆⋆⋆ Ibid., p.vii.
以上の引用文のアカウントを説明する語句を瞥見し、短縮しますと、
結局、最初に抜粋した”観察可能な” そして”リポート可能な”分析手続き
に落ち着きます。
と云っても、この既述分析の一種、或いは、ヴァージンとも見える手法は、
観察・リポート以外の様々な言葉/用語が使用されています。
リポート (report)
記述 (desdcription)
叙述 (depictidon)
説明 (explanation)
詳明 (explication)
アカウント と云う用語は、状況に応じた分析に分析に相応して上記の
様々な用語が、その場、その都度、恣意的に採用されて ーー 特に、
リポートが、頻繁に⋆取り上げられて ーー いるようです。まともに取り
組めば、かなり混乱と困惑を招きます。
さて、簡略ですが、アカウント の意味的枠組みを試みましたので、
これからは、その手続きの内容を、各章 (第Ⅰ章から第Ⅳ章) に沿って
解明することへ進みましょう。
それは、第Ⅱ章の アカウント の ーー 即ち、日常場面での意図的な
覆し、故意の転覆が指摘される ”実験”に関する検討であり、ここで、
何よりも明確化し、エスノメソドロジー的研究への理解を深めめばならない
事柄は、この手続きの対象に対する、今一度の確認です。
「日常生活の慣れ親しんだ常識の世界」⋆ であり、それは、「日常生活の
場面 ・・・ ”みられているが、告示されていない、” 期待された背景と
いう特色」⋆⋆を意味します。 そして、具体的な手続きとしては、このような
「日常生活の活動の見られているが、告示されない背景の期待を可視的
にすること」⋆⋆⋆ に他ありません。
⋆ Garfinkel,Harold, op. cit., p. 36.
⋆⋆ Ibid., p.36.
⋆⋆⋆ Ibid., p.37.
つまり、この慣れ親しんだ日常生活の背景の期待を潜める馴れ親しんだ
場面を 問題提起的(problematic) ⋆ にすること、換言すれば、
問題を起こすこと と云えるでしょう。 そして、どらぶるを起こすことが
出来るかを問うこと」⋆⋆であり、このように、日常生活の慣れ親しんだ場面に、
故意にトラブルを引き起こし、その一部始終を記述、リポートするやり方が
色々案出され、”実験” ーー 「厳密には実験とは言えないけれども」⋆⋆⋆
という断り書き ーー されています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.37.
⋆⋆ Ibid., p.37.
⋆⋆⋆ Ibid., p.38.
それらの アカウント 的手続きとは:
ⅰ) 物議を醸し出すやり方
ありふれた、普段の会話のなかで、不意に、相手に盾突いて、相手が
何気なく話したことの内容をしつこく問い質すやり方。@
@具体的な会話事例のリポートについては。
Garfinkel、Harold, op. cit., p. 24;pp。43~
44をご参照下さい。
ⅱ) 傍観者として観察・リポートするやり方。
下宿人としての自身を想像しつつ、被験者が家族の様子を既述する
方法。⋆
ⅲ) 被験者が自身を下宿人として想定し、自宅で実際にそのように
振る舞い、その経緯をリポートするやり方。⋆⋆
ⅳ) 相手の態度〔言葉や気持ち〕 を疑うやり方。
被験者が、友人、ルーム・メート、家族、見知らぬ人との普段の会話
の中で、相手に”隠された動機” 〔底意〕があるのではと疑いその
確証を得ようとする”実験”。⋆⋆⋆
ⅴ) 背信の”実験”。 これは、「日常生活の〔背景の〕期待ねdの背信」
⋆⋆⋆⋆ 被験者(医学部の学生)は、〔偽の〕医学ぐの代表と志願者の
個人的情報を ーー こちらも ーー を基に面接を受け。志願者に
対する被験者の評価が問われ、この面接の経緯 (状況の把握と
解釈)が実験者によって アカウント されます。 具体的な”実験”
は、被験者の背景の期待にことごとく背くこと、背信すること。⋆⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 48.
⋆⋆ Ibid., p.4⒎.
⋆⋆⋆ Ibid., pp. 51~53.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.61.
⋆⋆⋆⋆⋆ Ibid., pp。60~63.
背景の期待 とは、端的云って、”見られているが、告示されていない”、
”共に知られた” ーー つまり、”当たり前と思われている”日常生活世界/
社会構造の常識的知識に準拠し、’普通の人々’が関わる、普通の、あり
ふれた状況の解釈図式となっているものです。@
@より詳しくは、本稿第Ⅱ節の v 背景の期待と
共同理解 の項へどうぞ。
以上に列挙しました”実験”は、それそれ被験者達 ーー 学生と学生の
ターゲットになった人々 ーー ネガティブな反応、例えば、驚愕、当惑、
ショック、不安、羞恥、或いは、反撃、対立などを惹起しましたが、事情
説明が行われると状況は、殆どの場合、元通りに回復したとリポートされて
います。
この一見不可解な”実験”は、「日常生活の常識的世界」/背景の期待
を覆すこと ーー 換言すれば、即ち、‹日常性の転覆› を試みた手法
に他ならないと見られますが、その目的は一体何なのでしょうか。
端的に云って、秩序の維持 ーー 秩序維持の確認といってよいでしょう。
Garfinkel は、今一度、捉え返しますと、背景の期待/日常生活の常識
(的世界)の遵守を、一時的に、且つ、故意に/意図的に覆す”実験”を
実施しましたが、この転覆を「トラブルを作る」⋆ ; 「問題を起こす
(problematic) 」⋆⋆;「妨害(disturbance)」⋆⋆⋆; 「離脱 (departure)」
⋆⋆⋆⋆ 等、様々な表現をしようとしています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 37.
⋆⋆ Ibid., p.36.
⋆⋆⋆ Ibid., p.65.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p.43.
その結果、色々なネガティブな反応 ーー 憤慨、半信半疑、仰天、狼狽、
不安、羞恥心、罪悪感などを産み出しましたが、「 ・・・ 出来事の正常な
状態を直ちにに回復する試みを呼び起こした」⋆ のであり、「どの場合も
状況は、学生の〔事情〕説明によって回復されないということではなかった」
⋆⋆ のでした。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 47.
⋆⋆ Ibid., p.48.
このことは、取りも直さず、「日常的活動の構造が、いかに普通の、ルー
ティン的に産出され、維持されているいるか」⋆を数々の風変りな”実験”
で例解・解明しようととしたことを意味します。換言すれば、そのような
”実験” ーー 或いは、覆し/転覆の手続きは、慣れ親しんだ、ありふれた
日常生活世界(/社会構造)の 常識的知識 (の遵守・合致)に基づく
秩序の維持 をいわば、’逆説’的なやり方で明らかにする試みとして
案出されたと見てよいでしょう。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p.38 .
ここで、信頼と背景の期待と共同理解について検討しておきましょう。
Garfinkelは、「共同理解と社会的感情」⋆にういて数々の”実験”を
通じて例示・例解しましたが、そのような共同理解と社会的感情の関係
の幾らかは、「不信の意図的なディスプレイ ・・・」⋆⋆ ーー つまり、
日常生活世界の 共同理解 (/背景の期待)への不信を付けること
によってそれを故意に転覆させ、様々な社会的感情を惹起した上で、
この説明・記述から彼は、Schutz の理論 (理念化)を紹介しまず。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 94.
⋆⋆ Ibid., p.50.
「Schutzの記述した共に理解されている世界の背景の1つは、構成素
的特色としての疑いの制裁(/裁可)される使用に関わる」⋆と記します。
”疑いの制裁(/栽可)される使用”という語句は、Garfinkel独自の
云い回しであり、’制裁(/裁可)されない’、つまり、”それが疑われる
ことのない制裁(/裁可)” を意味します。@
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 50.
@「制裁(/裁可)される〔された〕」は、原書では、sanc-
tioned と論述されていますが、この場合の制裁(/栽可)は、
2つの対立的な含蓄があるように解釈されます: 制裁 と
(/裁可) そして、彼の制裁(/裁可)は、両者を意味している
かしらという解釈を払拭しえない、どうしても、’疑い’が
残ります。
そのような”〔制裁(/裁可)が〕疑われることのない” 共同理解 の
日常生活世界について、彼(Garfinkel)は:
「Schutzが、人は、彼の日常的出来事の行動(conduct) について
他の人が同じように想定するように想定し、彼が他の人に付いてその
こと〔想定〕を想定するように他の人もそのことを彼につて想定すると
提唱した」⋆ そして、「〔この〕 疑われることのない対応関係は、対象
の実際的な現れと特定のやり方で現れる志向された対象の間の〔疑いが〕
制裁(/裁可)される関係性である。 日常的出来事を行う人にとって、
対象は、彼がたの人々に期待するようにそれらが現れているように
存在する。」⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 50.
⋆⋆ Ibid. p. 50.
Garfinkelは、日常生活世界の 共同理解 を、”疑われることのない”
ーー つまり、「当たり前と思われている」 ことを前提とする世界に在り、
それは、人の想定においてと他の人々との間で取り交わされる想定の
想定 ・・・ という、いわば、螺旋形の相互想定、或いは、想定の想定性
として理解されます。@
@因みに、Garfinkelの 想定の相互性 は、螺旋状
に、無制限に展開する可能性が看取されますが、
これは、彼の’衒学’の類(たぐい)で、Schutzには
そのような螺旋状の相互性は見出すことは出来ません。
日常生活でも無理でしょう。 脳が、気も、疲れて
しまいます。
この彼の理解は、Schutzの 相互主観性 (intersubjectivity) の
理念化@ ーー 視界の互換性: ⅰ) 立場の相互交換性 と
ⅱ) 〔志向〕対象のリレヴァンス/関わりの合致 に準拠します。⋆
@Schutz による 相互主観性 の理念化をめぐる
彼のより詳しい論述については、前節の背景の期待
と共同理解の項をご参照ください。
⋆Schutz, Alfred, Collected Papers I, op.cit.,
pp. 11~12.
それは、私と他者の間で相互に立場を交換すれば、2人は同じ距離に
立ち、ものを見ること、そして、このような視界の同一性、つまり、共同の
志向対象を同一の方法で選択・解釈することを意味し、それは、更に、
「反証が提示されまで、当たり前と思い、 ーー そして、私の同輩も
同じことをすると想定する。」⋆ とSchutzは論じます。 彼は、また、
より簡潔に:
「 ・・・ もし、われわれが私のここを、彼に、彼のもの〔彼のここ〕を
私と立場を交換するならば、共同の世界について類型的に同じ体験
を持ちだろうことを私は当たり前と思い、私の同輩を同じことをすると
想定する。」⋆⋆
⋆Schutz, Alfred, Collected Papers I, op. cit.,
p. 12.
⋆⋆ Ibid., p.319.
閑話休題
信頼と 共同理解 (/背景の期待)の関係の問題に立ち還りましょう。
信頼は、如上の意味内容を包含する 相互主観性 をより所にしますが、
Garfinkelは、彼の著書のp。50の脚注で、信頼を次のように、定義して
います。
「 ・・・ ”信頼”と云う用語は ・・・ 人の道徳性として日々の生活態度
の期待への遵守を指し示す。〔従って〕 現れと現れがその現れである
対象との対応関係に向けられている疑いの規則に従うよう行為することは、
”不信” を明細化するたった1つのやり方である。 各々による他の
修正は、それは、多様な下位セットと同様、日常生活の態度を作り
上げるが、人が問題提起的な事柄として共に知られ、当たり前と思われ
ることが要請される世界を取り扱う中心的なテーマにヴァリエーションを
供与する。」 と。
では、 相互主観性 における信頼 と 共同理解/背景の期待 は、
どのように捉えればよいのでしょうか。
Garfinkelの場合、日々の生活態度 ーー つまり、見られているが、
気付かれていない、共に知られて、当たり前と思われている 背景の
期待 の遵守 ということであり、他方、Schutzの 相互主観性 から解き
明かされた信頼は、亦、同様に、当たり前と思われているのであり、
信頼=背景の期待 の遵守は、 信頼=相互主観性と対応すると見て
よいでしょう。 言うまでもなく、背景の期待の遵守 は、日常生活世界の
常識的知識への準拠に基づきます。
ここで、また翻って、背信」の事例を検討しますと、
被験者は、故意に、作成された偽の医学部の面接者の結果に翻弄
されます。 被験者の遵守する 拝啓の期待、つまり、準拠する常識的
知識 は、悉く打ち破られ、被験者は、実験者に対して自身と同じように
想定している〔ことを当たり前と思っている〕 にも拘らず、次々と反証
が提示され、背景の期待 の遵守、即ち、信頼は、突き崩されます。
そして、Garfinkelの”実験” では、「疑い(不信)の規則の表示は、
他の人が、共同の期待の正当なテクスチャーに対して現れるとされる
ものであるが故に、疑うものと疑われるものの間に異なる感情的状態が
生じる。 不信される人物の側では、正当化への要求が当然あり、それ
〔要求〕が、充たされない時、そうなるだろうと ”誰もが見るように”
怒りが生じる。」⋆
⋆ Garfinkel、Harold, op. cit., pp. 50~51.
Garfinkelは、一連の背信の”実験”においても、他の”実験”の場合と
同様に、日常生活のありふれた、慣れ親しんだ場面の覆しによって
引火された感情の爆発に主関心を注いだ訳ではなく、彼の関心は、
むしろ、或いは、やはり、それが復元、正常化されたことに、そして、
究極的には、社会秩序の維持の探求にあると見てよいでしょう。
解釈のドキュメント的手法
この手法、the documentary method of interfpretation は、
「社会構造の常識的知識」⋆ のコンテクストを研究対象とします。
その関心は、「意味と事実の決定は管理され、そして、どのように
社会構造の事実的知識のコーパスが選択の常識的状況でアセンブル
されるという作業の記述」⋆⋆にあります
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 77.
⋆⋆ Ibid., p. 77.
難解な文章ですが、少し敷衍しますと、
日常生活の”当たり前と思われている”世界のなかで、人々〔社会の
成員〕が彼らの普通の活動/行為の”意味と事実の決定”が、どのように
コンテクストにおいて、どのようにアセンブルされ、 解釈されるかを
ーー つまり、ありふれた日常的状況についてドキュメント的に記述
する手法ということです。
もう少し具体的な内容説明を求めてみましょう。
「この手法は、実際の現れを前提された 表層下の/根底にあるパターン
を”ドキュメントし、” ”指し示し、” ”代表している”として扱うことから
成立する」⋆ のであり、Garfinkelは、この手法がMannheim,
Karlに準拠することを明言して、「Mannheim によれば、〔解釈の〕
ドキュメント的手法は、” ・・・ 意味の全く異なる実現化の広範な多彩
性の 表層下の/根底にある 、同一で、類同的なパターン” を究明
することを含蓄する」⋆⋆ と続けます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 78.
⋆⋆ Ibid., p.78.
つまり、この 解釈(interpretation) の手法は、捉え返しますと、
それは、実際の現れ〔日常的な活動/行為〕 が 表層下の/根底にある
を指示するドキュメント的証拠であることに注目します。そして、
更に、それが、「表層下の/根底にあるパターンが、その個々のドキュ
メント的証拠は、順次、表層下の/根底にあるパターンについて
”知られていること” を基礎に解釈される」⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 78.
上記の引用文のもう少し具体的な説明を、更に、抜粋しますと、
「学生〔被験者〕は、集合体の共に₋知られた特色を両者〔被験者/
学生と実験者〕 によって加入される常識的知識のコーパスとして前提
彼らは、彼らが聞いた助言者〔実験者〕 が語っていることに対して
被験者が関心を持つ実験室、家族、学校、家庭、職場という集合体的
場況の明確な、規範的な特色のドキュメント的証拠の地位を課する際に、
それらの 表層下の/根底にあるパターンを拠り所にする。」⋆
「その〔手法の〕使用は、また、実態調査の色々な機会に、リサーチャー
が彼の面接ノートを再検討するときや、質問用紙への回答を編集
する際に、回答者が、”何を心に思い描いていたか”を決定せねば
ならない場合に見出される。」⋆⋆
「 ・・・ 彼〔リサーチャー〕は、彼が実際に観察したことdを” 表層下の/
根底にあるパターン” を ”ドキュメントする”ためにしようとしている。」⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 95.
⋆⋆ Ibid., p. 95.
⋆⋆⋆ Ibid., p. 95.
長い引用文の列挙になりましたが、 以上を踏まえて、
解釈のドキュメント的手法 を概要しますと、それは、実際の現れ、例えば、
日常会話や”実験”的面接での被験者の発話、リサーチャーのノート、
質問用紙の回答などの 表層下の/根底にあるパターン ーー 基本的
には、日常生活世界の社会構造の常識的知識に準拠するもの ーー
を照明する、此処での文脈関係では、”ドキュメントする”というドキュメント的
証拠として扱うこと、そして、この想定に従って、日常生活のありふれた、
馴れ親しんだ、普通の活動/行為を 解釈する ことを含蓄します。
では、
このような手法の具体的な手続き、”実験”とは:
偽のカウンセリングが実施されます。 それは、偽のカウンセラー(実験者)が
学生(被験者)に彼の個人的な問題について助言すると云う設定の下で
行われました。
学生には偽のカウンセラーとの〔偽の〕面接場面で、⒑下位の遣り取りの
後、カウンセラーは、Yes かNoで返答/助言します。 10回の遣り取りの後、
被験者/学生はこの面接について彼の印象を概観するように求められ、その
リポートは、原形のまま掲載されています。⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., pp. 79~80.
この”実験”に関して、Garfinkelは、2つの事例を紹介しています。⋆
偽のカウンセリングという”実験”では、偽のカウンセラーの返答/助言
(YesかNo)が、解釈のドキュメント的手法 で解説された実際の現れ/
ドキュメント的証拠に相当します。
とは云え、それは、YesかNo という極端に簡素化された反応ですので、
その分、被験者/学生は、相手(実験者/偽のカウンセラー)の ”心に
思っていること” を把握するために、想像力を発揮しつつ、悪戦苦闘を
続けます。 つまり、 表層下の/根底にあるパターン の積極的な探索
を試み、見抜こうとします。⋆⋆ 学生は、面接を通じて「パターンの”探索”
と知覚」⋆⋆⋆を試みます。 相手が”心に思うこと”が、即ち、 表層下の/
根底にあるパターン です。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., pp. 80~89.
⋆⋆ Ibid.,p.91.
⋆⋆⋆ Ibid., p.91.
実際の現れ、或いは、ドキュメント的証拠 ーー ここでは、助言者の
返答から 表層下の/根底にあるパターン を探索する過程/手続きは、
下掲の引用文によく既述されています。
「ドキュメントする作業 ーー つまり、パターンを探索し、決断すること
によって、助言者の返答を質問の意図された意味に刺激されたとして
扱うことよって、前のもの〔返答〕の意味を鮮明にするために後まで返答
を待つことによって質問されていない質問に返答を見いだすことに
ーー 助言されていたことの知覚される規範的価値は、設定され、
検討され、保持され、回答された、 一言でいえば、管理され(managed )
・・・ ドキュメント的手法は、助言をそれに対して継続的メンバーシップを
保ちつつ、展開する。」⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 94.
「上掲の引用文に拠りますと、 解釈のドキュメント的手法 は、前節で
少し触れましたエスノメソドロジー的研究の基礎概念の1つ、 過去想見的ー
未来想見的 という特色を含蓄することが看取されます。 そこで、この特色
を、 管理する(manage; management) と云う手続きに絡めて、
もう一度、反芻してみましょう。 Garfinkelは:
「調査者は、今、彼が見ていること〔意味〕を決定するために、その未来的
展開を待たねばならない。そして、それら未来は、順次、それらの歴史
〔過去〕と未来によって知らされることのみを見出す。 〔未来に〕起こった
であろうことを、待ってそして見る こと(wait and see) によって、彼は、
彼が以前に見たことは何だったかを学習する。」⋆と説明しています。
つまり、学生/被験者は、現在の状況の〔意味〕決定 ーー 即ち、管理
を行うために、過去と未来への想見: 回想と予想に準拠するということ
です。
それは、待つ/待機する(wait for) ことであり、静観する(wait and
see) ことを含蓄します。 状況の現在を知るために、その過去を反省し、
或いは、回想し、また、その未来的結果を見通し、状況の行く先(展開)
を予想するということと見え、それは、Garfinkelにおいては、「返答が、
不満足で、不完全だった場合、質問は、前のもの〔返答〕の意味を決定
するために後までいとわずに/進んで返答をに待った。」⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 77.
⋆⋆ Ibid., p.90.
このような 管理すること(manage)、或いは、管理(management)
という 解釈過程では、また、精錬する(elaborate; erabolation) と
いう特色が強調されており、更に、調整(accomodate; accomoda-
tion)と云う言葉/用語も使用されています。
精錬、調整は、会話の過程においてどのように展開されているので
しょうか。 以下の2つの文章に注目してみましょう。
「 ・・・ 次の質問は、会話〔偽の面接〕のそれ以前の経緯への反省の
所産と〔面接の〕 各々の実験の遣り取り〔質問と返答〕が、その特色を
ドキュメントし、繰り広げられたトッピクスである前提された 表層下の/
根底にあるパターン として現れた。表層下の/根底にある”問題”は、
遣り取りの関数として、その特色が精錬された問題の意味は、各々の
現在の返答に漸進的に(progressively) 調整され、表層下の/根底に
あるパターンの 問題の新鮮な側面を刺激した。」⋆
「表層下の/根底にあるパターンは、やり取りのシリーズを通じて精錬され、
合成され、そして、”助言のコース” を維持するために、各々の現在の
”返答”に対して調整されたが、それは、それ以前に”現実に助言された
こと” を精錬し、そして、問題の明かになって来る特色の新しい可能性
を刺激することために、である。」⋆⋆
精錬・調整 は、会話の遣り取りの過程において 実際の現れ と表層下の/
根底にあるパターン 〔の探索〕の 過去想見的ー未来想見的可能性 に
関連付け、〔意味〕決定する 〔解釈〕過程 と要約されます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 90.
⋆⋆ Ibid., p.90.
助言者の返答が、学生の考えと食い違ったり、対立したりすると学生は、
助言者は、その内、分かるだろう、とか、彼は心を変えたのだと色色な
理由づけを行い、「それら食い違った返答は、その知識と意図が助言者
のせいにすることによって解消された。」⋆ そして、「返答の背後にある
〔筈の〕意味に合う意味を追加すること」⋆⋆ がされ、更に、「 ・・・ 行為に
彼等に対して正当化されねばならないこと; 行為のコースの選出や
その生じた結果は、”納得の行く” 再検討の手続きないで正当化されねば
ならない。 ・・・」⋆⋆⋆ また、{〔面接中の〕 遣り取りを通じて、被験者は、
時々、返事を答えとして出発し、そして、その質問の以前の意味をそれと
過去想見的に捉え直した質問に対する答えとしての返事を調整する
ために、変更した。」⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 91.
⋆⋆ Ibid., p.91.
⋆⋆⋆ Ibid., p.91.
⋆⋆⋆⋆ Ibid.,p. 90.
このように、精錬・調整 では、ここでの 解釈 の手続きとして、理由づけ
の押しつけ/せいにする、追加、或いは、納得の行く再検討、正当化、さらに、
変更が試みされたということです。
最後に:
解釈のドキュメント的手法 における 解釈 は、その具体的な特色、
即ち、管理 ーー より明細化しますと、精錬・調整 が日常生活世界/
社会構造の常識的知識に準拠していることを是非とも指摘しなければ
ならないでしょう。
このことは、以下の文章で鮮明になります。
「〔社会の〕成員としてのキャパシティーにおいて被験者は、集合体の
制度化された特色に対して解釈の図式として求められた。」⋆ つまり、
当事者は、自身の 解釈の図式や会話の遣り取りにおける 管理、更には、
精錬・調整 の図式を集合体の制度化された特色(部分)に準拠します。
被験者/学生は、返答(助言)に対して反応〔解釈〕する場合、この集合体
の制度化された特色に基づいて行うということです。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 90.
では、’集合体の制度化された’特色とは、 ーー 一言で云いますと、
社会構造。@
@集合体は、Garfinkelにおいてしゃ、家族/家庭、学校
職場 ‥ などを指す社会〔集団〕、’制度化された特色’は、
短縮すれば、制度、そして、結合すれば、社会の制度
を含蓄し、エスノメソドロジー的にには、むしろ、社会構造
と把握されてように解釈さます。
この社会構造に対して、(面接中の)当事者は、自身の活動/行為の状況
状況の 管理 (/ 精錬・調整)を委ねます。 そして:
被験者は、特別の準拠を、助言者の助言の分別のある保障された
性格を決定する際に、様々な社会構造に特別な準拠を施した。しかしながら、
そのような準拠は、どんな社会構造にたいしてでもなされたのではない。
・・・」⋆
「 ・・・ そのような準拠は、どんな社会構造に対するというのではない。
規範的に価値づけられた社会構造(normally valued social structures)
・・・」⋆⋆ つまり、当事者が準拠し、状況の〔意味の〕解釈図式 として使用
する社会構造は、多用ですが、準拠」は、特別な種類に限定されます。
それは、”規範的に価値づけられた〔換言すれば、規範的価値を担う〕 社会
構造 ーー 即ち、「社会の規範的秩序 (normative orders of social
structures)」⋆⋆⋆ と呼ばれている 制度 への準拠を意味します。
更に、もう1つ看過してならない点は、「被験者が行った準拠は、彼が実際に、
或いは、潜在的に助言者と共に知っているとして取り扱う社会構造に対して
である。」⋆⋆⋆⋆
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., pp. 92~93.
⋆⋆ Ibid., p.93.
⋆⋆⋆ Ibid., p.94.
⋆⋆⋆⋆ Ibid., p. 93.
”共に知られている社会構造”に着目し、少し解明しましょう。
’ともに知られていr’は、第1節で、エスノメソドロジー的研究の対象を検討
しました際に、”日常生活の常識的世界”を表現する、より日常的な言葉が
Schutz, Alfred 経由で、Garfinkelによってエスノメソドロジー的に
使用されているとしてとり挙げられた用語でしす。 他の類同/相関的
語句としては、’知られているが、気付かれていない/告示されていない’
ーー つまり、’当たり前と思われている’が挙げられます。
上述の意味で、’共に知られている’社会構造は、いうまでもなく、日常
生活の常識的世界と重なり合い、ですから、そこで日常的に生きる人々、
即ち、社会の成員は、日常的な活動/行為 ーー 監理、精錬・調整に
関しては、常識的知識に準拠します。
そして、更に進みますと、
このような常識的知識への準拠は、それが、即ち、既に扱った常識的知識
の根底に流れる基調的発想、秩序の維持 の中核的想定に他ならないので
あり、彼の一見奇異に見える諸研究、或いは、”実験”の敢行を動機づけて
いることを今一度確認しておきましょう。
このことは、つまり、 解釈のドキュメント的手法 で例解・実例された
”実験”(のリポートや記述)は、彼の基本原理: 秩序の維持は、どのように
行われているかを時明かすためのある種’逆説’的な試みと解釈されという
ことです。
最後の最後として1つの提案を ーー
⊰建前と本音⊱ を。
それは、以上の全ての検討・考察を踏まえた上で、事例 1 を ーー
かなり、無謀な、且つ、無遠慮n合試みだとは存じますが、ーー 解釈の
ドキュメント的手法 と 過去想見的ー未来想見的可能性の図式 に従い
つつ、捉え返してみること、です。 どういう風になるか、ご一緒にご考察・
ご検討してみて下さい。
学生/被験者と偽カウンセラー 筆者の所見/解釈
との遣り取りのドキュメント
質問 Ⅰ
学生/被験者は、彼自身(ユダヤ 被験者の関心は、実際の行動=デート
教徒)が抱える問題を提示します。 それ自身よりも現在彼が直面している状況
それは、キリスト教徒の女子と の未来的展開についての予想にあり、
のデートにたいする父親の態度 ここは、未来への予想に現在の状況が
に反対が予想され、従って、"デート 決定される(解釈される)という未来想見的
続けてよいか、中止すべきか、”と 把握・検討が認められます。
質問します。
実験者/偽カウンセラーの返答は:
NO. 学生の反応は、”反対。 いやまあ~。
それは、なにか面白うような気がするナ。”
ここからは、学生のモノローグ:
父親の態度についての説明/解説が
はじまります。 これは、解釈のドキュメント
的手法の始まりとも云えるでしょう。
実験者/偽カウンセラーの返答のNOは、
彼の 表層下の/根底にあるパターン を
ドキュメントしています。ですから、学生は、
それを手掛かりに実験者のパターンの
探索を試みる筈なのですが、学生は、
NOの返事に 表層的に反応しただけで、
直ぐに彼自身が”心に思っていること”
(=彼のパターン)を内省し、解説/解釈し
実験者の返答=ドキュメント的証拠から
実験者のパターンばかりでなく、父親の
パターンと3種類のものが看取されると
ういことです。
第2の質問:
”デートについてもっと父さんに 学生は、実験者の助言(返答)、即ち、
話すべきだろうか?” 彼が、’話し合うべき”と解釈したOKは、
実験者の答えは、OK. 首肯。
けれども、父親の態度は、ーー
”彼(父さん)は、ほんとうは、今の (左の欄へ)
状況について話し合うのを恐れて 学生は、現在の状況を今まで(過去)
いるようで、僕には、そんな風に へ振り返りつつ、顔層して、過去想見的
見えるのです。 に解釈しようとしっますが、現在の状況
の未来(彼女とのデートの続行)に関して
どのように判断/解釈してよいのか分から
ない状態に陥っています。
”父さんとこれかrの行き先について ‹wait and see› の兆しが見えます。
話すべきかもしれない ・・・ 〔待って、見るの構えが垣間見えます。〕
学生は、この質問の思い: 表層下の/
彼(父さん)は、強く反対はしない 根底にあるパターン を探り、、忖度・
かもしれないしれないけれど、彼は、 想定を続け、他方、自身の気持ち〔彼
彼が、胸から払拭したい、これから もまた、父親との話し合いを恐れている
の悶着を見抜いていると思う。 こと〕を父親に事寄せて、或いは、転嫁
して、吐露しているように見えます。
現在の状況の解釈は、父親の態度と
それに対する学生自身の気持ち ーー
それは、好ましくない未来への予想が
錯綜し、複雑化しているようです。
そこで、第3の質問をします。
第3の質問
”父さんと話し合った後で、 被験者/学生は、父親の本音〔本当の
デートを続けるべきだろうか?” 父親の本音 〔本当の気持ち〕パターン
を把握し、解釈しつつ、もう1つの状況、
即ち、、彼女とのデートと云う実際面に
について思案に暮れます。適当な、或いは、
適切な選択の出来ない状態です。
ここでの助言(返答)は、
yes 学生は、実験者/助言者の返答:yes
からより詳しい助言、つまり、’デート
を続けるべき’ と云う彼〔実験者〕
の パターン を忖度し、当て推量
しつつ、引き出し、この想定に酷く
驚きます。
”僕は、〔実験者から〕反対の返答が
ことを期待していなかったもの。”
”僕〔父さん〕がデートを続けて 現在の状況の過去と未来を予想した
良いといったとしても、僕は、 過去想見的ー未来想見的検討と見て
彼が、それを望まないことが 良いでしょう。
分かっているので、〔デートの続行に〕
罪悪感をもつっだろうと思う。” 父親の煮え切らない態度と息子/学生
デート続行への思いは、両者の間で葛藤・
相克が生じそう気配が予想されそうです。
ので、
”もっと詳しく考えてみなければ 学生は、このことについて、間を置いた
ならないようだけれど ・・・ ようです。一呼吸おいて、彼は、第4の質問へ
移ります。
第4の質問:
学生は、父親の本心を知ろうとして 学生は、現在の状況の未来は、行き詰まり
母親に父さんと真剣に話し合って の様そうが予想されるので、この状況は、
もらって、父さんの考えのより本当の 一先ず、腋において、決して除外する訳
処を聞き出してもらうことは、適切で ではなく、けれども、他の代替選択肢
しょうか。 の道を提出しました。
現在の状況の予想・解釈から方向
転換して別の角度から新しい意味を
追加して 精錬 しようとします。
それは、第4の質問に見られるように
母親に助けを求めることでした。
私〔偽カウンセラー〕の返事は、
yes。 学生は、実験者/偽カウンセラーの
”その返事は、僕には、理に適って 返事に対して肯定的な評価をし、実験者の
いるように思えます。 考えと一致を見ようとします。 つまり、
彼は、実験者の返事/助言に対して
自身の考え〔解釈〕の調整を試みようと
しているということです。
学生は、父親の パターン を推察・想定
もっと正直になれるだろうし・・・ します。
”でも、母は、僕の処へ戻って 学生は、母親の態度(= パターン)に
本当のことを話してくれるだろうか。 からより正直な意見〔父親の本音〕を
母は、父さんよりリベラルなので・・・ 期待したものの、彼女の パターン と
僕の側をはっきりさせてくれるだろう・・・ 現在の状況の未来的結果を測り兼ねて、
〔けれども〕 結局、現在の状況(デート続行の可否)
僕は、どちらにせよ、一塁までも の未来に関しては、むしろ、悲観的に
も行っていない気がして、でも少なく になったようで、彼(学生)は、再び、
とも、何らかの形で進んているとは 方向転換します。 そして、第5の質問。
感じます。
第5の質問:
”キリスト教徒の女子とのデート
が僕の家族の間になっている
ことを彼女に告げるべきだと思い
ますか。
実験者: 私の返事は、NO. この返答は、’予期せぬ’ 返事だったので、
’もう一度、驚いたな。’ そして、学生は、
反論します。
(左側の欄へ)
”僕は、個人的には、彼女に 反論して、自身の気持ちを吐露します。
告げることが正しいと感じる・・・ 自身の意見を’正論’として主張します。
状況の全てを理解することが、僕に
とってもベストだと思う。”
”もし、彼女がそのことが、 障害だ けれども、 と彼女の態度を推察し、彼女
と思うなら、彼女に告げることなく、 が否定的な場合、障害と感じる場合を想定
〔今の〕状況 〔デート〕を終わりにする した ・・・ つまり、もしも(if-claause)の
と思います。僕は、僕のやり方でその 仮定法的未来予想を踏まえて、彼の現実の
ことを示すでしょう。・・・ ” 状況の行方を、彼の取るべき態度・行動
をいろいろ分析します。
その結果は、デートの中止〔と云う悲しい
予想〕となり、彼は、色々なやり方でそれを
”〔そうすれば〕 彼女は、本当のこと
〔どんなやり方でしょうか ーー とにかく〕
きっと、何らかの形でデートを駄目に
彼女の側からデートを辞めるように気遣う、
する。そんなことだとおもいます。
或いは、仕向けるという方法のようです。
この未来総研的な予想には、彼の心に
ある種の反応、反発を招いたようです。
それは、次の質問に表明されています。
第6の質問: 彼の態度は、第5の質問の場合とガラリと
”僕は、彼女に恋をして 〔今迄は、 変化します。
デートをしているだけだったようです〕 彼は、彼女に振られる形でデートを中止
結婚を計画したい思う場合、彼女に 〔彼のこの状態が、彼の本音、つまり、
を願うのは、フェアーだと、貴方は、 パターン をドキュメントしているように
思いますか。 に見えます。
私〔実験者〕 の答えは、NO. 実験者の返答は、学生を困惑させます。
この困惑は、彼の本意/ パターン が、
結婚した場合、女性は、男性の規範的価値
観に 〔宗教も含めて〕 従うべきという常識
的知識を遵守・準拠していることから生じ
たもののようです。 ですから、彼は、自身の
態度、男性優位主義を家族間の宗教の違い
〔があった場合)に方向づけます。
”僕は、正直に云って、不幸にも 家族間の宗教上の問題として捉えます。
宗教で亀裂がある家族がうまく 宗教の違いを解消したいと思うならば、
行っているのを見たことがないし・・・ どうして彼が改宗しないのでしょう。
彼は、改宗すれば、この場合、その違い
と相剋は、克服される筈です。
〔けれども〕
”僕は、本当に、そう出来るとは 彼は、彼女に改宗を強要することは出来
思わない ・・・ ない、このことは、男性優位主義よりも
それぞれの宗教(への信仰)の強さに
よるもののようです。彼は、現在の状況の
解釈に途方にくれつつも、第7の質問へと
進みます。
第7の質問:
”もし、僕たちが結婚してどちらも この質問の段階の現在の状況(デートの
どちらも宗教の違いについて話した 問題〕に対する 未来想見 は、どんどん
がらず、どちらかの側にも譲歩しない 進められ、元々の状況、つまり、父親の
僕達2人が信じるのとは別の中立的な 本音(デート)の探索・忖度から状況の
宗教の中で子供を育てることは、より 差し迫った現実的解釈から未来想見
よい状況になるだろうと思いますか。 的解釈を超えた〔と見える〕想像の飛躍
が窺ええます。
これまでは、2人の間に容易に
考えらる宗教的非寛容さが、トピック
になっていましたが、第7の質問で舞台は、
一転、状況の把握に意外な展開を見せる
ことになりました。 宗教的寛容の可能性
です。
つまり、現在の状況の未来的想見の検討
〔宗教的対立〕 から新しい進展、新しい
選択肢: 中立的宗教の中での子供の
達の躾が提示され、このことで状況の
解釈は、一層 調整され、精錬されたと
見ることが出来ます。
けれども
(左側の欄へ)
実験者の返答は、YES. この返答で、学生は、自身の考えの賛同を
”確かに、それは、解決になる 得たと解釈します。
だろう。” しかし、それは、(左の欄へ)、 つまり、
”僕達の2つの信仰がある程度合体 彼は、自身の提案に自ら懐疑的になり、
するような宗教を見いだせたら ・・・ 彼の思いは、すぐに揺れ始め、現在の状況
〔ということであり〕 現実には、”文字 への返答 (/解釈)を彼自身に対して明確に
通り不可能だろうと感じるのです。” することが出来なくなってしまったようです。
ここでの限りでは、現在の状況の〔意味〕
決定に彼は躊躇し、有効な解決策を案出
出来ないまま、問題(=第7の質問)を
保留します。
”僕が、申し越しフォローして何が
起きるかをちゃんと見るべきだと
思う。 因みに、左側の学生の発言から、待つ/
待機する、更に、静観する という
エスノメソドロジー的特色が想起されます。
Garfinkel の著書の第3章では、待つ/
待機する は、ありふれた、普通の日常
会話のコースで生じる解釈過程に含蓄され、
それは、現在の状況の未来を予測 (未来
想見)しつつ、その未来的結果が現在の
状況に対してぴったり来ない時に、現在の
状況の解釈がうまくできないことを迷い、
混乱、困難が生じて、あれこれ、黒白をつけ
兼ねるとき、すなわち、明確な判断が下せない
場合、待つ・待機しつつ、成り行きを見守ると
いうことを意味しますが、ここでは、問題
(中立的宗教と子育て〕があまりにも深淵に
見え、待つ/待機する という姿勢のスパンが
長期過ぎるという恐れが感じられます。
その上、差し当たっての問題(宗教の違い)
の解決には直接結びつかないようです。
当面の問題(中立的宗教と子育て)の解決
の方策は、一応、却下、除外して、次の質問
へ移ります。
第8の質問:
”もし、僕達が結婚するとしたら、
僕達は、宗教の違いのことで家族から
すごく圧力を受けるようだったら、両親
と接触を持たなくてもよい、新しい
コミュニティに住むことがベストで
しょうか。
実験者の返答は、NO. 被験者/学生は、この否定的な反応には、
かなり肯定的な態度を示し、自身の感想を
述べます。
”問題から逃げたしては、多くを達成 学生の解釈は、全て、未来想見的。しかも、
出来ないだろうし、・・・ 受け入れること もしも-仮定法 です。つまり、実現度の
になって、家族とも上手くやっていける 低い仮定 (法)で表現されています。
いけるだろう、だから、〔ここに〕滞って、 この解釈は、現在の状況(の展開)や
そうするよう努力することがベスト 改善(/変更)は、望めないという印象を
なのだ。” 強めます。
ということは、現在の状況と ’仮定法’に
よるその未来想見は、両者の間には、
実際的には、かなりの大きな溝: 食い違い
が生じるようですので、現在の状況に未来
の結果を調整するのは、難しいと判断し、
”他の土地で暮らす”という考え/選択肢は
放棄されました。
彼は、現在の状況をそこに留まって、
問題の解決に努力するという現実的な判断
(解釈)をしたのでした。
そして、また、アプローチの方向転換を。
第9回目の質問です。 が、この質問も、再び、
宗教の問題と子育てに絡めて、投げかけます。
第9の質問は:
”もし、本当に結婚して、子供を
育てるとしたら、子供に、昔、僕達
の宗教は別々だったと告げるべきだ、
と思いますか。 それとも、この新しい
宗教の中で ・・・ 元々この宗教を
信じていたと思わせて育てるべきと
思いますか?”
私(実験者)の答えは、NO. 返答、NO、は、宗教の違いを告げるべき
でないことをドキュメントと肯定的に把握
します。
(左欄へ)
” ・・・ なんか賛成出来ないなあ・・・” そして、この返答を、正当化するような
”そして、もし、宗教の違いがあったこと 調整をしながら、解釈を試みます。
を知ったなら、僕達がこそこそと隠そう ”彼等は、疑問の余地なく、見つけるだろう
したと感じるだろうから、これは、ベスト ・・・ と解説しますが、これは、否定的、
な状況ではないだろう。” 或いは、悲観的な未来想見的な見解です。
そして、最後の問題へ。
第10の質問:
”僕達の子供は ・・・両親の宗教上の
難しさのせいで宗教の問題を抱える
ことになると想いますか?
実験者の返答は、NO。 彼は、子供達が、混乱して、トラブルに
”この返答に対して、それについて ついて何が好くて、悪いのかが分からなく
賛成してよいか、どうか良く分から なり、どちらの側につけばよいのかも分から
ない。” なくなるだろうと子供達の未来(的状況)を
彼は、勘案しつつ、予想します。
けれども、 そして、彼自身の第ドを表明し、子供達の
”もし、彼らの宗教が宗教的必要を 宗教環境への寛容さ、理解力を示した上で、
満たす、健全なものであれば、そして、 最後の質問へ。
そうならば、問題はないだろうとそんな
気がします。
”僕は、時のみが、そのような問題が、 ”時が告げるだろうと思う” と締め括ります。
どのように結果するかを告げると思い それは、成り行きに任せる、或いは、待つ/
ます。” 待機する〔静観する〕 ことを意味すると
思われますが、普通の日常会話のコース
内では、解決 (の糸口)を見つけ出す
ことは、極めて困難に思われます。
ということは、彼の関心」、思い、本音。
つまり、パターン は、別の処に潜んでいる
と想定されます。
此処で、
以上の事例の描出から、 表層下の/根底にあるパターン というGarfinkelの
基本概念の1つを、学生/息子と父親の関係性に焦点を絞りつつ、幾らかの考察を
試みことにしましょう。
学生/実験者の質問、つまり、”悩みの相談” は、ガールフレンドとのデートの
問題でした。 その経緯で、2人の宗教の違いが浮き彫りされ、デートを続行する
か否かに彼の’悩み’は凝集しますが、それに彼女との直接的な話し合いに関する
ものではなく、父親との関係性に在ることが直ぐに判明します。
つまり、彼の本当の’悩み’は、父親との関係性にあり、それは 表層下の/根底に
あるパターン を意味し、デートの問題は、デートの問題は、むしろ、父親との関係性/
パターン をドキュメントしていると見てよいでしょう。@
@ カウンセリングの分野では、よくあるケース/事例。
差し当たって表明・吐露された’悩み’それ自身よりも
別の処、その奥底に真の、本当/本音の悩みが
隠されている場合が指摘されています。
彼は、過去想見的ー未来想見的に状況を、あれこれ忖度、吟味しつつ把握しながら、
父親の態度を想定しました。
それは、’反対しないけれど反対する’構え。 父親は、彼/息子の行動(キリスト教徒の
女子とのデート)にはあからさまな対決姿勢をとらないのです。 がしかし、彼/父親の
煮え切らない、’優柔不断な’態度には、息子は、かなり強い不満と苛立ちを覚えている
ようです。
’父親の反対しない’戦術では、息子/学生はには、彼(父親)の’本当の気持ち’、
つまり、本心、或いは、本音 が見えず、ですから、エスノメソドロジー的にいえば、
表層下の/根底にあるパターン 、即ち、父親の’本当の気持ち’/本音 を指し示して
いない、代表していない、 ーー 一言で云えば、ドキュメントしていないとしか映らない
ということです。
ここで、
表層下の/根底にあるパターン という想定を、改めてお浚いしますと:
先ず第一に、 パターン には、 インデックシカルな表現/行為が 実際の現れ に
よってインデックスするもの、或いは、サインーリファレント図式 におけば、サインが
表象するリファレントの部分」が準拠する日常生活世界の常識的知識/背景の
期待 (の遵守・合致)に相当します。
被験者が、実験者の返答 <YES or NO>に対して色々と パターン の探索
を行う場合、これは、表層下の/根底にあるパターン の第1の様相。
次いで、第2の様相では、
パターン の想定は、<実験者ー被験者>の状況から、本格的に、息子と父親の
関係性へ移行し、その状況は複雑化します。
ここでは、父親の態度が、検討の俎上に載ります。 彼の煮え切らない態度は、
ーー 第1の様相、つまり、彼の パターン は、〔ユダヤ教徒としての〕常識的
知識に遵守・合致していると推察されるにも拘らず、それが明解に表に( 実際の
現れ として) 表明されていないからです。
実際の現れ のドキュメントと 表層下の/根底にあるパターン は、必ずしも、
正比例していない、正の対応関係ばかりではないので ・・・ という意見です。
実際の現れ という パターン の関係は、正比例ばかりでなく、それどころか、
反比例的な ーー それは、両者が互いに全く異なり、対立し、葛藤し、乖離し、
齟齬をきたしている ーー 場合が、日常的場面では、多々目撃されるからです。
Garfinkelによれば、繰り返しますと、
実際の現れは、、表層下の/根底にあるパターン をドキュメントしていると想定・
説明されています、けれども、 少なくとも、この事例の場合s、被験者/学生は、
父親の ’より本当の意見’を取り入れたい、 父親の実際の態度、さし当たって
息子に見せる姿勢は、彼(父親)の本心/本音 ーー すなわち、本当の/真の
パターン を表示していないと見抜いています。
このことは、実際の現れ が、必ずしも、表層下の/根底にあるパターン (=
父親の本心/本音をドキュメントしていないという意見の証左となると云ってよい
でしょう。
以上のように、表層下の/根底にあるパターン の想定を捉え変えて見ますと、
それは、一面的でなく、多面的であること、更に、常識的知識への準拠、或いは、
背景の期待 の順守・合致するばかりでなく、それとは裏腹に、反比例的に違い、
対立、相克、葛藤、齟齬 などが、度々立ち現われます。
それは、人の心の複雑さを鑑みれば、容易に納得出来るでしょう。
このような’反比例’の源泉は、本心/本音の存在にあると云えるでしょう。 つまり、
父親の態度、’より本当の考え’を本心/本音と把握・理解しました。
ーー 本稿筆者の着想です。
では、本心/本音 とは、
広辞苑で調べますと、
ほん‐しん
【本心】
①もちまえの正しいこころ。 良心。
②(ホンジンとも) 本気。 正気。
③うわべでない。 本当の心。 本意。 「___を明かす」
目下の事柄の本心は、上の記載の③の適合するように見えます。 息子/学生には、
父親の ’うわべでない、本当の心’の証をしてほしいのです。 ところで、
本音 は:
ほん‐ね
【本音】
①まことの音色 (ねいろ)。
②本心から出たことば、たてまえを取り除いた本当の気持ち。
「__を吐く」
息子は、父親の「たてまえを取り除いた本当の気持ち」を知りたいのです。
けれども、父親は、’たてまえ’ ーー この事例では、’反対しない態度’を固辞し、
なかなか素顔(本音)を見せようとしません。本音といえば、この’たてまえ’ =
建前 が想起されます。 <本音と建前>。
では、建前 とは:
たて‐まえ
【建前】
①振売りや大道商人が、物を売る時の口上。売り声。
②表向きの方針。 「本音(ほんね)と__」
父親の「表向きの方針」の息子は、苛立ちを隠せません。
因みに、「本音と建前 は、日本固有の文化とは云わないまでも、昔は、勿論、
今日でも状況によっては、根強く生き残り、日常的場面において、人々の間で
生起する 「建前」 と 「本音」 の食い違いや乖離が、様々な悶着、縺れ、
揉め事などの相克・対立を引き起こしてます。
もっとも有力な解決策の1つは、日常語的に云えば、’腹を割って話す’こと:
’腹蔵なく話す’こと; ’包み隠さずに話す’ こと。
はらをわる
【腹を割る】
包み隠さず真意を明かす。 「腹を割って話し合い」
ふく‐ぞう
【腹蔵・覆蔵】
心の中を包み隠すこと。 「__無くおっしゃって下さい。」
息子は、父親の 表層下の/根底にあるパターン 即ち、本心/本音をかなり
明快に推理していますが、父親から客観的な確証が得られず、それゆえに、父親と
の直接的な話し合い、”腹を割った”話し合いを願望しているように推察されます。
けれども、
彼の意図は、父親には、勿論、実験者にも充分伝わっていないと彼は感じ取り、、
特に、実験者/偽のカウンセラーの返答 : YES を’話し合いをするように’と 解釈
した上で、それは、父親のパーソナリティーに深く関わるために非常に難しく、実験者
の返答は、彼が父親に対する知識・理解がないからだと自らに対して納得します。
彼は、父親が本心を明かさない態度、彼の 表層下の/根底にあるパターン を
掴めず、それによって生じている彼自身の パターン、即ち、父親への不満、
苛立ちを実験者に充分に吐露し、受容されないまま、方向転換し、違った方向
ーー 彼の未来の子供達と宗教教育へ移り、第6の質問を設問しつつ、未来想見的
解釈を試みます。 それは、」実験者の返答に出来るだけ合致・適合するように、
解釈(精錬/調整) を行うことでした。
最後の質問で、内容を未来の子供達の宗教教育についての彼の考えや思いで
貫かれていますが、それは、自治は、彼の父親に対する願望、彼のパターンを
投映している、エスノメソドロジー的に云えば、ドキュメントしていると看取されます。
それは、彼の未来の子供達の宗教観は、寛大で、寛容であること。 彼には、
彼のこの思いと同じ態度を父親にも共有してほしい ・・・ 彼は、表層下/根底では、
そう思っていると推察されます。
彼は、最終的には、宗教の問題よりも、やはり、キリスト教徒の女子とのデート
の問題に戻って、その成り行きがどうなるのかは、時が告げるだろうと一応
結論づけて、静観することに身を委ねます。
確かに、今、父親との間に、不要な波風を立て、ひと悶着を起こしても、
それは、解決にはならないでしょう。。彼は、自身の発言(ドキュメント的証拠)
の言外に、父親にもう暫くの間、様子を見守って欲しい パターン を指し示して
いると云えます。 このことは、被験者/学生にも当て嵌まるかもしれません。
というのも、息子/学生は、父親をネガティブな見方で、(’神経の細いタイプで、’
大変用心深い、’’話し合うことを恐れている、’と)表現し、気に入らない様子ですが、
父親のそのような何処か躊躇した、曖昧な態度の本音(=表層下の/根底にある
パターン)は、暫くの間、息子のデートの成り行きを見守りたいという風にも感じ
取ることが出来るでしょう。
父親と息子の間柄は、お互いに、それぞれの パターン の把握が難しい・・・
なかなか意志の疎通を図り得ないという処があるようです。
以上、聊か、恣意的 (過ぎたかもしれない) 考察・解釈を試みて参りましたが、
この間に、少なからず驚嘆しましたことは、実験者/偽カウンセラーの返答:<YES
or NO>が、乱数表に作成された、無作為の、最小限度のものだったということ
このような非常に限定された”実験”の場況にも拘らず、学生/被験者が、各返答への
答えに、つまり、彼自身による解釈の捻出に悪戦苦闘しながも、それらの返答を
管理しつつ、彼の’悩み’を収束し、問題解決に対して、少なくとも、その方向性を
見出したことでした。
次いで、
第4章、《陪審員が尊重する適正な決定》 を取り挙げましょう。
この論文は、Garfinkelが、彼のエスノメソドロジー的構想の先駆的試みと見做して
いるもどです。
その手法は⋆、陪審員が、日常生活で使用する’意思決定の規則’ と ’裁判所
関係者が提示する’ 職務的路線の相違、齟齬、乖離 を明らかにし、更に、陪審員
がこの’職務的路線’に合致するよう自身の意思決定の日常的規則の 修正
(modification) を余儀なくされ、そのことは、経緯微なものとはいえ、状況の選択
(意思決定)を曖昧にし、陪審員によるこの曖昧さの 管理 (management ) という
修正 の手法/過程を明細化する試みです。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 104ff.
捉え直せば、修正 は、陪審員の日常的な意思決定の規則の 修正 であり、
この日常的な規則を裁判所関係者の要請により、彼らの提示する’職務的な路線’に
合致する’職務的路線’ を再構築することでした。
ところが、
陪審員が、このyに彼等の社会的判断」に関する彼等の習慣的な〔日常的な〕
規則の変更、変化を求めた⋆、実際には、明快にはそうせず、日常的規則(/陪審員
の’職務的路線’) と裁判所関係者の提示する’職務的な路線’は、同時に保持され、
このことは、状況の曖昧さを露呈しました。つまり、両者の間に齟齬や不一致を
しょうじたのです。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 112.
ということは、
陪審員は、公けには、’職務的な路線’ への統合を試み、敢行し、アノミーを除外し、
曖昧さを隠蔽し、個人的に ’職務的な路線’へ歩み寄ろうとしましたが、しかし、
ずれや齟齬は、解消されず、陪審員に不満、不安感、そして無念さをもたらしました。
とはいえ、結果として:
「人々が陪審員になる過程を経るにつれて、日々の生活の規則は、修正された」⋆
のでした。 しかしながら、「彼〔陪審員〕が決定を下す際に、多くの変化したと云って
もせいぜい5%であるという印象を受けた」⋆⋆ のであり、それは、「彼が裁判所
屁〕来る前に95%陪審員だったから」⋆⋆⋆とGarfinkelは結論づけます。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 110.
⋆⋆ Ibid., p.110.
⋆⋆⋆ Ibid., p.110.
つまり、「彼等〔陪審員〕は、’職務的な路線’に詳述された手続きと彼等を同一化し、
彼等の理想的なアカウントでは ・・・ いかに正しい決定に達したかを ・・・
〔そして〕陪審員は、あたかも審議にはいる前に意思決定の規則を知っていた
かのように語った」⋆と記述しています。
Garfinkelは、「選択の常識的な状況での意思決定」⋆⋆を、具体的には、’職務的な
路線’と日常的な規則の間に生じる齟齬・不一致の 修正 を意味しますが、この
修正 の過程の特色を「それは、既に行われた決定を回僧し、定義ぎすることから
成り立つ。結果は、決定の前に生じる」⋆⋆⋆ことにあると看取しています。
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 113.
⋆⋆ Ibid., p.113.
⋆⋆⋆ Ibid., p.114.
と云うことは、
「 ・・・ 陪審員は、決定が下されてしまうまで、適正な決定を定義する条件を
実際には理解していなかったのである。過去を回想して 〔過去想見〕のみ彼等は、
彼等のしたことが、彼等の決定を適正なものにしたことと決定したのであり、〔その
ようにして〕結果を手にしたとき、彼等は”何故”結果に至ったのか見出すために、
〔結果へ〕遡り、そして、それは彼等の決定になんらかの秩序、即ち、決定の’職務性’
を与えるためであった」⋆ のであり、
⋆Garfinkel、Harold, op. cit., p. 114.
従って、
修正 は、陪審員が裁判で決定された事柄を受けて、即ち、過去を振り返って、
現在の決定の適正さを判断することによって、齟齬の存在した’職務的な路線’
への日常」的な規則と陪審員を納得したということです。
以上の概観を踏まえて、
第4章のGarfinkelの論文を彼のエスノメソドロジー的研究構想の予備的段階
の作業として捉えるならば、少なくとも、以下の3点が挙げられてよいでしょう。
1つは、’職務的な路線’ と 日常的規則の間の齟齬や不一致が生じることと
その 修正 の過程に 解釈のドキュメント的手法 が見出せることです。 この
過程は、先に取り上げた、偽のカウンセラーの事例で検討された 実際の現れ
と’心に思われたこと’ の間のずれ/食い違いとその解釈 (管理と精錬/調整)
の過程に相応すると考えられ、ひいては、表層下の/根底にあるパターン の
探索と云う 解釈のドキュメント的手法 の特色に導かれることにと云ってよいで
しょう。
いま1つの点は、修正 の過程を 「過去を回想しつつ、」試みられと云う分析は、
過去想見的ー未来想見的可能性の図式による把握・解釈 というGarfinkelの
構想を示唆していることが出来るでしょう。
けれども、これら2点より、更に、重要なもの、第3の点は、二条生活の常識的
世界、換言すれば、”日常生活の態度”が浮き彫りされること。第4章における記述は、
全て裁判所関係者〕及び彼等の提示する’職務的な路線’の側から、所謂、”外側”
からではなく、’日常の規則’に準拠する陪審員の側から -ー Garfinkelの用語/
基本的概念によれば、”内側”から観察・分析された事実に基づいていること。 つまり、
それは、反映性 というエスノメソドロジー適研究の特色を含蓄するのであり、社会の
の成員、或いは、日常生活世界の中で常識的知識に準拠しつつ、普通の活動を
を行う’普通の人々’の側から、彼等の立場に立ちつつ、リポート/アカウントする
ことに他ありません。
ここから、Garfinkelの構想は、彼の著書《エスノメソドロジー的研究》の本格的
な探求: 序文から第3章へと発展して行ったと解釈され、この意味で、第4章は、
彼の思考の経緯を審らかにするために決して看過してはならないでしょう。
これまで、Garfinkelのエスノメソドロジー的研究を概観・検討して来ましたが、
では、彼の構想の基底をなす(と考えられる) 基本的原理 とは、 ーー
どのようなものでしょうか? このことが念頭を去来します。
この問いを探索するために、最後に、今一度、枯れのエスノメソドロジー的研究
を振り返り、再検討してみましょう。
彼の研究対象は、日常生活の常識的世界であり、それは、そこで暮らす’普通の
人々’のありふれた日常的活動に準拠し、そしt、この日常生活世界の常識的知識
は、、人々によって「見られているが、気付かれない」、「共に知られた」 ーー つまり、
当たり前と思われている世界を意味し、研究者/社会学者も同じ対象を、(’普通の
人々’)と同一の立場に身を置きつつ、この 反映性 をアカウントします。
このような日情生/性の日常化、つまり、日常生活の世界/社会構造の常識的知識
の故意の、或いは、詐欺的な、けれども、あくまでも、一時的な転覆や背信は、
様々なネガティブな反応(感情)を惹起しましたが、それは、(原状)回復され、或いは、
復元され、このことは、Garfinkelの潜在的な企図:日常生活の秩序維持を解明
するたの試みとして達成されたと見てよいでしょう。
ここでのっ枯れの原理的な構想は:
日常生活の常識的世界は、それを覆そうとする色々な手続き(”実験”)が試みられ、
実行されても、結果としては、現状(status quo) に戻る、つまり、秩序維持に落ち着く
という見解。 更に、捉え直せば、色々な非日常的な出来事、例えば、異邦人的体験
など、次々噴出したとしても、或いは、している状態が続行/継続しても、多少の変化
を随伴しても、究極的には、正常化し、安定化するという、謂わば、、”均衡維持”志向
の静態的分析が推察されます。
とは云え、
Garfinkelの構想には、静態的分析寄りも、過程的な、つまり、過程(process) を
重視する動態分析への傾斜・傾向がより強く感取されます。
つまり、Garfinkelのエスノメソドロジーに底流する基調、基本的な原理: 《社会
構造の秩序維持》 は、今一度繰り返しますと、日常生活世界の社会的秩序が
いかに維持されているかが風変りな”実験”で浮き彫りされ、その回復/復元、正常化
の場面が観察、リポート、アカウントされました。 そして、その間、即ち、経過・過程
に生起する成員の解釈(/精錬・調整)の様々なやり方も常識的知識/背景の期待
の 修正、更に、変容 を受けつつ、経ながらも、最終的には、この社会秩序の維持
に組み込まれ、’社会の安定した構造’ の抽出/摘出の試みが認められるということ、
に至ります。
亦、エスノメソドロジー的特色は、社会の成員、別の角度から見れば、行為者の
相互行為を対象としていること。
それは、微視社会学的レヴェルでの代表的な側面の1つであり、その深淵では、
象徴的相互行為主義 (symbolic interactionism) @と連繋しているかと見做される
解釈過程、つまり、行為者の〔主観的な〕解釈過程を含蓄、依拠します。 Garfinkel
においては、 解釈のドキュメント的手法 と呼ばれる過程です。
@Symbolic Interactionism, Wikipedia; the free
encyclopedia に拠りますと:
エスノメソドロジー〔は)、象徴的相互行為主義の分派
(ethnomethodology, as offset of symbolic inter-
ationism) と位置づけられています。
因みに、象徴的相互行為主義は、大雑把に、マイクロ・
レヴェル志向の相互行為過程で行為者が付与する意味/
象徴の解釈、或いは、’状況の定義(definitionof situation) '
の過程と, Wikipediaでは説明されています。
解釈のドキュメント的手法 は、例えば、偽のカウンセリング場面で、被験者、即ち、
行為者が相手(実験者)との遣り取り(相互行為)の状況 (乱数表による返答)を
苦慮しつつ、なんとか答えを捻出する、つまり、解釈する試み〔をアカウントすること〕
であり、これは、取りも直さず、日常生活の常識的世界の転覆を図った”実験”の
ヴァリエーションと見られます。
このような 解釈 の根幹は、表層下の/根底にあるパターン の探索にあると
想定・解釈されてよいでしょう。 それは、会話(相互行為)に現れる実際の発言
の各々が発言者のパターン、即ち、発言者の’心に思っていること’を指し示し、
代表し、ドキュメントしていると想定し、それを探索することを意味すると考えられ
ます。
この探索は、過去想見的ー未来想見的可能性の図式による把握と待つ/待機
することを含蓄し、このような手続きを軸に行為者/解釈者によって 管理(/操縦)
され、精錬・調整、或いは、修正 が行われます。 第1章から第4章まで色々な
例解、実例が施されました。
このような解釈は、更に、いつも不断に行われる 継起的達成 のそれであり、
Garfinkelは、操作的、 或いは、発展的 ーー つまり、過程的 (processual)
と捉えています。
ところで、
ここで指摘、強調されべき点は:
解釈過程は、日常生活の常識的世界に準拠、別言すれば、背景の期待 の 遵守・
合致 に基づくこと。このことは、ありふれた、日常的場面において 〔社会の〕成員/
〔相互〕行為者の間に合意が要請さrます。この合意の状況下でやり取り/相互行為
が維持・存続されれば、そこには、いつも同じ仕方で、解釈するという 解釈過程の
安定化が認められ、定式化され、従って、静態分析の地平が開示されるでしょう。
ところが、
Garfinkelは、”過程”を ーー 換言しますと、動態分析 を強く指摘します。
つまり、〔相互行為/解釈における〕 共同理解は、”過程的”なもの。 それは、
彼に依れば、発展的であり、継起的達成の過程として把握あれ、より明細化しますと、
常識的知識への準拠・遵守/背景の期待への合致の下での管理/操縦、そして、精錬・
調整、或いは、修正という特色としての様々なやり方の出現、駆使を意味し、同時に、
合意に基づく共同理解が、仮の、不確定なものであり、その際、形成が常に問い掛け、
働き掛けられていること、この意味で、日常生活世界の常識的世界 のみならず、
背景の期待 も挑戦を受け、反証され、修正 や 変更 に晒されていることを意味
しています。
しかしながら、
Garfinkelは、例えば、共同理解 の基準化 (standardization) について日常的
行為の規範〔/常識的知識〕 からの離脱を捉えながらも、その復元のための努力の
導引を挙げ、基準化 ーー 離脱と復元 ーー を特色づけています。 復元は、
常識的知識への準拠 (遵守・合致)の再認識、再編成の他にあり得ないでしょう。
以上の概要と検討・敷衍を踏まえますと、
Garfinkelの著書に従う限り、彼のエスノメソドロジー構想の、その根底に流れる
基調は、社会的秩序(の逆説的抉り出し)に在り、私達は、究極的には、その方向へ
引き摺り込まれることになりました。
例解し、けんとう
。
。
<address> </address>