翻訳:
Helen へ
彼女の健全な且つ実際的な経験主義は、
永い間、 治癒不可能な理論家にとって
不可欠な弾み車であった.
T.パーソンズ
社会体系
本書は、体系的 且つ 一般化的な形において、社会体系の構造と
過程の分析の為の概念的スキームの主要な骨子を提示する試みである。
この場合の性質において、 行為の枠組内において、 概念的スキームは
制度化された役割の体系とそれらに対して組織された動機的過程の
輪郭づけに焦点をあわせねばならない。 この焦点と経済的交換の
過程と政治的勢力の組織化の基本的な取り扱いの故に、本書は、
一般的な社会学的理論のステートメントとして見做されるべきである、
というのも、此処では、そのことが、役割における価値-志向のパターン
の制度化の現象を中芯に置く社会体系の理論の一部として解釈される
からである。
当タイトル、社会体系は、他のどの文献よりも、故Ⅼ.J. Henderson
教授の主張、科学的理論における体系の概念の非常な重要性に
ついての主張へ立ち還るものであり、且つ、体系としての社会体系
についての輪郭付けへの試みをめぐる彼の明晰な実現は、Paretoの
偉大な業績①に依るものである。
➀ Cf. L. J. Henderson, Paretoの一般社会学/General
Sociology.
本書は、従って、Paretoの意図、つまり、分析の構想―機能レヴェル
を、Paretoのそれとはまったく相違するアプローチを用いながら、実行
する試みであり、そして 〔それは〕 勿論、多くの点でParetoの著作後の
世代によって蓄積された我々の知識におけるかなりの進展を利用しつつ
である。
読者への方向づけに対しては、本書の作者の既発表の作品と、殆ど
同時期に、Harvard大学の社会関係学部のメンバーと彼等の協力者
によって貢献された書、行為の一般理論を目指して/Toward a General
Theory of Action へ関連づけることは大切である。
著者のThe Structure of Action/行為の構造は、厳密な意味では
、
社会学的理論ではなく、一つグループの著者の業績であり、行為の枠組み
の本質と含蓄に 関する分析である。 その1937の出版以来、徐々に、
社会学的理論のより狭められた課題への体系的なアプローチが方式化が
姿を現した、それは、様様なフィールドにおける経験的作業によって、そして
Marton➁ や他の著者の著作によって刺激されたのである。 このような
展開における様々なステップは、Essays in Sociological/ 社会学的
理論のエッセイに集められ、出版された著作においてドキュメントされている。
② 特に、社会理論と社会構造/SociaTheory and Social
Structureを参照されたい。
機会が与えられ、時も熟したようなので、私は、幾歳か、諸思索の撚り
糸を一つの一般的な書に寄せ集めようと意図した。 1947の秋、、私は
、
Harvard で、社会体系のセミナーを持った。 そこで、成し遂げられた
思索の明確化は、社会学的理論の位置/The Position of Sociological
Theory (Éssays, 第一章)という論文において、非常に濃縮された
形でドキュメントされた。 それから、1949年の1月~2月、London
大学で[Harvard]社会学の大学の講義を教えるようにと言う招請は、
この問題のより更なる体系的考察の時宜を与えた。 これらの講義は、
或る意味、大雑把なものだったので、そのものは出版されず、本著の
概要を構築した。 その後、社会学、社会人類学、社会心理学に関わる
全フィールドの理論的根本原理な試みに関わって、私は、Harvardから、
1940~1950年の秋期の講義の休暇を得た。 1949年の夏に始まり、
秋まで続いたグループ・ディスカッションが進行した間、私は、それを
当プロジェクトの最初のフェーズへの重要な貢献とした。 長期にプロジェクト
された本書の最初の下書きをするために、である。
このより広範なプロジェクトの著作は、特に、非常に刺激的な雰囲気の
グループ・ ディスカッションにおいて進められたので、行為の枠組みの
根本原理の再評価を、それらが社会学社会学的理論ばかりでなく、
他の社会関係のフィールドの他の学問を基本的に支えるものとして、
含意した。 1949年の11月の末、基本的な枠組みへの再思索は、
上記のより広範な理論的プロジェクトの最も直接的な結果として出版
される予定の書が形を表す最高潮に達する。 私の個人的な貢献は、
価値、動機、そして行為の体系/Values,motives,and Systems of
Action と言うタイトルの許で、Edward Shils と共に記したモノグラフ
が、社会的を行為の構造/the Structure of Social action の
理論的主題の新しく、且つ、広大されたステートメントを構成すること
にある。 確かに、もしあのタイトルが、先取れていなかったならば、
それは、このモノグラフにとって最も適切であっただろう。
従って、行為の体系についても一般的モノグラフの著作をもたらす
作業は、本書と非常に重要な関係を持つ。 まず最初、それは、通常の
場合よりも本書の下書きの遥かに大きな規模の改訂(プロジェクト
されたものの4分の3以上が最初の下書だった)を必要とした。 結果
として、それは、予想下以上にひどく異なり、且つ遥かによい書になった、
と私は思う。 このモノグラフは、又、容易にアクセス出来る形で、多くの
方法論的な問題への注意深い且つ体系的分析や行為の理論の一般的
問題、そしてそのパーソナリティーや文化的フェーズを提供し、それらは、
多くの点で、本書の主題を理論的に支え、密接に関連する。かくして、
このことは、本書の深刻な負担を軽減し、且つそれを、その中心的
諸問題に専念出来るように、自由にする。 或る意味で、本書は、
当モノグラフが最初のものとして仕する行為の理論についての体系的
学術論文の第二の書として扱われべきだろう。
当モノグラフの本体は、4つの長い章から成る。 最初のものは、
行為の一般的概念のスキームの根本原理を輪郭付けし、他の3章は、
それ〔行為の概念的スキーム〕を、 行為の体系化の3つの様式の夫々
パーソナリティー、文化体系を、 価値-志向の体系そして社会体系への
特別な参照と共に、詳細に説明する。こうして、或るいみで、本書は
当モノグラフの社会体系/TheSocial Systemについても章の拡大
が認められべきであろう。 それは、また、後者の他の重要な部分への
侵害することになるとは言え。
著者が、2つの密接に関わり、殆ど同時の出版に関与した時、夫々は、
個別に詠まれるようにデザインされていたが、或る程度の重複は、やむを
得ないだろう。 しかしながら、そのことを縮小する試みは為された。
本書の最初の章は、行為の構造、行為体系の基本、そして
パーソナリティー、文化体系、社会体系の基礎的相互関係についての
濃縮されたステートメントを含蓄している。このステートメントは過度に
濃縮されていると見る読者は、当モノグラフにおいては、もっと大規模に
議論された問題であると見るだろう。 明らかに、更に、社会体系/The
Social Systemについてのモノグラフの内容の多くは、その居場所を
本書に見出すが、しかし、今回は、非常に発展した形で、且つ、説明に
役立つ資料と共に、である。 最後に、本種では、社会体系とパーソー
ナリティーそして文化体系との相互関係を体系的に扱う試みが為された。
此処では、当該モノグラフとの主な相違は、パーソナリティーと文が、
議論される処ではいつも、社会体系の構造と機能性への関連についての
視野の一貫した維持、にある。 此処で構想されるような基礎的な社会
科学理論の完全な扱いは、本書と並行する2つの更なる書が要請される
だろう。
2つの出版物のもう1つの違いは、本書の殆どの資料が、最終の
形としてモノグラフのテキストよりも幾らか遅れて書かれたという事実
にある。 理論的アイディアの展開は、非常に速く進展したので、数か月
或いは、数週間の違いが重大な変化に連なり、従って、2つの出版物
において取られたポジションに幾らかの相違がある。確かに、個の展開
の過程は、本書の内的一貫性へ不可避的に影響するようなものである。
他の点から生じ、導入された変化の連関なしに、1つの部分に徹底的に
作業することは、可能ではない; 改訂の過程は、従って、それ自身に
十分に追いつくことは、決してない。 概して、読者は、このあまり完全
でない一貫性を見出すことひ期待するだろう。 私は、この危険を
犯し、本書を出版する方を」が好いと思った、それについて何度も
そして余りにも長い間、思索するよりも、である。 このことは、批判的な
議論という利得を得ることが出来、そして比較的短い時間に改訂が
試みられるかもしれな。 そのような改訂は、たとえば、5年間ぐらいに
実質的なな変化に導かれただろうことを十分に期待される。この分野は、
このことを、不可避的なものにするほど迅速な発展の過程である。
今し方概観された環境の許で産み出された書は、他のもの通常
よりもっと多くお蔭を蒙っている。私の最も深い、直接な恩義は、
Edward Shils 、価値、動機、そして行為の体系/The Values,
Motives and Systems of Actionのあのモノグラフの共同ー
執筆者、に向けられる。当モノグラフへの個別的な寄与を分解する
ことは、全く不可能であり、この共同の思考の多くは、本書に注ぎ
込まれた。 また、Edward Tolemanへの感謝も非常に大切だ。
協同作業プロジェクトの期間にもった多くの長い議論に、それから
多くのそれら〔議論〕に参加したRichard Sheldon にも。
この経緯の背景には、現代社会科学の偉大な創設者の計り知れない
影響力があり、中でも、私の以前の研究についての3人の主要な人物、
Pareto, Durkheim, Max Weberが卓越しており、そして彼等に
加えてFreud、である。 永い期間に渡る同僚との親交の際立って
重要な影響があった。 特に、文化の問題と社会への関係に関する
Clyde and Florence Kluckhohn, そしてパーソナリティーと
社会心理学に関してHenry A. Murray and Gordonn W. Allport
に拠る、より中心的な社会学の分野における議論では、特に、
Samuel A. Stouffer, Robert K. Merton, Florence Kluck-
並びに Robert Freed Bales 及びFrancis X. Sutton が最も
実り多かった。
少なからず、大切だったのは、一連の有能な学生との議論であるーー
それらは、二・三を指摘するには余りにも多すぎるが、しかし、François
Bourricaud, Renée Fox, Miriam Massey, Rev.John V. Martinn,
Robert N. Wilsonn そして Dr. Lyman Wynne が含まれる
社会構想/Social Structure についてのセミナーの下位委員会が
特に、選び出すことが出来る、というのも、グループとして、我々は
、
共に、社会体系の動機的過程の問題を討論したからである。
本書の作業のかなりの部分は、社会関係の分野の理論的基礎
ついての一般的なプロジェクトの一部として行われ、このコネクション
で、Toleman教授とShils教授がHarverdへ引き寄せられた。
従って、そのことは、NewYork のCarnegie財団と社会関係研究所
によるプロジェクトへの財政的支援のおんけいを分かち合ったので
あり、 この援助は、斯くして、深謝される。
最後に、社会関係」学部の秘書、Miss Weymouth Yelle, 原稿の
プロセス、 Mr. Aeymour Katz と Mrs.Norma F.Geer による
実際のプロセス処理に関わる業務的作業の立派なスーパーヴァイズ。
インデックスハ、Mr. Stuart Clevelannd に依って 用意された。
筆者の感謝は、こうして、これらの欠くことの出来ない奉仕の効果的
なパフォーマンスに対して、記録される。
Talcott Parson
Cambridge, Mass.
1951年 2月
内容
頁
序文 vii
章
Ⅰ. 行為の準拠枠及び行為体系の一般理論:
文化、パーソナリティー そして 社会体系の場処 3
Ⅱ. 準拠のポイントそして社会体系の構造的構成素 24
社会体系の機能的必須要件 26
行為要素の制度的統合 36
制度的パターンの分類のための準拠ポイント 45
社会体系に関連する制度化のタイプ 51
行為-志向、文化的パターン及び制度の
モードとタイプ 57
関係的な役割-期待パターンの定義としての 58
価値-志向のパターン代替肢
Ⅲ. 社会体系の構造、Ⅰ: 下位-体系への構成素の組織化 68
評価的行為-志向の関係的脈絡関係の構造 69
役割-期待の焦点としての対象の態様 88
集合体の連帯 96
社会的価値志向のタイプ 102
Ⅳ. 社会体系の構造、Ⅱ: 構造的分化と社会のヴァリエーション
についての準拠の不変なポイント 113
社会構造の結晶化の焦点 114
社会体系の内的分化 137
ⅰ.対象役割における行為-単位のカテゴリー化 142
ⅱ. 志向-役割タイプの分類化 143
ⅲ. 道具的志向の”経済” 145
ⅳ. 表現的志向の”経済” 147
ⅴ. 文化的志向体系 148
ⅵ. 統合的構造 148
Ⅴ. 社会体系の構造、Ⅲ: 全体社会の構造の経験的分化
そして ヴァリエーション 151
社会体系の構造的構成素の幾らかの経験的
クラスター化 153
1.親族体系 153
2.道具的達成構造と階層化 157
3.テリトリー性、勢力、そして権力体系の統合 161
4.宗教及び」価値-統合 163
経験経験的社会の構成 167
所与の社会体系の構造的絶対原理 177
社会構造の主要なタイプ 180
1.普遍的達成パターン 182
2.普遍的な生得パターン 191
3.特殊な達成パターン 195
4. 特殊的な生得パターン 198
Ⅵ. 社会的役割の学習そして動悸の社会はの機制 201
子供の社会化 そして 社会的価値-志向の内在化 207
基礎的パーソナリティー構造:モード的クラスター化と
多様性 226
志向の状況状況的役割-特殊化/specification 236
j事例: ”利益動機” 243
Ⅶ. 逸脱行動 そして 社会的制御の機制 249
逸脱的動機の相互作用と起源 251
逸脱的志向の方向 256
逸脱の起源と逸脱かの幾つかの更なる
状況的側面 267
役割葛藤と逸脱の起源 280
逸脱行動傾向の社会的構造 283
社会的統御の機制 297
補遺 320
Ⅷ. 信念体系そして社会体系: アイディアの役割の問題 326
実存的経験的信と社会体系 332
1. 科学的発明の制度化 335
2. 応用化学の制度化 345
3. イデオロギーの制度化 348
非-経験的信念の社会体系との関係 359
宗教的信念体系 367
信念体系と価値-志向の非依存性の相互依存性 379
Ⅸ 表現的シンボルと社会体系: 情動のコミュニケーション 384
表現的シンボリズムと集合体 394
表現的シンボリズムに関する役割文化 399
芸術家の役割 408
表現的シンボリズムと報酬体系 414
Ⅹ.社会構造と力動的過程:現代の医療実践 428
医療実践の機能的場況と文化的伝統 433
社会構造 439
医療実践の状況
A. 患者の状況 439
B. 医師の状況 447
医療実践の制度的パターンの機能的意義 454
幾つかの特別な/specific問題 466
幾つかの理論的結論 473
Ⅺ. 社会体系の変動の過程 480
変動の理論の問題 481
社会体系における変動の一般的本質 490
社会体系における変動の方向 496
1.制度化された合理化と”文化遅滞” 505
2.カリスマ的改革運動の支配 520
3.改革運動の適応的変容 525
Ⅻ. 結論: 行為の分析科学のなかでの
社会学理論の位置 536
行為の一般理論における社会体系の一 541
行為の理論と自然科学 545
索引 556
第Ⅰ章
行為の準拠枠そして行為体系の一般論:
文化的、パーソナリティーと社会体系の位置
本書の主題は、行為の準拠枠 に関する社会体系の分析nための
概念的スキームの解説と例解である。 厳密な意味での理論的作業が、
意図されている。 その直接的は関心は、勿論、かなりの量のが含まれて
いるけれども、 経験的一般化とそのものにも、方法論に対するもの
でもない。 勿論、 此処で、進められる概念的スキームの価値は、
究極的には、 経験的リサーチの有効性に関して検証される。 しかし、
それは、一般社会学では必要であろう様な経験的知識の体系的な
アカウントを始める試みではない。 焦点は、 理論的スキーム
にある。 その経験的使用の取り扱いは、別別に行われねばならない
だろう。
根本的な出発点は、行為の社会体系の概念である。 個人行為者
の相互行為が、即ち、科学的意味おける体系としての相互行為の
過程を体系において取り扱うことを可能にし、それは、他の科学の
他のタイプの体系にあって、成功裡に 応用された理論的分析と
同じ秩序に価するような条件の許で生起する。
行為の準拠枠は、他処では、大規模に合疲れているので、此処では、
簡略に概要されるだけでよいだろう。➀ 準拠枠は、 1人、または、
それ以上の行為者の、 ―ー 根本的な個人の場合は、生物学的
有機体のーー 他の行為者を含む、状況への”志向”である。 この
このスキームは、即ち、行為と相互行為の単位に関わる関係的
スキームであり、他の〔行為と相互行為の〕単位を含むそのような状況
への関係において 組み立てられた体系の構想と過程を分析する。
それが直接的に関係的体系に適する限りを除いて、それ自身、単位の
内的構造には、関わらない。
➀ Cf. 行為の一般理論を目指して/Toward aGeneral
Theory of Actionに所収の、特に、Parsons and Shils,
価値、動機、そそて行為の体系/Values、Motives and
Systems of Action 、亦、Parsons, 社会行為の構造/
Structure of Social Action,及び、社会学的理論における
エッセイ/Essays in SociologicalTheory、そして、勿論、
Weber、社会的そして経済的組織の理論/Theory of
Social and Economic organization.
状況は、志向の対象から成るとして定義されので、 所与の行為者
の志向は、彼の状況が構成される分化した対象とそれらのクラスを
”社会的”、”物理的”、”文化的”の3つのクラスから構成されるとして
分類することは、都合が良い。 社会的対象は、 行為者であり、
それは、順次、所与の他の個別行為者(他我/alter)となり、 彼
自身(自我/ego) の準拠点として捉えられる行為者、或いは、
志向分析の目的の単位として扱われる集合体である。物理的対象は、
自我に対して”相互行為”、或いは、”反応”しない経験的実体である。
それらは、彼の行為の手段であり、条件である。 文化的対象は、
文化的伝統のシンボル的要素、アイディア、或いは、信念、表現的
シンボル、或いは、価値パターンであり、それらは、彼の構造の構成的
要素として”内在化”される限りにおいて、自我によって状況的対象として
扱われる。
”行為”は、行為者-状況における過程であり、個人じん行為者に
対して、或いは、集合体の場合、その構成個人に対して動機づけ的
意義を持つ。 このことは、対応する行為過程の志向が、関連の
ある行為の充足の達成と剥奪の回避に、関連あるパーソナリティー構造
がどれほど具体的であれ、意味を持つ。 状況への彼の関係が、
この意味で動機づけ的に関わる限りにおいて、この作業は、テクニカル
な意味における行為として取り扱われるだろう。 エネルギーの
究極的起源や 行為過程の”努力” 要因は、有機体から派生すると
仮定されるが、 同様に、或る意味で、充足と剥奪の全体は、有機体
的意味を持つと考えられる。 しかし、 それらに根付いているとはいえ、
動機づけの具体的な組織化は、行為理論の目標のためには、有機体
の有機体的欲求に関して分析されr。 行為要素の組織化は、その上、
行為理論の目標にたいして、行為者の彼の状況に関係の機能であり、
その関係の歴史であり、この感覚で、”体験”である。
このように、定義された行為の根本原理は、特定の状況的”刺激”
へのアドホックな”反応”から成り立っているばかりでなく、行為者は、
状況の様々な対象に関する”期待”の体系を展開する。 それらは、
彼がとるだろう行為の様々な選択肢による欲求-性向と充足と剥奪
の蓋然性においてのみ構造される。 しかし、社会学的対象との相互行為
の場合においては、更なる次元が加えられる。 自我の期待の部分は、
多くの場合、重要な部分だが、自我の可能な行為に対する他我の
蓋然的なリアクション/reaction が前もって予想されるようになり、
従って、それは、自我自身の選択に影響を与えるリアクションである。
両レヴェルで、しかしながら、状況の様々な要素が、自我に対して
彼の期待体系の組織に関する”サイン”か”シンボル”として特定な
意味を持つようになる。 特に、社会的相互行為が在る処では、
サインやシンボルは、共通の意味を獲得し、行為者の間のコミュ‐
ニケーションの媒体として役立つ。 コミュニケーションを媒介する
ことの出来るシンボル体系が出現すると、我々は、関連する行為者
の行為体系の一部となる”文化”の始まりについて話していると言って
よい。
我々が関心を持つのは、文化レだろうけれども、現在の目標の
ためには、この可能性は、無視され得、注目は、状況に志向
された多数の個人行為者の相互行為の体系に、そして、その体系
が、文化文化的シンボルの共同で理解される体系を含む処に
想定される。
だから、最も簡単で、可能なタームに還元されると、社会体系
社会体系は、物理手d着、或るいは、環境的な側面を持つ状況
において、お互いに、相互行為している多数の 個人行為者、
”充足の最適化”への傾性に関して動機づけ、彼等の状況への
お互いを含む関係が、文化的に構造され、共有されたシンボル
の体系に関して定義されs、媒介される行為者からなる。
このように構想されると、社会体系は、社会的行為の完全に
具体的な体系の構造された3つの側面の1つに過ぎない。 他の
2つは、個人行為者のパーソナリティー体系と彼等の行為に
組み込まれる文化体系から成る。3つの各々は、それらのいずれ
も一つとして、或いは、他の2つとの組み合わせの関わりに理論的
に還元可能であるという意味で行為体系の要素の組織化の〔相互に〕
独立した焦点である。 夫々は、パーソナリティーと文化体系無くして、
社会体系は存在しえないだろうし、論理的可能性の名簿に載せら
られないだろうと言う意味で、他の2つにとっても、お互いに不可欠
である。 しかし、この相互依存と相互浸透は、還元可能性とは
非常に異なる事柄であvり、それは、1つのクラスの体系の重要な
特質と過程が、1つの、或いは他の2つの両者の理論的知識から
理論的に引き出され得るだろうことを意味する。行為の準拠惑は3つ
全てに共通であり、この事実は、それらの間で、”変容”を確かな
ものにする。此処で、試みられた理論のレヴェルでは、それら
単独の体系を構成しない、例え、他の理論的レヴェルでそうなった
としても。
この点を、はっきりさせる殆どのもう1つの方法は、行為-過程
についての我々の動態知識の理論的体系化の現在のレヴェルが、
不完全であるということである。 このこと故、我々は、準拠枠に
関して、記述的に提示された経験的体系のこれらのタイプを、
不可欠な準拠点として使用することを迫れる。 この準拠点に関して、
我々は動態的過程を体系の機能性を影響する”機制”②として考える。
経験的体系の記述的提示は、”構造”カテゴリーのセットに関して
なされ、其処へ機制についての使用可能な知識を構成するに必要な
適切な”動機”的構成物が合わせられる。
② 此処で使用されるタームとしての機制は、行為体系の
機能的問題に関して述べられた動機づけ的過程 に
ついての経験的一般化である。 下記参照のこと、
第Ⅵ章。
社会体系 への特別な準拠を持つ行為体系のこれらの広範な
方法論問題の幾つかへの更なる進行へ踏み込む前に、一般の
行為のより基本的構成素についてもっと何かを話すことが告知される。
最も一般的な意味で、個人行為者の”欲求-性向”体系は、2つの
最も一次的な、或いは、基本的側面を持つようであり、それらは、
”充足的な”側面と”志向的な”側面である側面である。 最初の
ものは、対象世界との彼〔行為者〕の相互交換に、それ〔対象世界〕
との彼の相互行為から彼が得る”何か/what”、そして、彼に対する
彼に対する”損失”とは何かということに関わる。 第二のものは、
対象世界への関係の”如何に/how" に関わり、それに対する彼の
関係が組織されるパターンや方法である。
関係的側面を強調しつつ、我々は、前者〔充足的側面〕を、彼〔自我〕
のパーソナリティーの充足-剥奪バランスにおける対象、或いは、当該
対象に対する自我の関係を意味する”カセクシス”志向として言及する。
他方、最も要素的で、根本根本的な”志向的な”カテゴリーは、認知的な
ものであり、それは、最も一般的な意味で、行為者の”関心”に関連する
状況の関連側面の”定義”として取り扱う。これは、 認知的志向の
側面であり、Tolman③の感覚での認知的マッピングである。 これら
両者の側面は、行為体系の単位、”単位行為/unit act”として考え
られるいずれにも現前する筈である。
③ CF. E.C.Tolman、動物と人の目的ある行動/Purposive Behavior in Animals and Men
しかし、行為/actは、単独で、或いはバラバラには生起しない、
それらは、体系において組織される。 最も基本的なレヴェルさえ
”体系統合” の構成素が考慮される時、這入りこむにちがいない。
行為の準拠枠に再び、関わると、この統合は、志向可能性での
選択的順序付けである。充足欲求は状況に提示された選択的に
可能な対象を持つ。認知的マッピングは、対象が何であるか、
それらが何を”意味”するかについての判断や解釈の選択肢
を持つ。 そのような選択肢の間に順序づけられた選択がある筈
である。”評価”というタームは、 順序づけられた選択のこの過程に
与えられるだろう。 従って、全ての具体的な行為志向には評価的
側面があるある。 いずれの行為体系の最も基本的な構成素は、
それで 行為者と彼の状況に還元されるだろう。 行為者に感し的
様式を巡って組織される; 状況に関しては、その状況の対象とその
クラスへの分化に。
動機付け的志向の3湯の基礎的様式は、対象体系の構想と
と知美、最も広範囲なレヴェルでの行為の要素をカテゴリー化する。
それらは、3つ全て”期待”と呼ばれた構造に包含される。 カセクシス的
関心、状況の認知的定義と評価的選択以上に、期待は、そのターム
が暗示するように、行為状況体系の未来的発展と過去の行為の
記憶への志向における時間の側面を持つ。状況への志向は、つまり、
発展的パターンへの関わりで構造される。 行為者は、発展の
かなりの可能性への ”投資”を獲得する。 彼〔後者〕に対して、
他のものよりも可能性が実現されるべきであるということが、どのように
生起するかが問題である。
状況の発展に関する行為者の関わりの時間的側面は、積極性-
消極性の座標軸に沿って分化されるだろう。 行為者は、1つの
極限で、単に”発展を待っているのであり”、それについて何かを
しようと積極的に試みるのであり、或いは、彼の望みや興味に
合わせて状況を積極的に制御することを試みるだろう。 行為者が、
単に、消極的に関わる関心を取る行為状況の未来状態は、予想と
呼ばれるだろう。 他方、彼が(彼が起こることを欲しない出来事の
防止を含め)積極的に実現しようと試みる未来は、”目的”と呼ばれる
だろう。 行為の目的方向性は、やがて、特に、規範的志向の基礎が
議論された時に、全ての行為体系の根本的特性であることを知るだろう。
しかしながら、分析的には、それは、消極的な予想的志向の可能性の
故に、期待の概念から”下がった” 次のレヴェルに立地するようである。
両タイプは、”刺激-反応”から明白に分離されねばならない。 後者は、
状況の未来的発展への志向を明示しないからである。 刺激は、理論的
分析に影響」することなく、全く、”予告なしに” 来るよう存在すると考え
考えられる。
行為の”道具的な”側面の根本的概念は、行為が積極的に目的-志向
される場合にのみ応用されることが出来る。 それは、状況とそれに
対する行為者の関係、彼に開示されている選択肢やそれらの蓋然的
盛夏に浮いての考察と明確に述べるのであり、そのことは、目的の
達成➃ とに関連している。
➃ 社会行為の構造/Structure of Social Actionにおいては、
行為の準拠枠の解説論文は、大きく目的-方向レヴェルそして
そこで、呼ばれる”究極目的”において為される”単位行為”
の本質的な構成素となされた。 その分析を、まだもっと
基本的なレヴェルへ推し進めることが、必要のように想える。
現代心理学のタームにおいて分析された多くの動機づけの
問題が適合されねばならない場所を解明すために。 しかし
ながら、根本的な変化は、全く為されなっかった。 社会的
行為の構造、そして価値、動機、そして行為の体系での
単位行為は、特別な場合である。
”充足-欲求” の究極的な構造生の問題について一言述べて
もよいだろう。 行為の一般理論は、勿論、究極的な発生的に与え
られた欲求とそれらの分類化や組織の単一性やその量的多数性に
ついての決定に進まねばならないだろう。 しかしなが特に、
行為の社会体系レヴェルに関する作業にとって、そのような論争
領域の置ける節減の法則にしっかりと従うことが、得得策である。
しかしながら、それは、充足-剥奪のバランスの概念への内在化を
想定し、そして、誘引-忌避/attraction-deversion のような
アンチ・テーゼから派生する欲求構造の両極性を想定することは、
必要である。 しかしながら、このことを越えて、そして、若干の欲求
充足の関係についての一般的ステートメント及び行為を超えて、
高度の一般的タームに入って行く必要はないように思われる。
関連ある問題は、充足欲求許でなく、潜在的能力や実力との関連性
のそれである。行為の経験的分析の何れも生物学的に所与の能力
を想定する。 我々は、それらが個人の間で高度に分化されたことを
知っている。 しかし、最も理論的な目標に対して同じ節減の法則が
が適用されるだろう。 この手続きの健全さは、大集団の間での
それよりも、概して、個人的な多様性がより重要であるという知識
によって確認されるので、大規模な社会体系の最も主な相違は、
元来、集団の潜在的能力における生物学的相違によって決定
されるということは、比較的あり得ない。 ほとんどの社会的目標
にとって、遺伝子と人生経験の結果は、その要因を分離する試み
なしに妥当である。
行為の基礎的なスキームにおいて、シンボル化は、明かに、認知的
志向と評価の概念の両方に含意される。 行為におけるシンボル体系
の役割と構造の更なる精錬は、行為体系の様々な側面及びコミュー
ニケーションと文化との共有の側面に関わる分化についての考察
に巻き込まれる。 後者は、最初に、取り上げられるだろう。
神経学的重要性が如何であろうとも、 サインの使用から識別
シグナル化は、行為者の相互行為なくして生起、或いは機能し得ないし、
個人行為者は、社会的対象との相互故意を通じてのみ、シンボル体系
を獲得することは、蓋然的である。 少なくとも、この事実は、相互行為
過程に含まれる”二重の状況依存性/double contingency”と
関係づけられても良いということが、暗示される。古典的な動物学習
状況では、動物は、彼が選択をし、或るサインか”キュー”が”引き金
となる”期待を発展させる選択肢を持つ。しかし、サインは、動物が
することとは独立して、安定している状況の一部であり、彼に提示
された”問題”は、だだ、彼が具体的に解釈するか否かである。即ち、
黒いパネルは、食べ物。 白は、そうでないということにある。しかし,
社会的相互行為では、他我の可能な”リアクション/reaction”は、
かなりの範囲を網羅し、自我の行為に状況依存する選択である。
こうして、相互行為が構造されるには、サインの意味は、更に、状況の
特定生から抽出されねばならない。つまり、その意味は、もっと更に、
広い範囲の”もしも”を通じて安定してしなければならないのであり、
そのことは、自我ばかりでなく。他我の行為の状況依存的な選択肢を
そして可能な換置とそれらの関係の組み合わせを意味している。
シンボル体系の発展の起源と過程が如何であれ、人間の行動体系
の高度な精錬は、意味が高度に特定化された状況に甚だしく依存
的ではない。 比較的安定したシンボル体系なくして、可能ではない。
この一般化の最も重要な一つの含蓄は、多分、コミュニケーションの
可能性である。 何故なら、2人の行為者の状況は、決して、同一では
無く、コミュニケーションは、最も特定な状況から意味を抽出する
潜在的能力なくして不可能であるからである。 しかし、順次、シンボル
体系の安定生、個人間で、時を経て拡大される安定性は、それが、
複数の行為者の相互行為におけるコミュニケーションにおいて機能
しない限り、多分、維持されないだろう。それは、相互行為において
機能する共有されるシンボル体系であり、ここでは、文化的伝統と
呼ばれるであろう。
この側面と、屡々そのように呼ばれる行為の”規範的志向”との
間に根本原理的関係がある。意味のシンボル体系は、あたかも現実
主義的な状況に”負われた” 秩序の要素である。 最も基本的
コミュニケーションでさえ、シンボル体系の慣例への幾らかの程度の
同調なくして、可能でない。 少し見方を変えれば、期待の相互性は、
シンボルの意味の共有された秩序である。自我の充足が他我の
リアクションに依る限り、条件的基準は、どんな条件が”充足する”
リアクションを呼び起こすか否かそうでないかについて設定される
ようになり、このような条件とリアクションの関係は、状況に状況に
対する自我の志向の意味体系の一部となる。規範的秩序に対する
志向と社会体系分析にとって根本的となる制裁の繋ぎ合わせは、
それ故、行為の準拠枠の最も深い根本原則である。
この根本的な関係は、相互行為的志向の全てのタイプや様式
に共通である。 しかし、それにも拘らず、上掲に概要した3つの
様式的要素、カセクシス的、認知的、評価的、の相対的優位性に
関して若干の分化を行うことは、重要である。 状況に対して
本来的に開かれいる志向の選択肢についての選択の規準或いは
基準として仕する共有されたシンボル体系の要素は、価値と呼ば
れるだろう。
或る感覚で、”動機づけ”は、行為者の充足-剥奪バランスの改良
への志向にある。 しかし、その志向において、認知的、評価的
要素無しの行為は、行為の規準枠>内で構想し難いので、動機づけ
というタームは、此処では、3つの側面の全てを含意するとして
用いられる。 しかし、行為の全体の動機づけ的志向の側面からは
シンボル体系の役割の見地からも”価値-志向”の側面を区別する
ことは、大切である。 この側面は、彼の充足-剥奪バランスに関して
行為者への期待状態の意味ではなく、選択基準自身の内容である。
この意味で、価値-志向の概念は、従って、文化的伝統を行為体系
との連結する1つの中芯的側面を定式化する論理的工夫である。
規範的志向の派生物から、そして上述された行為の役割からも、
全ての価値は、社会的準拠と呼ばれるものであることが分かる。
それらが、純粋に、私人的/personalよりも文化的である限り、
それらは、事実、共有されている。 個人にとって特有的であった
としても、それらは、それらの起源する環境によって共有された
文化的伝統からの特別化可能な出発点にあり、そのように、定義
される。
しかしながら、この社会的準拠に沿って、価値基準は、また、個人の
行為へのそれらの機能的関係に関して分化される。 社会的
準拠は、動機づけ的側面から、全ての価値-基準に対する評価的
意義を含蓄する。 しかし、基準の第一義的関連性は、また、
認知的な状況の定義、カセクシス的”表現” 或いは体系、
その或る部分として行為体系の統合に対して置かれるだろう。
こうして、価値-志向の側において、我々は、志向の”様式”の
三重の分類、価値-志向の認知的基準、鑑賞的基準、そして道徳的
基準を繰り返すだろう。
これらのタームについて一言述べたい。記されたように、分類は、
動機づけ志向の様式のそれに相応する。認知的の場合は、余り
難しくはない。動機づけ的側面では、関心は、状況の認知的関心
その対象、状況を認知的に定義する動機づけに向けられる。
他方、価値-志向的側面では、関心は、それによって認知的判断
の妥当性が、影響評価される基準に向けられる。 これらの
幾らかは、理論や観察の正しさのもっとも基本的な基準のように、
文化的普遍性となるだろうが、他の要素は文化的変数である。
いずれにせよ、選択評価の事柄であり、認知的問題の代替的
解決の間の優先基準、有は減少と対象の代替的解釈の事柄
である。
認知的志向の規範的側面は、、難なく当たり前のこととされて
いる。カセクシスの場合は、それは、それほど明白ではない。
勿論、行為者の対象への関係が、所与の方法で、ちゃんと充足
しているかどうかを知るということは、有意味である。しかし、
充足は、行為者が一般的に規範的に志向された行為体系の一部分
として生起するということを忘れてはならない。この側面こそが
評価の規範的基準の関連性から除外されるべきであると
論外である。 この側面での対象の選択、対象への態度の
タームにおける志向の正しさと特質についての疑問は、常時、
ある。 このことはd、こうして、また、カセクシス的意義の可能性の
間での選択から為される基準を含意する。
最後に、動機づけ的志向の評価的側面は、また、その価値-
志向のカウンターパートをもつ。 評価は、行為体系の要素を統合
する問題に関わる根本的には、”食べたケーキは、手には残ら
ない”*ということである。 認知的、鑑賞的勝ち基準は、両者とも、
* 翻訳者注、”一度に二つ良いことはない”«諺»・«略式»
勿論、このこと関連する。 しかし、 全ての行為単位は、認知的で
カセクシス的側面の両方を持つ。こうして、認知的関心の第一義性は、
まだ、カセクシス的関心のタームにおいて、具体的行為を統合する
問題を残すだるろう、そして逆もまた真なり/vice versa。こうして、
行為体系においては、評価的基準の圧倒的な焦点である。
或る意味で、それは、認知的そのものだけではなく、鑑賞的そのもの
だけでもなく、両側面のジンテーゼを含意する。それらを、道徳基準
と呼ばれることが適切なようである。 或る意味で、それは、より特定の
評価が、それ自身評価される基準を構成する。
行為体系の一般的性格から、この感覚での道徳基準は、特に、
社会的関連性を持つことは、明白である。このことは、いずれの
行為体系の1つの側面で具体的であろうとも、なんらかの目標に
とって、パーソナリティーへの焦点がとても重要であるとしても、道徳的
準拠は、決して、独占的に社会的ということではない。 しかし、社会的
準拠なくして、全般的な意味で統合されている具体的な行為体系と
考えれれる。 特に、所与の行為者の見地から、相互の権利と義務
の、そして、他者との彼の相互行為におけるそれを支配する基準の
パターンの定義は、彼の状況への一般的志向の重要な側面である。
社会体系との格別な関連の故に、社会学者にとって、最も偉大な
直接的に重要な価値-志向の側面となる。以下の諸章で、我々は、
それらのことについてもっと多くを語るだろう。
価値-志向パターンの分類と動機づけ志向の分類の間に、
直接的なパラレルはあるけれども、行為体系のこれら2つの基礎
或いは構成素は、論理的には独立している。 両者は、本質的に〔
同じ〕でないという意味ではなく、2つの分類の内容が、独立した変数
であるという意味である。 対象に対する所与の”心理学的”カセクシス
的意義からは対象が評価される特別な基準を推理することは出来ない。
そして〔そのことは〕逆も真なりである。 動機づけ適志向の様式の
分類は、本質的に行為が”関心”を持つ”問題”を分析する枠組みを
提供する。 他方、価値-志向は、これらの問題の満足な”解決”を
構成する基準を提供する。 志向のこれら2つ基礎的な様式か
レヴェルの独立変数性は、”分化とパーソナリティー”の分野における
満足な理論の、まさに、気疎にある。 確かに、この独立した変数性
を認識し損なったことは、この分野で、多くの困難を、特に、”心理学
的決定主義”と”文化主義”の間でぐらつく多くの社会科学の不安定な
傾向の下地となったと云い得るだろう。 確かに、この独立した変数性は、
一方では、パーソナリティーのそれに、他方では、文化のそれに対する
社会体系の理論の独立的意義の論理的根本であると言ってよい
だろう。
多分、ポイントは、文化の問題で、簡略に議論されるであろう。
文化人類学理論で、文化の概念の定義に密接な合意と 言われる
ものはない。 しかし、目下の目標のために、議論の為の卓越した
キーノートが挙げられよう: 第一に、文化は、伝達されること、それは、
遺産や社会的伝統を構成する; 第二は、学習される、それは、個別な
内容において、人の遺伝的体質の明示ではない;そして、第三には、
それは、共有される。文化は、つまり、一方では、人間社会的相互行為
の所産であり、他方では、決定因である。
最初のポイント、伝達可能性は、文化を社会体系から
区分する最も重要な規準として仕する。何故なら、文化は、
1つの社会体系から他のものへと普及されるからである。
特定の社会体系に関して、それは、その特定の社会体系から
分析的、経験的両方に抽出可能な”パターン”要素である。
文化的パターンと社会体系の他の要素の間には、非常に
重要な相互依存性があるが、しかし、これらの他の要素は、
文化と、或いは、お互いに完全に”パターンー統合されて”
いるのではない。
上述されたアプローチに基づいて、この複雑な問題に
対して適用範囲が広い理由は、探求するには、遥かに
過ぎることはない。 シンボル体系は、それ自身の統合
の様式をもっており、それは、パターン-一貫性であるが、
しかし、芸術のスタイルや価値-志向の体系は、パターン
関係の体系として同じ種類の統合規準に晒されている。
そのようなシンボル体系体系の事例は、勿論、哲学的論文
或いは、芸術作品に置けるように、経験的に親しまれて
いる。
しかし、社会的相互行為の具体具体的体系の統合的
部分として、文化体系のパターン-一貫性的統合の、この
規範は、具体的行為の状況的な、且つ、動機づけ的な要素
との相互依存の必須要件から生じる文化的ストレス
の故に、ただ大雑把にのみ、実現され得る。この問題は、
文化パターンの”学習”に関わる考察を通じてアプローチ
されるだろう。
文化人類学の文献においては非常に共通したこの表現は、
知的な教養の学習のモデルから源泉的には発生する。
しかし、それは、それによって拡大され、個人の具体的行為
における文化の要素必須要件的統合が動機づけられる
過程に対する共通のタームとなった。 人は、これらの
タームにおいて、言語を読むことを学習し、且つ、微分
計算法の使用によって数学的問題を解決することを
学習することが出来る。しかし、人は、また、行動の規範に
同調することを、或いは、芸術のスタイルに価値を見出す
ことを学習する。、 この広範な感覚での学習は、それから、
個人の行為体系への分化パターンの内在化を意味する。
学習する潜在的能力の分析は、目下の文化項目が
パーソナリティーで想定される位置の問題に関して為される。
この問題の一つの側面は、同じ個人が既に学習したか、
或いは、学習することを期待されている文化の他の要素
との適合性にある。 しかし、他のものもある。各個人
行為者は、環境におい行為する生物萼的な有機体である。
有機体の遺伝的体質と社会-文化的環境の両者は、この
学習に制限を置くが、その制限は、特別化することは難しい。
そして、最後には、各個人行為者は、社会体系における
相互行為の緊急事態に晒されている。この最終的考察は、
文化的伝統の共有される部分である故に、文化の
問題にとって特別に重要である。そのような伝統は、
一つの、或いは、より多くの具体的な社会体系に
よって”もたらされる”に違いないし、それは、実際的な
行為体系の一部となる時、”機能する”と言われるだろう。
行為のタームにおいて、この問題は、その基準への
完璧な”同調”が、その社会体系の全ての個人行為者
の間で妥当に動機づけられるような方法で、完璧な
パターン-一貫性的ぶんか体系は、パーソナリティーと
社会体系の緊迫事態の両方に関係づけられているか
どうかのそれ〔問題〕として要約されるかもしれない。
此処で、論証する試みなくば、そのような制限のある
場合は、パーソナリティーと社会体系両者の根本的な
機能的要件と適合しないということは単に断言されるに
過ぎないことかもしれない。全体的な行為体系の場合、
部分的で、不完全であっても、それらのいずれも、”完璧な”
統合に密接にアプローチしないような、それぞれのパーソー
ナリティー的、社会的、文化的、構成素にの」”一貫性への
ストレス”の間には或る種の”妥協案”がある。文化と社会の
関係にに関して、この問題は、今後、以下で、若干の
詳細な議論がなれれねばならないだろう、。 目下のところ
極めて重要なポイントは、社会体系の行為者による文化
パターンの体系の”学習”と”生活”は、パーソナリティー
論もレヴェル許か社会体系の機制のレヴェルにおいて
動機づけの分析無くして理解されえない。
一方では、文化の 他方ではパーソナリティーへの
社会体系の関係における若干の論理的シンメトリー
は、あるかもしれない。 しかし、その含蓄は、そんなに
追及されなくともよい。より深いシンメトリーは、動機づけ
的な、そして文化的要素或いは構成素が混合され、ある
感覚で、お互いにパラレルなパーソナリティーと社会体系
の両者が経験的行為体系のタイプであるという事実
に横たわる。文化体系の基礎は、既に記したように、
パターン-一貫性である。 しかし、パーソナリティーの
それは、構造的パターン-一貫性にプラス具体的な状況
における動機づけ的バランスの機能的妥当性である。
文化体系は、具体的な行為体系の一部としてしか
”機能”しない。それは、そのまま”ある”のだ。
相互行為の関連性は、パーソナリティーのそれから
社会体系を区別するものではないことを非常に明白に
しなければならない。 最も強調すれば、相互行為は、
社会体系のそれと丁度同じようにパーソナリティーを
構成している。 むしろ、パーソナリティーと社会体系との
相違の基礎であるのは、組織化と統合の機能的焦点
である。パーソナリティーは、状況と相互行為する生ける
有機体の関係体系である。 その統合的焦点は、経験的
実体として有機体-パーソナリティーである。 パーソナリティー
の機制は、この単位の機能的問題として理解され、定式化
されねばならない。 行為が巻き込まれる社会関係の体系は、状況的
に意義があるだけではなく、パーソナリティーそれ自身を直接的に
構成している。 しかし、 このような社会関係性が、
個人の集団に対して、画一的な仕方で社会的に構成
されるということでさえも、このような画一的な”役割”が
構造される仕方は、同じ方法で各々違ったパーソナリティー
体系に統合され、したっがて、源かうな感覚では、二者の
いずれも”同じものを意味しない。” 画一的な役割構造
とのパーソナリティーとの関係は、相互依存と相互浸透
のそれであるが、しかし、パーソナリティー体系の特性が
”造り上げられた”ことが疑わしい役割iによってされる包摂
のそれではない。
やがて分かるように、パーソナリティーと社会体系の
間には、重要なㇹモロジイ関係がある。しかし、これらの
ㇹモロジー関係は、巨視-微視的関係性ではないーー
区別は、根本的である。 多しかに、このような考察の失敗は、
社会心理学の多くの理論的困難の基礎に横たわる。特に、
個人の心理学から群衆現象の動機づけ的解釈へ”外挿
する”ことを、或いは、逆に、”集団心理” を仮定することを
ところにある。
このような考察から、社会体系の構造とそれらのそれらの機能の
の動機づけ的機制は、パーソナリティーと文化の両方
から独立したレヴェルにおいてカテゴリー化されねばならない。
大雑把に言うと、そのような手続きは魅力的だとは言え、
社会構想を文化の一部として扱うか、或いはパーソナリティー
理論の直接な応用という感覚で応用心理学として”社会的
動機づけを扱う試みからは、トラブルが生じる。
正しい定式は、異なるのである。 社会体系の理論の
根本的礎石は、パーソナリティーや文化理論と同じように
行為の諸科学の全てに共通しているということである。
このことは、それらの幾らかに幾らかに対してだけで
全てに対して真である。 しかし、概念的が、資料が、
理論的構造に組み入れられて行く方法は、行為理論の
3つの主要焦点との場合とは、同じではない。心理学は、
パーソナリティーの科学とは、社会体系の理論の”基盤”
ではなく、行為理論の大樹の1つの主要なブランチであり、
社会体系は、もう1つ〔ブランチ〕である。共通の基盤は、
社会の単位としてのパーソナリティー理論でしゃなく、
パーソナリティーたいけいと社会体系の両者は、それから
組み立てられる”スタッフ”としての行為〔の理論〕である
ということ。 このステートメントを社会体系のパーソナリティー
と文化体系との相互依存の若干の側面を分析する特別の
見地から記録することは、後の諸章の課題となるだろう。
この作業の焦点は、だから、既に概要された行為の
準拠枠以内での社会体系の理論に絞られる。それは、
それは、パーソナリティーと文化の両方に関わるが、
しかし、それ自身のためではなく、むしろ、社会体系
の構造と機能に関係を持つ。行為体系内で、社会体系は、
既に、記されたように、行為についての現実的な経験的
組織化と理論的分析から独立した焦点である。
体系の経験的な組織化は、根本原理的焦点なので、
規範は、言わば、自己-存続的な社会体系という構想で
なければならない。 もし、我々が、普通の人間個人の
人生の全スパンを超えるに十分なナガセの持続についての
考察を加えるならば、生物学的再生産によるリクルートと
次世代の社会化そのような体系の本質的側面となる。
このタイプの社会体系、それ自身の資源のなかで、長期の
継続の機能的要件の全てを充たすものは、〔全体〕社会
と呼ばれる。 それは、社会の概念に対して本質的なもの
ではなく、どんな感覚でも、他の社会の経験的に相互依存
しているべきではなう、 独立して存続している体系の
構造的、機能的な根本原理の全てから成るべきだという
ことのみに過ぎない。
他の社会体系は、いずれも、”部分的な”社会体系で
ある。明白に、最も経験的な社会学的研究は、全体としての
社会よりも、むしろ、部分的な社会体系に関っているこの
ことは全く適法である。 しかし、〔全体〕社会を社会体系
の理論の”規範”として用いることは、それが、一部分で
ある社会のセッティングにおいて、位置づけるために
概念的スキームが展開されるだろうことを続いて生起
させる。後者の特性の必須条件である社会体系の外側
にある社会の本質的特色を探求者が見逃すだろうことは、
よりもっと起こり起こり得なくなる。 社会学的分析の対象
として用いられている体系は何かを明細することは、
いつも最も重要であることは、殆どいうまでもない、それが
〔全体〕社会に単にどのように置かれているかについて。
我々は、行為の分野において完璧な動態理論を展開
する立場にないことを、今まで幾度の記した。従って、
現在の状態の知識のおける理論の体系化は、”構造-
機能”的なタームになる。この命題の意味の含蓄の
簡潔な解明は、実質的な分析へ向かう前には、当を
得ているだろう。
このことは、通常、理論の”動態”的関心を意味する
ものである。本質的な質問は、理論の状態がどれ程
遠くまで体系の1つの側面、或いは、状態から他の
演繹的移行を許すポイントまで、もし、Aのセクター
の事実がWと✕であるならば、Bのセクターのそれら
〔事実〕が、YとZでなければならないということが可能と
なるように、展開されているかにある。
この状況下では、体系理論の全ての利害を失なう危険
がある。 しかし、幾らかを保持することは、同時に、
動態分析の秩序ある成長のための枠組みを提供
ことを可能にする。 それは、理論的体系化の構造-
機能的レヴェルが構想され、採用される。
最初に、完璧に生(なま)の経験主義は、体系として
構想される経験的体系内での部分、或いは過程として
の減少を既述することで克服される。 採用される
記述的カテゴリーのセットは、アド・ホックでも、純粋な、
共通の感覚でもなく、しかし、それは、首尾一貫した
方法で、具体的な体系の全てに関連ある部分、或いは
側面に応用可能な概念の体系が用心深く、且つ決定的
造り出され、それは、体系の1つの部分乃至状態から
他のものとの比較から、そして体系から体系への移行
を可能にする。記述的カテゴリーのセットは、理論体系
の過程を説明する動態的一般化が、直接に理論体系
であるようでなければならないということは、非常に
重要である。 これは、本質的に、行為の準拠枠の
”動機づけ的”側面が達成したものである。 上述の
議論の技術的感覚において社会体系の過程を構想
することによって現代心理学において発展した動機づけ
についての既成の知識に連結し、そして、言わば、知識
の巨大な蓄積を利用することが可能となる。
我々のカテゴリーの体系の特に重要な側面は、”構造的”
側面である。 我々は、単に、時折を除いて、社旗体系
における動態過程の画一性を”捕らえる”立場にあるの
のではない。 しかし、それらを明白にするためには、
我々は、情況を捉え、我々の動態知識を拡大するために
最も有利な位置を得るために、それらが適合体系の所与の
状態においてその部分の所与の関係せいについての、そして
変動が起きる処、中間段階において、どの順序を通じて
どの変容が何処へ〔移行するか〕についての”絵画”を
描かねばならない。 構造的カテゴリーの体系は、動態
分析のための場況えを与える概念的スキームである。
動態的知識が拡大されるに従って、構造的カテゴリー
の説明てき意義は、蒸発する。 しかし、その科学的
機能は、にも拘らず、極めて重大である。
従って、この作業の1つの第一義的関心は、社会体系の
構造のカテゴリー化、そのような社会体系内の構造文化
の様式および体系の各構造的カテゴリーの準拠する
変数性の範囲にある。 我々の動態知識の不完全な
性格のまさにそのためにこの問題への注意深い、体系
的注目は、社会学にとって最高に緊急なものである。
しかし、同時に、この形態学的関心は、それ自身目的
ではなく、その所産が、他の目標のとって必要不可欠な
道具を構成することを明白にすべきである。
もし、体系の構造の体系体系的記述を比較のために
カテゴリーの十分に一般化された体系をもっているならば、
我々は、最大限の効果まで、動機づけ的過程についての
我々の動態知識を動員すことが出来るような場況を
持つだろう。しかし、社会体系に関して重要な問題を
巡って我々の所有する知識は、不完全であり、とても
斑(むら)があり、 不平等な分析的地位にある。 我々の
目標に沿うよう組織する最も効果的な方法は、社会体系
に関する準拠点のスキームの関わるようにすることである。
それは、”機能”の多く議論された概念が入ってくる処で
ある。 勿論、 我我は、社会体系に構造的に横たわる
動態的過程を”位置づけ”なければならない。 しかし、
それを超えて、それに関する一般化の意義をテストしな
ければならない。 その意義のてすとは、過程の”機能的”
関連のそれと言う形を取る。 テストは、体系への
動態過程の2つのそれ以上の代替的結果の分化的な
成り行きはどのようなものであろうか?という質問をすること
である。そのような成り行きは、安定の維持、或いは変動の
産出、体系の統合と、或る感覚での崩壊のタームに
適することが見出されるだろう。
それは、上で紹介されたように、動態的動機づけ的過程を
機制の概念の定式化に基礎を供給する社会体系の機能的
意義の文脈関係に位置づけることである。 社会学的
理論の動機づけ的動態は、樹勢の定式化の最初の実例
において形をとらねばならない。それは、社会体系の
機能を、所与の構造的パターンの維持、或いは破綻が
一つの構造的パターンから他への移行の典型的過程
について”説明”しなければならないということである。
そのような機制は、いつも言明された条件の許に
おける動機づけ的焦点の操作についての経験的一般化
である。 そのような一般化の分析的基礎は、しかしながら、
非常に様々である。 時々、我々は、それがどのように
働くか経験的に知っているが、他の場合、学習の既成の
法則の応用のような、或いはパーソナリティー レヴェルの
の防衛機制の操作のような、より深い一般化の根本礎石
があるかもしれない。 しかし、機制に関する動機づけ
的問題の定式化が、動機づけ的知識のどんなレベルの
関連をも設立することが本質的であり、社会体系の機能性
の問題にとって入手可能であるかもしれない。 一般化
一般化の科学の実りある結果にとって、、この関連は、
一般化それ自身の健全さのそれと重要である。
さて、此処で、本書の編成を概要しよう。 行為の準拠枠
の根本原理を巡る現在の章での簡明な提示に続いて、
次の章は、社会体系それ自身の分析のための最も本質的
な構成素と準拠点を取り上げ、このような構成素が、
制度化を通じて組織化される最も一般的な方法を示す
だろう。 その後、社会体系の構造について3章が続く。
最初のものは、より複雑な社会体系にはいる下位体系の
主要なタイプに関わる一方、第Ⅱと第Ⅲ〔の章〕では、
分化の様式と〔全体〕社会の構造的範囲を分析すること
を試みるだろう。
社会体系の構造とその変様性に関わる社会過程の
分析のためのこの枠組みが見出される時、注目は、過程
それ自身の分析に向けられだろう。 このような分析は、
2章を占め、最初のものは、社会化の機制について、に
なるだろう。第二のものは、逸脱行動の傾向ん、それに
そして、それに反対する社会的制御の機制の分析に
向かう。
第Ⅵ章と第Ⅶは、 このように 社会行動の動機づけ
的側面に関わるだろう。 この側面に続く二つの章は、
文化的側面に向かうだろう。 価値-志向パターンは、
とても根本的なので、それは、社会構造の一般的分析
を通じて扱われねばならない。しかし、社会体系への
文化の関係をめぐる分析を完全にするために、文化的
伝統の他の2つの他の主要構成素、信念、或いはアイディア
体系と表現的シンボルの体系の位置を明示的に議論
する必要がある。 それらは、別々に第Ⅷ章と第Ⅸ章の
主題となるだろう。 動機づけと文化ののいずれが、
最初に扱うべきかの決定に若干の曖昧さがある。
ここで取られる選択は、社会構造を扱うに際して価値-
志向パターンは既に大規模的に分析されたという事実
によって、何よりもまず決定されている。文化関係の
分析を社会体系へ更に持ち込む前に、行為に対して
文化パターンのそれらの他の2つのクラスの意義を
明白にするために、動機づけ過程に明示的な注目を
与えることは、望ましいように思える。
この時点で、高度のレヴェルに保持された分析に
少休止が打たれるだろう。 〔それは〕部分的な社会体系
として考察される現代現代的な医療実践の若干の
ハイライトの分析を例解するためにである。 その後だろう。、
最後の主要な理論的課題が為されるだろう。 そのような
〔社会〕変動のタイプの例解ともに、社会的変動の問題の
分析が取り上げられるだろう。
本書は、非常に簡明な方法論的-現状評価と共に、
閉じられるだろう。 それは、社会学的理論のスコープ
と行為の分野での科学における他の概念的スキーム
へのそれの関係について主に関わるだろう。
第Ⅱ章
メジャーな準拠点と社会体系の構造的構成素
前章で見たように、社会体系は、多数の個人行為者の
相互行為パターンの持続性、或いは変動の秩序された
過程に関わる行為要素の組織化の様式である。 それらの
相互行為の安定性と構想的統合の程度における膨大な
変数性に、そしてそれらの静態的性格、あるいは構造的
発展、または、変動の過程への関与に関わらず、現在の
タイプの理論的分析が、そのような体系の構造の明示的
分析のためのスキームを発展することは、必要である。
前章では、行為の体系の一般的性格とその構成素を
概要した。 此処では、社会体系それ自身に関わる行為
の理論から特別のスペリングを行わねばばならない。
本章は、社会体系の構成とその構造の基礎の一般的問題に
焦点し、一方では、引き続き、構造分化と変数性の問題を扱う。
最初に、社会体系の単位について一言述べるべき
だろう。最も基本的な感覚で、単位は、単位行為/act
である。 このことは、勿論、前章で示されたように、
いずれの行為体系にとっても、真である。従って、行為は、
その製作者と他の行為者の間の相互行為の過程の
部分である限り、社会体系の単位である。
次いで、しかしながら、社会体系のより巨視的な分析と
いう目標の殆どの為に、単位行為よりも高度な順序、
即ち、地位-役割と此処で呼ばれるようなものを使用する
ことは、当を得ている。 社会体系は、行為者の間の
相互行為過程なので、本質的に社会の構造である相互
行為に関与した行為者間の関係の構造である。体系は、
そのような関係性のネットワークである。
各個人行為者は、そのような多くの相互行為的関係性
に関与し、各々が、相補的な役割における一人かそれ以上の
パートナーである。だから、多くの目標にとって社会体系の
最も意義ある単位は、パターン化された相互行為的関係性
への行為者の参加である。
この参加は、順次、2つの主要な側面を持つ。 一方では、
位置的側面――当該行為者と関わる社会体系において”
位置づけられて”いる所のそれである。それを、我々は、
彼の地位と呼ぶつもりのものであり、 パターン化された
体系の部分であり、構造として考えられる関係性体系に
おける彼の位置である。他方、過程的側面がある。
それは、行為者が、社会体系の機能的意義との文脈関係
に見られる他者との関係において行うものであり、我々が、
彼の役割と呼ぶ積りのものである。
地位と役割の間の区別は、相互行為に固有の2つの
互恵的視野の間のそれに非常に密接」に関係している。
一方では、各行為者は、他の行為者(そして彼自身)
にとって志向の 対象である。対象‐意義が、社会的関係性の
体系における彼の立場から派生する限り、それは地位の
意義である。他方、各行為者は、他の行為者に対して
志向している。この潜在能力において、彼は行為している、
対象として奉仕しているのではなくーーこのことは、彼が
演じていることを意味する。
地位と役割、或いは地位と役割の束は、行為者の一般的
属ではなく、社会体系の単位であるが、 所与の地位は,時々,
属性として扱われこともあることは、全く明白にされるべきで
あろう。しかし、地位-役割は、メカニックの部位の類同的であり、
量や速度ではない。
第三に、行為者自身が社会体系の単位であることについて
一言延べるべきだろう。準拠点として、彼が地位を保持し、役割を
演じる時、個人行為者は、しかしながら、社会の分析の目標
にとって地位-役割よりも高度の秩序の単位として扱われる。
この感覚での行為者は、地位と役割の複合的な束である。
しかし、社会的行為者は、彼自身行為の体系としてのパーソナ
リティーからは、分別されねばならない。 この分別は、
パーソナリティーの相互的な非変形可能性、そして最終章で
議論される社会体系から引き出される。
だから、我々は、最も基本的なものから最も複合的なものへ
へ及ぶ個人行為者への準拠可能な社会体系の3つの
違った様式を持つ。最初のものは、行為者によって遂行
され、1人、或いはそれ以上の行為者に対して志向される
社会的単位行為である。 第二は、所与の互恵的地位を
占有し、所与の互恵的志向に関して行為している行為者、
或いは諸行為者の単位行為の組織された下位-体系
としての地位-役割である。第三は、社会的単位としての
行為者彼自身であり、社会対象とは、且つ、役割-活動
の体系の”制作者”としての彼に準拠することが可能な、
全ての地位と役割の組織された体系である。
最後に、複合複合的な単位としての個人行為者を
横断するものは、行為者として、且つ対象としての集合体
である。 此処では、関連のある特定の行為者の行為-
体系の特定 のセクターが、彼等の他の地位-役割が
抽出され、共に取り扱われる。単位としての意義の一部は、
それが、個人の行為体系と集合体のそれの両方の単位
であることの事実から派生する。 こうして、社会体系の組織
の2つを横断する様式を連繋することに奉仕する。
社会構造が単位に解体された時、これらの4つの単位の
を意味するかを明白にすることは 無論極めて重要である。
⁂ 社会体系の機能的必須要件➀
➀ 社会体系の機能的必須要件
の一般的問題については、Aberle,
Cohen,Davis,sutton,”社会の機能的
必須要件/The Functional Prerquisites
of a Society"(Ethics, Ⅸ、一月号、 pp。
100~110)を参照されたい。 現在の扱いは
彼等に深く負うが、かなり過激的に離れている。
地位と役割に関して分析された統合的関係性は、我々が
見たように体系にお いて生起する。もし、そのような体系
が継続的な秩序を構成したり、発展的変動の秩序ある
過程②を経るならば、 一定の機能的必須要件が充たされ
ねばみたされねばならない。機能的必須要件の簡略な
議論が有効である。 何故なら、それは、社会体系の構造の
分析のために準拠点のより拡大された分析の場況を提供
するからである。
② この感覚での秩序ある過程は、体系の統合不全
と対照される。 この感覚の統合不全は、外的環境
と相関する境界線の消滅を意味する。CF.
価値、動機、そして行為の体系/Values, Motives,
and Systems of Actionの第Ⅰ章を参照されたい。
機能的必須要件の問題は、それがアプローチれる異なった
レヴェルの変様性の故に、変化自在な問題である。ここで、
我々が提言することは、 行為の理論の最も一般的な定式な
レヴェルから出発し、一歩ずつ明細化の径へ進むことである。
これを、十分に秩序あるやり方ですることは可能である。
そのような分析の最も広範囲な枠組みは、先の章で
述べられた行為の一般についての考察より直接演繹される。
これらの基礎は、行為体系が3つの焦点、個人行為者、
相互行為体系、そして文化的パターン構成③を巡って、
構造されるという洞察にある。 各々は、他を包含し、従って、
いずれの変数性も、他の2つの各々の機能の最小限との
適合性に制限される。
③ そして、また、 非-行為環境、状況の
物理的側面についての異なる感覚での。
社会体系のような行為の何れの統合体の視野から見ても、
各々と他には、互恵的相互関係の2つの側面がある。
第一に、社会体系は、生物学的有機体、及びパーソナリティー
としてのその構成的個人行為者の、或るいは文化体系の
比較的安定した統合のこの機能性の条件と過激に不適合
であるようには構造され得ない。 第二に、社会体系は、
順次、両方の最前線において他の体系の各々から”支持”
の最小限の必須要件に依存する。即ち、役割体系の
必須条件と、肯定的には期待の成就と否定的には
余りにも破壊的な、つまり、逸脱的行動からの差し控え
において合致し、行為するよう妥当的に動機づけられる
構成素行為者の十分なプロポーションを持たねばならない。
他方では、最小限の条件、或いは、秩序ある発展と適合
しない程度にまで逸脱や葛藤を発生する文化パターン
へのコミットメントを回避する。 此方の問題は、順次、
簡略に取り上げられるだろう。
我々は、パーソナリティーと社会体系の間を単純な関係
ではないことを明白にしようとした。 この事実の故に、、
現在の知識の状態では、個人の最少限度の欲求は何かを
厳密に定義することは可能ではない。従って、一般的
よりも若干のものだけが述べられ得る。社会体系の
機能性の見地からすれば、それは、充たされねば
全ての参加行為者の欲求でもなければ、各々の全ての
欲求でもなく、人々のまあまあの部分のまあまあの
プロポーションに対してをいうのである。 社会的諸力
が幾らかの個人への損傷や破壊に対して直接責任があり、このことは、
低減されても、現実的条件の許では、除外され得ないことは、硬度に
蓋然蓋然的である。簡単な例を挙げると、戦争は、負をなくして、
勝ち得ないが、戦争の受容は、時として、独自の体系としての社会
体系の生き残りの条件にもなる。
このクラスの機能的必須要件の要素は。栄養や物理的安全の
ような個人的生活の物理的必須要件から始まる。 それらは、
パーソナリティーの最低限度の条件について微妙な問題へ進む。
例えば、それらなくして、機能するパーソナリティーは、なりなり得えない。
情緒的支持と安全の関係における社会化の最低限限度の条件
があるということは、納得いく佳き設定である。 現時点での課題は、
これらの境界線適喪第はを分析することの試みではなく、それらが、
それらが、社会体系との関わりで何処かに適合するかと明白に
することのみである。 個人行為者の最低限度の欲求は、社会体系
が適用されるべきセットを構成する。もし、後者の変数性が所与の方向
へ遥かに進めば、それは、当該の行為者の逸脱行動、積極的には
破壊的か或いは機能的に重要な活動から徹退を含む行動を、
順次、産出するようになる反響を創り出すようになるだろう。 そのような
欲求は、機能的必須要件としての原動力に連繋されるかもしれない。
それがより不妥当的に充たされる程、それは、それに直面して、
社会体系の若干のパターンを実現するためにより多くの”圧力”が
掛けられるだろう。そして、より少ないエネルギーが他の目標の
ために入手可能となるだろう。 若干の個人或いは彼等のクラスに
とって、或る時点で、圧力が非常に大きくなり、原動力は、壊される
だろう --そのような人々は、最早、パーソナリティーと社会体系
の相互行為の体系には参加しない。➃
➃ 具体的な社会現象の幾らかのクラスを異議申し立て的に
説明する必須要件をめぐってアド・ホック的な一般化を発明
すべきでないことは、勿論、重要である。 この手続きは、
特に魅惑的である。 何故なら、、そのような手続きは、
社会体系の内的バランスと過程の困難な分析から
研究者を免除するに
役立ち得るからである。 そのより粗い形で、この手続きは、
社会思想史のなかで、非常に際立ったパートを演じた。
実際的に 全ての社会現象が、人々の遺伝的体質か彼等の
地理的環境によって決定されたとする理論の流れによって
なされたように。そのような大雑把なフォーミュラが、最早、
真剣な議論にさえもメリットしないと考えることは、我我の科学の
増大する成熟さのインデックスである。 そのような条件的要素の
積極的な役割と内的な社会的過程の両者は、一般的タームに
おいて確立されている。 しかし、一般的フォーミュラは特別な
問題 を解消しない。 過大は、 それら2つのクラスの
要素の間の相互行為の複雑なパターンを解読することである。
個別行為者の最小限度のプロポーションの欲求を充たす機能的必須要件
の裏返しは、社会体系のそれらの十分なプロポーションの行為者の妥当な
参加を確保する欲求である。 即ち、もし、当該の社会体系が
継続し、発展っするつもりならば、必要であろうパフォーマンス
へ彼等〔行為者〕を妥当的に動機づけることである。 確かに、
この条件こそが、行為者の最小限度の欲求を満足する欲求
の必須要件であるということの所以である。
妥当な動機づけの必須要件を、順次、2つの側面、ポジティブと
ネガティブに下位分割する。破壊ネガティブなものは、 潜在的に
破壊的な行動に対する最少限度の制御のそれである。 このことは、
社会体系の役割において他者の行為を妨害する行為を意味する。
それは、他者への攻撃的な行為か、或は、単に、他者に対して有害な
結果を意図なき体系の側面を含意する。
その分野は、硬度に複雑であるが、多分、その一つの特定の側面が
特別な言及のために取り出されるかもしれない。 社会体系に関わる
機能的意義に関して、行為或いはそのクラスの意義は、直接に、第一義
的に動機づけに関してではなく、 体系に対する実際の、或は蓋然的な
成果に関して理解される。 この感覚で、”プライベートな関心”の追及
は、 若干の環境下で、高度に破壊的であるかもしれない。関心の内容が、
例えば、宗教関連において、むしろ、それそのものとして一般的に倫理的に
承知されるようになるとしても、である。 同様に、 葛藤そのものは、
高度に破壊的であるかもしれない。 もし、それが十分に厳しければ、
体系の機能的な問題は葛藤そのものの制御となる.そのような場合、
当事者の一人か他の当事者の”場合”のメリットは、二次的な重要性と
なるかもしれない。
一般的なタームで、潜在的に行動を最低限度にする社会体系の
機能の問題と、そして能行動を最低限度 にする体系の機能的問題と
それに対する動機づけは、”秩序の動機づけの問題” と呼ばれるだろう。
以下で分析される社会体系の若干の更なる 特色の故に、現在の
議論は、潜在的破壊、つまり、機会の問題、威光の配分、そして権力の
問題についての、幾つかの比較的特定な特定なクラスについての
考察に導かれるだろう。 即ち、1人かそれ以上の他の行為者の
役割-遂行を妨害するような個別な単位行為の厖大な変数性があると
ということである。 しかしながら、それらが、殆ど、ランダムに分配された
ままである限り、役割遂行のレヴェルを押し下げることによって体系の
有効性を低減するかもしれないが、未だ、その安定性への脅威を構成
することはない。 後者は、破壊的傾向が、社会体系における戦略的な
諸点を真が卯するような仕方で、下位-体系として組織される時、発展
するだろう。それは、以下で扱われる機会、威光、そして勢力の問題の
ような戦略的ポイントである。➄
➄ 顕在的機能と潜在的機能の区別が有意義になるのは、この種
の文脈関係である。一般的に、制限された範囲内と制限された
行為者、個人であれ、集合体であれ、によって明白にいとされた
行為の体系的意義の分析のために基準として社会学者が得る
得る成果がある。 潜在的機能や行為の逆機能を構成すれば、
これらの意図されない成り行きである。CF. Robert K.Merton,
社会理論と社会構造/Social Theory and Social Structure,
Chapter Ⅰ。
妥当な動機づけのネガティブな、そしてポジティブな側面の区別は、
相関的で、漸進的である。 両方とも、社会体系のオペレーションに関する
機能的問題を提示するが、それは、相関的な文脈関係に合う機制に
焦点を合わせることである。 しかし、相関性にも 拘らず、社会的関係性
の継続的な体系のポジティブな破壊である行為と彼の義務の遂行から
の単純な撤退の間に重要な区別がある。主要な規準は、後者の場合、
他者への単なる妨害は、人の行為から期待する利益なくして彼等〔後者〕
に強要することにあるだろう。 撤退の可能性は、事実、逸脱の最も重要な
方法で、会制御の問題と機制の構造へ入って行く。疾病は、例えば、我々の
〔全体〕社会では、最も重要なタイプの撤退行動であり、それは、以下で
広範に議論されるだろう。
再び、妥当な役割への動機づけ失敗のタイプとしての撤退7との関わり
に戻って、撤退のネガティブな側面は、動機付け的タームは無く、社会体系
と関わる機能のタームで定義される。 人々は、互いの遂行に依存する
というその理由で、期待の成就から単純な撤退は、動機付け的に云えば、
著しく傷つけるかもしれない。 しかし、部分的には、動機付け的な区別とは
相応しないというまさにその理由で、機能的区別は、やがて、明白に
なるように、非常に意義深い。 それは、逸脱行動の方向の分析の
準拠点を提供し、そのような行動を社会体系のオペレーションの機制
の問題に位置すする。
妥当な動機づけの必須要件は、役割と制度化の概念を組み立てる
第一義的な出発点を我々に与える。根本的に見れば、複数パーソナリティー
は、ライフ・サイクルのどの段階においても、彼等が部分である社会体系
の機能的必須要件を成就するような方法で、”自発的に” 行為する
だろうか? 或いは、社会的に構造されたレヴェル、或いは相関的に、
特定な機制、つまり、役割行動との直接な関係において理解され得る
複数パーソナリティー の動機づけの体系の組織化の様式を探す
必要があるのだろうか?社会は、個人の独立して決定された”傾性”
の結果であるという、より古い”心理学的”見解は、最初の選択肢を
採るだろう。現代の社会学的見解は、第二のものを強調する傾向にある。
妥当な動機づけのステートメントは、一般に、社会化の機制と社会制御
そして、それらの社会体系の動態との関係の問題を挙げるだけではなく、
それは、関連する機制の分析へのアプローチへの場況を提供する。
パーソナリティー心理学は、我々が見たように、行為者の関係的体系、
高度に志向されるようになっている。即ち、対象への彼の志向である。
この事実が、 行為理論における期待の概念の根本的な位置と組み
合される時、一般的な、そして、特に、行為者のカセクシス的な志向の
一つのの中芯的な側面は、役割期待の成就への彼の欲求-性向のセット
であることが、まず最初、他者の意義ある行為者のそれら〔欲求-性向〕
ばかりでなく、彼にとっても、明白にある。 個人行為者のパーソナリティー
構造において、他者への期待に同調するか、それからの疎外の性向と言う
感覚の、”同調-疎外”の次元がある。 これらの関連の期待が、役割-義務
の成就に関わるそれらである時、この同調‐疎外バランスが、一般的、
或いは、特定特定的な役割文脈関係において社会体系の構造との
パーソナリティーの動機付け的体系の連係の中芯的焦点になる。
更に、役割-期待の妥当な動機づけの問題への現在の文脈関係
における生物学生物学的な”人間の本質”の2つの根本的資質の
社会体系への基礎的な意義は、簡略に注目されてベストであろう。
これらの最初のものは、非常に制限された範囲の選択肢で縛り
つけられる遺伝的体質の代わりに、人間有機体の多く議論された
”柔軟性”の行動の大多数の選択肢的パターンのいずれかを学習
する潜在能力である。 勿論、行為における文化的、社会的、遺伝的
要因とは、独立した決定因的意義が探索されねばならないのは、
この柔軟性の制限ないのことである。遺伝に関わる決定の明確な論証は、
行為の科学への理論的関心である要因の関連の範囲を、遺伝的ストレスの
組み合わせ過程に影響する類別的対化の問題を除いて、柔軟性の
限度は、未だ、殆ど知られていない。➅
➅ 行為の理論の視点から、特に、社会体系のそれから、証明
の重荷は、行為理論の問題と考えられたものが、行動の下位-
行為の決定因の役割を誘うことによって、妥当的に解決される
と断言する彼に、おかれるといえるかもしれない。 このことは
屡々、そうなるけれども、しかし批判と更なる調査に立ちあがる
ことに失敗したレヴェルでのアド・ホックな仮設に頼る事は社会
科の歴史において非常に目立つので、我々は、この照明の
重荷最大限に主張しなければならない。
人間の本質の第二の特徴は、生物学的感覚で”感受性”と呼ばれる
ものかもしれない。 これは、社会的相互行為の過程における他者の
態度に依って影響される人間個人のアクセス可能性とその結果の
相対的に個別で、特定のリアクションを受けることへの依拠を意味する。
このことが提供するものは、学習過程へ影響するアクセス可能性
の動機づけ的基礎である。 こうして、他者の態度は、人間の全ての
学習のなかで、多分、最高に重要なものであるが、パーソナリティー
の規制された統合の達成に本質的な断念の正当化と共に、価値-志向
の受容を動機づけるのに、極めて重要である。 この規制なくして、
社会体系を機能するに本質的な成就に関する期待の安定性は、
可能ではないだろう。 本能的基礎以外の動物の社会的潜在性
への重要な諸制限の1つは、この梃子の不在か弱さにあることは、
蓋然性が高い。 人間の幼児生理学的依存は、やがて、多くの社会的
学習の基本的条件となる情動的依存性の発達の能力に結び付け
られる。
文化的必須要件の明示的的取り扱いを含む社会体系の機能的
必須要件についての議論は、一般的だが、しかし、そうする必要は、
既述の行為理論の大前提から直接的に生じている。 文化的パターン
の要因と同様にそれらの特別な内容の統合は、何時でも、行為体系の
他のたの要因とは独立しているが、猶しかし、それらとの連結されねば
ならない要素を包含する。 そのような統合は、逆もまた同様に、他の
要素に”責務”を負する。 社会体系のこのメジャーな機能的問題領域は、
動機づけ的統合の場合と同じ路線に沿って下位区分されるだろう。
最初に、一般の文化体系と特定のタイプの文化体系の産出、維持、
及び発展に必要な最低限度の社会的条件がある。社会のコミュニ
ケーションの破壊は、究極的には、上記の感覚での動機づけ的統合
におけるその 秩序体系の破壊と同じほど危険である。それは、
それが容認してるよりもっと明らかな分析に価する”アノミー” の
側面である。 多分、最も明白な 特定な事例は、言語の役割に
よって提供される。 我々は、個人が他者との関係において 社会的に
構造された学習の過程を経ることなく、自発的には言語を発達しない
ことをはっきりと知っている。 この過程は、その限界を特定化する
ことは、どれ程難しくとも、一定の限度の内で秩序立っている社会的
関係の体系の一部でなければならない。 多くの原生人の集団が、
行為の人間的 文化的言語の出現の必須要件を、 他の機能的に
本質的な幾らかの成就に失敗した故に、への移行に失敗したのは、
全く蓋然的である。
このように、現在の感覚での 社会体系は、言語なくして、そして
状況的緊急状態をうまく処理する経験的知識及び表言的シンボリズム
や価値-志向の十分に統合されたパターンのような、文化の最小限度の
パターン無くして、可能にはならない。 例えば、その獲得の過程をブロック
することを通じて、その文化のあまりにも激烈な破壊に至る社会体系は、
社会的と同様に 文化的分裂に晒されることだろう。
我々は、”人間社会”の分化的制限が上述の制限が決定されべき残余
なのかを正確には知らない。 しかしながら、文化的パターンの若干の
明確なタイプに関して、我々は比較的詳細な知識 ーー例えば、以下の
見地からの現代科学を議論するような ーーを持っている。 いずれにせよ、
これらの条件の決定は、社会学的リサーチの重要な分野でる。
一般論的問題に関する志向への1つの最終的な所見がある。 文化は、
勿論、特定の行為者とは独立した物理的な形に、例えば、文献の知識の
ように、 ”具現化される”だろう。 しかし、それは、文化が、行為に対して、
単に、”状況的”ではなく、パーソナリティーの心理学者 が、昨今”内在化”
と呼ぶものを通じて、パーソナリティーそれ自身を直接的に構成するように
なることが、行為の理論に非常に重要な原則である。 社会体系の最小限の
文化」的必須要件は、このように、少なくとも、部分的にパーソナリティー
への文化の機能を通じて操作すると言える。内在化を通じて同化される
必須の文化適資源なくして、人間レヴェルのパーソナリティーの出現も、
従って、人間的タイプの社会的の発展も可能でない。
文化的サイドの必須要件の問題の他のサイドは、妥当な文化的資源
及び社会体系の維持のための組織化である。 それは、上掲の議論で
既に触れられたが、しかし、2・3の追加の所見が為される。 物理的
環境及び他の人間を扱うことを可能にする最小限の技術的伝承なしに
何れの人間社会も不可能であろう。 それは、 やがて、 言語を仮定する。
しかし、同様の考察は、亦、文化の他の部門、非言語的、実存的アイディア、
表現的シンボル体系 そして、とりわけ、価値-志向パターンに応用される。
構成素行為者サイドの逸脱行動への傾向は、逆機能」的成果が生じない
限り、制御の機制によってりアクトされねばならないという感覚で、社会
体系に対する機制的な”問題”を立ち上げる。 文化的サイドでの
パラレルは、行為の継続的体系の重要な部分としての若干の文化的
パターンの維持が若干の 緊張を賦するケースである。 これは、パーソ
ナリティーと社会体系のレヴェルの両方に真であるだろう。 最も明白な
ケースは、動機づけ的に同調することが難しい価値-志向パターンと
認知的な信念のそれらである。 そのような困難は、現実との葛藤に
帰されてもよいかもしれない。 こうして、既成の医学で良く網羅される
領域内では、その維持とクリスチャン・サイエンスの或る信念における
行為は、特に、医学的見地から、逃れることの出来ない行為者に
深刻な緊張を負荷するだろう。 或いは、動機付け的同調を達成する際の
困難という事柄かもしれない。 丁度、或る種のタイプの社会化が 非常に
強い反-権威主義的センティメントを生起し、 従って、少なくとも、或る種の
権威は、或る人々によっては忍耐され得ない。 特に、 ユートピア的理想
は、もし、受け入れられ、制度化されたならば、社会体系に緊張を負荷する
ことになるだろう。
このケースの他のものと同じ様に、一般的には知られていないけれども、
最小限度の文化を継続することが出来るに違いないばかりか、逆も、また、
同様である。 いずれの所与の文化も、もしそのパターンが消滅するので、
そして、もし後者が不変に機能し続けるならば、最少現度、社会体系と
適合的であらねばならないということは、言っても構わないであろう。
文化的パターンと具体的な行為体系との間を媒介する機制の分析は、
その動機づけ的側面において行為理論と社会理論の最も重要な領域
構成する。 この主題については、さらに、第Ⅷ章と第Ⅸ章において追求
されるだろう。
⁂ 行為要素の制度的統合
具体的な行為体系は、状況との関係における行為要素の統合された➆
構造である。 これは、 本質的に 一定の秩序可された体系へ一緒に
齎される動機付け、そして文化的、或いはシンボル的要素の統合を
意味する。
➆ 我々は、此処で体系の”境界線を維持する”タイプの体系
と呼ばれるものに関わっている。(価値、動機、そして行為
の体系、前掲書) このタイプのとって 彼処で記された
統合の概念は、二重の準拠を持つ: a)変動が、均衡を
遅らされる前に必要とされるような、体系の構成素の相互
適合性に対する;そして b)その環境に対する境界に、
である。
統合は、静態的な均衡と同様に、流動的な均衡、即ち、体系の変動の
秩序ある過程に相関しているだろう。
前章での行為の一般的特色の分析は、社会体系の機能的必須要件
の直截に先行する分析と混合され、 この秩序された構造の戦略的な
特色へ我々を導くことが出来る一定の明細化をもたらす。
行為は、一つの語句を用いれば、”規範的に志向されている”ことが、
行為において本来的である。 このことは、既に、示されたように、特に、
行為者が目的を追求する”能動的な” 様相における期待の概念と行為理論
におけるその位置に続いて 生起する。 期待は、だから、そう呼ばれた
ように、相互行為の過程の”二重の状況依存性”との組み合わせで、秩序
の非常に必須な避けられねばならない問題を創り出す。
秩序のこの問題の2つの側面は、 順次、区別されるであろう。 コミュニ
ケーションをかのうにするシンボル体系における秩序及び期待の規範的
側面への動機づけ的志向の相互性、つまり、”ホッブス的”問題の
秩序である。
秩序の問題は、 従って、社会的相互行為の安定した体系、つまり、
社会体系の統合の本質は、 我々の対人的な分脈関係においては、
行為体系を 統合する規範的な文化的基準との行為者の動機づけの
統合に焦点を合わせる。 それらの規準は、前章で使用されたターム
においては、価値-志向であり、 それ自身社会体系の文化的伝統⑧
の極めて重要な部分である。
⑧ 文化的伝統の他の構成素は、 幾らかの異なる問題を
提示する。 それは、以下のセクションで取り上げられる
だろう。
他の〔行為者の〕状況依存的な行為に対する1人の行為者の志向は、
評価的志向を本来的に含む。 何故なら、状況依存性は、選択肢の体系の
関連を含意するからである。 相互行為の安定性は、順次 両方のサイド
における 評価の特定の単位行為が、 共同の基準 に志向されるべき
と言う条件に依る。 というのも、そのような基準に関してのみ、コミュニ
ケーションも動機づけ文脈関係もどちらも、”秩序”が可能になるのだから。
価値-基準に対する動機づけ的感覚志向の可能な様式の範囲がある。
多分、最も重要な区分は、一方の極では、”消費”の態度の間にあり、
其処では、 同調、或いは非同調が行為者の道具的関心の機能である。
そして、他の極では、基準の”投入”、或いは 内在化がある。だから、
それ〔基準〕と同調して行為することが、同調の道具的意義への成果が
相対的に独立した 行為者自身のパーソナリティー構造の欲求-性向と
なる。
この最後の命題を正当化するためには、相互行為過程の本質へ
幾分深入りすることが必要だろう。 所与の行為者、自我に関して
期待の体系が、やがて、 組み立てられるだろう。 このことは、他我の
行為との関わりにおいて自我にとっての希望と不安を、すまり、他我の
可能なリアクションは、自我の見地から好ましいものであり、他我の
ものは、好ましくないものであることを含意する。 概して、 我々は、
自我の志向は、 バランスがとれ、好ましい充足-産出的リアクション
を刺激し、好ましくない 剥奪-産出的リアクションを誘発を正当化する
心理学的地盤にある。
一般的に、自我と他我がそれに関して相互行為を行う規範的基準が
共有 され、 明白である限り、他我の 好ましい リアクションは、
自我の当該の基準に同調している行為によって刺激され、好ましくない
もの〔リアクション〕は、それらから逸脱し勝ちであるだろう(勿論、
逆も亦同様である)。 このような状況環境の結果は、同調-逸脱
の次元の傾向と好ましい-好ましくない傾向であり、或いは、充足-
剥奪の次元が一致する傾向である。 他の言い方をすれば、相互行為
体系が安定化され得ない基礎的条件は、行為者の関心が、価値-
志向基準の共有体系との同調に束縛されてしる。
この”束縛されている”ということには、二重の構造がある。 第一に、
基準の内在化のおかげで 其れへの同調は、自我にとってパーソナル
で表現的、乃至は道具的意義になり勝ちである。 第二に、自我の
行為に対する他我のリアクションを制裁として構造することは、基準
への彼の 同調の機能である。 従って、彼自身の欲求-性向の体系
の成就、 直接的な様式としての同調は、好ましいものを引き出し、他我の
好ましくないリアクションを避ける条件としての同調と一致する傾向
にある。多人数の行為者の行為に関して、価値-志向基準への同調が、
これらの 規準の両方、 社会体系の所与の行為者の見地から見て
彼自身の欲求-性向の様式と重要な他者のリアクションの”最適化”の
条件の両方が出合う限り、基準は、”制度化された”といわれるだろう。
この感覚で、 価値パターンは、 常に、相互行為の文脈関係の
中で制度化される。 従って、それに関して統合される期待の体系には、
常に、2つの側面がある。一方では、準拠点としての行為者、自我の行動
への基準に関わり、部分的に設定する着たいがある; それらは、
彼の”役割-期待”である。 他方、彼の見地から、他我の状況
依存的蓋然的リアクションに関する機能のセットがある ーー それは、
”制裁”と呼ばれ、順次、自我によって充足促進的か剥奪的かに感取
されるに従って、ポジティブに、或いはネガティブに下位区分される。
ポジティブな役割-期待と制裁の間の関係は、互恵的である。自我にとって
の制裁は、他我にとって役割-期待であり、逆もまた同様である。
役割は、 だから、 特定の相互行為文脈関係との関わりでの期待を
巡って組織される個人行為者の全体的志向であり、それは、適切な
互恵的役割における一人かそれ以上の他我との相互行為を支配する
価値-基準の特定のセットの統合である。 そのような他者は、個人の
集団ある必要はないが、 しかし、もし彼〔何れの他我〕が、価値-志向の
共同の基と関わる期待の互恵性に関与する自我との特定な相互補完的な
相互関係性に入る時、何れ他我をも巻き込むだろう。
役割-期待のセットと相対する制度化は、明らかに、程度の問題である。
この程度は、2つの変数のセットの機能である; 一方では、価値-志向
パターンの実際的共有に影響しているそれら〔変数〕。 他方では、動機
付け的志向が関連する期待の成就へのコミットメントを決定するそれら
である。やがて知るように、様々な要因がそれらのチャンネルを通じて
制度化の 程度に影響を与えることが出来る。 しかしながら、完全な
制度化の極限のアンチ・テーゼ は、アノミー であり、相互行為過程の
構造された相補性のの不在、或いは同じものだが、両方の感覚での
規範的秩序の破綻である 制度化には、程度があるように、アノミーにも
程度がある。逆も亦同様なりということである。
制度は、 制度化された役割の統合体⑨での複合体であり、
当該の社会体系によって戦略的に構造的に意義がある。 制度は、
⑨ 或いは、地位-関係性、相応する地位の無い役割は、
ない。 そして、 逆もまた、同様である。
役割よりも 高次単位の社会構造であると考えれらるべきである。
確かに、それは、多数の相互依存的な役割-パターン。或いは構成素
から造られている。こうして、我々が、社会体系での”資産の制度”
と言う時、我々は、行為-期待の統合に対する構成素行為者の役割の
側面を”所有”と義務における権利の定義を支配する価値パターン
と一致する。 集合体は、具体的な相互行為の特定な役割の体系
である。 逆に、集合体は、制度の全シリーズの焦点かもしれない。
こうして、結婚の制度は親子関係は、両者とも集合体としての特定の
家族を構成している。
制度化された役割における行為要素の統合の幾らかの側面へ
戻ることは必要だろう。 出発点は、相互行為と相応する期待の補完性
の非常に重要な意義にある。 自我にとって期待であるものは、他我
には制裁である。そして逆も亦、同様である。と言うのも、何れの役割の
の最中でも、確かに中芯部であっても、その〔役割の〕占有者が、
どのように他者に対して行為するかの定義があり、その定義は、同調-
逸脱の次元に沿って構造されている。疑問は、他者の行動に制裁を
課するか、どのぐらい重く制裁が意図されるか、或いは彼の同調に
”報酬する”か、彼の逸脱を”罰する”かにあり、目下の処、疑問のまま
残されているかもしれない。 重要なポイントは、そのような意図は、
此処で用いられる制裁の概念の規準ではないということである。
その規準は、単に、自我が行ったことに対する他我の有意味的な
リアクションに過ぎない。
役割-期待の 動態的意義を解明するために 若干の経験的一般化
へ我我を、更に遥かな彼方へ連れて行くよう設けられているように
思われる。第一のものは、他者の態度に対する人間のパーソナ
リティーの”感受性”と上掲で呼んだものから派生する。 このことから、
限定された場合にのみ制裁の意義は、純粋に道具的になるだろう。
つまり、特定の目的達成の成功の蓋然性、或いはその達成の
蓋然的失敗に影響を与える状況の期待される条件のセットとしてのみ
においてである。 役割-期待への同調は、常に、多かれ少なかれ、、
”自我-理想"、或いは、超自我”、 ”自尊心”の要素、心理学的な感覚
の妥当性や”安全性”を構成するとして心理学的議論において準拠される
性格の動機づけ的な要素を含意する。 そのような要素は、勿論、
制度化された役割-期待のセットに連繋される 具体的状況の全て
においてどの具体的行為者にとって、必ずしも、中心的ではない。
特定の個人、或いは、そのクラスの人々は、彼等自身のセンティメントが、
単に、周縁的に巻き込まれている相互行為状況に巻き込まれている
かもしれない。しかし、社会的状況では、一般的な感覚において、社会化
の環境状況と他の要因は、そのことが参加行為者の主要な動機づけ的
関心を含む永久的な社会体系の顕著な状況であるべきと言うことを
排斥する。焦点的なケースでは、行為者が、どのように他者が彼に対して、
純粋な道具的感覚よりもっと、リアクションするかに”関心”を持つ場合で
ある。
社会体系に比較的安定した 相互行為の条件について話すことを考慮
すると、そのことからから、 制度化された役割-期待を定義する価値-
基準は、多かれ少なかれ、 道徳的な 意義を想定するということになる。
つまり、 それら〔役割-期待〕への同調は、或る程度、自我が巻き込まれる
より大きな行為体系、つまり、社会体系の関心に関係して負う義務の
成就という事柄となる。そのような共同の価値パターンの共有が、
義務の成就への責任の感覚を伴うことは、共同の価値への相互志向
するもの〔行為者〕の間で 連帯性が創造される。 関わった行為者は、
これらの価値の関連領域内で集合体を構成すると言われるだろう。
幾らかのクラスの参加者にとって、集合体へのメンバーシップの意義は、
彼等の”プライベートな”目的に対して道具的文脈関係においては、
圧倒的に役立つかもしれない。しかし、そのような志向は、それ自身
集合体を構成し得ないので、そして、それが優勢である限り、集合体の
連帯性は破壊される傾向がある。 最も強調すれば、連帯的集合体への
参加は、一般に、 個人のプライベートな目的の達成を妨害する傾向
はあるが、しかし、構成する共同の価値の達成なくして、集合体は、解体
する傾向があるということではない。
共同価値への愛着は、動機づけ的に配慮すると、行為者が価パターンを
支持して、共通の”センティメント”⑩を持つことを意味し、それは、関連する
期待への同調が、例えば、ネガティブな制裁を持つことを避けて、そのような
同調から獲得される特別な道具的”利点”のいずれからも 比較的独立して、
”良いもの”として取り扱われることを意味していると定義されるだろう。
⑩”センティメント” と言うタームは、 特定な対象または
そのクラスに対する 文化的に組織されたカセクシス的
乃至評価評価的様式或いはパターンの志向を示すため
に用いられる。
更に、共同の価値のこの愛着は、それが、行為者の直截的に充足欲求
が合うかもしれないが、けれども、常に彼が参加するより広範な、つまり、
社会体系における行為者の”責任”を定義するという”道徳的”側面をまた
持つ。 いうまでもなく、責任の特定の焦点は、特定の共同価値-志向
によって構成される集合体である。
最終的に、そのような共同価値を支持する”センティメント”は、それら
の特定の構造における有機体の体質的に所与された特質の表明では、
一般的に云って、ない。それらは、一般的に、学習され、獲得される。
更に、行為の志向においてそれらが演じる役目は、認知され、”適応
された” 文化的対象ではなく、内在化されるようになった文化パターン
である; それらは、 行為者自身のパーソナリティー体系の構造の
一部を構成する。そのようなセンティメントや”価値-態度”は、そう
呼ばれるかもしれないように、従って、パーソナリティーの本物の
欲求-性向である。 社会構想での本物の動機づけ的統合が生じる
ことが、役割-期待の成就へ動機づけのより深い層が結び付けられる
ことは、 制度化された価値の内在化のみのお蔭である。 それが、
より高度において生じた時のみ、社会体系が高度に統合され、集合体の
関心とその構成メンバーの関心は 一致⑪へ接近することが可能である。
⑪ 厳正な一致は、有名な摩擦のない機会のような限定
場合として見做されるべきである。 文化的パターン
との動機付けの社会体系の完全な統合は、経験的には、
知られていないけれども、そのような統合された社会体系
の構想は、理論的には、非常に意義がある。
共同パターンのセットの構成するパーソナリティーに内在化された欲求-
性向構造との統合は、社会体系の動態の中核的現象である。最も
はかない相互行為過程を除いて、何れの社会体系の安定性もそのような
統合の程度に依存してしるということは、 社会学の根本的な動態
であるといえるだろう。 それは、社会的過程の動態分析であると
主張してもよい全ての分析にとっての準拠点である。
行為の科学における特定の社会学理論の位置の基盤に横たわるのは、
この感覚での制度的統合の意義であり、そして〔それは)合理的道具的な
目的-志向に優位性を与える経済学理論や他の概念的スキームの
ヴァージョンが、何故一般的なタームでの社会体系の動態分析の妥当な
モデルを提供できないのか、その理由にもある。 合理的な道具的ターム
への動機づけ的動態の合理的道具的な関わりへの”還元”は、ホッブス
の論理へ真直ぐ導かれる。それは、社会体系の概念の不条理な還元
この還元は、デュルケームによってかれの分業論において古典的な
形で行われた。 しかし、デュルケームの素晴らしい分析は、その後、
社会化の条件と心理学的安全性とパーソナリティーの安定性の基礎に
関する現代心理学的な知識の含蓄、と同様に持つ更なる社会体系の
更なる経験的理によって 法外に社会体系そのものが強化された。
本質的に社会学理論であるが、制度的行動の理論は、社会科学に
おいては、正に高度に意義がある。何故なら、制度的構造の文脈関係
に社会的動態の問題を設立し、既に論ぜられた制度的統合の定理を
描くことによってこの理論は、社会的過程を分析するために動機づけ
の非-そして不合理な側面についての現代心理学の知識を搾取し、
拡大を可能にした。それは、亦、合理的道具的目的-志向の動機づけ的
要素だけを使用する概念的スキームの何れもが、制度的に構造された
社会体系の枠組み内の若干の比較的専門家された過程のみの
妥当となり得るということである。
制度的統合の基礎的定理は、全てのそのような基礎的定理のように
殆ど何も詳説していない。複雑な行動的過程についての妥当な
分析がアプローチされ得る前に必要なより詳説された区別を継続的に
秩序ある仕方で可能である準拠枠を、むしろ、提供する。 目下の探究
演繹的アプローチが選ばれた。 そこからの概念的スキームの応用は、
もっと進展した段階の精錬に到達」した後にのみ可能となるだろう。、
何よりも、この精錬が実行される2つの主要な方向がある。 第一に、
制度化された役割-行動は、価値-志向パターン、或いはそれらの
体系へ志向される行動として定義された。 しかし、多数の異なる
種類のそのようなパターンがあり、役割-期待がそれらとの関わりで
構造されるかもしれない数多くの異なる仕方がある。 この非常に
一般的な定式の代りに、これらの分化された可能性の最も重要な
ものの少なくとも 幾らかに 異なるアカウントをすることは必要である。
第二に、”理想的ケース”の過単純化は、所与の価値-パターンとの
完全な動機づけ的統合を、内在化されたこのパターンが、同調行動
への妥当dな動機づけを確かにする同調への欲求-性向を産出する
と言う感覚で、描出される。 これは、明らかに高度に単純化された
モデルである。 現実的なレヴェルへアプローチする前に、疎外的と
同じく 同調的欲求-性向の、そして葛藤と曖昧の、その他の可能性に
関わる複雑な問題を分析することが、本質的である。この問題の
問題の文化的側面の精錬への導入は、本章の残りの部分を構成
するだろう。
これらの考察の上に構築する前に、社会的役割構造のパーソナ
リティー構造への連結のための制度的統合のこの定理の含蓄を
巡る簡便な議論が用意される。出発点は、上述のように、役割-期待
特別な文脈関係を巡って構造されていることにある。どの程度に
おいてそのような期待の成就への妥当な動機づけが達成されても、
”同じ”役割を演じている者への期待のセットが画一である処では
何故、パーソナリティーにおいてこの画一的な行動の動機づけ的
意義が全ての関連あるパーソナリティーにとって同じではあり得なか
については、全て理由がある。 3つの非常に重要な理由が記されて
よい。 第一は、 当該の役割は、各個人が関わっている幾つかの
ものの一つである。 各人への期待は、その役割と同一であるかも
かもしれないけれども、全体的な役割体系は、限定的はケースでのみ
同一であるだろう。 各々のケースでは、特定の役割は、役割-期待
の異なる全体体系に合わねばならない。個人が関わる役割は、他の
動機づけ的体系と相互依存的なので、画一的行動を産出する
動機づけ的要素の組み合わせと異なるパーソナリティーにとって
異なっているだろう。
第二に、役割-関与は、何れのパーソナリティーの志向や関心の
体系を網羅しない。 彼は、関心の内向的で、”ナルシス的な”、
個人的に創造的な焦点と彼の状況の非-社会的側面への志向を持つ。
再び、限られたケースのみ、2人の異なるパーソナリティーにとって
志向体系全体の非-社会的側面は、同一となるだろう。彼のパーソ
ナリティーのこの非-社会的セクターは、社会的セクターとは相互
依存的なので、この領野の相異は、社会的動機づけの分野で反響を
得るだろう。 最後に、第三は、複雑な社会体系の人々における
体質的相異にとって 役割分配に直接相応することは、厳に、不可能
であることを信じるいかなる理由もある。従って 役割-行動の構成的
基礎と明かな行動の間の関係は、同じ役割に在る異なる個人とは異なる
だろう。所与の期待のセットの成就は、1人の行為者に他よりも大きな
”緊張”を負荷するだろう。
これら全ての理由でs、そして多分他にとってもパーソナリティー
構造から役割行動へ行ったり来たりして 直接的に推論することは、
可能ではない。役割行動の画一性は、それらの分化と同様に、社会
体系への参加のパーソナリティー体質が所与されたとしても、問題
はある。 役割行動の動機づけ的動態分析は、従って、社会学的な
問題にとっての特別な機制の定式化を含意する。1人のパーソ
ナリティーの機制から単純に社会体系の参加者の多人数へ”外挿する”
ことは可能ではない。 この環境状況は、社会学者の課題へ恐るべき
複雑化を導入するが、 しかし、不幸にもその含蓄を避けることは
出来ない。
これらの考察は、しかしながら、通常、”心理学的”概念と呼ばれる
ことが社会学的理論と関連を全く持たないという印象を与えるべき
ではない。丁度、心理学的というタームのスコープが、疑問とされる
ように、議論は、最終の章へ延期されるだろう。しかし、動機づけ的
カテゴリーは、社会学議論において中心的役割を果たすべきだという
ことは、最重要である。 本質的に、パーソナリティーの動態的要素
と社会体系は、同じ素材から造られている。 この資料は、しかしながら、
2つのタイプの体系の分析のために概念的に異なって組織されねば
ならない。
⁂ 制度的パターンの分類の準拠点
、今まで、我々は、2つの重要なものを成し遂げた。最のセクションは。
社会関係性の秩序付けた体系の基礎的な機能的問題を概要した。
このことは もし、安定性の最小限度の条件が成就されるならば、
社会体系のバリエーションに負荷される”必須条件”のセットを
定義する。 それらは、社会構造のバリエーションの範囲及び
それらの内的分化を分析するための段階をセットする際において
一番重要である。 次に、前のセクションで、我々社会体系の最も
重要な構造的単位、地位-役割を分析し、それに関与する行為の
基本的構成素の統合の本質を示した。
次のステップは、役割分化の体系的に扱う基盤を造ることから
始まる。 このことは、それらが分化される準拠点の分析である。
と言うのも、そのような準拠点の体系的分化の分析によってのみ、
基礎からの秩序ある派生や範囲が可能になるからである。 本章と
以下の2章のの展開において、幾つものステップを通じて進展しな
ければならない」だろう。
単位としての役割の本質から、役割タイプの分化の最重要な
構造的焦点は、役割に制度化される文化的パターンの分化に
見出されることは、確実にされるべきであろう。しかし。関連ある細目
での文化的パターンの分類化は、行為の構造では、本来的な準拠の
一般体系への関わりなくして、行われ得ないだろう。それで、現セク
ションは、役割の構造性、つまり、社会的関係性との関連における
準拠点の一般的体系に関わるだろう。 分析は、文化的パターン
のタイプの関連する分化を考察することへ進むだろう。 最終的に、
このことから、一般的な役割-或いは制度化されたタイプが派生される
だろう、一般的とは、つまり、何れの社会体系の役割構造へも入る
構成素を区別することだが、しかし、特別の組み合わせの決定因の
問題へアプローチすることは、試みないだろうということである。
先ず、第一章で見たように、行為-志向の組織化のための第一義的
準拠点を呼んだものは、一方では、動機づけ的志向の3つ様式、認知的、
カセクシ的、そして評価的であり、〔他は〕状況の構造の基礎的分化
から成る。 後者について、目下の目標にとって最も重要なものは、
社会的な、と非-社会的な対象であり、社会的なものは、自我が詳細な
社会的感覚において相互行為にあるそれら〔対象〕である。非-社会的
境域では、現在、重要な場合は、物理的対象であり。 何故なら、
文化的なものは、やがて、恰も、”引っ張りだされ”、格別な位置に
置かれるだろう。このような格別な取り扱いに対する根本的理由は、
文化的パターンが行為に対して二重の関係を持ち、それらは、状況の
対象となるか、或いは行為者の志向パターンの構成素に成るよう
内在化されるであろう。 文化のこの独自性は、全く格別なカテゴリー
で取り扱う為の、また、行為者、状況、そして文化パターン、最初の
二者だけではなく、を扱うための主要な基礎である。
文化的パターンは、 行為者の志向体系の部分として内在化
されるのであり、此処で関わりある それらの分化の最初の基礎は、
3つに基礎的志向様式へのそれらの関係によるものである。行為者の
行為者の認知的志向の組織化の為のシンボル的形式として
機能する文化的パターン、この志向のカセクシス的側面に関して
同様の機能として仕するそれら〔文化的パターン〕、そそて最後に、
彼の評価的志向を媒介し、構造するそれらがある。 これらは、
分析的に区別された様式である3つ全ては、全ての対象への
全ての具体的志向に見出される。 ”純粋に”認知的、或いは
カセクシス的志向というようなものは全くない。最初の場合に
おいては、対象へのカセクシスはなく、亦、次では、状況の認知的
定義というものもない。
しかしながら、異なる様式の相関的な第一義性のようなものは
ある。 確かに、構造的な感覚において、この一義性の文化的側面
非常に重要である。 何故なら、それは、志向の各々の一義的な
タイプでの選択的規準の関連性における優先性の秩序を定義
するからである。 この分類の基礎は、全ての志向の様式的な側面
から区別されている。 志向の3つの一義的なタイプを産み出す
タイプは、認知的関心が一義的であり、顕著な志向問題は、認知的
問題であり、この認知的関心関しては、カセクシスと評価は二義的で
ある。”充足”は、知ることにおいて認知的問題の解決にある。第二では、
カセクシス的関心が一義的であり、問題は、”適応”、対象との
適切な充足関係を獲得するそれである。 認知的や評価的考察は、
二義的であり、道具的である。 充足は、情緒的或いは”情動的”
タームで測定される。 最後に、第三のタイプでは、評価的関心が
一義的である。 此処での問題は、関与する認知的やカセクシス的
要因の統合である。充足は、実際の、或いは予想される葛藤を
解決するか最小化する統合の達成に在る。
各々のタイプを定義するものは、動機づけ志向の3つの様式の
一つと文化的パターンの一つの一義性の組み合わせである。従って
同じ根本的ルーツから、我々は、行為の志向、或いは関心のタイポロジイ
及び文化的パターンのタイポロジーの両方を引き出す。文化的レヴェル
3つのタイプは、⑴ 認知的アイディアの信念:⑵ 順応的パターンか表現的
シンボルの体系; ⑶ 価値-志向基準の統合統合的パターンの体系
である。
関心の3つのタイプの何れもが対する対象は、志向され、相応する
タイプの文化的パターンは、”状況の定義”は、文化を含む何れの
のものであろう。 対象の全ての3つの基礎的クラスは、解釈のため
の認知的問題を提示し、相応する順応のパターン性の選択的問題
とのカセクシスの基礎てき可能を構成し、評価の問題を提示する。
しかしながら、社会的対象は、特に、この関係から、志向の過程と
パターン形成の補完的な性格の故に、戦略的である。多分、社会的
対象のこの特定な意義は、評価の、そして其処から社会的文脈関係
における動機づけ志向と文化の両方の圧倒的な意義の関連に置か
れる。このことは、やがて、上述した相互行為の二重の状況依存性
から派生する。 本質的には、この二重の状況依存性は、秩序の卓越
した条件を比較的特別な評価的基準へ執着する葛藤の余計なハザード
を招き入れる。
行為の更なる分化は、時間の次元が考慮された時に生起する。行為は、
予想された未来の事態である目的の達成、充足を約束すると感じさせる
出来事のコースにおいて行為者の妨害なしには、実現しないだろう事態に
に志向するかもしれない。そのような道具的、或いは目的-志向は、訓練の
要素を、或る種の直接的に潜在的充足の断念を消極的に物事を”無視する”
ことや結果を待っていることを含みつつ、導入する。 そのような直截的な
充足は、目的の達成から、過程の中間的段階での若干の条件の成就に
状況依存的であると感じられる獲得から、引き出されるべき将来的に
見越されるより大きな利益の関心において、断念される。
それらのタームから、道具的志向は、評価的一義性の特別の場合と
解釈され、従って、そのような行為は、行為-志向の第三のタイプに所属
する。 それは、目的の所与性を含意するが、しかし、目的を与えられて、
評価的選択は、認知的考察へ一義的を与える;つまり、直截的にカセクシス的な
関心、目的の達成を妨害するかもしれないけれども、その間、直截的に
入手可能な充足機会に利する利点を得ると定義される関心、に対する
目的の獲得が必要な条件についての知識である。 しかし、道具的
志向の認知的第一義性にも拘らず、このことは、認知的関心そのものの
一義性の場合とは、認知的関心それ自身に加えて所与の目的の達成に
対してその関心があるということにおいて、異なる。
順応的サイドで相応するタイプは、表現的志向と呼ばれるかもしれない。
此処では、第一義的志向は、未来に対して予想される目的の達成へ対する
のではなく、充足(そして、勿論、強要される剥奪への報復の”流れ”の
組織化に対してである。 このことは、また、評価的一義性のヴァージョン
と共にある。状況の認知的定義を与えらて、第一義性、カセクシス的である。
”立証責任”は、所与の充足が表現的秩序を、ひっくり返すだろうと言う
一方で、道具的な場合は、その逆で、 立証責任は 所与の充足が
持樹的達成を妨害しないだろう という主張のサイドにある。この第二の
タイプは、一義性の分類におけるカセクシス的関心の一義性は、志向が
特別の順応問題そのものへ向かうのではなく、より高度の行為組織へ、
充足-潜在性における評価的秩序に向けられるということで、異なる。
それ故、道具的な価値の本来的な体系があるかもしれないように、
この意味で、表現的価値の本来的体系もあるかもしれしれない。つまり、
充足関心が第一義的な秩序の定義であり、しかしそれにも拘らす、互いに
決定的な関係にある行為-志向の異なる構成素を組織する秩序である。
秩序の構成をめぐって第三の理論的可能性がある。 認知的でも、
カセクシス的でもどちらでもなく、評価的関心それ自身が第一義性を持つ
と言うことである。この場合である限り、焦点は、秩序の体系そものにあり、
それを超える目的にでもなければ、行為者の充足-関心にあるのでもない。
それは、行為の秩序性の”道徳”的側面と、そして道徳的価値との関係に
おける一義性を持つ文化的価値と呼ばれるかもしれない。一般的にいって、
しかしながら、2つの主要な焦点、パーソナリティーの統合的側面と社会体系
のそれらを区別することは、重要である。社会体系的焦点(勿論、何れの下位-
体系、つまり、集合体は、行為の”関係的な”志向と、一方、パーソナリティー
のそれは、”自我-統合体”と呼ばれるだろう。これは、幾度となく指摘した
ように、秩序の要素の特別な重要性の故に、勿論、社会的関係の体系
との関わりにおいて圧倒的な意義がある。
確かに、制度化に有利にならされるのは、評価のこの、或る感覚で、”派生的”
及び行為者の第一義的価値志向に加えて、文化的価値志向の要素である。
制度化は、更に、”追加される”要素であり、それは、行為の秩序性の詳細に
対する社会的側面にとっての統合である。 何故なら、期待の相互補完性の
故に、行為者の行為の意義は、決して、彼が、繋がっている関係的体系とは
独立した彼の”パーソナル”な価値に関してのみ評価されることはない。彼の
行為志向は、つまり、彼の行う選択肢の選択は、不可避的に、彼が相互行為
にある他の行為者の、及び関心が分配的区別され得ない限り、彼がメンバー
である集合体の”パーソナル”な関心に不可避的に打撃を与える。それらの
他の、そして集合体的に定義された関心に対する彼の”責任”が評価される
限り、行為者は、”道徳的”問題に関わっている。彼の志向を定義する価値-
志向パターンは、道徳的な価値である。道徳的考察が、社会関係的文脈での
第一義性であるところの行為のタイプは、行為者が、集合体の関心への
特別の責任の役割に在るところにある。 しかし、そのような場合でないところ
でさえも、道徳的側面は、一般的に、社会的役割における行為者の志向の
非常に重要な側面、或いは構成素である。
⁂ 社会体系に相関する制度化のタイプ
既に見たように、文化的パターンの制度化の現象には若干の共同のパターン
がある。それらが生起するところでは、何処でも、そのこと故に、それらのパターン
個人行為者の動機づけ的関心に統合される。先のセクションで為された区別は、
しかしながら、社会体系それ自身の構造への、異なる関係性に関して3つの
異なる様式、或いはタイプの制度化を分化する基礎を、我々に与える。
制度化それ自身は、 その場合の本質においては、評価的現象であり、行為
体系の様式である。従って、その場合の本質において制度化されたパターンは、
社会体系レヴェルの価値志向の要素を含意する。 つまり、それらは、自我-
統合的感覚から、区別される社会-統合における行為者の道徳的コミットメント
を含意する。
社会体系は、既に見たように、本質的には、相互行為的関連性のネットワーク
である。最も中芯的な制度は、従って、相互行為過程への当事者の地位と役割の
定義を通じて、それらの関係のパターン形成を直接的に構成するそれらである。
最初のカテゴリーは、それ故、 関係的制度と呼ばれるだろう。 第二番目は、
特定の行為者、個人的、或いは集合的、は、社会体系、つまり、全集合体それ
自身の道徳的-統合パターン形成とは、多かれ少なかれ、独立した関心の
タームにおいて行為する。 それ故、集合体-統合に関しては、社会体系
における機能的問題は、目的と手段の構成的定義というよりもこれらの
関心の追及規制である。道具的、表現的そして自我-統合的関心は、
何れの組み合わせをも含意する。しかし、この領域には、制度化の明瞭な
問題がある。このクラスの制度化は、規制 と呼ばれるだろう。最後に、
第三のクラスは、社会的関係性の構造には皮相的な ものである。それは、
関わりのある制度の内容が、顕在的な行為に直接的なコミットメントではなく、
文化的志向のパターンそのもののみから成り立つ場合である。それは、
信念に表現的シンボルの特定のパターンについての、或いは行為への
コミットメントよりも むしろ”受容”のみが含意される時のみの道徳的
パターンについて検討すべき疑問である。これらは、文化的制度と
呼ばれる。これら3つのクラスの各々は、簡略に解説されよう。
関係的制度の本質と意義は、社会的相互行為の根本根本的パラダイム
とそこからと制度的統合に定理が引き出された方法のタームにおいて
理解されねばならない。 共同の価値-パターンの内在化に関する
そのような制度的統合は、相互行為過程の安定の条件であることを
我々は知った。しかし、この条件の更なる明細化は、下位-志向の共の
パターンの内容が、相互行為する行為者の互恵的な志向が互いに
混ざり合うだろうというようなものでなければならないことを知るよう我々
を導くのである。 そのような混ざり合いによって考えられる異なるパターン
の多くがある。 しかし、パターンは、いずれの所与の相互行為関係性
の体系も相互行為過程の安定性と合致するような仕方で、それらの可能性
の間から、選択されねばならないだろう。
これらの価値-志向パターンの内容は、以下のセクションで議論される
だろう。それらは、行為者の相互的な態度を巡って互いに組織される
可能性を中芯とするだろう。 それは、本質的に、相互的な志向の内在的
可能性からの選択を意味する。
これらの関係的制度は、勿論、同じ社会体系内の異なる役割と異なる
社会体系の両方の為に分化される; これらの分化は次の章で分析
されるだろう。 しかし、本質的には、それらは、社会体系の構造的な
中核を構成し、そして、関わりある価値-志向パターンの制度は、社会体系
それ自身の安定化の第一義一義的機制である。
これらの第一義的価値-志向パターンの内在化の故に、欲求-性向
構造の若干の根本的な構成素、そして其処かr社会体系における
行為者の関心が決定される。 しかし、関係的構造と最も直接的に
統合された個人行為者の欲求と関心を網羅していない。後者は、
それに関して社会体系の基礎的な制度的パターンが、構造的よりも
条件的な関係的構造から独立して変数するかもしれない関心を、
限度内に、持つ。 このことは、既述のように、関心の基本的タイプ、
道具的、表現的、そして自我-統合的の全てにおいて、真である。
個人(そして下位-体系)の行為にとってのそのようなパターンの
条件的意義の逆は、社会体系の見地からそれらの規制的意義である。
制度の規制的機能の2つの第一義的側面がある。 第一は、
”プライヴェート”な関心を追求する受容的に可能な活動の方向が
定義する価値-基準の定義に関わる。 第二は、当該の目的と価値の
実現を追求する手段が他の行為の手続きの受容可能な選択への
限度の定義に関わる。
このことには、先ず、道具的な場合が例解される。現代アメリカ社会
では、 財政的利益の追求は、個人にとっても、或る種のタイプの
にとっても、”追求すべき”適切な目的、例えば、”ビジネス企業”
として裁可される。他方、社会主義の価値によれば、これは、関心の
追求の正統な方向としては、或いは、少なくとも、非常な制限内で
も取り扱われない。 しかし、我々自身の”商業経済”内でさえも
利益への関心が正統に溶け入るかもしれない技術的生産目的の
価値-関連における特別化がある。市場があってもよい多くのものが、
道徳的に検閲されrだろう娯楽や武器とかある種の公益事業サービス
の場合も、規制のいろいろな程度の厳格さの下でも、どちらも利益の
ためだけでは、全く生産されない。かくして、”プライベート”な関心-志向
の活動の境域内での目的の選択の場合におけるように、目的追求と
それらが追求されるかもしれない条件の、制度化された制約のセット
セットがある。本質的に、同じ型の考察は、プライベートな関心の追及
に関わる手段の選択に関して含意される。最も顕著なのは、制限が
他者の関心を含むので、手段の剪定に置かれることである。 最も
一般的なフォーミュラは、影響力や欺瞞の行使よる目的獲得の除外、
或いは厳格な規制に関係する。 しかし、多くの社会では、 個人の
”自由”にもっと過激な制限が課されている。 例えば、我々自身〔の
社会においては、誰もが、他者のパーソナルな自由ばかりでなく、
彼自身に対しても契約によって侵害することの禁止;その”取引”が
どれ程の利益をもたらそうとも、ひとは、奴隷制に彼自身を売ることを
してはならない。
表現的関心に関しては、規制的制度の同様のセットがある。 表現的
活動は、そのうち知るように、道具的な場合のように、手段-目的の形式
に直接に投げ入れられない。それ故、目的と手段の区別は、それほど
重要ではない。 しかし、部分的には、そのような制度が、それらに規制的
関係性と文脈関係を特別化することによって表現的活動を規制する。
従って、性愛的な活動、近親相姦や同性愛は、殆どの社会で厳しく
ダブー視され、そして、正常な活動は、パートナーの選択(例えば、
結婚で) そして機会(プライバシーの要請)の両方によって規制される。
同様に、他者への攻撃的感情は、一般的に、厳しく定義された限度内
ばかりでなぬ、多くののタイプの攻撃は、殆どで、全体的に タブー視
されている。明かに、どの社会でも、内-集団のメンバーの殺人は、
非常に特別な条件を除いて、禁じられ、厳しく罰せられるに違いない。
最後に、自我-統合的志向と同じである。 最も身近な事例は、
我々の社会では、宗教的寛容の制度は、それらが、全体社会において
共同に共有されないかぎり、宗教的に設立された道徳的関心の追及を
規制する。特別の宗派の宗教集団のメンバーは、他の側面(例えば、
礼儀正しさの規準を定義する基準ーーそれ故、Dokhubors*を寛容
する困難さ)での規制的規範を侵害しない限り、彼等の宗教的確信を
実行することが出来る、そして彼等の宗教的自由の共有の為に、例えば、
教師の役目を行使しつつ、公立学校で、子供達に特定の宗派の宗教的
見解を教え込む試みような、他者の権利を侵害しない限り。
*翻訳者注: ドウホボール派とは、ロシア、ウクライナに
起源を持つキリスト教の教派、神秘主義、絶対平和主義、
の傾向が強く、共同農業生活を送った。(以下割愛)
(Microsoft Bing 検索)
社会体系においては、関係的と規制的制度の間には、段階的な移行が
がある。全くの社会的行為は、関係性と志向の相互性を捲き込む。更に、
療法の境域で制度化された価値-パターンにおける一貫性の程度が
あるべきということは、社会体系の文化的な統合的側面の機能的必須
要件である。 区別は、本質的には、社会体系の統合に関する機能的
関係に関わる。関心が、主な制度化された価値体系に関しては独立を
を獲得した程度が大きければ大きい程、制度的構造の機制的機能
の重要性は、大きくなる。プライベートな関心に対する許容さと集合体-
義務の境域のこの区別は、根本的に重要なので、それは、根本的な
価値-パターン体系それ自身の部分として概念化されねばならない。
区別は、後のセクションで持ち出されるだろう。プライベートな関心が、
市場体系や権力体系において”生態学的”に構造されるところでは、
規制的な制度は、特に、意義がある。これらは、以下の第Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ章
で、更に、分析されるだろう。
価値-志向パターンと文化的伝統の構成素の間の区別は、部分的には、
行為のパターンの含蓄のコミットメントの一つの程度である。評価は、
機能する全体における志向の要素の統合である。 この機能する全体は、
顕在的な行為を含まねばならない。このことは、行為行為志向の構成素、
行為のタイプの組織化、の評価的レヴェルと我々が先のセクション呼んだ
ものの意義の本質的部分である。しかしながら、そのような評価的統合の
要件的レヴェルのなかで、最も高度なものは、既に見たように、道徳的な
ものである、何故なら、評価的統合のスコープは、その場合、最も拡大
だからである。
この統合の道徳的レヴェルを除くと、しかしながら、我々がコミットメント
から区別して受容のそれと呼ぶだろう文化的パターンにおける受容の
それ評価的関心の様式がある。このことは、信念体系の場合に最も明白
明白である。このことは、例えば、科学者として、あるいは、その応用の
分野への特別なコミットメントを持つとして”専門的”に関与していない
人々に対する科学的知識の普及である。 表現的シンボリズムの
パターンに関しても同様であろう。 我々は、それが他の関連で行為の
体系に統合され得ることなく、”真”として信念を受容するかもしれない。
我々は、我々の生き方の部分への同調にコミットメントすることなしに、
嗜好のカノンの妥当性に同意するかもしれない。 こうして、我々は、
我々は、この感覚で、芸術品を”鑑賞”するだろう。 この分野での
コミットメントの不在は、相容れない基準に合致する、異なる種類の
芸術品を鑑賞し得る可能性によって合図が送られるだろう。
より特別な場合は、道徳基準の非制度化された受容である。
本質的なポイントは、これらの規準は、社会的に制才された(許容
出来るという感覚で) ”パーソナル”な道徳性の境域へ入られる
ということのようである。 最もめだつ場合は、社会で屡々流行する
”ユートピア”的基準と呼ばれるもののそれだる。例えば、キリスト教
の伝統のある国では、山上の垂訓の倫理は、この感覚で、受容される。
現在制度化されているものより高度であるとむしろ一般的には
感取され、それに従い生きる人々は誰でも、確かに、全員一致ではなく
ても 躊躇なくではないけれども、敬愛されるだろう。しかし、明らかに、
それは、日常生において、文字道理の同調が期待されるということ、
そして、"左の頬を向けよ"*と言う寛容な態度を取らない彼、
しかし彼の反抗が限度内である限り、彼に対する攻撃に反抗する
彼が、否定的な制裁を受け、非難されることは無いという感覚で、
烙印を押されることはない。確かに、このパターンの受容は、自身の
の権利の為に立ち上がるべき義務のような、我々の価値体系の
他の要素と葛藤するので、状況は、単純とは遥かに遠い。 しかし
道徳的価値-パターンのそのような全き制度化なき受容の可能性
を記することは、大切である。
*翻訳者注:’汝の頬を打つものあれば、左の頬を
向けよ’〔聖書 マタイ伝ー5-39〕が原義、
転じて、’反発しない’;’ぐっとこらえる’;’仕返し
をしない’の意に。
(Microsoft Bing 検索)
信念体系と表現的シンボルと社会体系は、第Ⅷ章で、より詳しく
議論されるであろう。此処では、それらの受容は、それ自身行為へ
の直接的なコミットメントを必然的に合意しないが、制度化を通じて
若干の環境状況ではそのようなコミットメントが生じるかもしれない。
最も親しい事例は、制度化そのものだり、だから、信念体系への
加入申し込みは、宗教集団のような集合体への忠誠心の規準となる。
このことが生起する程度と方法には、広くヴァリエーションの余地が
ある。一方の極では、カトリック教会の場合のように、集合体からの
を追放を覚悟の上での詳細に渡る独善的な同調の強制があるだろう。
他方の極では、どのような特別な信念も制度化されないという”リベラル”
な社会の状況がある。しかし、ここでも、まだ、信念体系に関して制度化
された価値はある。信念の合理性にたいして出来る限り、緊密に
アプローチするべき義務がある。 ”人が望むように何でも”を信じる
ことは、国家的集合体内で信じることは、受容され得ない。教育の
威光は、この信念への制度化された態度無くして理解不可能である。
状況は、表現的シンボルにとっても同じである。幾つもの社会体系
においては、下位-集合体内において肯定的に制度化される。特別n
集団の特別な儀式や芸術愛好家の特別なサークルにおける美術的
コミットメントのように。 しかし、我々の社会における特別な表現的
シンボルの広いレヴェルでの制度化の欠如にも拘らす、表現的シンボ
リズムの一般体系に統合される”良い嗜好”と報賞体系の未だ広く
受容されているカノンがある。
それ故、社会体系の文化的制度は、他よりも或る社会体系に
おいてより特定的に定義され、厳しく強制されるけれども、制度化の
3つの週ような機能的準拠の区別は、後続の分析を通じて使用
使用されるだろう。
先の2つのセクションで概要されたコミットメントのレヴェルののシリーズ
と制度化との関わりは、むしろ複雑である。 それで、準拠の都合の
ために、主要なカテゴリーの概要が提示される。
行為-志向、文化的パターンそして
制度の様式とタイプの概要
A. 行為の動機づけ的志向の様式
1.認知的.
2.カセクシス的.
3.評価的.
B. 行為の価値-志向の様式
1.認知的.
2.鑑賞的.
3.道徳的 (体系-統合的)
a. 自我-統合的(パーソナル)
b. 集合体-統合的(社会関係的)
C. 文化的パターンのタイプ
1.信念体系(認知的意義の第一義性)
2.表現的シンボリズムの耐性(カセクシス的第一義性)
3.価値-志向基準(評価的第一義性)
D. 行為-関心のタイプ(文化パターンの相応するタイプと組み
合せられた一つの動機づけの様式の第一義性).
1.認知的関心(”知ること”における).
2.順応的関心(対象からの充足を保全することにおいて).
3.統合的関心(葛藤を最少化し、解消することにおいて)。
E. 評価的行為-志向(一つのタイプの関心の第一義性との
評価的、或いは統合的ジンテーゼ)
1. 道具的(目的の所与のカセクシス、認知的第一義性を
を与えられて)
a. 調査的(目的としての問題解釈)
b.創造的(目的としての新しい表現的シンボル
の形式)
c. 応用された〔知識の使用ーーそれ故、a.b.c.
の下で定義されていない目的のいずれかにも
関する認知的関心の第一義性)
2.表現的(表現」的シンボリズムのパターンに関する欲求-
性向を”アクト アウトすること”
3.道徳的.
a. 自我-統合体
b. 集合体-統合体
F. 価値-志向パターンを具現化している制度のタイプ
1.関係的制度(関心とは独立して互恵的役割-期待そのものを
定義する).
2.規制的態度(道具と手段に関する”プライベート”な
関心-追求の正統性の限度を定義する).
a. 道具的(共同の価値とのプライベートな目的の
統合と正統的な手段の定義).
b. 表現的(許容出来る表現的行為状況、人物、
そして嗜好のカノンを規制する).
c. 道具的(パーソナルなコードや下位-集合体の
道徳的責任の許容出来る領域を定義する).
3.文化的制度(文化的パターンの受容への義務を定義するー
プライベートな受容を制度かされたコミットメントへ変換する).
a. 認知的な信念
b. 表現的シンボルの体系
c. プライベートな道具的義務
⁂ 関係的な役割-期待パターンの分化としての
価値-志向のパターンの選択肢
社会関係性における役割-パートナーは、社会的対象である。役割に
おける志向の分析への準拠点の体系スキームを発展するために、その
ような社会的現象との関係の性格を定義するに特に意義のある基礎的な
選択肢の選択を、先ず最初に分析することは、本質的であり、そして、それは、
関係的パターンとして他の感覚の何れより、文化的、或いは、動機づけ的
よりも、関心において”内容”よりも、関係性パターンそれ自身の性格を構成
している。言い換えれば、社会構造の分化の分析は、関係的制度に入る
パターンから出発しなければならない。以下の議論は、一般性のレヴェル
において選択肢のセット厳しく限定され、定義されたセットがあり、そして、
それらの選択に与えられた関係的第一義性が、関係的制度のパターン性
にとって構成的であると扱われ得るという見地の措定されている。⑫
⑫次に来る概念的スキームについてのより広範囲の
議論は、価値、動機、そして行為の体系/Values,
Motives,and Systems of Action,第一章。
以下の議論が行おうとしていることは、出来るだけ明白にされる
べきである。 我々は、評価的行為-志向の道徳的タイプの集合体-
統合的な下位-タイプのパターン性(E-3-b)に関っている。 この内部では、
我々は、このカテゴリーの志向のヴァリエーション性の限度を定義する
準拠点を明かにするために、行為者の社会的対象との関係の構造を
分析することに関わる。我々は、可能な志向-選択の極にある選択肢
として定義され得る限定された数のそのような範囲から、限定された
数を取り出すだろう。このような選択肢は、先のセクションで議論された
志向の可能性のタイプにおける関係的第一義性に関して定義される
だろう。
関係的制度のパターン性の為の焦点に対処することを再び強調
すべきであろう。我々は、従って、評価的行為-志向の可能性と価値-
志向の相関的様式における第一義的関係第一義関係に関わるのであり、
関心のタイプそのものではない。 だから、第一の問題は、道具的-
表現的、そして道徳的志向(後者の下位-タイプを含む)の間のような
第一義的関係のそれではない。動機的関連において、 何れの行為者の
”究極的”な関心も充足の最適化であるということば推定されるかもしれない。
組織化された行為体系での充足への最も直接なパスは、表現的志向
である;そこから表現的なものに関わって表現的なものの道具的、そして
道徳的な志向の様式の両者が断念か鍛錬を課する。社会的対象は、
常に、実際にそして潜在的に或る程度」まで、カセクシスの対象である。
それ故、その対象に対する志向のパターン性における若干の関連ある
連関における 比較的直截適な充足関心のタームに関して許容可能か、
或いは若干のタイプの評価的関心である 道具的、または道徳的を
支持して断念されるかどうかが問題である。最初の選択肢は、”情緒性、
題三番目は”情緒中立性”のそれとして定義されるだろう。この基本的
選択肢は、行為の体系の本質に基盤を置く。何れの行為者も充足無くして
生存出来ないが、けれども、同時に何れの行為体系も所与の状況で
入手可能な幾らかの充足を断念すること無く、組織化され、統合され
得されない。情緒-中立性の両極は、この基礎の選択に関して、行為者が
役割において相互行為する社会的対象への直接の志向において、そして
その役割における彼の行為の期待の構造に関して、行為からパターン性
を定式化する。
この最初の選択肢-ペアは、行為者の直截な順応的関心を表現的活動
で充足する許容許容性と非許容性に焦点する。 次のものは、もう一つ
の他の目的からアプローチされると同じ内生的な問題である。〔それは〕
恰も、つまり、彼が役割を演じる集合体の他のメンバーと共有する
それら〔関心〕のものとは区別される彼自身の”プライヴェート”な
何れの関心を彼が追求する許容性である。⑬ かくして、彼の
表現的な、しかし道具的で自我-統合的な志向とその相応的する
関心が、集合体によって集合体と認識されるそれらと合致しない限り、
”プライヴェート”と定義される。役割は、だから、プライヴェートな関心
の若干の領域の追及を正統と定義し、他の領域では、行為者が集合体
の共同の関心を追求することを義務づけるだろう。 前者の選択肢の
第一義せいは、”自己-志向”、後者は、”集合体-志向”と呼ばれる
だろう。
⑬ このことは、より包括的な集合体に関連する行為者
としての下位-集合体の関心を包摂する。
これらの選択肢-ペアの両者は、解釈の重要な問題を生起する。何れの
行為者も直截的な充足を持ち、規律を受け入れるように、何れの役割も
プライヴぇートな関心の追及を提供し、集合体の関心に続くということは
正しく言っているかもしれない。この環境状況は、パラドックスでない、
何故なら、役割-期待において志向-第一義性の事柄として定義され、
これらの選択肢は、明確に関連する選択-文脈関係に、必ずしも役割内
の全ての明確な行為にでなく、応用されるからである。かくして、或る
種のクラスの目的への効果的な道具的追求は、役割の部分として
制度化される、それらの目的の達成と妨害するかもしれない表現的
表現的関心の充足が従属されねばならないということのみで;
役割は、情緒的に中立のタームで定義されるが、しかし、これらの
文脈関係のみで必ずしも他の全てにおいてではない。関連の選択-
ディレンマにおいて 、1つの選択肢が規約される。しかし、この規約は、
常に、ディレンマが生じる特定かされた文脈関係に関係する。 同様に、
我々は、もし、所与のタイプの状況において関連ある可能性である若干の
プライヴェートな関心の追及が集合体の関心に従属するならば、役割を
集合体-志向であるとのみと言うだろう。公務員は、彼が自身の財政的
福利には関心ををもつ。 それは、例えば、彼が仕事を決めるに当たって
考慮に入れるが、しかし、彼は、そのことを彼の特別な決定において、
2つのこことが潜在的に葛藤する公的政策を尊重しつつ、考慮に入れない
ように期待される。このことは、道具的(或いは、自我-統合的)パーソナル
な価値である。
最初の2つの選択肢のペアは、2つのレヴェルにおける全ての行為体系
に直面する表現的-規制の問題に関わった;最初は、個人行為者に
相対する彼の表現的関心による規制の受容への義務とこの役割の
文脈関係において、破壊的と漢字られる その充足;第二は、同じ
ディレンマが、どれ程高度にパーソナリティー 対 集合体への義務の
定義が規制されようとも、プライヴェートな関心の追求に関して、再び、
出現する。 確かに、 この文脈関係におけるプライヴェートな関心の
最も高度な追求は、屡々、集合体に関して最も逆機能てきになるかも
しれない;第三の選択肢ペアは、それの内容が何であれ、幾らかの価値
基準からの自由対従属に関わるのではなく、役割-期待に関連する
として定義された価値-基準のタイプである。ここでは、価値-志向の様式
それ自身への第一義的関係に頼らざるを得ないだろう、というのも、
それらは、行為-志向が評価される基準のタイプを定義するからである。
この目標の為に、道徳的カテゴリーは無視されるだろう。というのも、
それは、”自律的な”タイプではなく、関与する基準へのコミットメント
を与えられて、行為体系の統合への志向に関わるからである。現在の
文脈関係においては、このことは何を意味するのだろうか?
認知的志向は、本質的に対象世界における要素の一般化である
と言えるかもしれない。 カセクシス的志向は、他方、個別な対象及び
それらの秩序された組み合わに、内在的に特定化される。もし、
一般化が、認知的志向におうて圧倒的であるならば、認知的第一義性で
特徴づけられた基準は、行為者が関与する特定な関係体系(社会的と
同様に非-社会的対象の)に対して特定的ではない。 それは、この
関係的文脈関係を超越する。規範的にここ志向は、妥当性の不変的カノン
である。
カセクシス的志向と行為-と価値-志向の認知的様式の場合、充足-
意義に対して生来的に”主観的”な準拠がある。しかし、志向の充足的
意義は、それが部分である特定の関係体系を決して超越出来ない。
基準は、特定な対象に対する特定な関係のおけるこの特定な行為者に
ついての意義に関して表現されねばならない。認知的価値の第一義性
は、役割-期待の普遍主義的基準を、他方では、鑑賞的価値のそれは、
特定主義的基準を含蓄する。⑭
⑭特定主義における認知的を越える鑑賞的基準の
第一義性は、一般化は特定な関係的体系に対して
相関的であることを意味する。
前者の場合では、基準は、実存的なアイディアの瀬との妥当性、
或いは規範的規制の一般性から派生し、
後者では、対象、或いは関係的体系の対象の地位のカセクシス的意義の
特定性である。 普遍的に妥当する指針、例えば、合意契約の遂行への
義務、経験的名認知的一般化、或いは役割の達成の有効性のターム
において技能技能的有能さが増大するだろう信念のタームにおける
役割の選択に関する役割-期待の定義は、役割の普遍主義の定義
である。 他方、 ”私は、彼を助けねばならない、何故なら、彼は、
私の友人だから” という言葉、或いは親族への義務、隣人、或いは
連帯的集合のフェロー・メンバー、そのメンバーシップそのものの故に
特定主義的である。
直ちに、明白にさせねばならないこの分野での混乱の共通した
源泉がある。それは、特定主義的な役割-期待が、役割の関連ある
クラスの全ての普遍的義務を一般的タームで言明すると言う感覚て
一般的規則において定式化されるという事実から引き出される。
かくして、”汝の父と汝の母を敬え”は、道徳の一般的規則として言明
されるが、しかし、それが、一般的と言うのは、その形式である。義務の
内容は普遍的である。つまり、子供にとって、彼の特定の両親にとって、
である。 もし、その規則が、他方、”親であることそのものの特質の
故に、誰の両親であれ両親へ敬意を払え”と言うことならば、それは、
普遍主義的規範であろう。全ての規範は、〔その〕言明と応用(一般性の
程度の差こそあれ、)の一般性を可能にする。 問題は、識別が、
自我が特定主義的関係性に立つ対象か、同じ特質を保有する他の
対象の間に為されるかにある。そのような識別は、普遍主義的な
規範の構想とは相容れない。もし、親であることが、関連的特質で
であるならば、規範は、もし普遍主義的であれば、その特質を保有
する全ての対象に平等に対応される。
最初の3つの選択肢-ペアは、行為、つまり、行為者としての自我との
関わりにおける志向的構成素の関係する第一義てき関係において定義
された。役割-期待のパターン構成の第一義的機能的意義のターム
において、これら3つは、主要な性を一般性の同じレヴェルを網羅する。
しかしそれらは、全体的な準拠枠では考慮されていない。社会的対象
それ自身の特徴に関する選択肢が、つまり相互補完的な役割-志向構造
における他我に対する自我の見地からの、或いは目的としての自我
彼自身の、そして対象としての他我の関連スコープに関して、残る。
両者の場合で、最初の3つのペアとの関連のそれと調和する一般性
の正当なレヴェルを正に突くことが、本質的である。この規準を応用すると、
各々の文脈関係における最も一般化された意義を持つディレンマが
一つあるように見える。 対象の特徴に関して、それは、その”パフォー
マンス”は、当然、我々が社旗的対象のカテゴリーに限定した特徴である。
しかし、相互補完的な役割志向体系の相互補完的メンバーである”他我”
も、亦、当然社会的対象であり、従って、パフォーマンスで特徴づけられる。
行為者のパフォーマンス(自我のであろうと、他我のであろうと、或いは
両方であろうと)への志向は、焦点が彼の達成にあることを意味する。
期待は、行為者が幾らかの目的の達成、或いは表現的パフォーマンス
にコミットメントしていることであり、そして期待が、それらを達成する際の
”有効性”と”成功”に志向していることであり、それ故、肯定的な制裁は、
そのような成功を報賞し、否定的な制裁が、達成を失敗した時、続いて
生起するという ことにある。勿論、”情状酌量する環境状況”を定義する
ような色々な困難な問題はあるが、しかし、これは、期待構造の主要
軸である。
他方、上述の感覚て、行為者がパフォーマンスを出来るとしても、特定の
役割-期待の主要な焦点は、このパフォーマンスを必要としない。全ての対象
は、属性をもつ。それらは、あれこれをするだけでなく、それらは、かくかく
しかじかなのである。それらは、性別、年齢、知能、身体的特徴、関係的体系に
地位、例えば、集合体でのメンバーシップ、と言うような属性をもつ。志向の
焦点は、この感覚て、対象が何であるか、例えば、彼は、自我の父親、
彼は、医者、或いは6フィート以上ということにある。 そのような属性、
或いは特性-複合体」は、物理的、社会的理由の為に多くのパフォーマンス
の条件であるかもしれないが、しかしそうであっても志向の焦点は、未だ
特性そのものにあるかもしれない。
この区別は、社会学的文献、Lintonのターム、獲得的、そして生得的
地位において通用するし、それ故、それらのタームを使用するのは、賢明に
想える。 獲得-志向の役割は、その占有者のパフォーマンスにアクセント
を置くものであり、生得的役割は、特に期待されたパフォーマンスとは独立
した彼の特性や属性に置く。
特性とパフォーマンスの間としての選択肢の発生は、役割-期待に関する
生得-獲得の区別を超える分枝化の更なるセットに関与し、それは、それらの
行為理論における一般的な重要さの故に、注目を引くことになるだろう。
それらは、それらが、所与の初期状態とは異なる理想状態の定義への
その応用に関わる。パフォーマンスが、価値-志向の焦点であるところであれ、
強調は、”表現”、言わば、価値づけされる獲得-過程としての目的にある
かもしれない。他方、目的-状態そのものの評定は、その獲得の過程は
独立してその特性を強調するかもしれない。我々は、この区別が、”理想”の
状態への志向の異なるパターンを定義する際に、かなり意義があることを
知るだろう。
獲得-生得の選択肢ペアは、志向の焦点として選択されるかもしれない
対象の特徴に関わる。そこでは、対象への自我の”関心”のスコープが
疑問として残る。行為の志向の様式の分化と第一義性を巡る志向の
タイプの相対する分化が、如何に」非常に重要かは、上述されてきた。
しかし、この分化は、準拠点としての行為者志向に関して扱われた
のであり、志向の異なる様式が異なる対象に関して分離されたのか、
或いは、同じ対象への志向に混合され化についての疑問に関わる
なく、行為-志向タイプの”融合”と”分離”の相関的発生をめぐる疑問は、
社会構造の分析について非常に重要である。
多くの経験的相異が考慮される時、この点における非常に複雑な
入れ替えと組み合わせを引き出すことは可能であることが証明される
だろう。しかし、一般性の現在のレヴェルでは、出発点は、再び、
行為-志向の評価的タイプそのものであるべきであろう。ここでは、
特定の道具的、或いは表現的志向、或いは関心は、他から、或いは
道徳志向から明白な分析的分離が可能なような或る種の特別さを
持つ。それ故、ディレンマの一つの角度は、特別のタームで、社会的
対象に志向しているとしての役割の定義であり、特別の道具的、或いは
表現的関心に関わる。 即ち、自我に対する対象の(他者の)意義の
スコープの定義であると記されよう。 それは、道徳的価値パターンに
関して定義されるので、彼が、それらの限度内でのこの特別の対象、
またはそのクラスの関連性を限定するよう資格が与えられ、或いは
義務付けられさえするようになることを意味する。それ故、照明の
重荷は、自我が当該の対象に対してこの関連性の特別性を超える
義務を持つことを暗示する彼に課せられる。
選択肢は、特別な志向文脈関係の不確定な多数性において意義
があるとして対象を取り扱うことである。 このことは、常に、道徳的
要素を含意する。 何故なら、対象への全体的志向の異なる構成素
の評価的統合の問題がはっきりと巻き込まれているからである。
逆に、そのような単独の木庭―関係の多数の特別な志向を結合する
ことは、非常に志向における道徳的構成素を含蓄する(注記、
このことは、単に、自我-統合的で、関係的ではないかもしれない。
それは、対象の福利への考慮を含蓄しないーー自我 対 集合体-
に関して概念化されるヴァリエーションの範囲である)。それ故、
志向の特定な関心‐分離されたタイプは、拡散様式である。
そこでは、照明の面には、関心の除外のサイドにある。 或いは、
役割-期待によって定義された義務の範囲の外側にある。 この照明は、
評価の優先性のスケールにおいては、より高度の義務を呼び起こすこと
によって供与される。
選択肢ペアの場合のように、此処では、この概念化の相関性を心に置く
ことが、本質的である。 他と同じ様に、志向の方向に対する選択-ポイントに
当て嵌まる。 疑問は、関連性を限定するそのようなポイント、及び、それ故、
(様々なレヴェルの一般性において定義可能な)特定の関心への義務に
ついて、或いは統合的評価に関して可能な関連性を許容し、優先性の
スケールへ晒すことについて生起するかもしれない何れの状況依存性
〔の問題〕にある。 もし、行為体系の基礎的構成素の組み合わせの可能性
からの5つ選択肢のペアの派生が正しいならば、 もし、事実、それらが
全て一般性の同じレヴェルにあり、そのレヴェルの関連する論理的可能性
を網羅するならば、それらは、体系を構成すると見られるかもしれない。
それで、考察される必要があるのは唯一関連あるレヴェルにおいてそれら
の入れ替えや組み合わせは、つまり、役割関係性における行為者の志向の
パターンを定義する関係レヴェルでの可能な役割-期待のパターンのタイプ
の体系を産み出すべきである。 この体系は、32のタイプから成るだろう。
順次、より根本的なもののより小さな数にグループされるかもしれな。
読者に便利なように、これらの5つの概念-ペアは、役割-定義のパターン変数
と呼ばれ、以下のように図式的に概要されよう。
Ⅰ. 充足-規則のディレンマ
情緒性 対 情緒中立性
Ⅱ. プライヴェート 対 集合的関心のディレンマ
自己-志向 対 集合-志向
Ⅲ. 価値-志向基準のタイプの選択
普遍主義 対 特定主義
Ⅳ. 社会的対象の”モダリティ” の選択
獲得 対 生得
Ⅴ. 対象における関心のスコープの定義
特別 対 拡散
これら5つのパターン変数が、社会体系の役割構造の関係的側面に
焦点することは、それらが規制的パターンと文化的制度の定義に関わり
がないということは意味しない。 それらは、そうであり得ない、もし文化的
伝統における価値-志向の体系を通り抜けるパターンの一貫性の要素が
あれば。
本書の中芯的本体は、2つの主要な部分に分かれる。社会体系の
主要な構成素が第Ⅱ章で輪郭付けられた後、後続の3つの章、Ⅲ-Ⅳ
は、社会構造の分析の精錬に、それを細目のかなりの改良のポイント
まで押し上げつつ、関わる。社会化の機制についての第Ⅵ章は、相互
行為の中芯的パラダイムに立ち還る。 それと継続の3つの章は、
主にこのパラダイムの要素に関わり、輪郭づける。第ⅢからⅤ章で展開
展開された社会構造の分析の改良は、大部分、直接には行われない。
読者は、このことを彼が読み進むに当たって、はっきりと心に留めて
置くこと、 第Ⅱ章の根本的概念的要素を絶えず参考することが示唆
される。もし、彼が第ⅢからⅤ章の改良を分かり難いと想うなら、それらを
飛ばし読みし、第Ⅵ章を注意深く読み、第Ⅹ章を終えた後、第Ⅲ~
第Ⅲ章へ帰還することが助言されてもよいだろう。
第Ⅲ章
社会体系lの構造、Ⅰ: 下位-体系への
構成素の組織化
前2章は、本章の基盤を用意した。最初のものは、行為の一般的枠組の
輪郭付けを展開し、その構成の性格とそれらが組織される。体系のタイプ
を表した。 第2のものは、社会体系に最も関連ある行為の特色に関して
更なる展開を行った。それは、社会体系の基礎的な機能的問題と必要要件
をそれらの主要酵素がそれに関して分析されねばならない準拠点を、そして
構成素自身の行為スキームにおける本質と立場、役割の行為-志向のタイプ、
制度、そしてそれらの構成素的な価値-志向を分析した。 我々は、今、これら
の構成素が如何に組織されるように なり、社会体系を構成したかを
示すための、最初のメジャーなステップを取る立場にある。
我々は、それらの行為が制度化されねばならない行為-志向のタイプの
”関係的文脈関係”と呼ばれるだろう。 若干の特色を分析することから
始める積りである。 今まで、我々は、非常に重要な評価」的行為-志向
タイプを特定の役割の文脈関係においてのみ、分化された互恵的相互行為
の体系におけるそれらの組み合わせではなく、取り扱った。今、踏まねば
ならないのは、このステップである。その後、我々は対象を分化する。つまり、
役割-構造にとって意義ある生得てきな特質の複合体と獲得的パターン-
タイプの分化の基準点の分析を巡って、更なる細目事項へ進まねばなら
ない。
それから、後続の章て、 この分析結果を社会体系のメジャーな
機能的問題-焦点の設定に置くだろう。 それは、夫々、配分と統合的
問題として分類され、個々に更に分化される。 最後に、我々は、社会の
機能的要請に対して妥当な体系的に分化された役割-構造の実際的構成
について疑いを向ける立場にあるだろう。この出発点は、前章の最後の
主要なセクションで進められた価値のパターン変数の組み合わせの取り
扱いとなるだろう。 役割構造のこれらの第一義的パターンの要素は、
同じ社会体系の異なる部分において不均等に分化されることを見る必要
があるだろう。 最後に、第一義的パターンは、第一義的パターンの、
むしろ、抽象的な公式主義と社会体系に関連あるセクター内での特定
特定化の状況における行為のより特別な順応問題との、いわば、ギャップ
を克服する、更なる”適応”構造へかかわって行くだろう。 これらの同じ
出発点から、所与の社会体系の構造ないの内部的分化の基礎と社会
体系の間のヴァリエーションの範囲の定義の両方の分析を実行することが
可能であることが示されるだろう。
⁂ 評価的行為-志向の関係的文脈関係の構造
行為-志向のタイプには、道具的、表現的、そして道徳的なものが
前章では、我々は、それらを、役割の体系ではなく、特定の役割の
構造に関連して考察した。それらを一緒にして合成体系にする試み
の前に、社署の2つのタイプの各々の自身の体系を、順次、取り上げる
ことは、事柄を単純にするだろう。我々は、道具的なものから始め
よう。
幸運にも、思想の長い伝統は、この領域での問題の殆どを解き
明かした。必要なことは、結果を引き継ぎ、それらを適当なセッティング
に置くことである。 鍵概念は、アダム・スミスと彼と彼の後継者による
の功利主義的な、特に、経済萼的理論に依って発展した”分業”のそれで
である。 出発点は、所与の行為者、自我、目的の達成へ道具的に
志向づけられる〔自我の〕構想にあり、目的は、望まれる程度の特定性、
或いは一般性のいずれかのものだる。 関係的な問題は、他我が、
肯定的に自我の目的達成の手段または条件となる時、彼のリアクション
が、自我の目的-努力を包含する体系の構成的部分となる時、這入りこむ、
もしそのような道具的に志向された体系を構想するならば、 最も単純な
場合は、目的志向の互恵性のそれであり、交換の古典的経済学の事例
である。そこでは、他我の行為は、自我の目的達成への手段であり、
逆もまた同様。 自我は、他我のもの〔目的〕の達成の手段である。
この感覚で、交換は、高度にアドホックな、特定の遣り取りに限定される
しかし、それは、相互行為の高度に組織され、永続的な体系に精錬される。
このことが生じると、自我は、他我1つ人か1クラスの他我の目的達成
に対する手段の”生産”によって彼自身の目的を達成する過程を専門
にするように」なるだろう。互恵的には、彼自身の目的の達成は、それら
他我の行為の道具的に意義ある結果の彼に対する期待に噛み合わされる。
自我の目的の達成は、二重の方法で関係的文脈関係に依存する。
彼が得るものは、他我が生産するものとは独立して、という感覚で、彼自身
”生産”するものばかりではなく、しかし、”交換のターム”、つまり、関連
する他我と一定の局面における彼〔自我〕の関係性のパターン形成にある。
次いで、この関係体系には2つの側面がある。第一は、1クラス
対する彼の努力の産物の”処分”とも呼ばれるだろう”流出”の過程を
(タームの決着を通じて)構造形成ことの規制; そして第二は、”流入”の
規制。彼が他我から彼自身の目的への貢献を受ける契約関係のターム
の決着であり、彼が”報賞”と呼ぶもの、勿論、 単独の、アドホックな
行為者の遣り取りにおいて、2人は合致するだろう。2人の行為者の
間の複雑な互恵的な関係性においてさえも、それらは合致し続けるだろう。
しかし、それは、行為体系のより更なる分化の非常に重要な特色であるが、
そうである必要はない; 自我の”産出”の処分の受取人は、彼の報賞
の源泉からは全くかけ離れているだろう。 勿論、もしそうならば、自我が
巻き込まれている全体的相互行為体系の2つの側面が相互に順応
し合う機制がなければならない。 最も目立つそのような機制は、貨幣
交換の体系の分枝を通じて操作される。そのような機制を考えることは、
体系の分化へ追加的なステップを導入することだが、それは、我々の
分析の現時点では、必要ない。
社会体系における秩序の問題の2つの中芯的な意義ある焦点が
上掲の考察によって直截的に証明される。第一に、そして最も明瞭
なのは、交換のタームの決着を巡る規制である。 各人が行うものの
幾つかは、潜在的に、他の各人の目的達成にとって(妨害も含めて)
であるが故に、自我が彼の”サーヴィス”を他我に対して可能にするか
しないかは、体系の安定性の条件に適合するような方法で決定する
契約のタームの機制 を通じて有るべきと言う社会秩序の構想は、
非常に重要である。 これは、秩序の問題を巡る有名なHobbs的側面
である。
幾分か明瞭でないのは、遣り取りの経緯にあって 手を変える
”なにか”がある、”処分された” そして”受け入れられた”何かがある、
に違いない交換があるということである。この何かは、一定の側面では、
物理的対象の制御、破壊する力(例えば、消費を通じた食物)である
かもしれない将来に一定のものを行う合意かもしれない。 他我の目的
へ貢献しているとして肯定的、或いは他我の目的を妨害することw
慎むとして、否定的な〔合意である〕この何かは、財産と呼ばれるだろう。
何故、所有物が保持され、また、処分されるかもしれない条件を定義
する権利の構造があるかについての説得力のある理由は、各交換の
遣り取りの部分として、複雑な社会体系においては、アドホックな
決着はされ得ない。交換の安定した体系は、そのような権利を定義する
可能な代替的方法の間での先験的な決着を前提とする、つまり、
それらの制度化である。 そのような所有における権利の制度化は、
メジャーな側面では、所有権の制度を意味する。
これらは、 道具的志向の関係的複合体の最も基本的な特色で
あるが、しかし、分化の2つの更なる側面〔の方〕が、非常に重なるので、
現時点で取り上げる必要がある。 第一に、持続的で専門化された
道具的に志向された活動の精錬された体系は何れの自己ー消費を
を排除し、関係的文脈関係に不可避的に噛み合わせられる専門化の
程度とともに、純粋に、アドホックな基礎において入手可能な状況の
特色を超えて拡大する”設備”を要請する。 ”設備”、即ち、原料、備品、
建造物等は、行為にとって専門的意義のある財産である;それらは、
更なる”実用品"の”生産”へささげられる財産である、つまり、直截的な
充足の対象としてゆりも将来の目的に対する手段として使用するよう
運命づけられていれる。 設備への権利、或いはそれらへのアクセス
の権利の規制、そして交換を通じたこれらの権利の獲得の可能性の
規制は、従って、道具的志向の焦点のもう1つのものである。
最後に、基本的パラダイムは、自我が全く1人で、交換のポイントまで
実行出来る道具的活動のタイプのみを提供する。しかし非常に一般的
にいって、交換可能な実体、有意義な”生産品”や財産は、単独の
行為者の行為者の活動の所産ではなく、しかし、多人数の行為者の
”協働”である。 協働は、交換よりも道具的活動の統合の様式に
近接なそれは、結果が単位として交換過程に入ることの出来る単位
であるような活動の噛み合わせや”貢献”を意味する。(勿論、協働的
関係性が入り、継続するタームは、また、交換の遣り取りを”契約”で
決着するかもしれない協働的目的;”単位の生産”そして巻き込まれた
協働活動の体系の他の特色(例えば、関わった数)の本質に従って、
協働の活動の機能的過程とは異なるだろう。 しかしそれらは、常に、
交換の関係性の体系に課せられたものより説得力がある。協働的
関係性は、組織と呼ばれるだろう。
所与の行為者、自我は、そう呼ばれるだろう”道具的複合体”内で
意義ある他者との彼の関係の秩序形成の問題の4つのメジャーな
タイプと直面する。 第一には、 ”処分"の問題、彼の非-自己-
消費の所産が他者にとって入手可能になるタームの決着がある。
第二は、”報賞"の問題、彼が、他の行為者(個人的、亦は組織と
しての集合体)の活動の意義ある所産を受け入れる契約関係の決着の
である。 第三は、設備に対する彼のアクセスの問題であり、同じ
設備の使用に対する実際の、そして潜在的な競合者との彼の関係の
規則である。これら3つの交換の問題の背後にあるものは、財産に
における権利とその限界の定義、そして財産のクラスに従った分化
の定義のそれである。最終的には、同じ”生産的”過程における他者
との協働の関係性の問題であり、それは、幾らかの他者に対する権威の
掌握、乃至は他者の権威への従属の受け入れを含む。このような要素と
それらの関係は、下記の図表で提示される。
自我と他者の財産の権利の問題
設備へのアクセスの 処分の問題
問題 (設備の供給者 (消費者としての他者)
としての他我)
自我の
技術的
道具的
目的-志向
協働の問題 ”報賞"の問題
(”パートナー”としての (収入源”としての他者)
他者)
これらの関係的な問題-文脈関係は、或る感覚で、同じ具体的な関係性
において互いに誘導するだろうが、或いそれらがは異なる他者に対して
異なる役割の異なる関係を、そして自我に対しても合意するということで
分離される。 このような分化が生起するか失敗するかのあり方は、
社会構造の異なるタイプの分類の為の高度に重要な規準を提供する。
以下で、分析されるだろう。
このパラダイムは、また、複雑な社会体系の組織と動態を分析する
重要な準拠点を胎教する。”市場”や設備へのアクセスは、道具的に
志向された活動のどのタイプの追求の為の最も重要な条件の間で
専門化されr程そうなるが、一方、関係的体系を通じて受け入れ可能な
”報賞"は明らかに道具的活動のそのようなタイプの動機づけに
とって非常に主要である。
先のページで我々がなしたことは、準拠点として捉えた自我の役割の
見地から、道具的に志向された活動の分化された体系を巡る主要な
輪郭付けを、無限定な相互行為をしている行為者を巻き込みつつ、
描出することであった。 そのような体系が発展する限り、構成素役割
の制度的パターンは、構成素行為者の価値-志向を描出するより以上の
ことをしなければならない。 それらは、むしろ、特別に構造された
相互行為状況に相関的な価値-志向パターンのセットを構成する。
それらは、自我の行為の期待を定義する。 1) 彼自身の技術的
目的を成就する過程において; 2) 処分、報賞、そして設備に関する
他者のシリーズとの交換関係; 3)他者との協働関係において(それらの
各々は、勿論、更に分化され得る)。 そのような体系、具体的に、
関係的志向構成が、必然的にあり、そして行為者の関心が全ての共同
目的への関心ではない限り、〔契約〕関係タームと財産の権利に関して、
特に、規制的構成素、例えば、共同信念に関する文化的制度化の
要素がある。
社会行為のそのような下位-体系に関する特別的な社会学的問題
の焦点は、それに構成素行為者の役割を定義するために制度化される
程度と方法tp-に関わる。それは、これらのパターンを学習する機制
と逸脱傾向が存在する社会制御に関わる。このような要因に関して、
社会学的分析の関心は、体系内の過程にそれらの意味を持つ、例えば、
人材雇用や人材の地位・移動; そして体系それ自身、例えば、分業の
更なる精錬〔に対してである〕。
同じパラダイムは、しかしながら、他の社会科学の若干の問題-領域
の背後にある、即ち、経済学と政治科学である。 一方では、所与の
制度的役割-構造の内で、資源の配分、例えば、体系内での”労働力”
や設備の過程に関心を持つ。他方、それは、動機づけ定タームの決着に
特別な関わる。そして、所与の役割-構造と所与の権力条件の内部での
利益と損失のバランスを取る過程に関わる。政治科学は、他方、制度的
体系ないの権力関係、及び〔契約〕タームの決着のより広い側面に関わる。
これらの問題は、より大規模な基盤が設置された後に、次の章で、
更に議論されるであろう。
表現的に指向された行為の分化された体系の巻き込まれた関係的
文脈の密接にパラレルなパラダイムがある。この場合、思い起こされる
行為の動機づけ意義が欲求-成功の直截が、即ち、行為それ自身を
通じて特定の行為-過程を超える目的の達成を通じてではなく、与えられる。
そのような志向は、勿論、その動機づけ的意義と同様に、価値-志向の
文化的パターンに関して組織化されている。 それ故、それは、
カセクシス的ばかりでなく、表現的である。
此処で、最も関連のある動機づけ的志向の場合のタイプは、他者が
カセクシスの対象であり、このカセクシス的意義が、動機づけ的サイド
における第一義的焦点であることである。ここでは、自我は、処分の
それと相同的な問題、即ち、彼の志向の他者による”受容性”、
自我のパートの表現的関心の関連あるタイプの対象として仕する
彼の意欲のそれを〔自我は〕持つ。これは、自我の志向の他者の
”受容力”の問題と呼ばれるだろう。 それは、勿論、自我の見地からは、
他者は、彼にとって”適切な”対象で或る時にのみ生じる。➀ 第二に、
➀勿論、幾つか表現的志向は、受容力を要請しない、
例えば、”英雄”は、彼の多くの信奉者者の同一性の
覚醒なくして”崇拝”されないだろう。
しかしながら、一般的に云って、表現的相互行為は、”一方通行の
通り”ではない。他者は、受動的に受容する対象ではなく自我の欲求-
性向の充足は、他者からの能動的な”反応”に依るだろう。 例えば、
他者を対象として愛するのは、十分ではないだろう;互いに、”愛される”
ことが非常に大切だろう。 反応は、このように、道具的体系と報賞的
側面と相同的に見えるであろう。
表現的関心の心理学的特徴が道徳的な場合寄りも一般的に云って、
受容性と反応であり、同じ社会的対象において見出されねばならない
ことは、蓋然的である。にも拘らず、この側面における分化は、親密な
”情愛的”な対象関係性においてさえも、決して知られないことではない。
最も身近な場合は、多分、愛し返す潜在能力がないのに愛されたい
と欲する場合である。 しかし、2つ異なる対象に関わる2つの要素の
分離は、確かに、臨床的経験➀-2においても決して知らないことでは
ない。更に、表現的志向のカテゴリーは、決してそのような親密な関連性
に限られない。それは、例えば、集合体への態度の事柄かもしれない。
➀-2 同じ対象への何方つかずの愛舞な志向
の問題は、後に取り上げられる紛糾の種子を導入
するだろ。 第Ⅶ章参照のこと。
表現的行為は、行為は、行為の直截的状況と過程それ自身の外側に
あり、道具的行為行為と同じ感覚における目的の達成に志向されて
いない。しかし、このことは、直截的対象の焦点、他の状況における
対象は、表現的見地から、無関係であることを意味しない。それどころか
状況的対象の無限定な範囲は、カセクシスの対象として、そして表現的活
動に対して適切な文脈関係、或いは”機会”を提供するとしての自我に
とって有意義であるだろう。ここのことは、表現的活動に時間と空間の
適切さ、環境的な物理的対象の意義、例えば、芸術の制作、第三者の
役割、社会的対象としての集合体等を含む分化的シンボリズムの具現化
を包含する。 それ故、この意味での機会の構成素の選択と規制は、
表現的志向の自我の関係的体系の第三のメジャーな問題領域を構成
する。焦点の対象とは離れた状況にある多様な対象や側面は、
シンボル的に統合され、それ故、それらを自我の志向パターン
形成におけるその意義に統合され、そして、其処から、それらを
中芯的な表現的関心を”適合”させる欲求が存在する。1つの重要な
側面においてこのことは、表面的文脈関係のための統合された
”スタイル”のパターン形成の希求として語られるかもしれない。
最後に、他者への自我の統合のカセクスス-表現的側面における協働の
道具的カテゴリーにははっきりとした同相性がある; この統合が制度化
された処を、我々は、それを連帯性②と呼び、簡略なものをものを忠誠心と
呼ぶだろう。 この忠誠心には、2つの側面がある。純粋にカセクシス的
感覚で、他者は、愛着の対象であるかもしれない。このことは、他者との
関係は、自我にとってばらばらの組織されていないアドホックであるばかり
でなく他者の充足的意義の将来への持続と発展の期待を含む充足の
組織された体系の源泉であることを意味する。正常に統合化された場合
では、個人行為者の間でのように、愛着的意義の相互性があるだろう。
愛着がなすことは、特別な対象に関して欲求-性向を統合された体系
することである。
②下記、pp. 96ff. を参照のこと
忠誠心の第二の側面4は、愛着が文化的パターンに関して組織される
と言う事実から引き出される。それは、第一の場合では、表現的
シンボルのパターンとなり、その意味は自我と他者の間で共有されるだろう。
このことは、少なくとも、鑑賞的基準のレヴェルでの価値を含意するだろう;
それがそのレヴェルを越え、価値志向の道徳的レヴェルを含むまで行くか
どうかは、疑問のままである。 もし自我と他者の間の忠誠心が制度化
連帯性へと移行するならば、そうなるだろう。2人の恋人の間では、
共有される性愛的シンボリズムの体系が展開されるだろう。 それは、
関係性の内部的側面であり、その統合の条件③である。 しかしながら、
③この問題の更なる分析は、下記の第Ⅸ章を参照されたい。
結婚という形での制度化される時、このシンボリズムは、社会の共同
価値に関して道徳的制裁の義務の更なる次元を獲得する。表現的
忠誠心の関係性は、特定の対象に対する愛着における欲求-性向
のセットを組織し、それを、当該のカセクシス的関心に対して適切な
協働的に共有された表現的シンボルの体系に統合する。協働と相同
的なのは、この社会的対象に統合される忠誠心である。
個人行為者間の表現的忠誠心のこの構想の拡大によって、我々は、
個人行為者の忠誠心の重要な概念を彼がメンバーである集合体から
引き出す。集合体は、愛着の対象として捉えられるかもしれない。
明かに、比喩的な感覚以上に”祖国愛”を語る時のように。そのような
意義ある対象は、個人としてのそのメンバーではなく、集合体である。
人自身の国を愛することと同時に個人としての同胞を非常に選択
的に愛することは、全く可能である。本質的に同じ理由で、集合体への
愛着は、表現的シンボリズムの体系に統合され、それは、自我の応用に
おいてメンバーシップ、集合体での地位、そして多分、集合体を代表して
褒賞に価するサーヴィスを意味する。 集合体自身の側において、旗、
エンブレム、建造物や指導者のようなシンボルがあり、それらは、この
場合の性格上、それらの潜在能力において集合体のメンバーの表現的
志向の焦点となる。
表現的忠誠心に関して、個人行為行為者と集合体の間の関係が、
2人の個人行為者の間のそれと同じ感覚で対称的では、あり得ない。
集合体は、特に、責任の役割のそれらにおけるメンバーの行為を
通じてのみ行為出来るのである。それは、それ自身そのメンバーに対する
情緒的”感情”を持たない。それは、そのメンバーの共同の感情の
シンボル化が出来るのみである。集合体と個人行為者の間のこれらの
根本的相異を明白にすることは高度に重要である。 にも拘らず、
集合体への愛着と忠誠心の構想は、社会学的分析の飛び抜けて
重要な道具である。それは、個人の集合体へのカセクシス-表現的な
関係の分析の焦点である。
更に、交換のタームの決着と財産への権利の両方の間と、道具的
と表現的場合の間に、相同性がある。財産は、それらの表現的意義
において報酬と呼ばれるだろう。報酬のカテゴリーは、設備のそれと
直接パラレルであるととらえられる。 報酬-対象は、常に、、直截的な
充足の対象であるが、しかし、その充足的意義は、目的そのもの
としてのその特質ばかりでなく、自我へのその特別な関係に依存する。
その特別な関係は、自我と関連する他者との相互行為の組織に
状況依存的である限り、報酬の社会学的問題の焦点である。しかし、
報酬が、充足の対象であるように、文化適にパターンされた行為
体系においては、それらは、同時に表現的シンボルとして有意義
でなければならない。
具体的に云って、報酬は、物理的対象の所有、或いは文化的
対象は、特別な関係に本来あると見て良いだろう。しかし、独特な
意義が一クラスの報酬、他の行為者との状況依存的関係の”所有”
に付着される。何よりも先ず、愛着に巻き込まれる態度の相互性、
そして忠誠心や連帯性の故、他者の行為的な態度ーー適切な
タイプのーーを”頼りにする”。 位置にいると言うことは、報酬の
第一義的中核として見做されてよいだろう。つまり、他者は、彼の
反応性、彼の愛、或いは尊敬を与えるか差し控えるかもしれない;
自我は、従って、特別な条件の下でのみ、他者の志向体系に
おける彼の位置を獲得し、保持する。 他者の、このような条件の
制度化は、社会体系の秩序形成の側面である。
設備の獲得や使用の場合のように、社会体系は、どの行為者
に対してどの報酬が厳密に制度化によって規約される必要なく、
また、一般的に云って、されない。 しかし、様々な種類の権利の
のタームに関して、そして、報酬-財産の獲得と処分の交換のターム
の決着に関して、社会体系にとっての秩序の内在的問題がある
この領域の制度化は、設備に関すると同様に、社会秩序の必須
要件である。
確かに、社会体系の最も根本的規制の問題が生起し、規制的
制度が第一義的に焦点されるのは、道具的、そして表現的活動
の両者の文脈関係の分化との関係にある。この状況の含蓄は、
後続する性における色々なぽいんとで取り上げられるだろう。
表現的志向の関係的文脈関係の構造の分析のためのパラダイムは、
以下の要である。
関係する財産における権利の問題
機会〔第三者を含む) 適切に受容的である
の適切な文脈関係の としての社会的対象の
問題. 問題.
表現的シンボリズムの
パターンないの特別な
充足への志向.
表現的忠誠心 適切の反応的である
(カセクシス的愛着と 社会的対象の問題.
忠誠心のシンボルを
含む)の問題.
さて、我々は、構造」と道徳的」側面と自我の関係的体系の秩序形成
に向かう。それは、この事が、道具的そして表現的」とは異なる水準で、
問題を起こす。何故なら、道徳」てき志向が行為体系の酵素に関わる
直接的に統合t機意義があるからである。ということは、全く明白である。
従って、問題は、別々に、両者の道具的な、そして表現的複合体の
内部で、そしてそれらの間に秩序のパターンを設立することのそれ
である。というのも、すべての行為者は、慮yタイプの関係性を持たねば
からである。
我々は、此処で、1つの重要な関わりにおいて自我-統合と道徳的
志向の問題の関係的側面の間の相違を明らかにするための有利な
見地に達した。所与の」個人行為者のいずれも、道具的、そして表現的な
両方の関わりにおいて、他の行為者との関係性の複雑な体系に巻き
込まれている。この体系の構成は、他の人物は誰も全体社会で全く
同じ位置の占有なので、彼に」対して、概して、特異的である。 かれの
生理学的有機体、そして彼の環境場況との体系としての組織化や
統合的安定化は、たの弄れの個人にも、集合体にも還元」し得ない独特の
還元し得ない独特の統合的焦点を提示する。一人の行為者の関係的
体系の構造の統合は、幾つかの最も重要な場合で、彼の役割を構成
それは、パーソナリティー理論の問題の重要な焦点を提示するということ
である。
しかし、このことに対する我々の関心は、間接的である。直接的には、
それは、体系としての関係的体系の相関的な統合の問題と共にある。
何故なら、社会的対象、或いは行為の間では、これは、明らかに
社会体系の秩序の条件に関心を持つ;一般的、そのような体系とそして
そのような体系の特別に分化されたタイプの各各に。
現時点で、我々の関心は、構造の分化の基礎にあるので、我々は、
我我は、個の観点から進めて行きたい。 我々は、構造を、役割の体系
の関係的体系に関して考察しており、そして、そこから、我々は、分化の
関連や役割-パターンのタイプに関心を持っていることを想起せねば
ならない。上掲の2つのパラダイムとそれらの関係に関して考慮すべき
2つの範囲の変数性がある。第一の関心は、志向体系のそれの内
での分化と統合にある。第二の関心は、同じ役割に役割における分離
と融合の両者の可能性に置かれる。
前章で、輪郭付けられたパターン変数の幾らかは、これらの可能性を
分類する基礎を我々に提供してくれる。それらの3つ、つまり、情緒-
中立性、特別性-拡散性、そして普遍主義-特定主義は、全て、最も
基本的なレヴェルにおける問題に関連している。 第四と第五は、
異なり文脈関係に適合し、それらは、時が来れば取り挙げられる
だろう。
情緒的中立性に関する役割の定義は、志向構造における第一義性の
から何れの表現的関心➃も除外し、そして道具的か道徳的考察のいずれか
➃ カセクシス的関心が表現的シンボリズムのパターンと統合
するかしないかへの限度は、後続の分析の目標の為に無視
されるだろう。 一般に、我々はこの統合を想定し。そして
評価的行為-志向レヴェルに対処するだろう。
第一義性を与える。このことは、具体的には、行為者がそのような役割の
パフォーマンスを通じて直接な充足を受け入れないことを意味し、それ
どころか、役割-期待の定義において、それらの関心は、それらがどのようで
あれ、葛藤の場合においては、他の2つのタイプの考察の1つか両者に
従属することを意味する。 もし葛藤がないのならば、それは他の事柄である。
この変数は、それ自身によって、道具的と道徳的志向もプライヴェートな
集合体な関心を識別することは出来ない。
しかしながら、道具的なそして自我-統合的、道徳的な志向が第二義的
な重要な局面がある。 もし、社会体系の秩序形成のけんちから見て、
異なっていないならば。 これらのタームでの機能的問題は、社会的レヴェル
における道徳的統合のそれである。 パーソナリティーのそれ〔レヴェル〕
しかし、このことは、いまだ、開拓されていない地へ我々をひきよせる。
この変数は、表現的そして道具的志向の間にある相関的な第一義性
を非常にはっきりと定義する。
次に、特別性-拡散性のの変数を取り上げるのが都合良いだろう。
役割‐期待における特別性は、道具的、或いは表現的複合体の特別な
要素の1つを残りの関係的文脈関係から”分離する”。かくして、役割の
内容は、”生産的”過程それ自身へ限定されるだろう、処分、或いは設備
の配分、或いは、協働的関係性の規制への責任なしに、或いは、それは、
機会の文脈関係または、愛着における他のものとの組み合わせに
関わることなしに、欲求-性向の充足に関わる。表現的分野における
分離の可能性は、道具的なものより内在的にもって制限された。
しかしながら、どんな場合でも、拡散性は、関係側面か関連の欲求-
性向の単独な”束”への不烏合に準拠する。 記憶すべきポイントは、
この時点での文脈関係のパターン変数が役割-期待、つまり、他者に
対する権利と義務であり、それ故、制裁の構造形成を定義することである。
従って、特別な”役割”は、特別に定義された関係的文脈関係に限られて
いることが期待される一方、”拡散”的役割では、期待は、状況の
状況依存性から生起する義務へのどんなクレイムも先験的に関連がない
という事ではないだろう; 無関連性は、優先性のスケールにおける
より高度の義務との葛藤に関して正当化されねばならない。
はっきりと認識されない限り、混乱を障子やすい分離された側面とは
何かを定義するに際して若干の相同性がある。道具的場合においては
それは、何れの望まれた生来的な状態も目的と考えられてよい事実
から引き出される。 従って、我々が道具的志向の生産的(或いは
”機能的”)目的と言う時、処分や妥当な報賞等は、各々、そのような」目的
として奉仕する。従って、パラダイムで指摘されたように、分業の道具的
体系の中芯にある”技術的”目的として考察されべきものは、分業の体系
における自我の立場に相関する。自我の見地から技術的目的である
ものは、より広範な体系の視野から見て、処分する機能、或いは、或る
他の機能のパフォーマンスであるかもしれない。このことは、もし、言明
が属する枠組みが常にあきらかにされるならば、載んなんの深刻な源泉
なるべきではないだろう。
表現表現的な場合では少し異なっている。欲求-性向の充足が適合する
体系は、同じ行為者の他の欲求-性向と同様に他の彼の対象との関係も
含まれねばならない。 それ故、”ゆうごう”は、同じ対象に相関する欲求-
性向の体系の組織、或いは、同じ欲求-性向の充足に関わる対象の体系の
組織のいずれかまたは両者を意味するだろう。
表現的と道具的要素の両者を含む対象対象-志向は、役割-期待に
おいて、唯、許容的に正当であるだけではなく、むしろ、肯定的に期待
されると定義され、拡散であると捉えるべきだということは、明かなように
想える。しかし、このことは、道具的、或いは表現的サイドのいずれかに
既に巻き込まれて」いない限り、可能ではないだろう。 その場合の
最も明瞭なタイプは、道具的特別な期待が表現的に拡散的なものと他の
人物又は集合体への志向において結び付けられている処にある。
連帯性は、必然的に、以下で更に議論されるが、この拡散的性格の
構成素である。 しかし、連帯性に巻き込まれる集合体-志向の不在な
時、我々は、他者の集合体への忠誠心の義務について語ってよいかも
しれない。 定義されたように、道具的志向が互恵的な表現的意義の
拡散的な関係の文脈関係に適合している時に。
この文脈関係に対して普遍主義-特定主義の変数の重要合奸計がある。
道具的志向を支配する基準は、目的を所与されて、我々が見たように、
普遍主義的である。それらは、効果的な目的-達成の内在的な関係に
無関係規準に関わらねばならない。道具的志向の第一義性は、拡散的な
ものでさえ、従って、常に、普遍主義的な規準の第一義性である。同じ
ことは、表現的志向でも同じだろうであることはないが、此処では、それは、
志向が特定な目的へ本来的に向けられているか、対象の普遍主義的に定義
されたクラスに対してであるかに依る。もし、一般的に定義されたクラスの
いずれの対象も適切であれば、基準は普遍主義的である。
しかしながら、志向は、表現的な場合、特定主義的に拠り勝ちである。
これは、特に、全く圧倒的にそうである。対象がそれ自身内で普遍主義の
特質、或いはそれらのシンボル的意義において他の対象を持つ抽象的な、
文化的対象でない限り、多分、例えば、宗教的感覚における普遍主義的な
愛は、全ての人々に区別なく対応する普遍主義に定義された愛着である。
しかしながら、その実現は、非常に難しい。 普遍主義的志向は、”人類愛”
の抽象としてシンボルに、全ての具体的な人間によりも、むけられ勝ちで
ある。
テーブル/一覧表 1は、8つのタイプを産み出す。これらの3つのパターン
変数の価値の横断的分類である。このことから、かなりの、完全ではない
けれども、道具的と表現的パラダイムの分析の結果」が見られ得る。
テーブルは、道具的と表現的志向の第一義性を別々に識別するために
一貫して使用される中立性-情緒性の変数と当該の体系を体系としての
統合から関係的体系の特別な構成素への制限を区別する特別性-拡散性
の変数が一貫して使用されるように定式化される。このような識別のラインは
全くはっきりしていると思われる。それらの主な困難は、この分類そのものが、
同じ役割-期待パターンにおいて道具的として表現的要素の組み合わせ
を考慮に入れないことである。このことを行う最良の方法は、テーブルの
2つのセル/小区分をカヴァーしている組み合されたパターンを考える
ことのようである。例えば、他の2つの変数がまだ同じである情緒的な、
、中立的なセル両方のようなものを考えることである。 そのような組み
合わせのタイプは、道具的か表現的(或いは、多分、道徳的)要素に
第一義性が与えられるかどうかに従って、更に分化され得るであろう。
これは、セル6と7の場合に非常に重要であるーーそれらの変数が
関わる限りーー拡散的愛着が互恵的な道具的パフォーマンスの期待に
統合されrところの非常に重要な場合を定義する〔からである。〕
メジャーな事例は、親族の役割のそれである。
もう1つの複雑さは、第一義的関心が、一方では、表現適であり、他方では、
道具的な処で生じる。これは、例えば、商業的娯楽のパフォーマーと観衆
の関係も同様である。そこでは、観衆のメンバーは、直接的に欲求-性向を
充足しており、一方、パフォーマーは、職業的な役割➄ である。そのような
非対照的な役割の相互行為体系では、1つの役割のセルに他をもう1つの
セルに分類することが必要に見える。こうして、上記の場合のパフォーマーの
役割は、セル1に属し、一方、観客は、セル3に属する。相補的ペアが、
8つの可能性のなかから、2つの隣接するセルに属するのは、未だ
有意義である。 8つのセルのランダムな組み合わせによる役割-パターン
の相補的なぺアを組み立てることは不可能ではないのである。
➄ そのような相互行為の統合を説明するために、パフォーマー
と観衆の青だに表現的シンボリズムの共同のパターンの制度化、、
パフォーマーのパーソナリティーへ内在化されるだろうパターン
があることが想定される。それで、”横断する”ための、乃至は
報賞への後者の道具的志向は、このマトリックス内で働くだろう。
問題のもう一つのセットは、普遍主義的-特定主義の変数の場所との
関連で生じる。横列Ⅰのセル(小セル1と2)、道具的複合体での技術的
エグゼクティヴの役割の両者の第一義的構成を定義し、明確で、曖昧さ
はない。 他の全てに関しては問題がある。 大セル3は、確かに、特別な
充足に関して重要である。しかし、もし対象が社会的対象であるならば、
普遍主義的で、拡散的方向における強調へ移行する強い圧力があり、
関係が永続するほど、そうなり、そして、カセクシス的関心がより戦略的
になる。志向関心のこの組み合わせにおける本来的な不安定さがある
にみえる。 それは、決して、(対象が社会的対象であるところの)社会体系
の構造にとって中芯的として現れないが、しかし、主に”安全弁”、或いは
逸脱現象、例えば、売春婦として〔現れる〕。
小セル4 でていぎされた志向の不安定性」も、また、コメントされた。
此処では、難しさは、情緒的表現第一義性の特定主義への圧力に
直面してパターンの普遍主義は、非常に安易に宗派的特定主義へと
移行する。 其処では、第一義的忠誠心は、特定の宗教的集合体、
例えば、教会へむけられる。 そこでは、むしろ、”全ての人々”よりも、
特に、勿論、教会のそとの人々が当該の宗派によって支持される状況
の定義を認めることを否定する処〔教会〕。
更なる一つの事例を取り上げると、小セル8は、ロマンチックな愛の
関係性の”理想型”を定式化する。 しかし、具体的な〔恋〕愛の愛着に
おいて、もし、それが強烈で、持続的であるならば、表現的シンボリズム
それ自身の中核の外で互恵的活動を巻き込むだろう。実際的な役割
パターンは、それで、小セル6へ ”溢れ出て”、そして、2つは融合する
だろう。シンボル的意義を保有するけれども、これらの活動の多くは、
同様に、道具的意義を保有し、獲得するだろう。それらはのケアへの
への結果と責任の現前を含むよりおおきな機能的体系への統合と
共に、〔恋〕愛の関係性は、結婚へ徐々に変化する。 全ての社会で、
親族の役割は、小セル6と8で定式化パターン要素の融合を巻き込む。
これらの事例は、テーブルの含蓄を網羅していないが、しかし、現時点
では十分だろう。我々が、何故、パターン変数の組み合わせの論理的
に精錬されたスキームと道具的な表現的行為の関係的複合体を
した結果の間に”完璧な適合”を見出せないと言う根本的な理由は、
前者が文化的パターンの構成素であり、これらのタームから引き出
されたタイプは、パターンの一貫性と対称性によって支配されている
事実にある。
テーブル Ⅰ
普遍主義
特別性 拡散性
1 2
特別な道具的パフォーマンス 表現的関心に従属する
関係的文脈」関係から 関係的文脈に関わる拡散的な
中立性 分離され、表現的関心に 道具的協同の期待.
従属する.
3 4
分離された特別な表現的 多くの表現的関心の、対象の
関心の追求. 対象のクラス クラス、或いは、抽象的な
の何れかに対する拡散的 文化的対象、例えば、人類愛
情緒性 愛着と道具的期待の両方 とか神への融合.
分離された
特別主義
5 6
特別に定められた道具的な 拡散的な道具的義務の
中立性 義務、人、或いは集合体に 期待、人或いは集合体
対して表現的関心に従属し に対して自我の表現的
つつ. 関心に従属しつつ.
7 8
分離された特別な表現的関心 多くの表現的関心の
の追求. 特別な対象、個人、 融合. 道具的期待
情緒性 或いは集合体に対する. なくして特別な対象への
拡散的忠誠心に関する.
関係的パラダイムは、他方、もう1つのレヴェルの社会的的関係の
構造を分析する。ここで、我々は、文化的パターンの社会関係の機能
形成の現実的条件との間のテンションの源泉の始まりの幾つかを
見るのである。
テーブルⅠにおいて、2つのパターン変数、即ち、獲得-生得と自己-集合体
志向は、特に、後者の変数は、このテーブルの結果をかなり修正することが
見出されるだろう。 しかし、我々は、それらの修正を導入する用意は、未だ
ない。
非常に仮のやり方で、これらのパラダイムの構成の融合と分離の
タイプの分類をセットすることによって道具的と表現的志向の上記の
分析結果を持ちだすことは役立つだろう。それらは、具体的な役割
タイプの特徴づけるのには十分ではないあろうが、それらのなかには
それらの中の非常に重要な要素の幾らかを提供し、そして、特に、更に、
第Ⅳで悠揚される社会構造の分野での高度に重要な識別のシリーズの
基礎をもたらすだろう。
1.カセクシス的-表現的関心の分離、拡散的愛着と忠誠心、そして
道具的期待から、例えば、無報酬からの娯楽での観客の役割
からの〔分離〕 (テーブルⅠの小セル3と7).
2.多数の特別なカセクシス的ー表現的関心の融合、拡散的
対象愛着、例えば、ロマンティック恋愛の”純粋な”タイプ.
(大セル8)
3.特別な道具的パフォーマンス(非対称的)に対する特別の
カセクシス的表現関心の充足の条件形成、例えば、商業的な
娯楽での 観客の役割における(テーブルⅠの左側 ―特別性ー
の縦列の全てを含む).
4.拡散的愛着と忠誠心と、例えば、親族の役割のような期待される
道具的パフォーマンスの拡散的複合体との融合. (小セル6と8)
5.特別な道具的パフォーマンスの、特別な、適切な報酬以外の
以外の表現的志向及び道具的複合体、例えば、”技術的”役割
の他の構成素からの分離.(小セル1)
6.道具てき機能の拡散的多数の他の表現的関心、”熟練工”と
”エグゼクティヴ”の役割から分離された複合体での特別に適切
報酬の融合(小セル2).
7.多くの表現的関心の、対象のクラス、或いは宗教的感覚における
”普遍的な愛”のような抽象適な文化的対象への拡散的な愛着への
融合(小セル4).
⁂ 役割-期待の焦点としての対象のモダリティ
前のセクションは、社会関係性の構造形成と役割に関するパターンの
分化に関わった。分化の基礎は、つまり、行為者の志向の動機づけ的
構造と彼の行為志向に組みいれられる文化的価値基準に見出された。
今、対象それ自身内の分化の関連を必然的に取り上げねばならない。
それは、志向の選択的分化、つまり、選択肢の相関的第一義性の焦点として
役立つ。 ここで、我々h、想い出されるように、役割-パターン構造そして
行為者相互の相互的志向に関心を持つ。 関連ある対象は、この目標に
とって社会的対象である。
このことは、直截的に、生得-獲得のパターン変数を巡って分析を組み立てる
ための有用性を示唆する、と言うのも、これが社会的対象の世界の構成
をとおり過ぎる最も意義のある分化の定式化に他ならないのである。
(自我自身のパーソナリティーを含め)対象としての行為者に志向する際に、
第一義性は、一方では、特別に期待されたパフォーマンスとは独立して、
彼の属性や特質に与えられだろう、或いは完了した過程において、或いは
将来に期待される彼のパフォーマンスに与えらうだろう。関連ある文脈
関係は、想い出されるように、常に、関連ある側面において全体としての
対象の評価である。 この評価は、選択肢的可能性から対象の選択に
応用される、或いは対象と関わる、一旦関係性が設立されると、つまり、
彼が役割の中で受ける扱いに関する、期待の構造形成に対して〔応用
される〕。
一般的な分化の本質は、はっきりされべきであろう。 このセクションの主
問題は、その関係性を2つ主要な選択肢の各々の元に巻き込まれている
より経験的考察の幾らかを語ることによって提示することである。我々は、
特質-複合体、或いは生得-規準から始めよう。
最初に、そのような規準の2つのクラスを分化することが、本質的な
ようである。都合の良いように、それらは、第一次的と第二次的と
呼ばれる。前者は、社会体系に論理的に先行するものであり、後者は、
社会体系の関連ある特色から派生するものである。両者のクラスに
関して、社会体系との関連を明かにする目標のために、更なる初期の
区別、即ち、クラス的なのと関係的なの規準を成すことは、有用である。
クラス的な規準は、それが自我に対してクラスとして特別な意義をもつ
普遍主義的に定義されたクラスに属する事実によって対象へ行為者を
志向するそれらを意味する。関係的規準は、他方、特別の対象としての
対象が自我との、従って 他の有意義な対象との特別な関係に置かれる。
かくして、対象の性別は、クラス的規準である一方、自我との特別な
生物学的関係、例えば、親は、関係的である。 この区別の関連の
普遍主義-特別主義の変数の出現への生得的基準との関わりは、
明白である。
関連ある第一次的生得的規準は、有機体の(自我と他者の)属性として、
或いはパーソナリティーの(今一度自我と他者両の)属性として分類される
集合体は、第二次的なクラスに属しているとして除外される。物理的、そして
文化的対象は、同様に、除外される。社会的対象とそれらの関係とは別に、
それらは、明らかに、我々の現在の議論とは無関係である。文化的対象は、
内在化されて、パーソナリティーの一部であり、制度化された社会
体系のパターンであり、それらは、二次的である。物理的対象は(有機体
行為者以外)は、唯、間接的に関連がある。 それらは、つまり、関係的
規準に対象の彼の環境との空間的位置づけの場合のような関係の
の故に、巻き込まれるだろう。
それから、行きたいのクラス的と関係な名属性がある。前者は、彼の
生物学的、或いは時々そう表現されるように、”物理的な”特性である。
それらの2つは、それらの不変性と社会体系の或る種の内在的な
機能的問題との関連の故に、他からは際立つ。 それらは、性別と年齢、
もっと厳密に、生物学的名ライフ・サイクルの段階である。 全ての人間
人口は、性別によって2つに分類可能であり、2つのカテゴリー(無視出来
ない例外と共に)は、人間的個人との非常に重要な焦点を形成する。
年齢に対しても同様である。これら2つの外に、我々は、数知れない物理的、
身体的な特性の残余なカテゴリーに準拠するだろう。 それらは、身長、
体重、姿形、肌色、瞳の色、そして南君の或るカテゴリーの残りも含む。
行動にのみ、或いは主に明示されている特性、及び生理学的な基礎や
文化的に獲得された要素のみが、もしそうならば、洗練された分析に
よってのみ際立つところでは、有機体のそれ、例えば”知性”よりも、むしろ、
もっともパーソナリティーの特性として捉えられる。
関係的カテゴリーへ振り向けば、有機体の3つの一次的な関係的属性
があるように見える。それらは、第一義的に意義あるとして、つまり、
”生物学的立場”、空間的、テリトリー的位置づけ、及び性的再生産と
家系の、ときどき”親族の生物学的構造”と呼ばれる連鎖における自我
の他者に相関する位置を意味する。異性的再生産を通じた家系は、
本質的な事実である。 他者は、常に、自我と関係しているもし全ての
関係性が、特別な共通の先祖からの系統が関与する可能性と共に
追跡されるならば。 後続の章で義論されるであろう理由のために
生物学的立場は、全ての知られた社会において、親族として知られて
いる社会構造の焦点を定義している根本的に生得的な規準である。
テリトリー的位置づけも、等しく重要である。このことは、所与の時間
での有機体としての自我の空間的場所が与えられて、他者が位置づけ
されている空間における芭蕉の関係を意味する。対象としての自我
彼自身と共に、勿論、空間的場所の同一性は、それ自身非常に重要な
事実である。彼は、つまり、”彼自身”から空間的に離隔され得ない。
全ての個人行為者は、有機体なので、志向のこの焦点は、決して、
放置されることはない。 それは、何時も、暗示的に、もし明示的に扱われ
ないのであれば、そのに存在する。それは、常に、行為に対して”問題”を
創出する。 もし自我と他者が、視覚・聴覚から外れると、彼等にコミュニ
ケーションを可能にする特別な物理的機能、例えば、手紙や電話が
がある筈である。或いは、もしコミュニケーションが、自我の目的を
達成するに十分でなければ、彼は、なんとか位置づけられている場所
にいる他者へ”辿り着く”に違いないか、或いは一方か両者の位置づけに
変化をもたらすだろう。テリトリー的位置づけは、この文脈関係においては、
常に、行為者の有機体としての関係的属性であることは、全く明白である
べきだろう。過去の行為に明から影響され、行為の投企されたコースを
通じて変容に晒されるけれども、どんな時でも、それは、単純に、所与
の事実である。
関係的テリトリー的位置づけは、本来、全ての行為に入るけれども、
それは、2つの文脈関係において特に極めて重要な意義がある。 一つは、
位置づけのそれである。 どの個人行為者の惑割の多数もそれらの
時間-配分を含み、条件は、時間-区割が、少なくとも、それらの、例えば、
家族と職場のように、間で、転換のコースでの限定された空間的モダリティ
以上を許す程充分に長くないようなものである。このことは、個人」の行為の
”オペレーションの基礎”が、機会的手段での”通勤”は、その範囲をかなり
拡大するけれども、限定された地域的区域内でなければならないことを
意味する。このオペレーションの基礎の要請は、我々が、”地域社会”と呼ぶ
集団形成の基礎にある。地域社会は、そのメンバーが彼等の日常的活動
の為のオペレーションの基礎として共同の地域的領域を共有するあの集合体
である。
第二の極めて重要な文脈関係は、フォースの使用のそれである。フォース
は、有機体を通じて行為者に作用し、その自由を、例えば、モーション
やコミュニケーションを制限しつつ、或いはそれへ損害を与えつつ、
行為者に対してフォースを使用するために彼が在る処に、或いはそう
在りたいと思う場所において彼を”掴む”必要がある。 フォースは、行為
の阻止の究極的手段(死人は行為しない)なので、そして権力の構成素
としてフォースの使用は、社会において制御されねばならないので、フォース
の地域的組織化とその状況依存的使用は、、常に、社会の構造の焦点
となる。
時間関係は、有機体に関する関係的規準の第三のセットとして捉え
られるかもしれない。全ての行為は、勿論、そのメジャーな側面の一つ、
時間的シークエンスである。 相互行為にとって極めて重要な含蓄は、
他者への自我のインパクトは、常に、あのシークエンスにおいて位置づけ
されている。行為のタイミングは、常に、限定ないで可能であるが、しかし
行為のが―マンスされた時、その盛夏は、時間的シークエンスに他者の、
同様に自我にも”体験”の部分として、流入する。 自我は、従って、時間に
他者と、彼等が時間的連続体に共-存在するという意味で関係づけられ、
、
そしていずれかの相互行為志向の関連状態は、”その時”の状態である。
しかし、行為は、時間においてのみ。位置づけられ許りではなく、範囲を
広げる。過去の行為の結果は、状況的に与えられ、それで、常に、生得的
意義がある。 しかしながら、行為は期待を巻き込みつつ、将来へ志向
する。 ”どのぐらり〔時間が〕かかるのだろうか” そして”適当な時間は
いつか”というアセスメントは、どんな行為問題の将来的部分である
行為の構造形成の関係において、多分、これらの考察に解いての最も
重要な関連は、体系の道具的志向の激増に対してである。道具的体系が
複雑であればあるほど、目的として、現在において有意味な目的は、
多少とも遠隔な達成を可能にする。 道具的に精錬された社会体系は、
志向が高度にまで ”時間-拡大されて”いるそのメンバーは、単に、
”その瞬間のために”生きる訳には行かない。特に、自我に対する他者
他者の意義は、明らかに非常に重要な時間の次元を持つ。
さて、対象としてのパーソナリティー(自我自と他者の)に向かうと、
我々は、パーソナリティー特性の厖大な分野を持つ。それらを全く
第一義的な生得的規準として取り扱いことは、どの位正当であるかは
疑わしい、と言うのも、それらは、社会体系と余りにも親密に結び
つけられているからである。その故、それらが何処に分類されるべきか
には恣意的になる可能性が在る。 しかし、それらは、対策として、此処に
置かれるだろう。 分類的なカテゴリー内での最も重要な区別は、
パフォーマンスにとって第一義的に意義のある特性とそうでないものの
間にある。 前者は、パフォーマンスーキャパシティーと呼ばれるかも
しれない。線を引くことは、多分、文脈関係に関して難しいが、しかし、
それは、重要な線である。物理的強さや機敏さ、知性や責任のような
特性は第一義てきにある種の条件のもとで期待されるかもしれない
パフォーマンスの種類を定式化する方法である。 他方、快活さや”魅力”
のような特性は、特別なパフォーマンスとは比較的独立しているように
見える。
いじれにせよ、パフォーマンスのキャパシ―が、生得的基準として機能
だろう特性であることを強調することは、重要である。過去のパフォー
マンスが、屡々そうであるように、経験的基準として奉仕するとは言え、
当該の特性を持っていると見做されか、或いはそれを必要な不可欠な
程に持っている人は、一緒に分類され、このクラスへの所属は、いずれの
特別に期待されたパフォーマンスとは独立して、地位-生得の規準と
見られるだろう。確かに、一度、達成されると、いずれパフォーマンスも、
その成り行きにおいて、所与の状況の側面となり、それを成した人は、
それを成したその人の属性を持つ。これは、獲得と生得の間の或る種の
動態的関係の基礎となる。
パーソナリティーの”一次的な”関係的属性、つまり、今さっき議論した
ような種類の有機体の属性でもなければ、社会体系から派生した二次的
なものないことは明かである。このことは、パーソナリティーが、パーソナ
リティーに巻き込まれている関係的体系が当然のこととして社会体系で
あることともう一つの論じ方である。
二次的カテゴリーの生得へ向かうと、クラス的カテゴリーで最も重要な
ものは、地位-クラス、或いはカテゴリーである。地位の大きなプロポー
ションは、また、集合体のメンバーシップを含意する。が、2つを区分する
ことは、非常に重要である。高校の卒業生、或いは既婚の人々。或いは、
職業人は、例えば、地位のクラスを構成する。1つの地位クラスのメンバー
は、彼等の場所、或いは社会構造での”位置づけ”の共通の属性によって、
或いは決定因とか地位のシンボルのようなちいに関する共通の属性によって、
分類される。こうして、”裕福なひとびと”や”低所得者”は、地位-クラスを
構成する。そのような属性は、通常の感覚では、パーソナリティーの特性
ではないが、また、パーソナリティーの特徴が実際、地位-獲得の焦点に
されている時、線〔引き〕は明らかに不明瞭である。 しかし、一般的に云って、
地位-クラスのメンバーのパーソナリティー特性の変数性に余地がある。
地位-クラスのメンバーシップが区別されるには、2つの二次的な関係的
規準がある。”生態学的”体系と集合体のメンバーシップである生態学的
体系は、集合体を構成する連帯性の紐帯で統合されず、互いに対象である
行為者の多数の相互的に志向されて相互依存の状態を意味する。商業的
企業の”顧客”は、一般的に市場への参加者がする」ようなカテゴリーを
構成する。 他の事例は、コンテストの競争者。勿論、彼等の相互行為は、
”ゲームの規則”の体系に志向しており、そしてこれらの規則への彼等の
志向において彼等は、彼等を用語する集合体のメンバーである。この
カテゴリーの生態学的相互行為者にとって唯一の”制裁”は、目的達成の
失敗か自己の損傷を回避することである。 規則のみ、このように制度化
された特別な志向ではなく、そして、関連ある制度は、規制的で、関係的
はない。関係的カテゴリーとしてそのような参加者は、相互行為の同じ具体的
体系へ所属しなければならない。
集合体へのメンバーシップは、亦、二次的な関係規準である。そのような
集合体は、親類のグループや地域社会のように、一次的関係的基準で
構成されるだろうが、そうでなくてはならないことはない。メンバーシップが
個人行為者によって、生来的に負わされたのではなく、達成された処でも、
彼が、一旦メンバーになると、このことは、更なる生得の基礎になる。
我々は、対象か、或いは区別的志向の獲得規準へ向かう。そのような
規準は、対象そのものの所得の状態の属性ではなく、、実際な、或いは
期待された特別なパフォーマンスに準拠する。意義ある側面は、状況依存的;
彼が何〔者〕であるかは、十分ではなく、このことに加えて、極めて重要な
ことは、行為者が何を行うかと言うことである。評価は、常に、生得的に
与えられた基礎に相関する。行為者は、もしくは、良かれ悪しかれ行為
になっても良いが、焦点は、彼が実際に生得的に基礎においてでなく行為
ことに、ある。
行為の理論に本来的なこの可能性は、相互行為の最も基本的な分析
から、自我のすることに対する他社のリアクションの状況依存的要素への
強調とともに、明白である。それで、達成志向は、二重の状況依存性を
結果する。 二次的状況依存性の追加を通じての達成的〔志向〕に
関係する。期待は、”私は、何〔者〕かであるので、私の他者の扱いは、
後続の選択肢の1つを取らねばならない”のではなく、私に開示されて
いる幾つもか選択肢のどれをと取るかに依るので、私は、他者に私の
行為に志向されている彼自身の選択肢体系に関して彼がりアクション
するだろうものへの問題を設定するだろうということである。生得-獲の
パターン変数を行為の理論全体で極めて重要にするのは、相互行為の
根本的への関与である。
下位-分類の問題にアプローチする際、為されるべき最初のリマークは、
有機体に関する一次的な獲得規準はドロップ・アウトすることである;獲得は
行為者としてのそれらとして特別に定義される。しかしながら、パーソナ
リティーの特性とパラレルして、志向のための二次的規準溶離も、むしろ
一次的として個人行為者の獲得を扱うことがk最良に思える。このことは、
行為者として考えられる集合体の達成を、二次的獲得の焦点として〔機会を〕
譲るのみである。そのような集合体的獲得は、勝利した試合の記録や
ビシネス企業の利益は、丁度、それに当たるだろう。
次の重要なポイントは、獲得規準そのものは、この場合の本質においても
いつも、クラス的であり、決して関係的ではない。それらは、常に、分脈関係
から中質可能であり、普遍主義的規準によって”尺度”される。 達成の
第一義性は、獲得の規準が直接に応用可能な限り、いつも、普遍的で
ある。しかしながら、若干の困難が、この文言の解釈にある。パフォー
マンスは、何時も、目的に相関する; パフォーマンス規準は、従って、
有効性、効率性、経済のようなタームにおいて手段や条件の所与の目的
との関係へのそれらの直截な黄葉に制限される。それらは、このように、
道具的志向へ内部的に制限されている。しかし、道具的志向は、具体的な
役割体系の構成素だろうから。それは、網羅する必要はない。目的自身
が定義される価値-志向は、普遍主義的である必要はない。従って、普遍主義
的価値のタームにおけるパフォ―マンマンスのようなものがある。 更に、
パフォーマンスのものが制裁の体系に巻き込まれるだろう、そして、他者の
パートは、目的の一部であろう。それらは、他者における表現的志向である
だろう。このように、多くの場合、上記の前進の意義が適当にアセスされる
前に解かれる内在的ウエブがある。
これの特定的に重要な場合には、二次的なタイプへ獲得規準、即ち、
集合的獲得、つまり、行為者としての集合体に帰することが可能な獲得
である。集合体のメンバーシップは、我々が既に見たように、本来的には、
関係的特質である。これは、集合体とのかんけいにおける”責任”の
の役割の構造に対して若干の含蓄を持つ、即ち、集合体と相関する
拡散的責任の役割として定義されるだろうリーダーシップ〔に対してで
ある〕。その責任生の焦点は、常に、一つの感覚で、関係的関与の故に、
特定主義的である。とは言え、しかし、リーダーシップの役割は、獲得
志向的であり、それは、目的を与えられて、普遍主義的タームで測定
される”成功”であり、それらは、或る感覚で、”集合体の福利の昇進”
包含しなければならない。
達成価値とそれが制度化されている社会体系の構造に対する価値-
志向体系の含蓄をアクセスすることが必要であるということは、これらの
ような考察の視点においてである。 価値-体系の特定主義の構成素は、
それへ獲得価値が正統に応用されるであろう目的の選択に厳格な制限
を置いてである。何よりも、強調は、集合体に対する責任を巻き込む集合体
的獲得と役割に投げられる。これは、例えsば、我々自身の個人主義とは
区別される伝統的な中国の価値の”集合主義”の背後にある。
要約すると、我々は、生得-獲得変数が、社会体系における志向の対象
としての潜在能力として彼等自身の志向が分析される予定の行為者と
しての潜在能力が区別された、恋者の分化のメジャーな中軸を定義する
と言ってよいだろう。社会体系の全ての地位は、個人行為者によって
開始されねばならないので、生まれたという事実によってのみそうならば、
最初に、これらの規準は、行為者が社会体系の地位と役割を分類する
ことに関連がある。 このように、それらは、視覚性の規準を定義し、
従って、それは他者に対して、自我がどの役割で現れるかそうでないか
ということである。 このように、一旦行為者が役割占有者となれば、
一つの役割内の異なる取り扱いのパターンを定義する。それらは、
選択肢評価の間を決定するための期待の定義の焦点である。それらは、
どの局面で対象としての行為者(再び、自我と他者)が対象として、
自我の志向に関連している感覚で、意義あるかを定義するための
枠組みを構成する。
⁂ 集合体の連帯性
我々は、今まで、役割複合体船体の構想を扱ってきた。最初に、期待の
志向的内容のタームにおいて、そして次いで、志向の特質とパフォーマンス
の対象の基礎的なモダリティーの間のものとしての選択に関して、そのような
複合体を構成する異なる役割の分化を取り扱った。それは、社会的相互
行為の体型に参加者の価値-志向パターンの特定の共同性の問題の
関連の議論が残されたままであることを意味する。このことは、そのような
体系の統合の一つの第一義的側面を構成する。
ひとつの側面や感覚においては、勿論、どの実際に実存する体系も、
その部分がなにほどか”噛み合わ”ねばならないように”統合される”。
これは、他のタイプの社会的相互行為の体系に同様と言う感覚で、
同じである。 更に歩を進めると、我々が見たように、社会的相互行為と
言う体系にも規範的側面がある。例えば、コミュニケーションを支配する
認知的基準や、或いは表現的シンボルの敵切さを支配する鑑賞的基準
であろう。しかし。現在の関心は、統合の次の”より高度の”レヴェルの
の関係的な、或いは社会体系関連における"道徳的な"ものに在る。
このレヴェルでは、相互行為だけの事実では、決定されない。或いは、
より一般的な感覚での共同価値の現前によって、所与の志向-選択肢に
関して”道徳的事題”が関与しているか否かは、決定されない。 問題は、
純粋に、効率性の道具的なもの、或いは適切な対象線引きと態度の
表現的なものであろう。 道徳的な事題の二者択一肢が、統合性や連帯性
それ自身が価値で或る時の相互行為体系の”統合性”や”連帯性”
との関連の前提を巻き込む時のみ、ある。 パターン変数の第五番目は、
社会体系の統合に関するこの二者択一肢の概念化を構成する。自己-
の場合が、その場合であり、そこでは当該の選択において選択された
二者択一がそうであると感じられるか、行為の価値づけられた社会体系
の統合性が関わる限り、関係が無いとして定義される。他方、集合体-
志向のそれは、そのような統合性が巻き込まれていると定義される処に
あり、1つのサイドを選ぶ行為者、だから、単位としての体系と参加メンバー
彼の責任を侵害している。この感覚で行為体系が、連帯性➅を巻き込む時
のみ、そのメンバーは、体系それ自身の統合性の関心において要請された
➅ この感覚で、社会的道徳性と連帯性を定義するパターン
の現在の概念化は、サムナーのモーレスの概念と
デュルケームの道徳強要のそれに一致していることは
はっきりしている
として、また、他者を統合性と合致しないとして--制裁がこの定義を
巡って組織される結果と共に若干の行為を定義する。そのような体系は、
”集合体”とウオバレるだろう。集合体-志向は、言わば、”信用の問題”
である。”君は、我々のひとり〔仲間〕か、どうなのか? この問い
に対する君の態度が決定するのだ。”
連帯性は、この感覚で、その概念が上掲で定義されたように、”忠誠心”
を超える一歩を踏むことを含意する。 忠誠心は、言わば、連帯性の
制度化された前兆である。 それは、制度化された、或いは合意された
義務の境界を超えた他者の関心や期待に同調する動機づけの”溢れ
出し”である。集合体-志向は、他方、この”性癖”を役割-期待の制度化
された義務へ転換する。 それから、行為者がそれを好むと否であろうと、
彼は、若干の方法で行為するよう義務付けられ、もしそうしなければ、
否定的な制裁の応用の危険に冒すことになる。
連帯性と集合体との概念の相関性と、それから、自己-集合体の応用
可能性を明らかにすることは、非常に重要である。限定された場合のみ
集合体全体的個人として人々の集合を構成するだろうーー完全な自己-
生存的社会のそれを、この場合のタイプは、むしろ、相互補完的な的な
役体系、例えば、部分的な社会体系として組織された、特定な相互行為
体系の参加者としての集合である。 従って、行為者は、彼が役割を持つ
出来るだけ多くの集合体のメンバーであるだろう。ーーその数には本来的
制限はない。集合体の人材に関して、幾らかは、全く重複なしに、分離
しているいるだろう他者は、共通のメンバーと重複し、まだ他者は、
多かれ少なかれ、包括的な集合体に関わる一方、重複するということ
である。此の国では、町や市の居住者は、また州の居住者であり、
順次、合衆国の居住者である; 彼等は、政府的組織のこれらの
3つのレヴェルの各々で”市民”の役割を持つ、つまり、3つの集合体
全てのメンバーである。
あらゆる役割は、それが制度化されている限り、連帯性的義務を含意
する;それは、つまり、少なくとも1つの集合体へのメンバーシップを伴う。
しかし、役割の中の特定な志向においては、そのような義務は、関与しない
かもしれないし、そうでもないかもしれない。志向的二者択一肢の範囲は、
自己-志向の概念で定義され、それらは、集合体-志向によって誘発される。
それで、身近な事例は、市場の参加者が、集合体、”法の規則”を持つ州、
メンバー〔である場合〕。 彼等への幾らかの制限内での交換の、実際的な、
或いは潜在的な相手への特定的な志向においては、彼等は、特定の価格
例えば、特定の価格についての合意の交渉に関して、”自己-志向して”
いるだろう。しかしそれらの制限を超えると、連帯性の義務は、幾らかの
共同の規則へのコンプライアンスを主張する形で誘発されるようになる、
例えば、商品の本質についての不正表象を慎むことに関してそれらの規則
を遵守する義務は、全体的役割の集合体-志向の要素である。市場関係の
”自己-関心によって支配されている”と言うことを、我々は、そのような
規則(公式的と非公式的)のセットで定義された許容性の範囲の内部で、
決定が、連帯性的義務とは無関連な、或いは無関心なとして扱われる
土台において為されることを意味する。極めて重要なポイントを反復すると;
全ての制度化は、他の価値と同様に道徳的価値を巻き込む。従って、
集合体の義務は、あらゆる制度化された役割の側面である。しかし、
志向-選択の幾らかの文脈関係において、これらの義務は、潜在的である。
しかし、一方、他においては、それらは、行為者がそれらの価値と同調する
か、侵害に行き着く否定的制裁を受け入れるいずれかの選択に直面する
という感覚で、”活発化”する。
集合的-志向、或いは連帯性的義務の特定な応用可能な潜在性の
もう一つ他の側面がある。 しかし、それは、もっと広く関連がある。
多くの義務の幾らかの特別な状況的条件において状況依存的である。
そのような条件が不在な時、それらは、潜在的のままである--例えば、
教授は、教える義務がある。 彼を夏学期しか知らない、そして彼が
教えるの見たことのない観察者は、彼が、教えるべき義務を怠っている、
或いは”それを認めない”と結論することの資格は、明らかに、無いだろう。
大学が、”学期中”でない時だから義務が、潜在的だということに過ぎない
のである。従って、義務の認識のテストは、唯、それが適用する特別な
状況ににおける行為者の反応である。勿論、二次的な、しかしいつも
信頼出来るわけでもないてすとは、”かくかくしかじかの状況で君は、
どうするか?”というような疑問に対する言語的反応である。
集合体-志向の期待への同調は、集合体のメンバーとして”責任”を取る
ことと呼ばれるだろう。しかし、それらは、”1つの単位として”、或いは
”調和して”行為する集合体を構想するための精錬の更なる一歩である。
そのような行動は、潜在的感覚で、何れの7集合体の構成的特性である
ーー 最小限度、どんなでも、決して”それ自身を防衛し”ない、つまり、
その統合性に対する脅威への抵抗の幾らかの種類を動員する〔と言う意味
で〕、現時点の集合体と呼ぶことは出来ないだろう。 しかし、幾らかの
状況では、調和した行為のこの潜在的な特性は、動員されるか、活発化
するだろう。
表現的関心が、連続的な調和したへの志向において第一義性を持つ
集合体は、より良いたタームに掛ける故に、ゲマインシャフトと呼ばれる
だろう;道具的関心が第一義的なものである。何れのタイプも明示的な、
且つ定式化された規則と集合体的行為(規則の解釈と実行を含む)の
実施の分化された機関を持つ限り、それは、アソシエーション*である。
* この用語集は、マックス・ウエーバーのそれと同様であるが、
幾らか修正されたヴァージョンである。社会的そして経済的
組織の理論を参考されたい。
集合体の組織のアソシエーションのレヴェルに達すると、そして、或る程度、
この事を欠くと、それは、確かに、単位としての集合体、同様に第一義的
分業と呼ばれるだろうそれら〔集合体〕に関して役割の内的な分化を巻き
込む。この分化は、”調和した行為”の可能性に相関する”責任”の軸に
関して、これは、内部的には、リーダーシップの役割と呼ばれるだろう。
特別的な関心が、集合体とそれ自身の外部のメンバー、他の人々と集合体
関わる時、それは、”代表者的”役割と呼ばれるだるう。
本章での分業の議論のタームでは、協働的行為体系への寄与に関して、
特別化の相異には多くの余地があるが、リーダーシップの役割は、常に
拡散的である。 この時点での責任は、専門家された機能の効率的な
パフォーマンスに決して限定されない。 しかし、集合体的目的の関心に
関する様様な要因や状況依存性を協同することを或る感覚で含意する。
この議論に巻き込まれた非常に多くの逆機能のように、この事を巡って
重要な相対性がある。 しかし、技術的目的から区別される関係的
文脈関係への焦点は、 リーダーシップ、或いはエグゼクティブの基本的
規準である。
完全に制度化されていない流動性の限られた極では、社会的相互行為の
体系は、現在の議論の技術的感覚においては 集合体も全く関与しない;
唯、生態学的複合体なだけであろう。しかしこれは、はっきりと限られた場合
である。 実際の社会では、いずれも、それに近づくアプローチは出来ない。
そうすることの出来る具体的に関連する事例は、制度化された社会内の
部分的な社会体系の幾らかのクラスのみである。そのような集団は、それ
自身に特別な制度化された構想を未だ達成できないだろう。従って、それは、
それに対する自己-集合体志向の変数に相応するということは、分からない。
この事例は、より大なる社会体系の集合体-構造が、常に、多かれ少なかれ、
この観点で社会は大きく異なるけれども、流動的であるという事実に注意を
促すとして経験的に重要である。 しかし、旧い集合体の解体と新しいものの
形成の継続的過程の一つである。勿論、それは、集合体の内で、その同一性
を破壊しない変化の過程も亦あるべきであることを除外しない。
或る感覚で、社会体系は、上述の限られた場合を除いて、一つの集合体
として見做されるだろう。しかし、もっとより重要な感覚において、社会は、
どの全く完全に複雑な部分的な社会体系でも、隣接して重複しつつ、より
大きく-より小さく集合体のネット-ワークとして見做される。集合体の概念は、
下位-構造の最も重要なものの一つとして、そのような体系の全体的な
特徴づけのための名称としてではなく、紹介されたのである。
⁂ 社会的価値-志向のタイプ
本章の素材の組織化の主要なスレッドは、パター変数と関係体系の
構成素の組織化の異なる様式への応用性の文脈関係であった。 結論として、
我々は、この素材を5つの変数全てが、役割-志向を定義する価値-パターン
の分類を始めるに、如何に使用され得るかを表すことに依って、再び、寄せ
集めるだろう。 それは、テーブル2で行われている。分類のテーブルの
組織化は、或るコメントを要請する
パターン変数が、一般的な行為スキームの文脈関係において見られる時、
それは、相互的な相互関係に陥る。 つまり、それらは、単純にリストを
構成擦るばかりでなく、重要な体系的な相互関係を持つ。そのスキーム
には、或る種のシンメトリーがある。 それは、2つの主要な側面の意義を
持つ。軸を巡って回転する。この軸は、一方では動機づけ的志向、他方では、
文化的志向の間の対極性のそれである。
テーブル2a
価値-志向の構成素の組み合わせのタイプ➆
メジャーな社会的価値-志向
➆ 単純の為に、自己対集合体志向のパターン
変数はこれらのテーブルからオミットされた。
全体的スキームへのそのシンメトリーな関係の
故に、それは、テーブル内のどセルも下位分割
するために使用され得る。
普遍主義的獲得の 特定主義的獲得の
パターン パターン
A B
他の行為者との相関で 相対的な、乃至は行為者が
普遍主義化された基準と 巻きこまれている特別な
一般化された規則と一致 関係的文脈関係を代表する
獲得 アクティブな期待. 期待のアクティブな獲得.
Ⅽ Ð
普遍主義的生得 特定主義的生得
パターン パターン
普遍主義的規範に対する 所与の関係的分脈関係での
行為の志向の期待、理想の 生得的な地位に対する行為の
状態、或いは現存する社会の 志向の期待.
地位-構造に具現化されて
いるとして定義される〔期待〕.
一般的な行為体系の準拠点の、この対極性は、次のレヴェルのそれらの
具体的構造に向かって”下降した”次のレヴェルの派生に反映されている、
即ち、パターン変数において、それらの2つにおいては、準拠体系の一つの極
に、そして2つは他に、特定な関連にあり、そして五番目は、いわば、”中性的”
である。 これらの関連は、チャートⅠ*で概略図される。
* 翻訳者注: チャートⅠ及びテーブル2a 以降の各テーブルは、
本章末尾に一括して掲載する積りです。
ご了承ご了承下さるように。
本章の最初のセクションは、異なる関係的体系における行為-志向のタイプの
組織からの社会的下位-体系の幾らかの基本的タイプを組み立てた。この
分析は、動機づけ的志向の極から出発した。それは、最も基本的なレヴェル
ではなく、第Ⅱ章で、文化的要素と共に組織されたそれの評価的な行為-志向
である。情緒性と中立性の2つのパターン変数は、動機づけ的焦点に最も直接
に関連しているものであり、そのレヴェルにおける価値-志向関連のキー・ノート
と言えるだろう。 普遍主義-特定主義の変数は、だから、これらの志向の
構造形成への更なる特定化を導入するとしてもたらされた。なによりも、道具的
志向における認知要素の第一義性へのその関連の故に、一旦、目的が
されていると想定されるならば。
この考察は、以降の第Ⅴ章で議論されるようパーソナリティーの構造との
関連に組み合わされて、この変数のこのペアーを一緒にすることを正当化
するだろう。確かに、それらは、パーソナリティーの欲求との関連で、行為の
組織の中芯軸として考察されだろう。 即ち、第Ⅱ章で議論された社会体系
の機能的必須要件の問題、秩序のホッブス的な問題の第一の文脈関係
においてである。 それらは、2つの根本的局面のバランスの必要がある。
一方では、行為者は、充足を待たねばならない; それなくして、彼は、生存
することも、社会的役割のパフォーマンスに対して妥当に動機づけられない。
他方、彼は、亦、訓練をうけねばならない。彼自身の長期に渡る充足-剥奪
バランスの関心と彼の役割-パフォーマンスのそれ、社会的関心の両者に
おいて〔訓練を受けねばならい〕。第二に、心理学的準拠において、特別性-
拡散性の変数は、先ず、拡散的な忠誠心を定式化するが、しかし、同時に、
逆に、それは、そのような忠誠心への制限の必要を道具的パフォーマンス
と統合され得ない種類の充足の関心においてである。集合体との関係で
連帯性は、拡散を巻き込む集合体への責任のその拡散性は、制度化の無い
の忠誠心 の制度化されたカウンターパートである。
我々は、社会体系の文脈関係を、一般の行為ではなく、扱っていることを
銘記しなければならない。 それ故、我々にとって、これらの2つの変数は、
行為者として社会体系を作成するパーソナリティーの欲求と潜在能力を
社会体系とそれ自身の構造の間に媒介する機制に関わる。
しかし、これは、構造的分化と社会体系の変数性の基礎にも同じである。
或る感覚で、従って、第二のペアは、構造的タイプとして社会体系の変数性
の分析に第一義を持つ。 そして第一のぺアの組み合わせは、謂わば、
所与の社会が所与の方法で第二のペアに関して構造されたという事実の
結果である。 他方、順応的なパーソナリティー問題の、そして所与の社会
体系内のこれらの現象の変数性の分析には、第一のペアが第一義性を
持つだろう。
最後に、第五番目の変数、自己-集合体-志向は、真中に位置づけられて
いる。これは、それがそのものとしては、 第一義の構造的意義を持たない
からであり、むしろ、その意義は、統合的にあるからである。 確かに、他の
ものがそうであるように、それは、社会体系の構造の一つの構成素である。
さもなくば、それは、此処に属さないだろう。 しかし、この変数の準拠点は、
社会体系にとって”内的”であり、それらは、謂わば、関係的であるが、他の
4つの変数の準拠点は、社会へのそれらの組織化に論理的に先立つ
行為-構成素の特色に準拠するという感覚で、”外的”である。
これらの理由の為に、普遍主義-特定主義と生得-獲得の変数の可能な
組み合わせは、社会的な価値-志向のメジャーなタイプの分類を生み落とす
として第一義性が与えられる。テーブルの最初の部分の小セルの各々は、
しかしながら、単純な小セルとしては見做されず、5つの変数の極的価値の
全ての組み合わせの32の可能性を特別化する 全リストの8つの小セル
の”ブロック”の為の要約的な支持である。 しかしながら、社会構造の
分類の殆どの目標の為に、これらの後者を4つのメジャーなタイプの
”下位-タイプ”として見做すことを正当化するようにおもえる。 このポイントは、
しかし、強調され過ぎるべきではない。 最も重要なものは、分類それ自身
行為の構造の最も一般的な体系と社会体系におけるその精錬から体系的
分類を引き出す可能性である。それは社会構造と結局は社会の可能な
タイプの分類の根本的出発点を構成する。しかしながら、それは、そのもの
としてそのような分類を構成しない、何故なら、それは、価値-志向の要素だけ
を包含し、社会体系の残り構成素を考慮しないからである。
4つのメジャーなタイプの各々についてのコメントが、或る種類の具体的な
関連に分類を与えるように、準備されている; より全き議論は、大セルⅠ
にリザーヴされている。 ”普遍主義的獲得パターン”は、支配的なアメリカ的
エートスは最良の事例である。普遍主義と生得-志向の組み合わせは、
普遍主義的に定義された目的-達成と特定てきな目的を達成するために
持続する動態的特質に第一義てき強調を置く。 それは、一旦、達成されると
永続的に維持される筈の”最終の”目的状態を強調するのではない。
獲得と価値の普遍主義の組み合わせは、過程、つまり、目的-体系を
流動的にしつつ、手段ー選択と目的-選択に第一義的な普遍主義的な
アクセントを置く。その感覚で、プラグマティズムの哲学は、この志向を
典型である。
他方、普遍主義が、大セル3における生得的強調に組み合わせられる
”普遍主義的生得パターン”を構成するために、普遍主義的基準の第一義的
関連は、特質-理想の有効性へ移行する。焦点は、理想の状態の成就であり、
それは、一旦、成就されると、永遠に有効であると考えられる。しかし、普遍
主義的要素は、ストレインの要素を導入する、何故なら、その主要なライン
において 社会体系の如何なるステータス・クオも鋭意に定義された理想
状態と同調すると維持することは、殆ど可能ではない。 それ故、理想と
現実の二元論である。大まかには、”理想主義”とドイツの文化的理想は、
このパターンに同調する。
我々は、大セル2へ移動すると、”特定主義的獲得パターン”と呼ばれる
特定主義と獲得の組み合わせには、理想と現実の間のテンションの大なる
緩和がある。 何故なら、焦点は、もはや、絶対的な理想状態ではなく、
所与の動態的な関係的体系の上にある。 しかし、獲得へのアクセントと
共に、これに対する行為者の関係は、”動態的”に考えられる。それは、
”自動的に来る”ものではなく、獲得されねばならないものであり、もし、
十分な注意がはらわれなければ、劣化し、再-獲得されねばならない。
優れた事例は、古典的な中国の文化的パターンである。儒教的な中国では
とりわけ道徳性、即ち、継起的な関心として所与の社会構造の維持への責任に
関心があったという共通の両方とは対照的に、マックス・ウエーバーが言った
ように、”世界への適応”のドクトリンで、”世界に対する制覇”のドクトリンでは
ない。
最後に 生得と特定主義の組み合わせは”、特定主義的な生得的パターン”
と呼 ばれるだろうものを産み出す。此処では、秩序は、より過激な感覚て
与えられる。人が、それに対して彼が責任を持ちえない秩序内で、彼の
行為を適応させるとして考えられる。従って、アクセントは、社会秩序を演じる
ための”ステージ”として使用しつつ、表現的機会を最大限に造るのである。
スパニッシュ・アメリカのパターンは、このタイプに非常に近接している。
これら4つのタイプの間の1つか2つに興味深い関係が注目を引くだろう、
第一に、それらは、大セル3,1,2,4、として 高から低へ大雑把に置かれる
だろう”テンション”の秩序を含意する。しかしながら、この秩序は、変化する、
焦点が、社会体系そのものへの責任、つまり、アクセントが集合体-志向
である時に。此処では、2つのペアがあるように思われる。 大セル、2と3は、
体系そのものが注目の中芯にあるが故に、そのような責任に、強いアクセント
が置かれる。 他方、大セル、1と4は、よりもっと”個人主義的”であるが、
しかし、2つの場合、非常に異なるタイプのものである。最初の場合、それは、
”目的-獲得”的個人主義のようであり、大セル2のように、特定主義的中枢
ではなく、獲得へのあくせんとが、いずれの感覚でも、体系へ獲得する単位
を従属されることを除外する傾向がある、絶対的な理想は欠けているという
ことで。大セル4の場合、他方、個人主義は、所与として扱われる枠組みの
中でも生起するので、表現的焦点を持つ。
この性格の関係性は、後に、更に議論されるだろう。しかしながら、次に、
それらの文化的理想のパターンを、社会体系の機能的問題との関係において
それらの適応的な文脈関係に位置づけることは基本的である。非常に大雑把に
社会体系のタイプの分化は、文化的価値パターンの分化にまさに相応するが、
しかし、大雑把にのみである。実際の社会構造は、価値-パターンタイプでは
なく、社会体系の他の構成素との価値-パターンの統合の結果として生じたもの
である。
第Ⅳ章 社会体系の構造、Ⅱ:
構造的分化と社会のヴァリエーション/変様態に対する
不変な準拠点
前章は、我々を、操作している社会体系の構想へ向かって一歩前進させた。
それは、そのような体系のより基本的な構成素をのみ扱う代わりに、第Ⅱ章で
見たように、これらの基本的構成素が如何に関係的複合体や集合体へ組織され
得るか、そして、これらの複合体の構造が社会体系の結晶化の焦点を巡って
如何に変容するかを示した。
この議論の標準は、上で定義されたような社会、即ち、潜在的,或いは
”原則” 自己-生存的な社会体系である。これは、本質的である、何故なら、
この規範に準拠してのみ、全体体系の分化の問題は、分析され得るだろうから
である。しかしながら、分析の結果は、それが部分である社会と限定された社会
の残り部分に関連するその境界線に内に満足のいくよう”位置づけ”られ得る
ならば、いずれの部分的な社会体系にも応用されるだろう。
我々は、まだ、もう一つセットの準拠点、社会体系の構造的分化の機能的
諸焦点を分析することから出発しなければならない。これらの準拠点は、
具体性のレヴェルで上掲で扱われた行為-志向の分析の準拠点の、そして、
前述の分析が設定されるだろう多くの特別のコネクションの派生物として
見做される。
⁂ 社会構造の結晶化の諸焦点
社会体系は、その構造的に意義の或る構成素に関して分化された体系である。
我々の目標の為に、我々、分化されたものが、非常に多くの先行の議論が
関わった。構造の単位、行為者の対象-意義、同様に彼等の志向-パターンを
包含する役割にである。それ故、分化さた体系としての体系の分析の根本的
その内で役割が分化され、そして、順次、それら分化された役割が、機能する
体系を形成するよう一緒に統合され、つまり、”メッシュ”される方法に関心を
持つ。 同時に、分化されるのは、役割だけではない。 個人的そして集合体的
行為者は、社会体系の様々な役割と役割-クラスターの間で分配されねば
ならない。更に、役割が、道具的志向に含意する限り、設備がなければならず、
そして、それらが、表現的志向を含意する限り、報酬がなければならない。
社会体系の分析は、2つの主要な表題の下に、扱われるだろう。第一に、
それは、分化された役割の体系であり、分配を構成しているとして一緒に
これらの各々は、順次、議論されるが、先ず、分配の第一義的を巡って
二・三の言葉が記される必要がある。
分配は、記されたように、本質的には、経済の概念であり、此処では、使用
されているように、社会体の”経済的”側面に関わるが、しかしこれは、経済学
の分野で慣例的に捉えられるよりも幾分広範な感覚で扱われる。基礎的な
概念は、いつも需要に相関的な希少性のディレンマである。即ち、”一度に
二つは望めない”というより一般的なディレンマの変様態であり、或る観点
からは、両方が望まれる2つ、或いはそれ以上のものの不一致性である。
分配の最も明白な事例は、軽量化出来る実体であり、それらは、クレームを
と請求者の間で分割される。お金は、勿論、この場合である。と言うのも、
”いくら?”という質問は、完全に曖昧ではない意味を持つからである。しかし、
計量化が達する処でも、格付けのレヴェルでだけであり、本質的には、同じ
基礎的な問題が生じる。
社会体系内部での役割-タイプの分配は、体系内部での”移動可能な”要素
配分の3つの問題からは、分離されている。しかしながら、この分配の配分的
側面には、或る感覚で、3つの配分とは反対なものがある。 役割は、社会体系
の機能形成の視点からは、体系の基本的な必須要件が充たされる第一義的
規制である。社会体系におけるf体系に相関する役割と機能の間には、有機体
の期間と機能の間にあるような同じ秩序がある。請求者の間で配分されるべき
役割の本来的に限られた供給は、記されるべき幾つかの例外を除いて、ない。
しかしながら、もし、役割が社会体系の不可欠な機能に奉仕するならば、それは、
占有者の潜在能力と必要に適応されねばならない。役割構造は、所与のセット
を彼自身の活動に組み合わせする同じ個人の可能性のような条件に適合
されねばならない; 例えば、時間制限に関して、価値動の地理学的位置づけ
に対て、心理学的適合性に関して、同じ役割の占有者から決定的行為と
反映的志向の両者を要請され場合のように、である。
そのような条件に晒されて、体系にとって基本的な、様々な機能のパフォー
マンスは、それらの役割のパターン形成を通じて、体系の人々との間で、
配分されるようになり、そして指摘されたように、人間的資材へ適合されねば
ならないが、しかし、より大きな規模の社会体系では、役割構造それ自身が
より安定した要素であるというまさにその理由で、殆どの目標にとって、我々が、
既に、区別した3つの分配過程の分析のためのメジャーな準拠点として所与の
役割構造を考察することがより便宜である。
人々の間に役割-内容の分配に相関する特別な希少性の側面がある。 所与の
体系において、タイプのレヴェルの分化と共に、もし、役割の機能が社会体系に
相関して専門化されれば、同じ体系における役割の個別なクラスの無限定な
数に対して”余地”は無いだろう。この局面においては、約割のタイプの間に幅広い
変様態がある、経験的にいつも事例があるように。もし、社会化が、概して、
親族を巡って組織化されるならば、夫婦家族〔核家族単位がその社会体系に
あるだけの多くの母親の役割に”余地”が必然的あるだろう。一般的に、その社会
大人のカップルの数に近づくような;換言すれば、実際的に、どの成人女性も
母親の役割に対して”資格がある”だろう。しかし、分配の他方の先端では、同じ
社会の数に対して極端に限定されるに違いない幾らかのタイプの役割が、そ
の性質に関して、ある。 それらは、本質的に2つのタイプがある。 一つは、責任、
或いは威光、或いは両者の規模における”頂点”に近い役割のタイプである
ーー例えば、一時期に、一人のアメリカ合衆国の大統領しかありえない --
他は、他の局面で極端に専門化された役割のタイプーー それ故、関連ある産物
やサーヴィスの”市場に厳しい制限がある。 一つ実例は、理論物理学者の役割
である。
異なる方法で人々の間で分配された同じ社会の異なるタイプの存在は、
勿論、また、体系の相互的な適合性によって、それらがメッシュしようとも、
葛藤を起こそうとも、制限される。 しかしながら、それは、統合的であり、社会
構造の問題の配分的側面ではない。
役割タイプのこの配分は、それ自身体系としてn社会体系の基礎的構造である
ことを我々は、指摘した。この構造は、どのタイプの役割をそれが造っているか、
どの比率で、どのように”クラスター”に分配されたかのような質問への返答に
よって記述される。しかし、社会的体系の構造を発展するために、この役割構造
を社会体系の3つの配分問題-焦点に関係づけることは、非常に重要である。
これらの第一は、人材の配分②である。パーソナリティーの分析の視点
からは、役割は、行為者に配分される。しかし、社会体系の視点からは、
第一義的配分の問題は、逆。役割-体系内部の人材の”流れ”の規制である。
②行為者としての集合体は、また制限内で、単位としての
配分に晒されている。しかしながら、以下の議論は、個人
行為者に限定されるだろう。
2つの過程が、新しい社会構造の発展におけるように一致すべきである
こ とは、勿論、可能性である。しかし、より大きな、安定した構造は、明らかに、
人間的個人のライフ-スパンを、或いは所与の役割の専有性に似合うそれの
セクターを超越する。社会構造は、相関的に安定したものでさえも、亦、
変化するが、しかし、変化のリズムや周期性は、個人のライフ・サイクル
のそれらとは、同じではない。継起的な社会体系の視点からは、従って、
社会体系の役割における人材の配置転換の連続する過程があるに違い
ない。殆どの場合、このことは、一気に生じるわけではないが、安定性には、
本質的で、殆どそうならないが、にも拘らず、それは、常に、継起的である。
所与の個人を巡る配分の”決定”は、彼が出発するつもりの場所に、勿論、
関わる。このことは、全ての既知の社会では、彼が所与の性別の幼児で、
そして、子供として特定の規準の親族単位における特定立場に産まれて
いるという事実に依って決定される。この初期の配分基準は、従って、
年齢と性格に関して、生得的であり、分類的であり、考えられる親族単位
のメンバーシップに関して多分、変化され得ず、そして関係的である。
何故、親族的な生得が普遍的であるかは、経済的問題を構成する。
全ての社会の幾つかの局面では、そして圧倒的に幾つかでは、出生
による地位は、ライフ・サイクルを通じて配分が基準として継続する。
しかし機能的高度に意義ある幾つかの局面において、全ての社会では、
ライフ・サイクルのコーズにおいて地位変化のシリーズがある。その
シークエンスは、生得的に前もって決定しているかもしれないし、そう
でもない、つまり、選り分ける過程が、様々な段階で生起する選択-点
あるかもしれないということである。
出世による地位と役割の分配がその典型的な場合である自動的な生得
機制の外に、2つの他の原理的に関連のある可能性があり、 第二のものは、
メジャーな下位-タイプになる。第一のものは、他の人々の明示的な決定の
配分であり、任命の体系と、通常、呼ばれている。
第二のものは、計画されない、選択的過程の結果としての配分である。
そのような選択的過程は、多かれ少なかれ、競争的である。 或る一つの
下位-タイプでは、或る立場に偶然到達する人々は、自動的に選択されて
いる。 他の下位ータイプにおいては、行為者は、位置的な努力の目的として
所与の役割-地位を”得よう”とするのであり、彼は、彼の目的へ到達するために、
彼の競争相手に勝ち負かさねばならない。競争的配分と呼ばれるだろう。
後者の典型的な事例は、勿論、市場状況における経済的競争である。
これらのタイプの3つ全ては、社会体系へ継続的に巻き込まれており、
様々な組み合わせにおいて生起する。任命制による配分は、非常に一般的
に、適格性と言う基準に依って任命が適任であるとされた人々の中に在る
という事で、選択的過程と組み合わされる。 規準の達成は、それらを見出す
競争的努力の結果であるかもしれないし、そうでないかもしれない。かくして、
高度な政府の高度の任命は、卓越した実業家になされるべきであろう。
しかしそれに対して考えられる人々の誰もが、このタイプの任命に資格づけ
られる、卓越した実業家になるということは、極めてあり得ないことである
だろう。 他方、確かに、殆ど、大学院生は、直接にph.D.の学位を求める、
部分的には、少なくとも、学術的な、或いは、調査の任命に適格であるために。
ホッブス的秩序の問題と呼ばれたものの分析は、結論的に、競争的配分は、
正当な行為の限定を、特にこの場合、目的達成の手段の正当性に関して
定義する規範のセットの制度化なくして作動し得ない。任命的な、選択的な
両者の分配は、生得的を超える獲得-志向の第一義性に連想されるが、
任命性の力は、確かに、規則に関する競争の規則の更なる特別化と見做
されるだろう。 そのレゾン・デートルは、屡々、獲得規範に最も可能な
近似値を生じる。しかし、両タイプは、異なる方法で、どの所与の選択基準
の”バイアス”の可能性にも開かれる、競争的なものは、規制的規範とその
実行の体系のループ・ホールを通じて、任命的なものは、任命する”権威”
(勿論、屡々、”圧力”の反映)の行為におけるバイアスを通じて。
設備は、前章から想い出されるに、道具的志向の複合体における更なる
目的への手段として有意義な所有物である。設備の基準は、従って、行為者、
個人の、或いは集合体の間での内在的譲渡可能性と道具的志向との関連
にある。前者は、それを対象としての行為者のモダリティから区別する;
彼の特質も彼のパフォーマンスのどちらも内在的譲渡可能でなく、それらは、
いつも、そして消されることなく”彼のもの”である。設備は、また、報酬と区別
されねばならない。報酬は、他の側面では、同じ具体的な所有物であるかも
知れない。しかし、いずれにせよ、分析的には、区別は非常に重要である。
報酬は、常に、道具的手段-目的複合体の部分としてではなく、表現的
シンボリズムの複合体の部分として理解される。
所有物は、一人の行為者が他へ譲渡可能な」、交換の過程を通じて、
持ち主を変えることの出来る実体として定義された。 この実体、所有物その
ものは、いつも権利、或いは権利の束である。 言い換えれば、それは、
社会的行動と態度に相関する期待のセットである。 それはそのものとして、
物理的対象であるが、しかし、常に、物理的、社会的、或いは文化的対象
における、或いは、関わる権利、使用の或いは、処分の制御の権利に在る。
少なくとも、自我の権利は、彼の所有物の権利の対象である自我の使用
と統御を妨害することを差し控える他者のネガティブな義務を含蓄する;
時としてそれは、他者からポジティブ的なパフォーマンスを更に要請することに
なるだろう、自我に”権利的に属する”統御のモードの放棄というような。
物理的対象が、”持ち主を変える”ことは本当だが、しかし社会体系に関して
このことは、本質的ではなく、派生的な現象である。物理的な感覚での、数え切れ
ない事例においては、何ものも持ち主を変えることはしない、或いは、”一切れの
紙”のようなシンボル的な実体のみである。 このことは、物理的対象の権利に
関してさえも、真である。其処では、土地の場合のように、対象は、”変わらない”
のであり、変わるものは、それの一方では、前の”所有主”と、他方新しい者の
関係である。 しかし、所有物の権利がある。最重要の対象の多くは、物理的
では全く無く、例えば、著書が書いた”本”のような文化的対象であるだろう。
他の非常に重要なクラスは、関係的所有である。これは、社会体系ての所有
の立場の占有であり、それに幾らかの利点が与えられ、他を優先して放棄する
ことを意味する。このように、例えば、職業と言う地位への適性やもう一つの、
サービスへの請求は 所有物であろう。
どの社会体系も設備としての所有物の配分の機制を持たねばならない。
何故なら、それらの所有物は、望ましく、そしてそれらは、本来的に需要に
相関する供給において制限される。次の問題点は、この希少性の源泉
であり、これらの事実の社会体系への含蓄に関わる。差し当たっての目標の
ためには、これらの源泉を関係的と非-関係的として分類するに充分である。
非-関係的源泉は、社会体系そのものへ外在的である。それらは、例えば、
物理的な対象の入手可能に、或いはそれらは、物理的な、生物学的制限に、
或いは、それらは、生産され得るけれども、それは、経済的感覚のタームでは、
コストであるという事実に、関わる。かくして、建造物、機械等は、供給において
コストの理由で制限される。 このすべての主題は、経済学の文献で充分に
扱われているので、此処で、我々を更に引き留めることは無いだろう。
同様の考察は、施設として重要だろう文化的所有物の或る種のクラスに
応用される。かくして、専門化された技術的知識は、労働を通じてのみ、
亦、屡々同様に、他の専門的な施設、教師のサービスや本のような様々な
タイプの備え等へのアクセスを通じて獲得され得るのである。 そのような
知識が、コストにおいてのみ獲得され得る時か、或いは遥かに効果的に
そのような設備を使用しながら、専門化的知識の所有者は、所有物としての
権利を獲得するだろう。 例えば、学術的学位を使用する権利が、医学博士の
のように、所与の職業を実践する必須要件であるだろう。
中間的な場合は、物理的理由の為に内部的増加は出来ず、どのような場合
も生産され得ない、物理的所有物である。 最も身近な事例は、地球の表面の
区間である特定的に望まれるロケーション、例えば、郊外のビジネス地区は、
或る使用者に配分されるに違いない、そし多くの競争者は排除される。同じこと
は、時間次元にも本質的に真である。ライフ・スパンの有限性の故に、誰にとっても
も彼が欲する全てを行うための”時間を見出す”ことは、厳に不可能である。
内在的制限のこれらの2つの基礎だけで、我々は、”豊かさの経済”の瀬戸際
に在り、経済的感覚での希少性が、原則として無意味にあるだろう観念を
除外するに十分である。
しかしながら、最も根本的な制限」は、直接に関係的なものなので、行為の自由
に対する空間と時間の制限の関節的な関係的性格とは、区別される。関係的な
制限は、社会的相互行為、自我の欲求-性向の充足は、他者の行為に状況
依存的であり、逆もまた同様ちう、本質に本来的である事実に依る。各行為者の
行為体系は、限定された可能性の有限な体系である。従って、他者は、その場合
の性格上、自我が他者にするように欲する全てをすることは出来ない。そして、
逆もまた同様である。 他者の或る種の互恵的な行為(そして態度)を考慮に
入れるいずれの行為者の権利と言う感覚での関係的な所有物は、その場合
の性格上、パターンされた体系に組織化されるに違いない。全ての行為者は、
決定的な仕方で他者にとって意義ある彼の行為を分配しなければならない。
自我は、例えば、我々の意味する職業的役割の感覚で、無限定の数の顧客
の為に働くことは出来ない。彼が選択しなければならない事実は、彼のサービス
をしたいと思っている全ての他者がそうすることは出来ないという事実を反映して
いる。
設備の分配の問題に関わる限り、秩序の基礎的に関係的問題は、ホッブスに
倣って権力の問題と呼ぼう。一つの留保と共に、ホッブス自身の権力について
有名な定義、”将来の善の為の人の現在の手段”が、この場合適合する。
我々は、留保を加えよう。そのような手段は、それらが他の行為者との彼の関係
に依存する限り、彼の権力を構成する; 相関的なものは、自我の権利を尊重
するべき他我の義務、それ故、一つの側面では、設備の全ての所有は、
権力の所有である。何故なら、それは、他の行為者に対する制御である。
少なくとも、それらの否-侵害を考慮に入れる能力の感覚で、この権力の
否定的な状況依存的側面と肯定的な側面、彼等の、さもなくば期待される
否-侵害を単に考慮にいれることを超えて、彼の肯定的な目的達成の関心
における他者の行為に影響する自我のキャパシティーとの間に完全な暈し
がある。
権力とその基礎は、高度に特別であり、特定化されるだろう。かくして、土地の
特定的な一片の所有は、機先を制する不法侵入を妨害する”権力”よりも更なる
社会的含蓄を持たない。しかし、社会体系における権力の意義は、特定化された
所有物への権利の制度化の他に、その一般化と数量化は、異なる社会体系
におけて発展の高度に異なるレヴェルと共に、程度の事柄である。 それは、
何よりも3つの条件に依存する。最程度初は、分化された役割の体系における
我々が交換の問題と呼んだものの本来的意義である。役割の体系の分化の
程度が高ければ高い穂と、交換の関係性のネットワークは、拡大されねばならず、
そうであればあるほど、異なる役割の占有者の間で契約関係の決着の過程が
無ければならない。契約関係の決着の過程においてこそ、権力が行使される機会
が生じ、目的-達成への実行が存在する。これは、設備を含む所有物の本来的に
関係的性格の事実を論じる本質的な他の方法である。社会体系的内での一人か
それ以上のいずれの所与の目的-志向の現実化への権力の意義も、それを
分枝化する実際的な潜在的な交換の関係の体系の拡大性である。
第二の条件は、社会体系内の普遍主義的志向の発生である。 このこと、
そして、役割分化の精錬は、本来的に繋がっている。交換過程が自由に生じる
道具的志向の関係的文脈関係が拡大になればなるほど、それ故、機能的に
有意義になる。それらの過程が、それらがその内部で生起する関係性の各その
特別なセットの特定性をその応用性において超える、一般化された規範に依って
支配されることは、ますます本質的になる。役割の分化の圧縮へそれ自身達する
だろう交換の範囲の制限が克服されr得るのは、この条件においてのみである。
制度的構造が狭義的にいって特定主義的であればあるほど、彼が関わっている
特定なアソシエーションの直截的な範囲を超える他我への自我への自我の
影響の拡大への傷害が大きくなるだろう。特定主義的紐帯の崩壊は、権力
体系の拡大の第一条件である。しかし、このことが、単独で行われると、
制限への復帰によって普遍主義的起案によって遭遇する不安定性に達する。
第三の条件は、効果の傾度、或いは手段の激烈さと呼ばれるだろうもので
交換関係の全ての制度化は、前章で触れたように、手段の選択に正当な
制限の定義を包含する。そのような制度化への欲求の根本的な機能的基礎は、
或る種の手段への依頼が自我に"有り余る権力”を与えるだろうという事実に
在る。 彼の権力が他者に一般化されない限り、彼は、他我を義性にして彼の
目的を獲得することが出来るだろうと言う感覚において、である。 個人的な交換
関係性では、何よりも、この制度的規制の焦点、欺瞞と勢力と勢力である2つ
のクラスの手段がある。ホッブス的分析は、古典的形式で、何故それらの
非規制な使用が、”万人の満忍に対する闘い”になるかを示している。しかし
ながら、組織の制御に関わる第三の同じ様な基礎的な問題がある。と言うのも、
多くのの目的は、それなくして不可能な組織を通じて達成されるからである。
これは、勿論、勢力の使用にも卓越して真実である。③ 本質的なポイントは、
③何となくより微妙なレヴェルで、他者の”センティメント”に
影響するキャパシティーは、制度化された制御に晒される
に違いない目的-達成のいま一つの手段である。しかしながら、
この問題は、組織や設備の配分よりも、表現的シンボリズムと
報酬体系の制度化の表題に、主に、所属する。
勢力が、いつも、短期間では、ますます激烈な手段の傾度に依って、更に、
進むことによって、増大するだろうということである。しかし、勿論、権力は、
関係的であり、明らかに、相関的なので、自我は、より激烈な手段への依拠
によって彼の権力を、他我が彼のサイドの相応する手段に依拠して”封止策”
を取ることに失敗する限り、高揚させることが出来る”権力への闘争”の源泉と
なり、この闘争の本質悪循環な性質となり、ますます激烈となる手段への相互的
依拠である葛藤への両方の当事者にに対して或る種の統御を作動することに
よってのみ、悪循環は、断ち切られるだろう。
社会体系の権力の一般化と計量化は、2つの主要な相互依存の、しかし、
別個な様式、方向に生じる。それrは、別々に、経済的なそして政治的なと呼ばれる
だろう。経済的なタイプは、実際に、または潜在的に入手可能な交換関係性の、
そして、それ故、設備 ーーそして、勿論それらが”交渉可能”である限りの報酬ー
ーの所有の権利の獲得と処分に関するどの所与の後者の選択の範囲の、拡大
にある。この拡大は、比較的厳密に定義された条件においてのみ、可能であり、
それは、否定的なサイドでは、第一義的には、拡散的、そして特定主義的関与
から道具的効率性の基準が第一義性を持つだろうというような交換の文脈関係
の”表明”であり、そして否定的なサイドでは、利点を獲得する手段に依拠する
規制の制度化、それは、そのような交換体系の作動、即ち、欺瞞と力/forceを
破壊する制御の”悪用”である。この感覚で、経済的な諸力は、そのパターンに
おいて、拡散的ではなく、特別的である。
この意味で、権力は、分枝された交換体系を通じてラテラルに拡大されるが、
しかし、同時に、経済的、亜或いは購買力は、スコープにおいて鋭く厳しく
規制されている。この潜在的スコープは、勿論、金/moneyの文化的発明、
明らかに、全ての人類のシンボルシンボル化のなかで、最も際立ち、重要な
もう一つを通じて非常に拡大される。それは、購買力のシンボル的一般化
としてリニアルに扱われるだろう。このシンボル化のエッセンスは、この特定な
タイプの相互交換の交換関係性との関連の、鋭利に定義された限度内で、
貨幣の幾らかの量が経済学の伝統的タームでは、特定の物理的な文化的
”品物”や関係的”サービス”を代表する、或いは意味する。
特に、文化的に定義された貨幣の制度化を通じて形づけられた経済力は、
社会的相互行為体系の全体体系の他の減少では、形づけられない、注目
に値する特質を持っている。それらの特質の中で、我々の目標にとって、
最も関心のあるものは、不可欠な限度の内で、社会体系の均衡における
リニアルな量的な要素、あるいは変数ーー多分、この特質を所有する一般化
された意義の比較的可能なレヴェルにおける唯一の変数として扱わねばなら
ない。
此処で我々は、社会体系の理論の専門的な分枝として経済学理論の出発点を
見出す。経済学理論は、この感覚で、経済力の現象を扱う概念的スキームである、
そして、最も技術的な感覚で”経済”における権力関係の体系に巻き込まれた
複雑な相互依存性と共に。
経済理論の技術的感覚での経験的関連は、非常に厳格にそれが応用される
社会体系のタイプの機能である。この関連は、交換の関連性のスコープに依存
に依存し、其処では契約関係の決着は、社会体系の、及び政治的権力の制度的
変数を独立して操作する。 これらの関係は、規制的な制度の枠組み内部で、
作動する。”経済的考察”の独立した志向的意義への必須要件である特定主義と
拡散制からの釈放の程度を強化し、そして経済的から政治的への併合を防ぐ
目的と手段の制限の遵守を強化する。 このような条件の遂行が失敗する限り、
経済理論は、説明的スキームとしての独立した関連を喪失する。つまり、その
関連は、動機づけ的タームでは、”経済化する”と正当に呼ばれているものが、
実際に生起する境域に限定されねばならないし、上記の条件が不在の場合は、
それは、狭小な境域である。しかし、その場合、経済理論は、まだ、機能的
解釈のカノンとしての意義の他の秩序を保持する。つまり、行為は、どれ程志向
されても、社会体系の設備の配分に関して、経済的生かを持ち、そして社会体系に
関するこれらの成果の意義の分析仮説的”経済”と見做されているが、未だ非常に
重要であろう。
力の一般化や数量化の第二の傾向は、政治的と呼ばれた。 ”影響力”の可能性
に拡大された政治的交換関係の範囲は、経済の場合の様に、此処に関連がある。
しかし、政治力で際立つものは、それではなく、その定義と実行に関する考察の
スコープの拡大である。 経済力は、つまり、手段の所有(”手段の人”のような
表現のタームの使用は、有意義である)に、利益のバランスを取ることの申し出
を通じて非常に厳格に定義された条件の下に、代替的に可能な交換の相互作用
の範囲において利益を最大化するために、焦点が絞られる。政治力は、他方、
所与の目的の全関係的文脈関係への関連のスコープを拡張することを通じて
一般化される。特定な関係の文脈関係のレヴェルでは、体系としての関係体系を
制御キャパシティーであり、それは、それが、組織であろうと拡散者であろうと、
より統合されない体系である。
政治力の一般化の原理、政治体系としてその間隔で、主体系と下位-体系
に統合されるに違いない。ますます網羅的なな関係体系へのその拡大である。
経済力の構造は、既に、記したように、リネラルに数量的であり、単純に、より
多いか少ないかの事柄である。一方、政治力は、階位制的である; つまり、
より高いそしてより低いレヴェルのそれである。政治力は、より少ないものに
対するより大きい力である。単に、少ないものより大きいということでははない。
政治力は、関係的で、単に準拠に、そのn潜在的交換パターンにあるのではなく、
直接的意義に在る。 このことは、政治力の拡散性についての別の言い方である、
それが、当該の目的に相関する設備として全体的関係体系の文脈関係の流動化と
言う感覚で。
政治力のこの拡散的性格は、手段の激烈の傾度の特定的なそれの関連性を
説明する。 テリトリー性へのそれへの関係における勢力を使用する能力は、この
感覚での力の一つの究極の焦点であるので、テリトリーに対する勢力の使用と
組織の制御は、常に、政治力体系の極めて重要な焦点の一つ、或る感覚で、
焦点そのものである。複雑な社会の権力体系においてその中心的な位置に
国家を与えるのは、そのことである。それは、やがて、力に対する競争の直前
の目的として政府組織の仕組みの制御を与えるのは、軍隊と土地に相関する
権力体系を組織化する機能的欲求である。
これらの考察は、額面としての政治科学の地位問題にいくらか光を当てるが、
それらは、後に、最終章で展開されるだろう。政治的な感覚での権力も、社会体系
下位-体系としての政府の操作もどちらも経済理論のそれと同じ秩序の特別に
専門化された概念的スキームのタームとして扱われないだろう。社会体系の政治
的問題は、それらの専門的に分化されたクラスのものでなく、その分析的に区別
可能な構成素の全ての統合の為の焦点であるまさにその故に。
結局、経済的方向における権力の制度化は、普遍主義的で、機能的に
特別な制度、優れて、規制的制度に依存する。経済力の制度化は、条件の
維持に焦点する、一方では、その一般化、他方では、設備の体系の他の構成素、
とりわけ、政治力からその隔離にある。 このことは、経済力の大きなる集中を
政治力の実行の設備としての”不当な影響”を妨げることを包含する。政治力は、
一方では、本来的に拡散的であり、そして巻き込まれている関係的文脈関係の
スコープに比例してより偉大である。しかしながら、その一般化は、普遍主義の
レヴェルに依存する。政治力は、とりわけ、統合の問題であり、権力が集合体的
責任に融合される正当な権威の首尾一貫した体系に個人の、そして下位-集合体
の権力を組み入れる問題である。
報酬を、行為者による直截的な充分の対象として望まれる、それらの移行
可能な実体、或いは所有物として我々は意味する。所有物は、それへの行為者
の志向が、第一義的である、(そしてそれ自身が究極の”目的-対象”でない)
ない限り、設備である。 それは、行為者の志向(即ち、関心の基礎)が、圧倒的
に表現的である限り、報酬的である。この事、自我の関心は、他我にある限り、
対象が他我”から得られ”るので、他我への志向は、道具的と扱われるべき
である。他我彼自身が、或る関連ある側面において対象である時のみ、表現的
である。目的への手段どしての他我への自我の関係、例えば、食物の源泉として
の母親は、他我に対する権利関して設備として分類されるべきものである。この
事例は、人間の互いへの互恵的相互ぢ存の道具的文脈関係における根本的な
性格を示す。
全てのクラスの対象は、糧くシスの対象として報酬として機能し、そしてそれらの
所有における分配の問題は、それら全ての為の社会体系の分配的過程に入り
込むだろう。この事は、経済的術語集の”消費財”についても同様である。その
ような財は、行為者の充足過程へのそれらの意義の意味におけるカセクシス
された対象と表現的シンボルの両者である。 後者のキャパシティーでは、
鑑賞的基準へのそれらの同調に関してと、欲求-性向充足者としての直截的
役割と同様に、評価されるようになる。 なによりも、非常に多くの物理的な
大量生産品は、物理的以上に、文化的であるという事は、このコネクション
にある、何故なら、それらのスタイル-パターン形成は、他のどの側面より
重要だからである。 好例は、衣服mや家具におけるスタイルであるだろう。
しかし、設備の場合が、そうであるように、多分もっとそうであるように、
中芯的意義は、報酬体系の関係的側面に貼り付けられる。自我の行為への
他我のリアクションは、自我の目的達成、或いは妨害にとって根本的に
道具的意義を持ち、他我のリアクションは、他我が対象としてカセクシスされて
いる限り、根本的に表現的に意義があるだろう。我々は前章で、他我のパート
に対する特別の単位行為のカセクシスから他我の態度の一般化があることを
見た。このことは、両者のサシドにおいて、他者に対する行為が或る種の
パターンに適合するだろう期待の設立を意味する。そして、カセクシスが
肯定的な処では、このことは、愛着を含意し、そして表現的シンボリズム
我々は、自我と他我の間の#忠誠心”の関係について語った。
他我の役目に対する態度の連続するパターンの期待は、適切な行動を
除外して、自我の関係的所有として見做される。それは、当時者のどちらもが、
もし、彼の期待が満たされないならば、他者から(或いは、他の動機から)
彼の忠誠心を#差し控える”だろうという状況依存性の要素を最初に意味する
感覚において、内部的に移行可能である。他我による彼の期待の遂行は、
従って、唯、条件的に考慮に入れ得るのであり、自我の状況の内在的特性
ではない。更に、行為者に対する殆どの態度は、一人の行為者から他に
移動されることを可能とする。
このことは、何よりも、同様である。 何故なら、一つの見地からどの一人の
行為者のカセクシスも忠誠心の選択の結果であるから。忠誠心の関係性に
おける比較の準拠は、もし明示的でなければ、黙示的である、即ち、”Aよりも
Bに、より忠誠心がある、私に対する彼等の個別の意義の分化的評定の故に、”
ということである。このことは、全体的に評価の特定主義的規準であろう。
Aは、私の母親であり、Bは単に、従兄弟であるから、或いはそうであるだろう、
何故なら、AがBより評価の普遍主義的基準によって、例えは、関連分野の
技術的有能性を持つので、行為に格付けされるから。しかし、いずれにせよ、
この分化的評価は、謂わば、特定の忠誠心の状況依存依存性の逆であり、
つまり、後者は、評価的基準と一致して彼の位置を保持する自我に状況依存的
である。
それで、関係的な報酬-所有物は、設備がそうであるように、配分の問題を提示
する、即ち、権力の問題を通じて、そして相同的な仕方で、自我が他我のパートで
の忠誠心の或る種の態度への権利を持つ条件は、構造されす、ランダムのまま
であることはあり得ない。確かに、社会体系の相互行為における自我と他我の
相互的な志向の非常にに重要な意義の故に、関係的報酬は、社会の報酬体系
の中核であるといってようだろう。 この組織化の最初の原理は、関係的報酬
所有の制度化それ自身である。 物理的な、そして文化的な報酬-対象は、それ
で統合された先ず最初に関係的報酬とのシンボル的、つまり、表現的シンボ
リズム➃のレヴェルでの報酬体系に組み入れられるようになる。
④シンボル的統合のこのタイプは、第Ⅸ章において更に
分析されるだろう。
この統合を巡る2・3の考察を持ち出す前に、設備の体系のそれに比較
し得るような報酬体型における一般化と数量化が在るかどうかに疑問を
呈することが最善である。 これは、関係的報酬の分類の基礎をめぐる質問
を呈する。
このことは、順次、愛着の、それから忠誠心の根本的タイプの分類の
問題である。何故なら、これらは、パーソナリティーの根本的態度構造に
非常に深く巻き込まれているので、この分類の基礎として情緒性-中立性
と特定性-拡散性の2つのパターン変数を取り上げることが正当化されるように
思われる。これは、前章で示されたように、以下の四面のテーブルを産み出す:
⁂翻訳者注記: このテーブル始め、本章全てのテーブルは、
本章末尾に掲載予定です。
この分類の意義への基礎は、表現的行為-志向の関係的文脈関係について
前章で議論された。此処では、報酬の構造について2・3の含蓄を引き出す
ことにしよう。
拡散的熱愛ー愛着/love attachment と特定主義の間に本来的な経験的
コネションがあるように思われる。このことは、愛着を通じて行為者は、彼に
”密接な”小さなサークルの人々にのみ、結びとき勝ちである。しかしながら、
我々が見たように、同じ秩序の愛着は、国民のような非常に大きなものを含む
集合体と統合に巻き込まれるだろう。しかし、集合体へのそのような愛着の
の重要な特色は、それは、メンバーシップを共有する人々の間でのような分化
された報酬の基礎ではないということである。集合体内部での地位や他の
シンボル的に意義あるものの形を取る分化された報酬はあるだろうけれども
--しかし、これは、メンバーシップそのものの意義とは異なるのである。更に、
愛情ー愛着は、”カジュアルな”友情に、義務の優先順序を下りるに従って、
薄められて行く。しかし、それが、この薄化の故に、友好的な仕方で扱われる
ことは、パーソナリティーの視点から殆どの状況」において焦点的に有意義
報酬ではない。
特別の表現的意義における受容性と反旺性の態度は、一般化をかなりより
可能にする。確かに、それらの特別性のために、それらは幾らかの側面で
経済交換のパターンを比較可能である。勿論、或る種の環境状況では、相互
的な性愛的充足は、そのような文脈関係に適合するようになされるだろう。
けれども、それは、このクラスの報酬の制度化の中心的パターンでは決して
ない。 同様に、表現的に志向された活動のタイプに対して、我々は、リクリエー
ションとかエンターテインメントと呼ぶだろう。確かに、全く蓋然的に友好的な
として通常、考えられるものは、たぶん、このカテゴリーに置かれるべきで
であろう。それは、志向の一種の”リクリエーションの半影”であり、その中核、
他のレヴェルに属する。
表現的志向の第一義性を持つ社会では、全体的な報酬体系の第一義的焦点
は、このレヴェル(即ち、熱愛と許容性-反応)で探されるだろう。この場合、制度
化は、熱愛ー愛着にまきこまれた義務と限度とスコープを、表現的関心と活動の
正当性の範囲を定義すると同様に、規約する。リクリエーションの、そして芸術の
活動の増殖がそのような社会で期待されるだろう。
しかしながら、バランスが、情緒性から情緒中立のサイドに移行される一般化の
比較的に大きな可能性があるように見える。明らかな理由で、承認と尊重との
形における報酬は、より際立つだろう。普遍主義か獲得価値のどちらも、或いは、
両者とも、際立つ社会とどの社会の下位体系において際立つだろう。
一方では、経済的と政治的力と、他方、是認と尊重の報酬との区別の間に
興味深いパラレルがある。是認は、特別な文脈関係に焦点された態度、特質の
複合体、或いは、パフォーマンスのタイプである。従って、それは、その対象の他
の特色から比較的高い程度へ抽象することが可能であり、我々は、有能なパフォ
ーフォマンズと是認し、敬服する、当該の人物を巡る他のものに敬服するには程
遠くても。是認-報酬は、普遍主義-獲得価値、それらのタームにおいて、定義
された役割と機制的特別性に際立つ位置を与える社会の報酬体系にとって
非常に意義がある。しかしながら、経済力との大きな差異は、単純さと曖昧さの
無さに関して金/moneyとの比較出来る是認の対象のシンボル的数量化は
全くないという事実に横たわる。このことは、しかしながら、何故 丘ねが
そのような状況で、是認された特質、或いは達成のシンボルとしてそのような
際立つ地位を獲得したかの、一つの朱要な理由である。それは、特に、適切な
シンボルである。
尊重の場合は、政治力とより近く、アナログ的である。是認は、一般化された格-
付けの含蓄なくして、与えられだろう。尊重は、しかしながら、拡散性の要素の
故に、特定の文脈関係の隔離より困難である。それ故、尊重に関して、階位制
的秩序形成への傾向が少なくとも、ある。 この階位的秩序恋性を我々は、威光
と呼ぶだろう;それは個人が分化された評価の秩序された体系全体に保持される
相対的な尊重である。
従って、関係的な報酬体系の要素は、尊重に関する格付け体系に関して、
丁度、政治力の体系で設備の制御が秩序付けられるようい、統合されるように
なるという感覚がある。尊重に関するこの格付け体系は、我々が社会の階層化
と呼ぶものである。 それは、分化された評価の特定の基礎の一般的な結果
非-関係的報酬-対象は、当然、表現的シンボルとしてそれらの意義の一つの
側面に置ける移行体系に統合されねばならない。それ故、”人生のスタイル”は、
とりわけ、階層化の体系において移行のシンボルとして意義を持つ。
一つの更なる一般的なポイントが置かれる必要がある。情緒的中立性は、
一般的タームでは、我々が前章で見たようⅡ、道具的、或いは、道具的志向の
のどちらかの第一義性を意味する。是認と尊重の場合では、それは、後者を
意味しなければならない。何故なら、これのみが、表現的志向に直接的に
関連しているからである。これは、ヂュルケームやマックス・ウエーバーが、
非常な強調を置いた社会の報酬配分体系の制度化における道徳的センティ
メントの位置の分析的基礎である。情緒的な、そして情緒的に中立な態度の
の両者に役割-志向の制裁体系において根本的なパートを演じる。現在の分析
は、それらの個々の位置と制裁の道具的側面へのそれらの関係を識別するため
の基礎を、我我に与える。
我々は、今、社会体系の機能的問題の統合的焦点へ向かっても良いだろう。
それらは、前章の議論に一致して、2つの良く定義されたクラスに収まる。第一は、
個人行為者と集合体の両者のプライベートな、または、自己-志向への許容性
の限度を定義しているネガティブな問題である。第二は、ひとつの集合体として考え
られる社会体系のポジティブな統合的機能の制度化のそれである;つまり、責任
の階級の定義、そしてエグゼクティブや代表の役割を含むリーダーシップの
構造形成である。
この問題領域へアプローチするために、第一に、役割の制度化は、それ自身、
社会体系の統合のモードである。 それは、単位を結び付ける最も基本的な
レヴェルである。我我の関心は、今、多くの下位-統合の統合のより高度の
区域にある。統合の階位制を巡るこの構想は、もう一歩進められよう。集合体は、
幾らかの仕方統合された役割の体系であり、前章で議論された。 しかし、社会
体系は、一つの側面で、”間質的な”パターン形成と機制にコネクトされる下位-
集合体のネットワークである。 同様に、社会は、全ての部分的な社会体の
全てのタイプではないが、多くは、それ自身組織のより高度の秩序のひとつの
集である。かくして、我々の根本的な出発点は、集合体の一般的性質、それ故、
その分化可能性でなければならない。反対に、社会の問題は、いずれの集合体
へもその部分的に適切な割り当てと共に、準拠可能である。
第一の基礎的統合準拠は、プライベートな関心に関する志向の許容性への
制限である。これらの制限は、集合体としての社会体系の機能的”問題”の
文脈関係へ準拠可能である。これらは、順次、配分過程の、そして集合体的
欲求への妥当な供給の規制として分類可能である。これは、我々が、規制的な
制度と呼んだものの意義の機能的焦点である。
配分過程の規制の問題は、先の分類に関して粉砕されるだろう。役割それ自身
そしてそれらの関係が、体系内部で変化する過程の規制があるに違いない。
限られた場合のみ、体系の役割-構造が完全に固定される。殆どの社会体系は、
この、或いは、他の側面でのように、動態的に変化している、しかし、変化への
余地は、どの行為も、或いは彼等のグループも、彼等が望むことのあるような
どのような仕方でも彼等の役割を再定義することによって”革新する”ことが
出来るということを意味しない。そのような革新の幾つかのタイプは、社会体系の
安定性と共存可能であるが、他のものは、ない。 それ故、プライベートな役割-
革新の正当化のパターンの制度化は、許容さの規制の重要な文脈関係の一つ
である。
第二文脈関係は、問題が、適正な人々とが適正な役割を得ること、そして
人々、地位に関して”彼等が所属すべき場所に”留まるということに注視する
ことである。本質的に、同じことが言われるだろう、そして、設備や報酬の配分の
規制を巡って、”政治力”の問題や移行の問題がそうするように、立ち向かうと。
これらの文脈関係の3つ全てにおいて、スタータス・クオばかりでなく、規制された
革新の制度化を保護する問題が或る。これは、配分の過程の競争的側面と
極端に密接にコネクトしている。
純粋に競争志向の安定した均衡は、勿論、経済理論が示したように、全く
構想可能である。 にも拘らず、そのような相互行為体系は、、一般に、自動的に
生得的なタイプや、多分、指令的や意志決定-選択タイプよりも不安定であると
過程されるに違いない。自由な競争過程に置かれた時、人材、設備、そして報酬
の配分がどのように結果するかは極めて不確かであり、そのような過程が際立つ
社会体系は、従って、過程的に、結果の相異に対する寛容さのかなりの区域を
持つだろう。同時に、潜勢力は、非常に大きく、この区域に対して限定が待たれ
なければならない、それらが、柔軟であったとしても。この種の”個人主義的な”
社会は、また、”正義”の抽象的な基準から、かなりの逸脱を寛容出来るように
ならねばならないことは、蓋然的のそう思われる。
いずれの、或いは全ての上記の統合的問題に関して、許容性を、つまり規制的
制度の体系を限定している規範のこのセットがどのように制裁体系の構造と言う
感覚でパターンされ、制度化されているかについての可能性の区域がある。
此処では、後者の基礎における変数性の最も意義或る2つの極、”非公式”と
”公式”があるように思われる。最初の場合では、制裁は、プライベートな”手に
のみ残されている。それらは、自我がしたことに対する他我の”自発的な”リアク
ションの事柄である。集合体的関心としての共同の価値パターンの実行の軸を
巡る役割の分化は、無い。制度化のこの非公式の様式は、証拠が示している
ように、役割一般の制度化の次に全ての社会において”社会的制御”の根本的
土台である。 殆どの場合、効果的に作動している公式な制裁体系に対する
望みは少しもない、それが、概して、制度化されたパターン体系に、他我が、自我
のパートに対してリアクトし自発的に同調へ好意的にリアクトし、逸脱には非公式
的にリアクトし勝ちであるように、行為を示すような道徳的センティメントの体系に
支えられない限り。
第二の極のタイプは、しかしながら、公式化された制裁であのそれである。これ
は、規範的体系の統合性の維持のために集合体対/vis-a-vis責任に相関する役割
の分化を含蓄する。順次、分化された役割において2つの重要な機能がある。即ち、
解釈であり、それは、どの役割-義務があるか、そしてどのように一般化された規則
が応用されるか、施行されるかは、不確かさの区域に関する故に、重要である。
此処での施行は、位置だッの場合のネガティブな制裁の応用を意味するのでは
無く、いずれのそして全ての制裁の、使用のポジティブであれネガティブであれ、
専門的な責任を意味すると解釈される。自発的な非公式のばあいとの相異は、
制裁は、”プライベートな道徳性”の事柄であり、一方、公式な場合、は、特別の
役割-義務の事柄だということである。
最も大規模な社会体系は、勿論、制度化の両タイプの重要な要素を持つ。
記されたように、根本的な土台は、非公式になる傾向があるが、しかし、社会体系
が、社会体系が、複雑で、動態的で、あればある鉾、この傾向は、集合体の
責任を負う、この感覚で直接に統合的機能を持つ役割分化によって、補強される
傾向がある。
統合的構造形成の焦点のたの側面は、集合体的目的や関心のポジティブな
昇進のそれである。再び、限られた場合において、これは、完全な自発的集合体的
リアクションと共に、非公式的に構造されるだろう。しかし、この非公式成の限度は、
グループの規模と他の要素によって、極端に狭い。直ぐに、リーダーシップの役割
出現する。それは、最も複雑な社会体系では、非常に意義がある。上掲で指摘した
ように、そのような役割は、順次、”管理的な”役割として集合体にとって内部的な、
そして外側の関係においては”代表的な”役割それに対して機能に従って分化
されるだろう。
勿論、機能的問題の広い多様性は、リーダーシップの役割と集合体の残り〔の
役割〕の間の関係: 政府の分野や他の何処かで研究が強烈に取り組まれた問題
関心が持たれる。 マックス・ウエーバーに従って、我々は、単位として集合体とその
メンバーへの”締め付け”である行為を執行する”権威”の正統性に第一義的強調を
置くだろう。 集合体のメンバーを締め付け、強制する権威は、この局面において
協定の義務を想定する権威と同じ性格のものである。換言すれば、変数性の分析の
ための第一義的出発点は、この役割の側面を定義する価値-志向パターンの性格に
横たわる。
このセクションに議論される社会体系の構造の結晶化のこれらの機能的焦点は
パターン変数とテーブル3*における状況の構造に関して提示される。
*翻訳者注:テーブル3は、本章末尾に掲載予定。
⁂ 社会体系の内部的分化
我々は、いま、全体としての社会s体系の構造的記述の為の基礎を成す試みを
なさねばならないポイントに達した、その単位、互いの分化の基礎、その分化の
範囲、そして体系を構成す単位の関係を示しつつ。
6つの見出しの元に、構造的分化の可能な源泉を分類しよう。
関係的制度
1.志向の対象としての行為者-単位のカテゴリー化。彼等の分類的
分化と分配、即ち、社会体系内の対象-役割(地位)。
a. 対象としての個人行為者
b. 対象としての集合体行為者
2.役割‐志向の分類と社会体系内でのそれら分配。
a. 個人行為者の役割
b. 集合体行為者の役割
規制的な制度
3.道具的に志向された関係性についての”経済”;設備の分類と分配と
権力体系の組織化。
4.表現的に志向された関係性の経済; 報酬の分類と分配と報酬体系の
組織化。
文化的制度
5.文化的志向の体系
社会構造との関係における文化的志向のパターン構成;イデオロギー、
宗教的信念、表現的シンボル-体系とそれらのジンテーゼ、強行と
ポジティブな施行の機制を含む。
関係的そして規制的制度
6.統合的構造
社会的-関係的統合(道徳); それ自身集合体としての社会体系;
規制的な規範とそれらの強行. 集合体的関係の為の専門的責任を
制度化する役割.
経験的事実の適当に概念化されたステートメントの不可欠な詳細と共に
上掲のアウトラインを埋めることは具体的な社会体系の妥当な記述を構成する
だろう。これは、勿論、各主要な見出しの元で、可能な変数性の範囲の妥当な
分類が入手可能になり、各見出しの元での事実は適当な下位-クラスがその
体系を本来的に記述擦るよう一緒にされ得ることを含蓄する。これらの下位-分類
の出発点を少なくとも実現することは、現時点のセクションの主要な課題であうる。
しかし、それに入る前に、全体としての分類についての論理的根拠について
幾らかのリマークが必要である。
恐らく、分類の最も慣れ親しんだ特色は、第一と第二のカテゴリーの間の、
即ち、対象としての行為者と役割-タイプへの志向の区別である。 この区別の
採用と社会構造の分析へのそれの関連は、カテゴリー3と4に対する”所有物”
の概念の関連と共に、今まで、当惑さた問題となったものの多数を明白にする
だろう。
対象-単位の分類は、社会構造の分析において”カテゴリー化”と時々呼ば
れたものとコネクトする。それは、前章で、生得的特質とパフォーマンス・
キャパシティーと呼ばれたものである。生得-獲得の変数は、既に見たように、
対象のモダリティに関わる。それは、従って、この見出しの元での分類の
メジャーな軸が詳しく調べられねばならない。 年齢とか性別の分化のような
社会構造のカテゴリーは、明らかに、此処に属する。しかし、個人の、そして
集合体的な行為者は、両者とも勿論、この相異に従った注目と共に含まれ
集合体は、幾らかの文脈関係で行為者➄として扱われねばならないことは
➄この見解は、亦、価値、動機、そして行為の体系/Values,
Motives and Systems of Actionにおいて大規模に
議論されている。
早くから、第Ⅰ章での現時点の概念的スキームの発展を通じて明瞭で
一般的にこの事が真ならば、2つの明確な結論が、現時点の文脈関係の為の
生じる。第一に、それらは、個人行為者と同じ様に、対象であり、社会対象の
分類に含まれねばならない。 第二に、集合体のタイプの分類と分配は、
当該の社会体系に関してその下位-集合体であるものは、社会体系の構造
の一部として扱われねばならない。
第二の主要な見出しは、役割-志向タイプの分類と分配に関わる。それら
は、既に見たように、社会体系の単位の1つである。しかし、それらは、2つの
可能な視野の一つ、後者の志向のそれであり、他方、同じ行為者の対象
の他の視野である。 視野の相異を許すことなく、役割-概念の公式化に
両者を組み合わせる試みは、社会構造の分析においては、かなりの困難の
源泉となった。 本質的なポイントは、多分、社会構造の全体の単位が、
相互行為的関係性であるという事である。そのような関係性は、最小限度、
2人の行為者、各人は2つのキャパシティーに在り、第一に、志向している
行為者として、第二に対象として、しかし、同じ行為者が、同じ志向の準拠点
からの同じ関係性にあって、両方のキャパシティーにおいて、作動しない。➅
⑥自我は、或る種の目標には、彼自身にとって対象として
位置づけられるーーしかし此の独特な場合は、上掲の
のステートメントに影響しない。
完全に”自由な”志向関係において、自我は、他我を彼が適合していると”分か
る”範囲内で 対象として自由に”定義”出来る。しかし、我々は、ここでは、
社会構造について話しているのだ。制度化を通じた社会構造は、自我の所与の
地位において行為者の正当化された志向の範囲に制限を置くことは当然と
考えられるまさに、同じトークンで、彼は、他我を対象として正当的に定義する
だろう範囲限定を置く。換言すると、他我は、対象として制度的にカテゴリー
されている対象としての他我に許された内部的に可能な意味の幾つかのみが、
この特定な社会体系、或いはその関連ある部分に従って行為することであろう。
第二の見出しは、他我のカテゴリー化に関わる。”実存的な”感覚で、この
社会体系とその関連する部分の内部に存在する彼等は、何者か? 第二の
見出しは、正に同じ行為者、しかし自我として所与の対象-世界、他我への
志向を構造することに、対処する。各行為者は、各局面において、”束”である。
彼が巻き込まれている各社会関係性は、対象-役割、そして志向-役割と呼ば
れだろうものを彼が持つからである。志向のタームで、彼は、単純に単位的な
実体ではないように、彼は、例えば、一つの対象として道具的役割と他に対して
従って、彼の対象-役割において、彼は、また、”破壊される”ので、或る場合は、
生得的に意義ある対象となり、他では、他者にとって獲得的対象になるだろう
等‥である。 この対象-役割と志向-役割の隔離は、勿論、抽象の専門的
タイプを含意する。それらは、同じ行為者の同じ具体的な役割からの抽象で
あることも決して忘れてはならない。
分類の主な見出しの第二のペアには、予備的なコメントが呼び起こされる。
全セクションで進められたそれらの理論的根拠は、設備の、報酬の”権利”の
性質の分析に重く置かれる。 対象として行為者彼自身の配分的分配の他の
事実、社会構造の部分として配分されたものは、これらは、これら2つのカテ
ゴリーの所有物への権利であり、それらは、所有物の特別に関係づけられた
カテゴリーにおいて、所有物それ自身と同一になるように(或いは、少なく
とも、隔離不可能に)なる。所有物への権利の概念(そして、その逆、それらの
権利を尊重する義務)は、社会構造の志向-役割と対象-役割の間の関係的
連結を構成する。これらの2つのカテゴリーは、従って、構造的単位の分類
分配の区別されたとして、特別な関係的構造的側面が扱われるのである。
権利の組織化のこの関係的な側面の設備と報酬の2つのカテゴリーへ減少
する可能性は、そのような問題を取り扱う、通常の常識的な方法の非常な
単純化を意味する。それは、評価的行為-志向それら自身の分類から直接
派生するのであり、統合的文脈関係における専門的取り扱いの道徳的クラス
を留保する。勿論、具体的関係的な結びつきとして、第一義性に関して置かね
ばならない、と言うのも、全ての具体的要素が、全ての具体的な社会的関
性に巻き込まれているからである。主に、つまり、このことは、信念体系と
表現的シンボルの体系に関わる。それらは、一般的に、行為の体系における
それらの位置の性質において、社会体系それ自身の構造に関して、ランダム
変様し、そして他の要素と同じ様に、結晶化のはっきりと限定された焦点に
相対的な範囲内で変様しなければならない。⑦
➆これらの問題のより十全な分析は、以下の第八章と第九章おいて
提示されるだろう。
第六のカテゴリーは、全体としての社会体系の全般的な統合構造に関わる
このコネクションにおいて、社会それ自身を集合体として、或いは、多分
(教会と国家の中世ヨーロッパのばあいの様に)2つの(より以上の)相互
浸透的で、部分的に統合された集合体として考えることが必要であることは、
既に、明らかにされた。多くの部分的な社会体系は、勿論、市場複合体の
ように、それら自身の内に統合的構造を欠いているだろう。
最後に、我々は、上で第二章において提示された制度のタイプの分類への
社会構造の第一義的要素の現時点の分類の関係を指摘するだろう。非常に
はっきりと第一義的な関係的制度は、カテゴリー1と2の元に入る。3と4の
カテゴリーは、第一義的名規則てき制度の焦点であり、5は、文化的制度
である。 カテゴリー6は、最後に、制度の最初の2つのクラスの制度の
関連を持つ。 リーダーシップのの役y割の構造それ自身は、関係的な構造と
して見做されるだろう ーーしかし、加えて」、全般的集合体は、規則的機能を
持ち、信念と表現的シンボルに対するものを含む。構造的要素の全ての
これからのカテゴリーに相関して一極では、完全なアノ三ーから他の極の
”完璧な統合”迄のいずれかの程度の制度化があるだろう。
その手続は、次に各々とのコネクションにおいて簡便なコメントとともに6つ
の主な見出しの各々の元における下位-分類を提示する積りであり、そして
それから、次の章で全体的社会体系を記述するためにそれらがどのように
結び付けられ得るかについての議論に入る。最初の見出しを埋めるために、
我々は、最後の章において生得的と獲得的規準を取り上げる。⑧
⑧此処で、我々が提示しているものは、どの具体的な社会構造
がパターンされ組織されるかに相関した不変な準拠点のスキーム
か或いは結晶化の焦点であることを、明白にしておくべきだろう。
Ⅰ.対象-役割における行為者-単位のカテゴリー化
A.個人行為者
1.生得的クオリティの焦点
a 分類的
性別
年齢
有機体的そしてパーソナリティーの特性
b 関係的
生物学的立場
空間的ロケーション
時間的ロケーション
”生態学的”状況
集合体のメンバーシップ
2.パフォーマンス・キャパシティーの焦点(全て分類的)
a 道具的第一義性
技術的有能さ
****
本章の以下の翻訳は、タイピングが困難なので、後ほどに。
新しい機種購入の上、最後まで続けます。
宜しきよう 御了承下さるように。
翻訳者謹言
第Ⅴ章
社会体系の構造Ⅲ
社会の構造における経験的分化とヴァリエーション
先行の章の最後のセクションで提示された分類は、何れの特定な社会構造と
社会間の変数性の範囲における内部的分化に関する社会の具体的構造を
体系的に取り扱う可能性により近づく長い一歩へ我々を導いた。この点で、しかし
ながら、或る種の象徴的な理論的視点から、それらの問題の体系的扱いは、
準拠点の輪郭付けで識別され、或いはカテゴリーの更なる分割から派生し得た
全ての要素の理論的に可能な並べ替えと組み合わせを方法論的に詳説すること
によってのみ到達されるだろう。
明らかに、このラインに従って、以前の場合よりも作業が注意注意深く、体系的
に着手されねばならない。しかしながら、そのような事業は、現時点の作業の可能
なスコープを遥かに超える。その多くの特定なフェーズ」は、社会学のより専門化
された分野における問題の解決とのコネクションで非常に重要であることが立証さ
れるだろう。しかしながら、我々は、ここで、更に、そのような構造的形態学を実行
する試みは提案しない。 社会構造そのものの取り扱いから離脱する前に、しかし
ながら、この過程を近道する試みが、役に立ち、輝かしいことを立証するだろう、
内部的な分化の主要ラインの幾らかの指摘と社会構造のタイプの比較出来る変数
勢を与える入手可能経験経験的で理論的な知識を動員することによって。
そのような近道を我々が試みることの出来る2つの工夫がある。第一は、社会学
かなり良く設立された幾らかの経験的画一性の意義のアセスメント、我々が発展
した幅広い分類的スキームを応用することによってである。基本的なポイントは、
社会構造の或る種の極めて重要な領域においては、我々は、経験的に観察可能
な構造が、理論的に可能な変数性の全範囲のようなものを網羅することを見出し
ていない;可能なとは、即ち、構造的構成素の純粋に理論的な置き換えと組み
合わせに従って〔いることである〕。本章の最初の急く紫苑で我々は、4つのその
ような”クラスター形成”の格別な重要性に対する証拠をハイライトした。1)親族
について性別関係と社会化、2)道具的獲得と役割の組織と階層化、3)パワー
勢力、及びテリトリー性について、4)認知的志向と”宗教”パーソナリティー
順応について幾らかの問題に対する価値-志向の圧倒的な統合の関係について。
もしそのようなクラスター形成の存在が妥当化され得るならば、むしろ、大雑把
方法のみでさえも、この妥当化は、社会学者の二重の目標に奉仕する。一方
では、それは、彼の構造的可能性の全体範囲についての近道的調査とそれらの
フラクションへの集中を正当化する;かくして、それは、社会の分化と構造的
変数の経験的に意義ある範囲の体系的分類への少なくとも最初の近似値に
達することを非常に単純化する。他方、根本的な動態的な一般化への社会過程
の法則の定式化への、そしてテスト、高度に重要な導引として仕するのである。
というのも、変数性の論理的に可能な範囲が何故、経験的に制限されるかは、
そのような法則に関してのみ見出せるからである。
第二の近道は、先行の分析のポジティブな理論的結果の幾らかを役立てる
ことを含意する。一般的行為の理論の、そして社会体系の理論の全性質は、
此処で、展開されるように、構造の変数性にまさに関して、制度化の焦点として
の価値-志向のパターンは、極めて重要な役割を演じなければならないという
ことである。その場合ではないという経験的実証は、現時点の一般的概念的
スキームの論破か、或いは相関的意義への分析的関連への還元であろう。
従って、我々が、根本的な価値-志向における変数性の可能性を見ることは
正当化される;もしそれが出発点とされるならば、そのような分類の純粋に論理的
な修正、価値-志向のパターンの社会体系の他の構成素との経験的な相互依存
について我々が知っていることによって必要とされる修正、を導入することは、
可能であろう。 この試みは、本章の最終セクションにおいて為されるだろう。
、 中間のセクションで、我々は、此処の最初のセクションで概観された経験的
クラスター形成で提出される問題と全体的社会の分類の間に移行を試みる
だろう、我々が、適応的構造と呼ぶだろうものと特定な社会体系の相応する
統合的必須要件の重要性を同じ社会の部分として異なる構造的要素の
制限のために示すことによって。
⁂ 社会体系の構造的構成素の
幾つかの経験的クラスター形成
1. 親族体系
純粋に分類上の親族から社会構造のおける親族のかなりの出色は、一般的に
高度に問題があるように思われる。前章、対象のカテゴリーで提示されたスキーム
での最初の見出しの元での分類は精錬されたが、それは、親族体系の主要な生得
焦点を名称する限りのもの、即ち、性別、年齢、そして生物学的親戚においてで
あった。 各々の元で、の分類やそれらが如何に組み合わせられたかを展開する
親族構造のタイプの分類の展開には一言も無く、換言すれば、社会体系の
一般的な構造の要素の可能な組み合わせのタームでは、親族は、高度の特別性
を持つ。知られて社会の全てで大きく輪になるという事実は、構造要素の非常に
多くの他の論理的に可能な置き換えが、排除され、社会構造の第二次的な立場に
格下げされる。
しかし、生物学的親類を基盤として構成された人口における卓越したグループ
形成は、確かに存在するが、幾らかの更なる一般的事実が非常に意義がある。
これらの第一は、親族単位へのメンバーシップであり、その内部での地位は、
普遍的に全ての知られた社会では、新生の幼児の初期の地位生得の第一義的
様式である。このことに従って社会化過程の非常に意義ある部分は、殆ど常に、
親族単位内で、構造的に重要な、戦略的な社会化のエージェントとして仕する
親族パーソナリティーとして生起する、かくして、初期の地位が、親族単位に
おいて誕生によって生得されるように、そして社会構造の残りとの関係が外部
社会の単位としてその単位の関係を通じてのみ、初めに媒介されるように。育児
は、親族の単位とそれらの内部での様々な地位に賦与された何処でもの機能と
なる。詳細は、様々である、特に、”公的教育”の期間のような他のエージェントや
健康管理のような他の様様なものの出現はあるが、しかし、中芯的事実は、
そのままである。
第三に、親族構造と性別間の性愛的感性の規制の間に普遍的な関係がある。
近親相姦タブーがある事は、即ち、血族結婚があるように、性的関心は少なくとも、
人口の広範囲な大多数において、そして夫婦家族内での禁じられた配偶者を
除いて、普遍的に真である。 性的関係の正統性が結婚関係性に限定される
ことは、普遍的であるが、既婚者に対する性的アクゼスについての分別の不足は
決してない;彼等の配偶者は、常に性的な特権を定義し、結婚後の外部での性
関係は、最も一般的に、むしろ、狭く、相手との適格性と機会➀によって、限られて
いる。
➀CF. G.P.マードック、社会構造、このポイントにおける
比較分析的証拠
最後に、親族単位それ自身は、それらの変様態にも拘らず、集合体のタイプの
構造的変数性の全範囲の狭小的なセクターに入る。パターン変数のタームでは、
それらの役割は、内部の役割は、常に、機能的に拡散し、集合体-志向である。
生物学的親戚を基盤にしたそれらの構成は、普遍主義な志向の第一義性を除外し、
獲得パターンの関連を、少なくとも、結婚選択過程に対するメンバーシップの基準
として狭小に限定する。
重要なポイントは、機能と構造的タイプの両方に関するそのような狭小な限度に対
して変数性の制限の殆ど普遍性である。何故、個人的な器官とパーソナリティー
特性のアセスメントの基礎において初期の地位-生得は為されなかったのか?
何故、全ての育児と責任は、時々、公的教育の場合のように、専門化された器官の
手に委ねられなかったのか? 何故、性的関係の規則は、育児と地位生得への
責任から分離されなかったのか? 何故、親族単位は、工業組織の様に、パターン
形成されなかったのか? それは、勿論、いずれかの、或いは、全ての局面における
根本的変動が時々生じるだろうことを決して除外しない、しかし、他の局面における
知られた社会体系の幅広い変数性にも拘らず、かなり重要な事実である。
特定のクラスター形成の説明の広範なラインついては、多くの詳説はまだ
不明瞭だけれども、かなり良く知られている。 最も根本的な考察は、多分、人間の
幼児の柔軟性、感受性、依存性の結果及び人間パーソナリティーの欲求-構造に
おける性の位置の幾らかの近密にアソシエートされる特色について関わらねば
ならないだろう。仮説的に、一つの重要な局面において下位-人間的起源からの、
即ち、母親に育児を集中することの、連続性、この事実は、妊婦の不能とほんの
最近まで母乳による育児以外が広く実行可能になった事実をプラスして、性別
役割の分化の基盤に横たわる。
それで、人間幼児のパーソナリティーは、常に、幾らかの非常に重要な初期の
愛着の最も大きく見える母親へのそれの文脈関係において発達する。 パーソ
ナリティー発達の一般的可能性にする事実が何であれ、それらは、社会構造の
中心的焦点として親族の永続性にとって非常に重要なように思える。子供は、
子供は、彼の幼少期の愛着の代替物として仕する大人の愛着への深く根付いた
欲求と共に成長し、更に、この愛着体系は、性差別の軸に沿って構造されるよう
になる。確かに性格的欲求構造の外観上非常に大きな制度的な柔軟性にも
拘らず同性愛がタブーとなっている、或いは、よくても非常に狭小に限定されて
大きな規制性は、中芯的な社会的画一性として育児のそれや異性愛関係に
格付けされるに価する初期の地位生得の更なる事実である。 それで、一つの
基本的ポイントは、とりわけ、子供は正常な異性愛の方向にチャネルされた性愛
的発達を持ち、それは、特別な感覚での或る性愛的充足への欲求のみを含む
許でなく、或る性愛的充足を拡散的な異性愛の文脈関係に位置する欲求である。
性的関係を含む当り前の男性の女性に対する安定した愛着は、ほとんど、自動的
に家族として結着する。もしこのことが発生すると、子どもを同じ単位の統合しようと
とする勢力は、全く非常に強力である。
人間家族がどれ程深く”本能的な”基盤をもっているかは、疑問のままである。
それがどうであれ、一旦、家族が与えられると、それを永続させる傾向がdある行為
レヴェルの勢力の強力な複合体が、子供が結婚と親の役割の両者を、彼のライフ
サイクルの関連ある段階で想定する気にさせることである。それは、社会構造と
動機づけ的勢力の基盤的複合体が時々破壊されるべきという事は、決して論外で
はない。我々の知識は、それを打ち破るに必要な条件が何かについて多く詳説
することは充分には出来ないし、パーソナリティーや社会構造に、如何なる効果
があるかについても、十分ではない。しかし、親族構造それ自身の巨大に高度に
意義のある可変性にも拘らず、他の局面の社会構造の変様性の範囲を通じての
親族複合体の持続は、勢力の協力な組み合わせを指摘している。
そのパワーの最も最近の大規模な実証は、ソビエト・ロシアの場合である。②
② Cf.アレックス・インケルス、”USSRにおける社会階層の
幾つかの側面” American Socipological Review,
9月号、1950.
マルクス的イデオロギーにおいて家族の保全を支持するものは何も無い;確かに、
バランスはたのことである。。革命の初期では、家族は主に”ブルジョアの偏見”
であり、直ちに”萎えて行く”過程にあると当然のように思われていた。それで、強力
なリアクションが現れ、方的タブーにおいてd、殆どの西側諸国よりももっと厳格な
レヴェルの家族義務の公的強行が現われた。このことをもたらす勢力の可能な
セットが最高幹部のリーダーシップにとって”良い政策”と見えたものの何れかと
共に示唆されるだろう。 大人の家族的役割の動機付けが組み立てられる基盤的
欲求-性向構造は、子供時代の愛着の文脈関係において発達する。それらの愛着
に関する両面価値は、緊迫性の程度は、様々であるが、規則である革命的状況
では、この両面価値の否定的なサイドの表現の為の機会が与えられたと見られ
て良いだろう。しかし、鋭敏な心理学的不安定さの状況は、退行への強い傾向
があったということは良く知られている。革命期は、明らかに、多大な不安定さを
創出する。厳格な家族道徳への要求の復活或いは少なくとも忍耐は、高度の
安定性価値と共に愛着欲求への広く広がった退行を含意したといってよいだろ
う。この解釈は、もし正しければ、社会における親族構造の位置に横たわる
それらのように役割-志向の複合体を廃止することの難しさを例解するだろう③.
③ 同様の過程は、フランス革命でも起こっている、摘出の
そして非摘出の子供の間の法的区別を廃止する試みと
の特別なコネクションにおいて。
2.道具的な達成構造と階層化
構造の可能性を制限する第二の重要なクラスター形成は、他の方法で公式的に
可能な階層化に対する道具的複合体の関係のそれである。道具的構造の独立した
変数性、一方では、設備の分配、他方では、報酬の分配、にむしろ鋭い制限が
あるという基本的事実があるように思える。実際の変数性は、つまり、論理的に
可能な置き換えや組み合わせの範囲よりもかなり狭小な”階層”の内部で生じる。
この階層のより”衰弱した”次元は、道具的志向が表現てき志向との融合から
離隔され、分化されている程度である。 この連続性において職業的役割構造
の現代欧米タイプは、最大の離隔の極の近くに立ち、一方、圧倒的な比率の
道具的機能が親族役割内で行われる数多くの無-文字社会に特徴的な状況が、
対極の直ぐ近くにある。確かに、社会構造における変数性の高度の意義ある
範囲であり、それに沿っての相違は、全てのシリーズの局面において根本的
である。
しかし、”階級”は、相対的に狭小である. たのm次元に添っては、多くの変数性
はないということの比喩的なタームの一つの言い方であれう。この次元は、道具的
役割の配分と威光の分配からの施設の分配或いは報酬の分配の独立の度合い
の事柄である。融合と離隔と役割の機能的分化の度合いに関して社会構造の
タイプがどのようにものであれ、そしてこれら2つは、密接な関連にあり、互いに、
密に統合される傾向がある。
統合の2つの第一義的側面が或る。第一は、普遍主義的、機能的で、性愛的に
中立な下位-体系の道具的な志向に関わる。此処では、関係的な報酬体系は、
主に、是認と尊重、そしてそれらの逆、否認と軽蔑、及び是認-尊重のスケールへ
のシンボル的関係と一致した非-社会的報酬-対象の分配から成り立つ。第二は、
報酬体系のレスポンスと愛の側面と道具的複合体の関係に関わる。後者の
文脈関係における親族の意義は、ただ今、輪郭付けられた考察の故に、非常に
大なので、何よりも、それは、道具的複合体や家族の間の関係への疑問と
なる。
第一に、道具的複合体それ自身の内で、分業の精錬と共に両者とも劣等-
優越の含蓄を持つ2つの軸に沿って分化される本来的な傾向がある。
最初に、達成価値は、もし、物事をすることに、”下手に”すること、と”上手に”
の間に何の区別もなければ、全く何の意味も無い。 物事を相対的に”良く”
するキャパシティーは、(それは、いつも、少なくとも黙示的に他の行為に関して
比較的な判断で”有能さ”」とか”技能”と呼ばれるだろう。分業の全ての精錬
された体系ののいずれも有能さのレヴェルの部分のかなりの範囲が不可避
的であろう、特に、異なった技術的な役割の体型とたった一つではないそのような
役割が考慮される時のように。
第二に、むしろ、基本的なレヴェルを超え、道具的な役割-分化の事情に対する
分化は、組織を要請する。 組織は、順次、集合体の事情に対する”責任”の軸
に沿って全ての複雑な協働的な過程を巻き込む連続的な組織のいずれもが、
公式でなければ非公式な、この軸に沿って有意義的に分化されるのは、社会
科学の最もよく検討された経験的組織の一つである。
効用さの必須要件は、有能さと責任の弁別戸共に、設備における弁別が行われ
ねばならないということは言うまでもない。最も効率の悪い労働者の手に最良の
道具を置くことは、明らかに、効率は良くない。 彼等のより低い効率を代償する
為に。そして更に、殆ど責任を負わない彼等へ最も重要な設備を任せることは、
またもっと効率的ではない。後者は、確かに、設備自身の関係的構成素の為に、
厳に、不可能である。 かくして、組織をその社会的状況に順応するに必要な
”コネクション”は、この機能に仕し得るのみである、もしそれが責任を実行する
彼等に入手可能ならば。
この質問は、道具的構造の効果性と効率の機能的必須要件と道具的達成の
評定の本来的な含蓄の両者である。しかし、道具的評定のそれ自身は、より高い
レヴェルの適性能力乃至責任を達成し、人のコマンドにおいてより広大な設備
を持つことは、それら自身において報酬であり、本来的に分別的な報酬である
ことを意味する。達成の評定による制裁される道具的体系を持つことは、報酬
の分化、内部的階層化を、また、そうなるだろう役割と設備の内部分化なくして、
文字通り不可能である。 この結論は、第Ⅱ章で提示された動機づけの制度
的統合の根本的論理に直接追従する。
このことはを回避する唯一つの方法は、適正能力や責任の相違の評定を、
それらの機能的な関連の否定を含みつつ、抑圧することである。此処で、再び、
ソヴィエト・ロシアの歴史が教示的である レーニン自身のステートメントを含む
マルクス主義的イデオロギーは、普通の”労働者”のそれを超える有能さのいず
れかが分化的評定④を激しく否定、しかし、事実発生したことは、ソヴィエト連邦
の発展的工業化と共に設備と報酬の両者は、金銭的報酬を含み際立って分化
されたことである。ソヴィエトの工業的監理者は、”インテリゲンシャ”に属し、
Cf.Barrinton Moore、Jr.ソヴィエトの政治、パワーの
ディレンマ、第Ⅱ章。
アメリカの相応者は、マルクス主議者によって”資本家”と呼ばれている事実
本質な構造の状況を変容していない。両者は、報酬を、普通の労働者のそれら
より遥かに過剰に受け取っている。この局面において、共産主義の平等主義的
理想が将来実現するかどうかは、これから見分けることに在ろう。多分、社会
学者は、少なくとも懐疑的と見れれるだろう。
このことは、勿論、道具的構成素と報酬の間の関係における変数性に余地が
あるということを少しも意味しない。かなりの余地はある。しかし、”階層”は、その
ような体系の構造的要素の置き換えと組み合わせよりも狭小であるという事実
が残ることは、我々が信じることがその場合でなければならない。
しかし、このことが、全てではない。道具的に志向された、例えば、職業的役割
占有者である同じ個人行為者は、また、その役割において充足されに幾らかの
表現的欲求を持つ。彼は、とりわけ、他の役割体系に内在されており、其処では、
直截な充足や個人への拡散的愛着や忠誠心が大きく見える。そのような志向の
職業的役割体系の相対的除外は、それ自身、精錬の高い程度への発展している
後者の必須要件それ自身である。
このことは、親族と”工業”社会の職業的役割の離隔の基盤となる。しかし、今
まで知られたい何れの社会も親族の単位を完全に、或いは長期間排除する強い
サインを示したことはないーー我々が観たソヴィエト・ロシアの場合のように。
これらの事実を見ると、親族構造が、存在する限り、職業的構造と全く不統合で
あるべきということは、考え難い。この統合は、とりわけ、報酬体系に関わる。
親族の連帯性は、もし、幾らかの設備や報酬が一人のメンバーにとって入手可能
ならば、他のメンバーにも”共有され”ねばならないというような性格のもので
ある。職業的な境域で高い位置にある殆どの男子は、彼等の収入で買うことの
出来るものを、もし家族が在るならば、家族と共有しなくともよい、そして、多分、
もっと根本的に彼等の威光も共有するべきではないということは、厳に、考え
難い。つまり、連帯的な親族〕である限り、職業的体系での高低」のある男子の
妻や子供を平等に扱うことは不可能である。彼等のパーゾナルな達成にも
拘らず、、換言すれば、社会の報酬体系のこれら2つの基礎的構成素、職業的
肯定、そしてそこでのシンボル的記述、そして”情動的安全”、親族単位における
愛とレスポンスは、何とか相伴しなければならない。このことの結果は、職業的に
分化された工業体系の組み合わせと有意義に連帯的な親族体系は、階層の
体系に違いない。そこでは、より高位に位置する者の子供は、彼等の生得的
親族的地位のおかげで、下位の者とは共有しない異分化された利点を持つ。
再びこの一般化は、ソヴィエト・ロシアの歴史で充分に確認される。この経験的
何時の日か、親族単位の排除を例えば無効にするだろうことが考えられる。
しかし、このクラスター形成の歴史的永続に照らすと、このことが、如何程可能な
のかと言う疑問が鋭く突き付けられる。
今まで、述べられてことが、”工業”社会で、真ならば、上掲で論及された連続
性の”融合”により接近した場合では、遥かもっとにそうであろう、勿論、そのよう
社会では、工業社会で特徴的な程度の”機会の均等”の近くにさえ、アプローチ
しているいずれも問題外である。しかし、親族の連帯性への欲求が、例えば、
現在のアメリカのレヴェルにまで低く過激に減少し得ない、絶対的に平等主義
社会ばかりでなく、その発展には、本来的に限度がある。
3. パワー体系のテリトリー性、勢力そして統合
第三の非常に中芯的な経済的クラスター形成は、パワー体系に関わる。道具
的志向が、設備の関係的な焦点を通時手突出した目的としてのパワーに
焦点する傾向があり、設備と報酬が 密接にコネクトされているので、そして
一人の行為者が、常に、もう一人のそれに相関しているので、如何にパワーが
容易に破壊的葛藤の焦点になるかその方法を、我々に提示した。最後に、
一つの第一義的文脈関係における勢力は、即ち、望まれない行為の防止は、
究極的に有効な手段であり、勢力は、テリトリー的ロケーションに本来的に
リンクされる、何故なら、それは物理的手段だからである。
事実のこの複合体は、社会体系の非常にじゅうような機能的な意義があるの
で、社会の圧倒的な統合的な構造は、いずれもその機能を効果的にパフォー
ムすることは、それが、一般的にはパワー関係、特に、勢力の制御内で
親密に結ばれていない限り、出来ないだろう。 どの社会も、勢力の使用の
なんらか制御を”頼りにする”基盤がない限り、そして破壊的葛藤が勢力への
訴えを結果する増す増す過激な手段への訴えの傾斜に沿って前進傾向に
よって不可避的に”パワーへの闘争”が限界内に維持されない限り、いずれの
社会も、生き延びることは出来ない。 もし、それが当該の部分的な社会体系
ならば、社会へのそれの関係の問題の本質的部分は、パワー体系の中に
ある、その位置のそれである。
統合的構造の幾らかのタイプは、勿論、それらの焦点を巡って非常に直接
組織される。理想形のタイプは、我々が国家として準拠するものであり、それ
は、親族体系の社会統合の、この領域と他の2つの階層の体系と同等価的
である、そのような分された構造が出現する程度に関する幅広い範囲の変数
性がある。とりわけ、それは、勢力の使用の組織のレヴェルの機能であり、
勿論、テクノロジーで或る。 この事は、順次、テクノロジーの組織にコネクト
される ーー もし、高度に発達した職業体系」が在るならば、それを特徴づけ
る組織的パターンが、勢力の使用の組織化へ応用され得るということは、常
に、可能である。 組織のレヴェルが高ければ、高いほと、暴力的葛藤は、
潜在的に破壊的となり得、そして、従って、それの制御への機能的欲求は、
甚大となる。しかし、いずれにせよ、勢力は、テリトリー的に組織されねばなら
ない。それらへの制限の定義なくして、同じテリトリー内で勢力を指揮する
様々な、異なる司法を持つもことは可能ではない。
これらの考察の重要性の具体的な例解の一つが与えられるのである。
社会における本来的不安定の幾らかの要素があるように見える。 其処
では、人口の大多数が農村地域社会の基盤において組織されている。
この事の理由の一つは、農村地域社会は、連帯性の第一義的焦点
として、非常に狭小な限度内で勢力の組織にとって効果的な単位で
あり得る。それは、もっと広大な組織に直面する防衛的単位ではない。
それ故、農村社会では、常に、 とりわけ、勢力の行使を組織し、安定
する"上部構造”が常にあらねばならない。問題点は、どれだけその
ような構造が、いわば、自給的な農民社会へ有機的に統合されるかに
あり、屡々、統合のレヴェルは高くないのである。 この環境状況は、
中国の歴史、そして東ヨーロッパにおいて非常に意義がある。そして、
とりわけ、共産主義運動mは、工業化社会でよりも農民社会で、より
遥かに大きな成功を持ったという衝撃的な事実に多く関わっている。
それは、 最低レヴェルの地域社会単位とパワー体型の圧倒的統合
の間により非常に堅牢な構造をもつ。
我々は、それで、勢力に訴える殆ど制限されない自由のある処、
そして、何よりも組織されrた勢力の独立した制御をもつかなり多くの
エージェントが同じテリトリー的領域内で作動する社会は、子供が
親族関係への準拠なく社会化される」、或いは、報酬体系が価値づけ
らた獲得の主要な領域での有能座と責任性の格付けに正反対する
関係にある社会と同じように稀であると結論するだろう。
4. 宗教と価値‐統合
第四の経験的クラスター形成は、簡潔に描出されるだろう。 第一に、
特別的構造では、変様するが、異なる社会の事態と緊急さが幾らかの
普遍的特色を持つ社会のいずれにおいても、ヒューマン・ライフの状況
には幾らかのタイプがある。ヒューマン・ライフのスパンの限界があり、
死普遍的体験、特に、早過ぎる死、彼が死に行くことを知っている人物
への想いとしてばかりでなく、生き残る者への感情的順応の問題がある。
人間個人への愛着の非常な意義は、重要なので、死が無関心に扱わ
れることは無い。第二に、社会に制度化された価値体系が何であれ、
定義する期待の現実は、必然的に、或い程度まで不確かか、不公平か
の両方である。部分的に、このことは、信頼できず、人間的関心との関係
において幾らかの局面で、”非友好的な”外部的自然に人を晒すことに
に起因するーー予期されない天候は、一つの際立つ事例である。しかし、
もっと根本的に、それは、いずれの価値体系の完全な統合の行為の現実
的条件との経験的不可能性を結果する。 社会体系のいずれも、或る程度、
統合不能であり、それは、制度的に正当な期待と事象の実際の結果の間に
不一致の問題が、常に、ある事を意味する。どのような態度を何に対して
とられるべきか現行の価値体系のタームでは価しない苦難か、そして社会
道徳的規範へ反抗し、罰せられない行動の存在、”悪魔の問題”について
の問題がある。 人間社会の道徳的経済は、完璧にバランズの取れた
書籍ではない。
期待の心理学とフラストレーションの結果について我々が知っていること
から、それらの領域で順応という難しい問題があることは、明らかである。
烈しい愛着の対象の死に無関心であることは不可能であるように、価値に
例えば、公平なものを、”なんという地獄”と言いつ、いわば、”難なく切り
抜ける”ような価値に関しての人の根本的期待への欲求不満を単純に
持つことは、不可能である。従って、事象と制度化された期待の間の正に
不一致を巡るこれらの問題への社会的に構造化された志向の或る種か
が、あるだろうことは、必須である。アウスグライヒ*の問題、動機付けと
道徳の経済の究極的なバランス取りは、社会学的文脈関係における宗教
の意義の中核である。
* 翻訳者注: ドイツ民族とマジャール人との和解を意味する。
1867のオーストリア=ハンガリー帝国の成立のこと。「和協」
と訳される。(出典:ブリタニカ国際大百科辞典)
この分野での現象は、非常に複雑で、ここでは、詳説し得ないが、勿論、
幅広い範囲の可能な構造はある。しかし、現時点の目標にとって本質的な
ポイントは、この領域での順応の機制の社会で存在するものが何であれ、
ーーそれらは、この場合の自然において特定のパーソナリティーにとって
特異でなければならないーーそれらは、どのようなものであれ、社会的に
構造されねばならない。それらは、或る意味で、或る程度制度化された価値
の優勢な体系に統合されるに違いない。それに相関して、ランダムに変様
出来ない。両者の領域とそれらの間の関係をカヴァーする認知的志向の或る
秩序もまた、あるに違いない; 不一致の”意味”の問題は、社会の信念体系
において単順に無視され得ない。更に、表現的シンボリズムのレヴェルに
おける統合があるに違いない。 これらの問題は、第Ⅶ章と第Ⅸ章で、別
別に、更に議論されるであろう。
本質的に、分析の同じ秩序が、更に運び込まれる。 社会構造の構成素の
他の経験的クラスター形成を論じるばかりでなく、既に、概要されたものの
間の相互の、幾らかの高度に一般化された関係を論じることによって。
此処では、この相互依存について唯一の例解が与えられる。宗教とパワー
体系の幾らかの関係である。
宗教運動は、一般的な価値体系の故に、人間の価値‐志向に対して卓越
した支配を主張する。それは、国家に制度化される価値に多少統合れるに
違いない。これらの運動の幾つかは、しかしながら、それらの宗教的倫理
において、勢力の行使を過激に拒絶し、或いは、寄り広範にパワーと関わる。
そのような運動は、基礎的ディレンマに直面する。中芯的な制度制度的構造
から疎外される限り、パワーと勢力の問題は、初期のシーザーに格下げされる。
しかし、存続している社会で最も優勢な宗教として制度化されたならば、これら
の問題と関わりを幾分か持つようになるだろう。その可能性は、様々である。
単純な解消は、機能的には社会の政治的な統合的構造と融合するようになる
が、しかし、これはこれにおいて、多分、他の局面でもそのように”遥か遠くの
惑星”の価値であるものの維持に独特な厳しい緊張をおく解決である。しかし、
中世のカトリックの様に教会と国家の構造的隔離(アメリカ的感覚の分離では
なく)は、安易で、感嘆のどちらかの解決ではない。もし、宗教が、教会として
高度に組織化されているならば、この文脈関係において責任からそれ自身を
完全に乖離することは出来ないーーそれゆえ、我々は、勢力の行使を拒む
教会”それ自身”のような現象を我々は持つが、しかし異教徒は、宗教裁判で
異端において有罪判決を宣告されるや否や政府によって火刑にされる。
宗教的な価値-体系に相関する”制度化のディレンマ”は、は、社会体系の
分析の最も重要なスレッドであり、特に、第Ⅺ章の社会変動で、更に、分析
されるであろう。此処では、共産主義のような”世俗的な”宗教のディレンマ
がある。それは、また、倫理的原則として強制と勢力の行使を理想の
国家において拒む;確かに、これは、多分、共産主義がどのようになるか
についての公式なマルクス主義の宣言における最も確定した項目である。
しかし、我々が見るように、運動として、”資本主義”社会内での革命を
推し進めるよりも、ソヴィエト・ロシア内での”社会主義”のステージに
おいて、勢力の行使を拒絶することから遠く離れ、共産主義運動は、
それを誇張し、称賛した。 明白な疑問は、どのように、もしあるならば、
その移行はなされるのか、にある。
社会構造の経験的クラスター形成の4つの事例は、例解されるだろう。
網羅的ではないが。 それらは、最初に、社会体系の構造的分析が、
多少とも恣意的に定義された構造の構成素の置き換えや組み合わせの
論理的可能性を紡ぎ出る事柄ではないことを意味する。我々は、それらの
構成疎を動態分析の問題とのコネクションへ持ち込むためのステップを
取った。 それは、常に、パーソナリティー構造と状況の関係にある動機
付けの分析である。 このことは、社会体系は、体系としてそれらの
持続性の為の機能的必須要件を充たさねばないという事の
もう一つの言い方である。
このような経験的クラスター形成は、かくして、動態的問題への優れたアプ
ローチを我々に提供する。多くの場合における価値-パターンは、これらの
クラスターの限界を超え、可変する、既に記されたように、勢力の行使を拒絶
するドクトリンの場合の様に。従って、歴史的に所与された構造の”階層”の
エッジに沿って、そしてそれらのエッジを超えて、パターンの制度化の可能性
に関わる。エッジに沿って、我々には、多少とも、明確に、レディーメイドな
”実験的な”状況であるものが提供され、それは、ソヴィエト体制が大規模な
実例である。
そのような状況が連続的にに生起するという事は、後に提示される証拠
に依って指摘される。⑤ 全ての社会体系には、価値-志向の”ユートピア”
パターン、つまり、効果的にロングランの制度化のよく知られた条件に一致
しないパターンへのコミットメントする強力な勢力がある。かくして、現代
社会では、家族の完全な廃止への絶対的平等主義、そして強制の絶対
的拒絶の擁護は、このカテゴリーに入れられるというのは、公平な様に
思われる。
⑤第Ⅻ章を参照されたい。
しかしながら、階層のエッジに厳格なラインがあるということを案じする
のは、危険であることを明らかにされるべきである。逆に、そのラインは、
不明白であると信じるに如何なる理由もある。社会は、安定したものでは
ない、そして幾つかのものは、確かに、静態的なものではない。以前は、
そうでなかったその発達の或るステージで可能になる;単純な事例を
取ると組織化の現代的スケールは、コミュニケーションと記録保持の
現代的手続きなくして、多分、可能ではない。しかし、どのような所与の
時間におういても、このラインの不明確さは、もし、幾らかの人々が、
それを十分に欲しただけであっても、”何でもが可能である”ことを意味
社会しないし、もし、そのラインが、更に、重要なこととして移行される
ならば、関連ある機能的緊迫状態を充たす特別な機制か、または発展
されねばならないことを意味する。除外された構造の”機能的代替肢”
の発展がなければならない。
⁂ 経験的社会の構成
社会構造の要素の経験的クラスター形成の先行する概要の含蓄は、
社会は、幾らかの機能的緊急事態に晒されており、それらなくして、実際
的な社会構造の知られた範囲が構造的構成素の置き換えと組み合わせ
のランダムな配置から結果するだろうそれらのフラクションであるという
事実を、我々は考慮出来ないことである。これらの緊急事態には、2つの
クラスがある: 第一は、普遍的必須要件であり、安定して持続的性格
のいずれの社会体系によっても充たされる要件であり、そして、第二は、
一致性の必須要件、同じ社会における構造的要素の共生の範囲を限定
するそれらであり、職業的役割体系の所与のクラス、それと相伴する
親族体系のタイプが或る種の特定可能な限界内で入るに違いない。
社会構造の要素は、2つの源泉、行為の志向のパターンとそれが志向
志向する状況の要素から派生した。行為の体系の社会体系を含む組織
への志向的要素の関連は、価値-志向のパターンの役割に集中する、
そのような組織の基礎的代替肢が見出される筈であるのは、それら
パターンが応用する選択的ディレンマに或る。 我々は、もし、社会体系
の構造が単にそれらの構成素行為者の”自由選択”の機能である
ならば、それらの主要な構造的輪郭付けは、価値-志向のパターンのみ
のタームでの記述可能であるだろう。社会体系の構造が文化的要素
から派生可能であろう。社会体系の構造が文化的要素から派生可能
でないという程度は、従って、決定因の重要さの尺度であり、我々が、
”緊急事態”と必要条件”と呼んだ2つのクラスの基礎を為し、それら
は、体系としてのそれらの作動の現実的な条件に晒されている。これらの
要因の結果は、価値-志向の優勢なパターンのタームにおいて”完璧な
統合”のモデルとなるようなものからの逸脱のパターンとして考えられる
だろう。そのようなパターンは、所与の価値体系と相関して、我々は、
社会体系の適応構造と呼ぶだろう。そのような構造の安全なアカウント
分類は、知識の現時点の状態において成し遂げられ得ない、しかし、
我々がまさに持っている知識は、体系化の始まりへの大まかな指針
として仕することが出来る。
我々は、文化の価値-志向の優勢なパターンと直接制度化する社会
構造のあの部分を区別するだろう:例えば、アメリカの場合、その中核は、
職業的体系であることは、全く疑いの余地はない。しかし、社会体系の
具体的な下位体系としては、これさえも 、価値-体系それ自身のパターン
期待と厳密に対応することは出来ない。この構造にさえも、適応的過程
がなければならないだろう。それは、所与のの条件の下で、当該の価値
パターンを制度化する緊急事態への適応の様式として解釈されるだろう。
即ち、人々が、役割それ自身において晒されている緊張において、そして、
それらと同じ人々が社会の他の側面で巻き込まれている他の役割との
組み合わせにおいて。例えば、アメリカの職業の場合、職業的、そして
親族的役割の両方における同じ個人の同時的関与は、主要な問題の
一つである。
しかしながら、限られた場合にのみ優勢な価値パターンの直接な制度
化する社会構造が、上記の資格と共に継続する社会の機能的必須要件
の殆どを充たすだろう、だから、同じ社会において、もっと広範な感覚で、
適応的な他の構造がある。それらは優勢な価値-パターンよりも他のパターン
の制度化によって第一義的に組織されている;このことは、例えば、アメリカ
社会における親族の場合であろう。
継続している社会の緊急事態は、一つの持続的に統合されたパターン
が必要な範囲を網羅することは、非常にあり得ないということを指摘する
証拠を我々は、既に、提示した。 従って、二次的な、或いは従属的な
様々な価値パターンの制度化が、なされねばならないだろう。それは、
或る感覚でその応用と正当化が主要な価値パターンへの阻害を最少限
にするような仕方で幾らかの文脚関係へ限定されるという感覚で、条件
”忍耐する”ことの必要によって挙げれた統合のの問題、そして、確かに、
主要価値からの逸脱パターンの制度化は、社会体系にとって主要な統合
の問題であり、そうであればあるほど、それらの構造は、ますます、複雑
となり、分化する。
従って、価値-志向のパターンのサイドからの社会構造の4つの分析に
アプローチすることは、可能であるこの。手続きによる第一のステップは、
問題となっている価値-体系の為の第一義的焦点が、前章で概要された
結晶化が、どのポイントで見出されるだろうか、そしてその領域で問題と
なっている価値-パターンの実現化の機能的要件は何なのかを考察する
ことになるだろう。これらは、全く理想的なパターンの修正をどのように
必要とするのだろう? それで、問題点が挙げれれ挙げならなくては
ならない、我々が社会の機能的体系必須要件について知っていることを
与えられ、他のどんな構造が同じ社会体系に、又、存在しているか、
そして、それらの他の構造が、どのように中芯的な価値-焦点的構造に統合
され得るか?について。 この手続きは、事実、本章の最終セクションで、
各々の社会的価値体系の4つの主要パターン変数の組み合わせの為に、
粗描的に、引き継いで行われるだろう。
この課題を扱う前に、全ての社会の最小限の構造的特色の幾ついてより
体系的に探究することによって、幾分より強固な土台を区に建てることが最善
で あろう、そして、それらが、どのようにが更なる分化とヴァリエーションの出発
点を提供を示すことによって。論点は、 どの社会も、見出さなければならない
幾らかのタイプの関係性があるということにあるだろう。それらの相関間的な
重要性と他の関係は、幅広くなり、変様するだろうけれども、我々が、為す
だろうことは、両方の端から、経験的社会の構成の問題へアプローチすること
であり、機能的に要請された最小限の構造のそれから、そして価値-志向
パターンの分化のそれから、そして具体的な関係性の体系におけるそれら
それらの実施の含蓄から〔のアプローチである〕。
至る所での議論を通じて、両方の文脈関係において、前章で展開された
準拠点の体系は、特に、137ページに提示された6つのカテゴリーの根本
的なアウトラインは、我々の第一義的ガイドとなるだろう。。 問題点は、
に、我々が描写している社会においてどのように構造が見出され、どれが
6つの各々に適合するか、そして更なる精錬された下位-カテゴリーに、
それらを関連づける。
我々は、地位と役割の生得と獲得の焦点の関係性において際立ち、明ら
かに根本的な非対称性を支持することから出発しよう。つまり、生得的関連
でのカテゴリー化があきらかに獲得的関連におけるより、或る優勢性を
持つという意味である。それに相関して、獲得-期待が定義される生得的
基盤がある。我々が親族クラスターの普遍性の含蓄にこれらの考察を組み
合せるとき、我々は、社会構造の根本的複合体へ注視するだろう。其処では、
生得基準が、中芯的パートを演じ、そして我々が知る限り、全ての社会に
対して共通である、多くのヴァリエーションはあるけれども。
これは、分類的関連において、年齢と性別の特性として、そして、関係的
関連では、生物学立と生得準拠的としてのテリトリー的所在を利用する
クラスターである。 第一の事実では、これらの基盤に親族のグループ
形成が、核的単位として奉仕する夫婦家族〔核家族〕と共に、組み立て
られ、親族体系の構造において巨大なヴァリエーションはあるけれども、
この焦点に関しては、恒常性がある。➅ その上、先のセクションで、指示
⑥親族体系の変様性の全体的主題とそれらの住居的
位置づけに関しては、マードック、G. P.の社会構造
を参照されい。
したようにこの事実は、更なる含蓄を持つ。この事は、真である。第一に、
何故なら、親族単位が与えられ、より広い社会での子供の地位は、卓越
して、生得的に定義され、そして、確かに、親族の影響力が広大であれば
あるほど、一般的に生得的な強調は、強力になる。第Ⅱ」に、他のパターン
のタームにおいて、この生得的強調と特定主義と拡散性の間に本来的
関係性がある。特定主義は、関係的基準による生得の事実から生じる。
特別的機能を巡って組織されないという事実から生じるが、しかし、関連
生得基準によって一緒に位置されたそれらの一般化された連帯性を巡って
である。 結婚相手の線焚きに関してのみ幾らかの」条件の下で、親族の、
主に、生得的構造は幾らかのポイントで破壊されるだろう。
親族単位の拡張的な生得的連帯性の中芯的側面は、彼等が最も正常な
人々の居住の単位を構成する事実である。 生得的焦点としての生物的
な縁続きをテリトリー的位置づけに結びつけるのは、この生活環境である。
それ故、親族単位が、居住の単位である限り、我々は、親族と住居地域
を直接一緒に結び付けた。居住のタームでは、地域社会は、親族単位
のクラスターであり、或いは、少し言い換えれば、効果的な具体的な親族
の単位は、同時に親族体系と人口のテリトリー的組織体系の両方の第一
義的単位である。
勿論、このパターンには、多多のく例外がある。様々な人口的要素、学生、
幾らかの専門化された仕事のグループ、例えば、木こり、僧侶と尼僧、そして
軍隊は、親族単位として”生活し”ない。 しかし、親族単位から離れて生活
ことが、ライフサイクルの至る所で平穏な個人の第一義的パターンである、
知られた社会はない。
ここで我々に関わろうとする親族と居住の間の内部的な内-関係性は
ない。⑦ しかし、2つの構造のこの組み合わせの普遍性を与えられて、
それは、分枝する構造的関係性が追従され得るような焦点を構成する。
➆ Cf.Murdock, 前掲書
例えば、その組み合わは、人口のテリトリー的移動性と安定性の問題の
社会学的な設定の少なくとも一つの構成素を与える。その上、テリトリー的
移動性が親族単位を単位として動かすか、或いは、個人を、それが
社会学的意義を獲得する親族単位との関係性に置かねばならないから
である。
しかしながら、ここでコメントの為に選ばれる2つの方向の分派が
ある。 それらは、親族単位をより大きなクラスター形成に組織する
本質的に2つの根本的に異なる方法である。第一に、民俗グループ
である。 民族的グループである。 民族的グループは、親族単位の
集まりであり、そのメンバーは、彼等の起源を共通の先祖からの家系
に関して、或いは、同じにカテゴリーされる民族グループに全員が所属
する祖先からの家系かに関してかのどちらかを追跡する。 それは、
親族のより大きな集合への拡大としてか、或いはそこでは所与の親族が
適合する、生物学的親族で定義されたマトリックスとして見做されるかの
観点に依る。民族的グループは、普通、同族結婚であり、メンバー募集
は、出生による。勿論、民族間結婚による同化やもっと他の機能でも、
或る比率では、可能であるけれども。民族グループの生物学的独自性は、
仮定的に、社会構造への意義があるだろう、もしそのグループが、より
大きな社会体系における明らかな社会的地位は特徴されるならば、
特有な文化的伝統によって、非常に屡々、少なくともマークされ、
シンボルされる。
⑧ ユダヤ人の場合のように。 黒人の場合では、
可視性のシンボルとして、色が特有な文化の位置
を取る。
分派の第二の方向は、社会体系内部での威光の地位に相関する親族
の選別である。これは、我々が社会的階級、階層体系における大凡
平等な地位の親族の集合である階級と呼ばれるものである。民族的
グループ形成や階級は、階級的移動性が殆ど無いか、全く無い処では、
一致する。インドのカースト制体系は、この状況の近似値である。しかし、
”開かれた” 階級体系の場合、両者の間の区別は、勿論、非常に重要
である; 分化の基盤は、相互に横断する。
何れの社会の内部でも、従って、親族体系とは何か、それの包摂性
の様々なレヴェルにおける地域社会への組織される基盤は何か、
そして それは民族的乃至グループへ分化されるか?、を問うことが
必要となる。 どのグループそしてどの基盤において、そしてどのように
相互に関連づけられるか? これらの構造には、機能的イクイバレント
がある事は可能であるが、地域社会の場合においては、 それは、
厳に、不可能である。 民族的なグループ形成の場合では、可能で
あるが、しかし全体社会が、単独な、分化されていない民族グループ
であることの基盤における場合のみである。だから、それは、常に、
それ自身同一社会として扱われたものの外側のグループ相関的な
民族的グループなので、我々は、組織化のこの基盤は、決して不在で
あることはない。論理的に、人類は全て単独の民族であり得るだろう。
しかし、階級は、むしろ程遠い。 同様に、民族的、そして階級的組成は、
限られた場合にのみ一致する。 しかし、民族グループ内での階級、
分化は、役割-期待よりむしろ規則である。最後に、親族単位の威光
分化、つまり階級の分化、或いは、程度は、また、普遍的のように
見える。
グループ形成の、これらのタイプは、関係的な生得的基準をめぐって
組み立てられるという事実は、それらとも役割-パターン形成の非常に
重要な含蓄を持つ。結婚相手の選択と言う一つの例外と共に、親族
グループへのメンバーシップは、生得されるのみである。民族グループ
でも同様である。地域社会の場合は、地域社会への加入は、自発的
であろうが、しかし、居住が、例えば、地域社会税が与えられるが、
後は自由である。これは、大きく、獲得規準の範囲を少なくとも狭める。
第二に、居住は、役割-義務の特別性よりも、拡散性を継続する傾か
せるか、どちらかである。 と言うのも、逃避しない、或いは居住の変更
犠牲の下にのみのどちらかの状況の緊急事態が、どの特別的に
定義された文脈関係に限定され得ることを継続する方法が全く無い
からである。
従って、4つのタイプのグループ形成、親族、地域社会、民族、そして
階級へのメンバーシップは、あらゆる社会の個人行為者を特徴づける
べきであり、そしてそのようなグループ形成は、必須の資格付けと共に、
あらゆる社会の構造の部分として探求されるべきであろう。その上、
これらのグループ形成は、もし全体的と言うのでなければ、部分に
生得的タームにおいてパターンづけされる; それらは確かに重要な、
通常、優勢な特定主義的な要素を持つだろう。 そして、もし資格付け
なくしても、拡散的強調を持つだろう。
”最少限の社会”と呼ばれたものは、構造として、これら4つのカテゴリー
に関して、独占的に記述可能かもしれない。 もしそれらの各々の内部
で分化された役割の必須な識別がなされねばならない。それらのいずれ
もが、志向タイプの第一義性をめぐって主に組織かされていないという
ということは、注記されるであろう。
次の問題点は、これら4つのグループ形成の内ばかりでなく、それら
のどれもから構造的に独立している役割の分化と下位-集合体に関わる。
それらは、 第一の事例においては、”プライヴェートな”道具的、そして
表現的志向に開かれている領域と志向の下位ー体系内で展開された
構造に関わるだろう。分化の最も低いレヴェルでは、それらは、生得的な
なグループ形成に純粋に”固有”であり、 その場合、そのような志向は、
理想形のタイプの場合、下位-集合体を代表する代表的な役割に限定
される。このことは、例えば、隣接の地域社会の間の親族グループや
関係の間で結婚のアレンジメントを仲介することも同じである。
しかし、そのような構造は、固有のものである以上であるだろう。
そのような場合、構造的により原初的なタイプは、既に見たように、
”生態学的複合体”であり、 例えば、道具的な場合では、市場の絆
であり、表現的な場合では、”純粋にパーソナルな”友情である。
それで、次の構造的精錬のステップとして、特に、道具的な場合、
構成の生得的基盤の代わりに志向タイプの第一義性によって特徴
付けられた集合体を展開するだろう。更に、これらの最も卓越した
ものは、道具的に志向された組織である。
生態学的複合体と志向タイプで構成される集合体の両者の内部
では、プレミアムは、生得的を越えて獲得規準の上に置かれる。同様に
普遍主義のより大きなスコープがあり、そして道具的タイプにおいては
道具的第一義性は、情緒的中立性を含蓄する。
生態学的複合体とそれらの構成的志向の第一義的役割は、それら
のタームにおいて、もし 安定化lされているならば、社会体系の構造
として扱われるべきであろう、丁度、生得的基盤以外において組織
された構成的集合体の様に。それらは、或る感覚で、いつも、生得的
形成に本来的に備わっているが、しかし、勿論、それらが地域社会の
最も広い基盤と民族的所属性を除いて全てを陰らせるポイントまで
発展し得る。 勿論、これは、社会の”工業的”タイプの場合である。
統合的構造は、このスキーム化を容易に適合する。パワーテリトリー性-
勢力複合体は、非常に重要なので、社会であると考えられているものは、
もし分化の高度のレヴェルにおいて、この基盤で単純な集合体として
一般的に殆どいつも組織されている、即ち、」”政治」的」に組織された”
社会であろう。稀な場合もある。古代ギリシャの様にそこでは、むしろ、
何より都市ー国家の”家族”が、現実的社会を構成した。 しかし、この
全体的な政治的集合体の構成的行為者、個人及び集合体両方の
”プライヴェート”な境域への関係は、どの社会体系の構造的特色の
主要な領域を構成する。記されたように、この事は、殆ど常に、地域
社会のテリトリー的基礎と民族的伝統の両方に、同様に、階級基盤に
おける内部的分化に密接に統合されるだろう。
しかしながら、既に見たように、文化的志向の統合の幾らか側面が
政治的統合から分離され、統合される可能性がある。これには、政府
から分離した教会の場合がある。文化的投合にとって全体的な公式的
組織なく、”プライヴェート”」なそして非公式な境域に殆ど全般的に
所属することは、また、可能である。 その歴史の多くが政治的単位の
多数性と共存したインドのヒンズー教の場合のように。
最後に、全体的な組織として設備と報酬の配分の”経済”と我々が呼ぶ
ものは、社会の構造の部分として扱われなければならない。既に見た
ように、それらは、互いにそして生得的特性に密接に統合されねばなら
それらは、本質的に、体系の単位を秩序する様式、志向-役割そして
構成行為者、個人と集合体両方の対象-役割として見做される。設備と
報酬の分配における平等と不平等の度合いにおける相異、この分配の
制御の逼迫の度合い、単位としての個人及び集合体等の相関的卓越さ、
設備や報酬の両方のアクセスの機会の平等と不平等、生得的な出発点
に相関する移動性と非移動性について論ずることが出来る。
上記の考察は、我々に、社会の構造的分化の問題を扱う準拠枠を与えて
くれる。文化のより精錬されたタイプの全ての基礎になっているのは、根本
的に生得的なグループ形成であり、それらについては、順次、親族とテリトリー
的な位置づけが最も根本的であるように思われる。それらは、民族性と
階級的格づけが密接であるが、人類学的探求からの厖大な証拠が
示すように、ヴァリエーション許りでなく、幅広いヴァラエティの様々な
方向での構造的精錬の、そしてそれらの生得的焦点と優越して、特定
主義-拡散的役割パターンの第一義性の多様性がそれらを打破する
ことなく、それらを巡って組織されるだろう ーー これら範囲は、概して、
無-文字社会に特徴的なものである。一般に、道具的、そして表現的
機能の両者は、役割ー構造(タイプ4、第Ⅲ章、p。87)の融合された
タイプの内部で行われる。そのような関心の隔離は、優勢的に、機会
によって 役割分化には依らない。交換の相互作用の文脈関係は、
特定の役割を互いの関係において対処しながら、また優勢的に、
特定的-拡散的な役割-体系に包括され、とりわけ、親族関係、或いは
時々、そう言われたように”親族のフィクション” のタームにおいて、
制度化される。 設備と報酬の体系の”経済”は、このように、構造に
分化されるではなく、中芯的な生得された役割-体系、それ自身の為の
重要な部分である、勿論、そのような体系には、不可避的、或いは
”隙間”があるだろうが、しかし、概して、これは、メジャーな構造の
タイプである。 その内部で、繰り返させて欲しい、非常にかなりの
構造的ヴァリエーションと精錬のための余地があるだろうことを。
構造的分化の質的に新しい傾斜は、しかしながら、2つの更に密接な
相互依存の発展が生じた時に、現れる。 それらの第一のものは、個別
行為者や集合体の構造的そして表現的関心と機能もそのものに関する
役割の専門化である。 役割は、生得された拡散的船体性のグループ
形成のとは構造的に独立している。 第二に、それらの役割と集合体
単位の間の”自由な”交換の関係性のネクサスの成長であり、そこでは、
タームの決着は、個別てきな連帯性の関係性へは 融合しないが、
しかし、独立的に可変である事は許される。 このこは、 順次、設備
としての報酬としての両方の所有物への権利の制度化を、生得的-
特定主義的-拡散の連帯構造の唯一つの側面以上である基礎に
おいて 必要とする。 分化の新しい傾度は社会のより”先進した”
タイプを構成するとして通常見做されているものであり、その過程は、
精錬の非常に変様する程度において実行されるだろう。それは、確かに、
しかしながら、その内部での精錬がどれ程であれ、他のタイプからすっかり
欠けている人間的事情のアレンジメントの可能性を開示する。確かに、
文化的レヴェルのリテラシーと累積的な文化的発展に関わる。
価値-志向の異なるタイプは、勿論、上記の構造的な可能性への相関
的な選択的な、強調を持つ。このような選択的強調は、この章の最終の
セクションで概観されるだろう。
137頁の分数の上記の応用と後続の最終章のは、我々を体系として
の社会の妥当な経験的の対して必要なカテゴリーの体系に比較的に
密接に近づける。 それらは、全て行為理論の根本的構成素から体系
的に派生した。 最初の近似値としてそれらは、完全であるべきである;
そして非常にはっきりと、それらは、アドホックではない。 それらは、
体系的な輪郭づけを構成する。そのタームにおいて、我々に入手可能な
動態的知識はリンク付けられ、調査への重要なガイドとして仕することが
出来る。
次の課題は、社会体系のこれらの部分の間の相互コネクションの幾らか
を探求することになるだろう。 経験的クラスター形成の議論において
もたらされた事実は、再び、ガイドとして仕するだろう。
⁂ 所与の社会体系の構造的必須要件
所与の状況における実行の緊急事態に対する所与の価値-志向
パターンの主題化へ戻らせてほしい。この状況の本質的な部分は、
それ自身が制度化される社会体系の他の部分の本質である。
つまり、価値-志向パターンの実行に対する行為は、人類にとって
普遍的で、それ故安定した社会体系の存在にとって全く幾らかの
動機づけ的な、そして状況的な緊急事態への適応され得なければ
ならないばかりでなく、同じ社会体系内部での一致性の幾らかの条件
を充たさねばならない。前者のセットは、普遍的な必須条件と呼ばれ、
後者は、一致の必須条件、或いは構造的必須条件と呼ばれた。 2つが
なってこそ社会的変様性への制限が我々に与えられ得る。。
最初に、”工業的”職業の構造の現代タイプの問題の幾つかを議論
しよう。 その第一義的特報は、普遍的-特定的-情緒的に中立な獲得-
志向の役割の体系である。このタイプの特定な役割がなければなら
ない許でなく、それらは、複雑な体系へ同じ組織内部、そして個人と
組織にリンクする生態学的複合体内部において一緒に適合しなけれ
ばならない。そのような役割体系が、親族構造と直接相同的である
ことは、論外であり、だから、 それは、封建時代のように相互連結な
親族のネットワークがそうであるように、あるべきである。それは、親族
体系の様々な理由で離隔されねばならない。 何故なら、親族の圧力
とは、独立して、移動性の自由の幾らかの範囲か、例えば、地位の変化
を含んで、それに対して本質的であるからである。これらの条件は、親族
の多くのタイプに本質的なものとは一致しないだろう。確かに、後者”
”夫婦結婚”のタイプは、それは、 高度に他の連帯から夫婦を孤立させる
ので 工業的経済を相関的に全く妨害しない唯一の親族タイプである。
それ故、我々は、かなりの確信をもって言えるだろう、 彼等が、選ば
ならない親族の組織のために、彼等の価値が彼等に中世のヨーロッパ
や古典的な中国の体系体系を、我々のものよりも好ませたと。彼等の
タイプの親族体系や高度に工業化された経済のいずれかを持つことは
可能であるが、同じ社会で両者を持つことは出来ない。 換言すれば、
社会のどのメジャーな部分においても所与のタイプの構造は、残りに
その構造を与えられて、もし それが継続する積りならば、同じ社会
での他の関連ある構造は、実質的により希少な関連の領域における
構造の変数性の幾らかの一般的限度を超えて変様することが出来
ないという感覚で、必須条件が負荷される。
第二の実例は、中国の政治的統合、”官僚的帝国”である。 これは、
想い起されるように、皇帝の下で、宗教と文化の権威のジンテーゼが
孔子の古典と競争試験〔科挙〕での選抜で精錬された任命制の役人
グループの手にあることを意味する。この選抜は、完全な機会の均等
の基盤において、名目上、全員に開かれた。
実際、政治的解体の時代を除いて、例外は全くなく、土地-所有、
都市-居住、”名門”階級の支配にある公式的立場へのアクセスの
効果的独占がある。 この階級は、その公式的特徴は、孔子の価値
体系の厳しい含蓄とは矛盾するけれども、そのようなレジームを可能
にする機能の本質的セットを持った。2者は、どちらか体系を破壊する
だろう発展の2つ重要なタイプをブロックするように統合された。 第一は、
封建制体系であり、それは、親族的基盤における国家の力の敵切さへ
繋がり、それによって普遍主義と国家的装置の中央的制御を崩壊させた。
このことは、一方では、封建化する誘発剤から名門の影響力のある
要素を 何故なら、彼等はいずれにせよ”同じサイド”なので、剥奪する
ことによって阻止され、他方、任命制の力と関係する設備を通じて中芯的
制御機関は、互いに潜在的の危険な要素を遠ざける立場にあった。⑨
⑨もう一つの重要な含蓄は、息子達の間の相続の
平等性であり、それは、 親族の関心の長期間の
固定化を弱めた。
第二に、しかしながら、この構造は、まだ、”資本主義”のようなものの
何れもの発展をブロックする、他の局面では、後者をセットすることは、
非常に好ましいこととは言え。 それは、、都市の統合、其処での居住、
そして名門階級のパワーへの参加、そして上昇移動の要素をその
パワーの軌道と生き方に吸収するキャパシティーによって、なされた。
資本主義は、孔子的ジンテーゼを中国の”知識階級”に独特な拡散的な
政治-文化的タイプの”人道主義的普遍主義”へ統合され得ないだろう
グループへ内的パワーのバランスを移行することに依って、破壊される
だろう。その国家は、西欧的タイプに似せたという感覚で官僚的になら
ねばならないだろう。 この場合、従って、再び、社会の鍵構造、特別な
中国タイプの官僚性のたの構造、名門階級の地位への関係、そして前者
にそのレーゾン・デートルを与える文化的価値-パターンとの完全な同調は
決してしないもの、を例解する。
もう一つ事例は、簡単に論ざれるだろう。この場合、構造的不一致性
は、名高い社会的統合の打破へ導かれる強力な動態的要因であった。
つまり、体系の均衡の変様した状態である。これは、忠誠ヨーロッパに
おける教会と国家の有名な問題である。文化的にカトリックの教会は、
中世の文明には本質的であること、極めて明かである。それは、統合の
圧倒的な文化的焦点であった。しかし、聖職者庁の階位制Ⅱ、ローマ
教皇の聖職パワーの履行である機能に関して制度化された。中央化
制御は、 カトリック体系の、まさに、エッセンスである。しかし、世俗の
構造は、封建性の基盤で組織された構造的葛藤は、鳥分け、組織の
機能形成の為の本質的な地位保有を通じてのみアクセス可能であると
いう事実に焦点を絞った。従って、司教と牧師は、誰も、教会の牧師として、
そして封建制の上級の臣下として両義的な立場にあった。2者の役割は、
構造的に不一致であった。
そのような状況では、11世紀でのパワーの非常な上昇と教会の文化的
威光は、封建制への最も腐食的効果しか持てなかった。しかし、封建制
の解体、順次、忠誠文明のジンテーゼを結局破壊した勢力を強く刺激
教会世俗的パワー構造 の間には、不安定なバランス以上のものは
何もなかった。そしてこのことが、高い緊張をんだ。一方の勝利は、他方
を破壊するだろう。それが、教会の勝利であることは、西欧文明において
多分、不運な意義が或る。 何故なら、バランスがたの方向に傾いた
ならば、社会組織において世襲の原則は、多分弱体化されずに、固定化
されるだろうから。⑩
⑩聖職者の禁欲は、おそらく重要な要素である、何故なら、
それは、地位の階位制の既得権の全勢力を教会から
除外したからである。
再び、社会構造の相関的な一班概念を定義する経験的クラスター
形成の場合のように、一致の構想的必須条件が許容するヴァリエー
ションの教会は、厳しく固定されていない。 確かに、忠誠の場合がそう
であるように、 構造的葛藤の非に多くが、緊張と不安体性のプライスに
おいて 忍耐し得るだろう。 しかし、この忍耐には、確かに、限界がある。
究極の社会的”資源”の変化と共に変化するだろうけれども。これらの
構造的必須条件は、それで、社会的変数性の範囲を狭小にするもう
一つの方法を我々に与えるが、それは、真剣な考察をするためには、
現実的に重要である。2つのセットの制限は、組み合わされて、すくなく
とも社会構造の一般的範囲の体系分析の問題へのアプローチを実行
可能にする。
⁂ 社会構造の主要タイプ
我々は、社会構造のタイプの分類の価値-志向へ還帰しよう。我々は、
価値-志向パターンのシリーズの夫々を、このパターンが、社会の優勢な
価値-パターンであるという想定の下に取り上げるだろう。 我々は、先ず、
社会構造においてその最も直接な制度化について、どのセクターで 最も
直接に制度化されたか、そして 広範に、構造のどのタイプがそこで、」
見出される傾向があるかについてを尋ねた。この領域内で、最も見出
され易いか、そしてどの範囲内に、それらは、一致の必須条件を充たす
ために、社会の中心的価値-制度化を与えられて、収まらねばならないか、
について尋ねよう。変動の過程への緊張、不安定性、そして鋭敏性の
蓋然的な焦点の簡単なノートもあるだろう。
行為の理論におけるパターン変数の中心的な一の故に、第Ⅲ章のテーブル
2aで設けられた社会的価値の4つの根本的な価値-志向タイプを出発点と
と取り上げよう。それらは、想い出されるように、別々に、生得-獲得と普遍
主義-特定主義の2つの変数の組み合によって定義される。何故、この
目標の為に それらの2つのパターン変数に優先性」が与えられたかの
理由は、既に議論された。
先行のセクションに照らして、比較可能な社会構造における関心の視点
からのアプローチは、或る視点からバイアスとして見做されるもので紹介
するだろうことは、明らかになるだろう。普遍主義か獲得のどちらかか、
或いは両方が我々が取り扱う4つの組み合わせの3つに入る。このことは、
我々が先のセクションで議論した圧倒的な程度で、関係的に生得的な
焦点の4つを巡って組織されている社会が4つのタイプの1つに自動的
入るだろうことを意味する。しかし、示されたように、例えば、Murdockの
の研究によれば、このタイプの内で局面の全シリーズに巨大な構造的
ヴァリエーションがあり、そして確かに、多くの場合では、知られた社会
マジョりティーは、このカテゴリーに入る。従って、此処での我々の我々の
アプローチは、このタイプから離れた、知られた体系のマイノリティーの
重要さを強調することを支持することにバイアスしていると言ってよい
だろう。
此処では、社会学者と人類学者との間の視界と関心における相異が
巻き込まれるだろう。 後者が最も関心を持つ社会的ヴァリエーションは、
このこそには齎されないだろう。同じ概念的スキームに関してより詳説
されたブレイクダウンによって取り扱われ得る人類学者が最も関心を
持つ分化は、価値-志向のメジャーなな文化の高い程度における機能
では、この要因は決して除外されることはないけれどもよりあり難い分化
であることが継続する。しかし、コインの裏側においては、現在のアプ
ローチは、或る感覚て、”進化論的な”意義がある根本的な構造分化の
ラインにアクセントをつけるように仕する。それらは、とりわけ、それらは
文化的な発展のメジャーなタイプが 文字文化において生じた時、出現する
傾向のあるタイプで、宗教的体系の創発、科学の発達等であり、これらの
発展は、社会それ自身の構造における変動へ深い関係を持つ。 両方の
タイプの関心は、行為と社会体系の理論内に正当に所属する。我々の
現在のアプローチは、理論的スキームそれ自身の構造においても、同様に、
原初的な社会よりも、むしろ、”文明”のなかの変数性のタイプの意義に
相関的な経験的な問題においても、深く基礎付けられているように思われる。
明らかに、本章の残りの部分で、提示し得るものは、高度のスキーム的
素描であり、最もはっきりと比較社会構造における”論文”ではない。その
主張は、旧い進化論的社会学のブレイクダウン以来、体系的方法で、満足に
対処されたことの”問題”へのアプローチの実現可能性を指摘することである。
このアプローチの含蓄の実行は、現在の研究の限界内で試行し得ない巨大な
課題である。
⒈ 普遍主義-獲得パターン
このことは、我々が既に議論したように、地域社会、民族性、そして階級の
関係的な生得的連帯性が優勢的 組み立てられ、社会構造の価値への
最も過激なアンティテーゼを幾らかの局面で紹介する価値パターンの
組合わせである。 とりわけ、普遍主義は、それ自身による応用の2つの
メジャーなタイプを持つ。第一に、それは、地位-決定主義を支持し、即ち、
分類的特質と関係の焦点とは独立したパフォーマンスに関係する一般化
規則の基礎におけるパーソネルの配分、設備と報酬の配分そして役割-
配置である。 第二に、文化的レヴェルにおいて、それは、表現的に
対抗する認知的関心を支持する。 これらの強調あ、既に、親族や地域
社会の関係のような社会状況の”所与性”の多くに相関的な或る種の
”緊張”を含意する。
そのような目的-獲得にたす獲得価値との組み合わせは、しかしながら、
目的-獲得に達する道具的行為の評定にアクセントを置く、目的の選択
は、普遍主義的な価値との一致でなければならない。 従って、集合体
そのものの福祉の推進は、外された集合体が内部的に価値された目的
が必要な限り、高く評価される。そのような価値体系の或る種の”個人
主義的な” 傾向の基礎である。
獲得要素は、 また、更なる関わりを目的選択の問題に問題に対して
持つ。もし、何れの目的が所与されても、或る種の獲得の圧力がある;
まさに、この感覚で獲得-志向は、いわば、特有であり、部分的には何れ
の行為体系の実際的側面である。 しかし、他の価値への道具的な
ものとしてだけではなく、それ自身根本的な価値パターンである獲得-
獲得-志向は、目的の選択が、この価値を具現化すること、目的の選択
は、そして他の価値‐考察から派生した目的の獲得ばかりでなく、行為者の
獲得価値の表現として見做されるべきであろうことを含蓄する。このことは、
増す、目的‐選択の基準としての伝統主義を除去する。しかし、亦、普遍
主義的に定義された絶対な目的体系を除外する、何故なら、それは、
これは、内部的に一回限りで獲得可能であり、そのような獲得は、それ
から続いて、価値-体系の獲得構成素からその意味を剥奪するだろうから。
そのような絶対的目的が、獲得されたとしての脅威に連続して晒されて
定義されている処のみ、それは、適合されるだろう。
何はともあれ、普遍主義的-獲得-複合体により相性のよいのは、
目的-状態の特別の内容よりもむしろ目的の多源性の方向における
結合である。これは、特に、内生的に動態的な文化的パターンとの
統合に相性が良い、完成の最終状態を容認しない科学のそれらのように。
それ故、我々は、目的-獲得の多元主義的、乃至個人主義的体系の
評定を、価値-志向パターンを保持する人々の第一義的関心としての
道具的行為を通じて語るだろう。 このことは、関係的連帯から離隔された
活動の評定に結び付くだろう。そのよう体系は、これから、分化された
道具的複合体、職業的役割、交換の生態学的紐帯、所有物、そして
道具的に志向された組織に依る。 獲得関心と認知的第一義性の組み
合わせは、新しい目的を定義するイニシャティヴへの奨励と共に受け入れ
可能な範囲内での動態的に発展して行く体系を改善する関心である
関心であることを意味するだろう。このことは、道具的複合体は、分業の
漸進的に発展しつつあり、分化しつつある体系、 それ故、分化された
職業的役割に意味する。このことは、屡々、”工業”社会と呼ばれたもの
の中心的な構造のタイプである。
この場合の本質として、そのような構造の幾つかの適応的側面がある。
第一に、職業的矢棒の目的、実際の役割-活動を云うのではなく、単純な
感覚で、全ての場合の獲得価値の直接な具現ではあり得ない。何故なら、
それらは、実際の職業的機会の体系の緊急事態に現実的に適応しなけ
ればならないから。 そこでは、一旦、精錬された分業が設立されると、
多くのものは、行われなければならず、高度に価値づけられた獲得‐結果
の必須条件であるけれどお、それら自身において価値づけらことは容易
容易ではない。より精錬されていない価値づけられた目的への道具的
ステップへのリンクであるだろう。それらを全て所与の個人が行う時、それら
への彼の動機付けの疑問が鋭くなる。この種の最も明白な場合は、労働
の役割において見出される。 しかし、その種の重要な構成素が職業的
役割の他の2つのタイプにおいてである。それらは、集合体的責任を巻き
込み、交換の機能の促進を巻き込むが、其処では、交換のパートナーの
説得に高いプレミアムが置かれる。こうして、エグゼクティブとセールスマン
の役割は、個人の獲得価値のタームにおいて、直截に非常に意義が
あることはないだろう条件の受容を含意する。 高度の範囲では、緊張が
非常に深刻にならねばならないような報酬だが、しかし、此処でさえも、
それは、内部的な獲得の評定におけるその基盤から目的として切り
離されるようになる”成功”への傾向における要因となるだろう。
そのような体系の一つの適応的問題は、それで、実際の職業的獲得を
内部的な獲得価値に統合することである。不可避的にかなりの不一致
があるだろう。それらは、代償的報酬の制度化によって、架け橋となる、
例えば、短期労働時間、そして義務、例えば、正規の仕事を持つ成人
男の〔義務〕、彼がすることは、”全然面白くない”と言えども。 示唆される
だろう第二の適応的文脈関係は、真実にパフォーマンス特質と獲得の
判断の普遍的基準の実行の難しさに関わる。個人は、正しい立場に
置かれ、報酬が彼の実際の獲得とよく釣り合うような。この境域では、
我々は、支配的な価値-志向から演繹されるだろう原則と矛盾する制度的
パターンを見出す。実例は、地位の基準としての年功序列の普及、多くの
工業に遍く昇進と特権、そして学術世界の”終身特権”と行政機関である。
これらは、詳細な普遍的な識別が実践不可能な、競争的圧力へ人々を
晒す本来的に構造された緊張を軽減する機能を持つ適応的構造として
V として扱われるだろう。一方では、それは、そのメジャーな価値パターンと
葛藤中にある適応的構造を頼りにする。 何故なら、”それらの論理的結論”
迄、これらのパターンを推し進めるとは、緊張を爆発点にまで増強するだろ
うから。 他方、適応構造を余りにも重要なものにはしない主客転倒のよう
に、そしてメジャーな社会構造それ自身、たのタイプへ移行することが
ないようにしなければならない。
職業的役割の制度化に沿って、そのような社会構造は、また、所有物、
つまり、財産の権利、そして、幾らかの制限内での交換のパターンの制度
に重く依存している。その上、機能的要請は、所有物と交換の関係性が
限定から充分に自由であるべきだと言うことである。〔それは〕、道具的
獲得のための設備の体系の最初の発展と獲得に釣り合い得る報酬の
柔軟性へのアプローチを妨害するだろう。
次は、報酬体系が、そのような職業的構造と統合されねばならない。
上記されたように、このことは、体系の中での獲得が価値づけられ、この
評価が肯定、と尊重の態度、そして体系内で適当に分配されたそれらの
アンチテーゼにおいて表現されねばならない。非-関係的報酬は、順次、
肯認と尊重とそれらのアンチテーゼにシシンボル的に統合されねばなら
ないという形式を採らねばならない。このこは、上記されたように、最少限
の不平等を含蓄するが、その広がりと厳正な内容は、特定の達成目的と
報酬シンボル、そして職業的役割体系の分化の度合いと共に変様する。
最も一般的なタームでは、そのような体系における基礎的報酬は、評価
された達成の是認のレヴェルと定義された ”成功”である。 しかしながら、
そのような報酬体系の統合、そして、とりわけ、様々な表現的シンボルが
支配的な価値-態度と統合される仕方に関わる非常に複雑な問題がある。
是認と尊重は、直接充足の源泉である。しかし、既に見たように、専門化
された性格としてのものである。 特定の連関や拡散的愛着における
是認と尊重への欲求自身以外の欲求-性向を除外する。それらと他の
様々な考察は、適応構造としてこのタイプの社会体系において主要な普遍
主義的獲得パターンと変様態にある様々のパターンを予測するよう我々
を導く。第一に、それらは、生得的の地位と拡散的情緒的愛着を巡る
親族クラスターにおいて見出されるだろう。上記されたように、社会構造の
メジャーな部分として親族を密に免ずる、どのような工業社会も、未だ現れ
ていない。
多分、2つの主要ものが、職業他体系の工業工業的タイプとよく統合
され得る親族のタイプについて述べてよいだろう。第一には、連帯の
広がりが、彼の親族役割における個人が彼の親族役割と過激な葛藤に
入らないように、限定されねばならない。非常に広く見れば、このことは、
最も厳格な義務を夫婦家族の出産>に」限定することに依って、そして
それを相関的な感覚で、 より幅広い親族単位から隔離することによって
成就される傾向がある。更に、親族単位の職業的体系への関与は、成人
男子に主に焦点される。それは、公的教育の体系と共に、特に、職業
的役割への技術的訓練の機能として仕し、そして一つの主要な側面に
おいて或る種の前-職業的役割の体系であり、未成年に未成年に対する
相関的な除外は、比較的安易である。主要な問題と緊張は、妻と母親の
役割に集中する。彼女にとって”安易な”解決は、職業体系から完全に除外
され、彼女自身を家庭の主婦に限定することである。殆どの工業社会では、
しかしながら、この解決には、非常に多くの適応と妥協のある傾向がある。
第二の重要な特色は、親族の体系における情緒性へのアクセントである。
このことは、職業体系の個人主義的タイプのオペレーションに対して脅威
となるだろうような部分的に或る種の親族パターンの発展を禁止する機能を
持つ。 しかしながら、部分的に、それは、職業的体系における中立性への
アクセントに対するカウンターバランスとなる、それが、職業的領野で禁止され
ねばならない拡散的、情愛的愛着の分野を提供するということで。
こうして、普遍的獲得の価値体系の視野から、親族構造と性別役割の
パターン形成は、第一義的に適応てき構造として考察されるべきである。
しかしながら、職業体系それ自身の動機づけ的有機的統一にとって極めて
機能的に意義あるので、それらの制度化は、戦略の非常に重要であると
ということの全き指摘である。それらは、制御されないままであってはなら
ない、そして何らかの仕方で道具的体系に統合されねばならない。パターン
形成の根本的相異の故に、この2つの構造の間の関係は、このタイプの
社会では、緊張のメジャーな焦点となるに違いない。
そのような社会体系の必須要件が、むしろ、厳しい制限が、親族パターン
の変数性に負荷されたように、それは、体系内部のテリトリー的地域社会
のより小さな単位に関してもそうである。 このことにとって第一義的基盤
は、職業的体系内の自由な移動性の必須要件であり、それは、拡散
的である、地域社会的連帯の余りにも密接な紐帯が、主要体系にとって
脅威になり得ることを意味する。地域的分化も同様である。多分、部分的
には、この文脈関係における補償的機制としてそのような社会は、連帯の
強烈な拡散的情緒的態度を、地域社会の最も大きな単位、即ち、国民に
関して展開する傾向がある。 工業主義とナショナリズムは、よ、ソヴィエト・
ロシアは、この、そして多くの他の局面において国際主義者のイデオロギー
にも関わらず例外ではないように思える。このスケールの他方のエンドでは、
アメリカの家族におけるセンチメントの強烈さがもう一つの補償的機能である
だろう。 一つの理由は、夫婦家族が、親族と居住の地方的単位としての
地域社会の両方であるということにある。それは、個人より、むしろ幾らか
の局面で、移動性の単位でなければならない。その連帯は、親族と同様、
地域社会のより大きな単位がそうであるだろうよりも普遍主義と獲得へ
の脅威が少ない。
そのような社会内の民族的な下位分割は、それ自身としてその主要な
パターンとの調和にあるのではなく、それ故、緊張を生じる。しかしながら、
それは、屡々、移民という”歴史的アクシデント”に依って生存するの
ではなく、彼等は、彼等が機能を持つことを暗示するような仕方で存続
する。一方では、所与の民族グループのメンバーにとって、彼等は、地域
社会の連帯がそうであるだろうよりも幾らかの局面では、社会に対して
逆機能ではない家族単位を超えて安全性の焦点を構成する。 他方、
外部者に対して、彼等は、屡々、置き換えられた怒りのターゲットとして
重要なスケープゴートの機能を果たすように思われる。ナショナリズムは、
地域社会によって、動機づけ的勢力の多くを吸収する、というのも、愛国
なものは、正常には、同時に、テリトリー的地域社会と民族単位なので
あるから。
開かれた階級体系の階層化は、このタイプの社会では、本来的である
ように思える。メジャーな価値パターンとの全きに一致するために、それは、
開かれねばならない。 しかし、幾らかは、個人への分化的報酬の感覚
における階級分化を形成する許りではなく、親族単位の全てのメンバーを
包摂するライフスタイルにおける統合は、不可避的であるように思える。
このことの基礎は、とりわけ、家族が、報酬体系に統合されねばならず、
そして報酬の分化は、単位としての女、子供を含む家族において表現され
ねばならず、職業的な地位-獲得者にとってだけではないという事実に在る。
従って、上述されたように、そのような社会での機会の絶対的平等への本来
的な制限がある。
最後に、そのような社会では、余りにも密接に統合された宗教的体系は、
逆機能的になるだろう。そうでなければ、宗教が橋梁区にあの世的な”宗教”
としてのマルクス主義のように、以下で議論されるような普遍主義-生得の
へバランスが移行される傾向がある。 宗教的耐性のパターンと宗派の多様
性は、アメリカの場合のように、殆ど破壊的構造ではないように思える。その
ような体系の国家は、注意されてもよいだろう。高く評価される目的-獲得へ
そのサービスに関してのみ、正当化されるどの他の集合体としても見做さ
れる傾向がある。制度化している集合体的政治責任の問題は、そのような
体系において緊張の最も深刻なポイントであることは、まさにそうである
だろう。そのような社会の第一義義的連帯は、家族-家庭、階級、地域社会、
民族的集団、宗教的教派、そして国家である。拡散的、情緒的愛着の
生物学的体系への余地もまたある。 それらは、異性的関係性の”デート”
の期間とそれに伴うロマンチックな恋愛の複合体において非常に目立つ
が、しかし、結婚によって親族の単位へ吸収される。拡散的愛着の同性
的友情は、遥かに目立たない。それは、多分、達成コンプレックスから
余りにも直ぐ容易に向きを変えることが出来るからである。男の間では、
それは、職業的関係性に対しむしろ拡散的な”周辺部”として義務という
形での同僚を友人として扱うような仕方で結びつけられる傾向がある。
そこから、 それは、薄く拡がり、メジャーな独立した構造形成の焦点を
形作らない。愛欲的な身体接触は、殆ど、アメリカ社会での男の間では
完全にタブーであるという事実は、多分、この状況を指摘している。という
というのも、それは、強く情緒的愛着を制限するからである。
表現的志向は、より危険ではない--家族の外での--拡散的より
もむしろ特定的な形式で、そしてこのことは、工業社会の”娯楽”の増殖
に何とかせねばならない。 このような形式では、行為者は、彼の充足を、
いわば、少量づつ、拡散的愛着に本来的な義務を被ることなく、得ることが
出来る。
一般に、情緒的-表現的志向によって占拠されるどの位置が、このタイプ
社会構造に対してメジャーな適応的問題を構成するだろうか。拡散性の
位置の問題は、もう一つの問題の焦点である。情緒性とのそのコネク
ションは、既に取り扱われた。しかしながら、それは、組織の内で、全体
としての社会内で、”政治的な”機能とのコネクションにおいて再発する。
特定性の強調が強い処では、是認を余りにも安易に、尊重へパスする、
ことに強い禁止が在るだろう、個人に対して、役割であれ、階級であれ、
一般的な優越性を負わせつつ。これは、そのような社会の階級体系の
流動性と開放性において最も重要な要因である。勿論、一般的な劣等性
そのような社会でのリーダーシップの役割は、不安定になり勝ちであり、
多くの不安と怒りの焦点であることが示唆されても良いだろう。これは、
個人主義的方向におけr、そして権威主義的態度に対してバランズを
投げかける傾向のある一つの要因である。
価値-志向のタームで、そのような社会は、その強調において、集合体的
よりもむしろ個人主義的な傾向があることは、既に上で述べた。とりわけ、
普遍主義、達成、及び、特定性の間のコネクションと連合されるように思
える。拡散に関与される融合からの離隔は、このパターンが要請するの
であり、一般化された地位獲得か、情愛的情緒のいずれにせよ、人材と
設備の移動性、達成による報酬の配分に本質的なように思える。例えば、
リーダーシップの役割は、組織が、政治的組織と共に拡散的なものよりも
特定の達成目的を持つ処では、より問題視されない。このセットの考察は、
アメリカ社会の”経済的”バイアスと政治的責任が緊張のポイントである
事実の背後にある。
強調の集合体主義的方向は、それで、やがて議論されるだろう普遍主義
的生得タイプへパスされる傾向を持つ。先ず、普遍主議的-達成タイプ
の変様態について述べてもよいだろう。第一に、達成目的が非-経験的で、
可能である。 しかしながら、カルヴィン主義の場合のように、これらの非-
経験的目的は、直截な経験的含蓄(地上の神の国)の基となる。それは、
直截な目的として捉え得るのである。その効果は、職業的達成の複合体
から全ての強調を追放し、こうして、社会の性格を深遠の変様する。第一
義的達成に志向された活動は、もはや、合理的-道具的ではないのであり、
シンボル儀式の性格を想定しなければならない。この可能性は、多分、
キリスト教のカトリックにおいて最も十全に実現のための組織であった。
このことは、世俗的な道具的コンプレックスから、主要な強調を外し、その
継続的な発展よりも、むしろ、伝統主義乃至権威主義を通じてその安定化
にプレミアムを置いた。同じことで、情緒性と拡散性を与えることに対する
圧力は、卓越した位置を減少した。このことで、ラテン系の国々はカトリック
の背景と共に工業的パターンの発展には相対的に余り左右されず、幾らか
局面で彼等の宗教的な先験主義にも拘らず”快楽主義”的方向へ傾斜した。
2 普遍主義的ー生得 パターン
社会の他のタイプを扱うために、普遍主義的-達成にしたような充分な
スペースを取ることは、可能ではないだろうが、しかし、結果のベース
ラインは、設置されているので、必要だろう。
普遍主義的要素は、成果の上述と同じ秩序を持つが、しかし、それが
与えるその生得との組み合わせは、異なる捻じれたものである。第一に、
強調は、とりわけ、分類的である。行為が指向される理想の状態は、
ここといまには存在しないだろうし、その場合、それを実現する試みの
義務があるということで、第二次的な獲得志向がある。 しかしながら、
獲得は、それ自身においてではなく、道具的に価値づけられ、もしそれが
現前するならば、反対に、それを脅威に対して防御する義務がある。
理想の状態の定義は、その普遍的な特質のために、理想への同調
そしてそれからの逸脱の間に、行為タームでは、”それに対する”か、
或いは”それに反する”ことの間に鋭利で絶対な区別を画することの
二元性への強い傾向がある。
この二元性は、2つの明快な仕方で出現する。第一は、丁度指摘
されたもので、個別の人物、集合体等に対する態度の二元性である、
第二は、価値パターンそれ自身の応用の軸の二元性である。一方では、
現存している制度的構造の ーー或いはその部分ーー が理想価値を
具現化し、それらによって制裁されると感じられるだろう。他方では、
理想のパターンは、現存するパターンに対抗するようにセットされるだろう
――堕落した現在に対抗する理想状態。どちらの場合も二元的傾向は
現存する。 或る感覚で、 同じタイプの価値パターンが、極端な会話と
と極端な過激主義の両者に巻き込まれ得るということは、パラドックス的
に見えるけれども。
普遍主義的な要素の故に、職業と組織の境域、それからその親族、
或いは狭く定義された地域社会からの独立への同じ強調である。しかし
ながら、幾らかの重要な相違がある。第一に、分類的クオリティへの強力な
強調は、社会構造のタームにおいて、特定の獲得によりもむしろ地位への
強調になり勝ちである。それ故、獲得が具体的に高度に重要であり、普遍
主義的基準がそれらに応用される役割の不可避的に精錬された分化は、
地位-階位制を実現する傾向がある。そこでは、アクセントは、彼が既に
行ったことよりも、むしろ、所与の行為者が在ることにある。
第二に、獲得への特定主義化の評定の不在のために集産主義への
強い傾向がある。理想の状態は、集合体として、或いはそれによって
獲得される社会によって享受されたものとして定義され勝ちである。
更に、獲得されるべき理想の状態から、集合体への理想的なクオリティ
の生得へ移行することは、容易である。
第三に、権威主義への傾向がある。 全てにとって何が理想かという
はっきりとした構想は、それに注視する”集合体的責任”を課する役割を
持つ人々にとって自然である、誰もが、理想を求める直接に、或いは
集合体的達成への適当な寄与をすることによって。
より一般的タームで、特別性を上まわる優先性を拡張性に与える
傾向がある。 地位は、特定な職業的役割、例えば、に対する特定的
にはならない傾向があるが、しかし、一般的な威光スケールに相関して、
非常に一般化される傾向がある。地位の一般化の価値は、個人が所属
全体的集団へクオリティを帰する傾向である。普遍主義は、特定主義
的なの率直な認識を排除するので、集団、例えば、親族や階級は、
本来的クオリティを持つようになる。それ故、貴族の、そして民族の、
国民的クオリティの構想は、この志向と同じ性質がある。尊重は、報酬
体系では、是認に対して優先する傾向がある。
恐らく、このタイプは、独特の過激な緊張に晒される。獲得、普遍
主義、特別性の間に本来的なコネクションがあるように思える。それは、
この場合、ブレークスルーされる、実際の獲得は、重要なパートを演じ
なければならない社会構造が分化されればされるほどそのようになる。
しかし、獲得がそれ自身において価値づけられないという事実は、緊張
の源泉となる。 一つの局面では、集産主義へのアクセントは、獲得へ
の強調の個人化している傾向を禁止するということでこの緊張の表明
であるだろう。更に、情緒性への強い禁止が個別的である。 社会内か
一般的にそのメンバーであれ、地位の”栄誉”に個別に集中しつつ、情緒
的表明は、従って、第一のタイプの第二次的立場へさえも貶められる
傾向がある。 特に、特定主義的愛着は、価値づけされない。 こうして、
アメリカ的ロマンチックな恋の複合体の現実的カウンターパートは、ドイツ
には、ない。
この場合、職業的体系への強力なアクセントの故に、親族単位のサイズ
に置いた制限は、そしてその構成は、第一のタイプに巻き込まれたもの
と同様である。しかしながら、家族的役割の定義において重要な相異が
ある。これらの差異の第一義的焦点は、拡張的感覚での地位-カテゴリ化
重要性に横たわる。それは、とりわけ、年齢と性別の役割のカテゴリ化
の鋭利において家族の内的構造へそれらが影響を与えるに従って実現
する。とりわけ、女性の役割は、男性のものと強いコントラストにおいて
定義される。 政治的-職業的構造と厳しい情緒的欲求の重要性における
規律の重要さの故に、このタイプの社会は、愛欲の対象として、そして
感応的な女に、高度の秩序の道具的、或いは道徳的なキャパシティー
をーー持つのではなく、強いアクセントを置く。
❢ 突然で恐縮ですが、ページⅣの容量の限度が
超えてしまったようなので、ページⅤへ移ります、
悪しからずご了承下さいませ
或いは
二元性強い傾向
があり、
、
”
、
う。
し
1.
”
の
、
に
こうして、
””
2
リ
。
、
2